秩父巡礼・吾野通りを往く


          
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        日本橋から目白通りを経て田無まで

     田無から所沢を経て入間まで

     入間から飯能を経て吾野まで

     吾野から正丸峠を越えて秩父・横瀬まで 
 
  日本橋から田無まで。歩いた日・2013年2月25日。

昨年の秋、一年と四カ月を費やして御府内八十八ヶ所の札所を廻り、東京お遍路の旅を終えた。次に歩く目標に選んだのが秩父巡礼道を辿ることである。ことを始める前に、あれこれ秩父観音巡礼について、その来歴を調べてみた。これは地理屋の拘りであり、ボケ防止のためでもある。兎に角、日々、暇を持て余しているのだから、好奇心が持続している限り、興味の対象があっちへ、こっちへ飛ぶのはしょうがない。旅は、寄り道しながら、時間をかけて、ゆっくりと歩いて行きたいと思っている。
 二月下旬、間もなく訪れるだろう暖かい季節が待ちきれずに、お江戸日本橋から秩父巡礼の旅に出かけることにした。日本橋を発つことにしたのは江戸の旅立ちの雰囲気を少しでも味わっておきたいと思ったからに過ぎない。秩父への道が日本橋を起点にしているわけではない。
 「お江戸日本橋七ツ立」という東海道五十三次を歌った俗謡があるが、私は四ツ(10時)立ちだ。江戸時代の庶民は、秩父まで二日間で歩いた距離だというが、私は何日かかるんだろう。体力、脚力次第だが、気ままなに歩くのだから四日か五日、いやいやそれ以上に掛かるかもしれない。桜の季節には正丸峠を越えて秩父に入りたいと思う。
 歩きはじめて10分、内堀通りを埋め尽くした市民ランナーに出合った。東京マラソンが開催されているのだ。市民ランナーたちは数時間で42.195kmを走る。私は6時間かけて23㎞が本日の目標だ。私には遠く及ばぬ、限りもなく上の目標を持った人がいるもんだ。何だか出端をくじかれた感じがする。

    
東京マラソン・内堀通りを走る市民ランナー

 目白通りの起点は九段下の交差点である。東京マラソンを途中でリタイアした市民ランナーを収納する大型バスが2台、通り過ぎていった。江戸期の「清戸道」は更にこの先、江戸川橋が起点としている。
 清戸道については、「秩父巡礼・吾野通りの道筋」のところで書いたが、文献には尾張殿が鷹場に向かうために整備されたと記されている。けれども、清戸村(今の清瀬市)や周辺の村々で栽培された新鮮な野菜を一大消費地である江戸に運ぶ農民のための道であったと解釈する方が理にかなっている。早朝清戸を発ち江戸の街に着いた農民は野菜を売りさばき、野菜栽培に欠かせない下肥を町家で汲み取り、荷車を曳きながら清戸村に帰って行ったのだろう。行程は片道、おおよそ5里から6里で、当時の農民たちには、一日で往復できる距離である。農産物の輸送路として自然発生的に成立した生活の道が清戸道なのだ。

    
 清戸道の起点・今の江戸川橋の風景

 江戸川橋を発つと直ぐに目白坂に差し掛かる。江戸の頃、目白坂には「立ん坊」と呼ばれる労務者がたむろしていて、帰路に着いた農民が下肥を満載した荷車を曳いて通りかかると、後押しを手伝い、幾ばくかの駄賃を得ていたという話が伝わっている。
 清戸道の経路については、文献『北豊島郡誌』に「清戸道・府費支弁道(註:東京府が土木費用等維持費を負担した道、つまりは今の都道)、江戸川(文京区江戸川橋)より起こり、本郡(北豊島郡)高田村の南部を東西に貫きて長崎村(現豊島区)に入り、同村と豊玉郡落合村(現新宿区)との境界を劃して、上板橋村の南端(現練馬区)を縫ひ、進んで下練馬村と中新井村との境界に沿うて、上練馬村に入り、石神井村に於いて富士街道を横切り、大泉村の中部を貫走して北多摩郡と埼玉県北足立郡との境界に進む」と、記されているそうだ(ウィキペディア・フリー百科事典を参照した)。概ね、今の目白通り(都道8号線)に沿って続いているが、練馬区の谷原交差点の先で、目白通りと分かれ、大泉に向かっている。今の大泉通(都道・埼玉県道24号線)で、道筋は埼玉県に入り新座市を経て江戸期の上清戸村、中清戸村、下清戸村、清戸下宿のあった今の清瀬市に入る。
 秩父に向かう道筋は、清戸道が大泉に向かう辺りから特定できなくなった。私は谷原の交差点から南西に真っすぐに延びる富士街道を歩いて田無(西東京市)に向かった。『新編武蔵風土記稿』、前澤村(今の東久留米市前沢)の項に、「・・・北は上清戸村に及べり、東西へ十五町、南北へ凡五町、ここも平夷の地なり、土性は野土にして皆畑なり、かつ村内一條の往来あり、東の方南澤村より西の方下里村に達す、道幅三間、村のかゝること十五町許、是を秩父道と云」とあり、ここでいう秩父道が今の所沢街道と道筋が一致している。この所沢街道の起点は、青梅街道田無町1丁目の交差点であることから、この富士街道を経て田無に向かう道筋を歩くことにしたのである。谷原の交差点から、そのまま清戸道を辿って清瀬市に向かった方が、歩く距離は短縮されたのかもしれない。
 時折吹く強い風は頬を冷たくして通り抜ける。汗は殆どかかないので水分を補給することもない。防寒の準備を怠らなければ、てくてく歩くには快適な季節である。さほど体力を消耗することもない。

      
都道8号線・富士街道の標識

 富士街道に入ってしばらく歩いたら、練馬区教育委員会が立てた「大山街道」と書かれた標識を見つけた。そこには「大山街道は道者街道、富士街道ともよばれています。それは阿夫利山ともいわれた大山へ、また大山から富士山への道者達が通ったからです。北町一丁目で川越街道から分れて、石神井、田無を経て伊勢原(神奈川県)に達していました。練馬の中央部をほぼ東から西に横断して区内では約八キロメートルに及んでいます。・・・以下略・・・」と、記されていた。富士山に詣でる修験者が通った道でもあるのだ。これで富士街道の名前の由来が分かったと云うものだ。

     
練馬区教育委員会が建てた大山街道の説明書き

 この大山道については以前にも調べたことがある。大山は別名を「阿夫利(あふり)山」とも云い、「雨降り山」と読み替えて、阿夫利神社は雨乞いの神としも農民の信仰を集めていた。因みに阿夫利神社の下にある大山寺の山号は雨降山である。
 この阿夫利神社に続く街道を大山道という。あるいは大山街道とも呼ぶが、関東各地から大山阿夫利神社に詣でる道であり、各所に大山道の名前が残っている。文献でみると、経路は二〇ヶ所以上を数えることが出来る。大山詣では江戸庶民の暮しに根付いた行事だったのだ。
 富士街道から新青梅街道に出た。今日の行程はほぼ終わったことになる。西武新宿線の田無駅まで、あとわずかな距離だと思ったのだが、地図の確認準備を怠っていたので、この先の道順が分からなくなってしまった。交差点で信号待ちをしていた青年に道順を尋ねたら、私も近くまで行くので、と云いながら、親切に道案内をしてくれた。
 青年が何処から歩いて来たのかと尋ねてきた。変わった爺さんだと思われるのも嫌なので躊躇したが、「日本橋から目白通りを歩いて、ここまで来た・・・」と答えたら、一瞬驚いたようだったが、そのあと思わぬ方向に会話が進んだ。この青年も、「自転車で遠出するのが好きで、知らない街を走るのが楽しいんだ・・・、」と、恥ずかしそうに喋ってくれた。今日も青梅街道を経て新宿まで行き、いま新青梅街道を戻ってきたばかりだと云う。三月には就職して、東京を離れるので、親しい友人達とも暫く会えなくなるだろうから、仲間と一緒に高尾山まで自転車で出かけるつもりだ、とも云っていた。
 田無駅に辿り着いたのが午後4時40分。日本橋をスタートしたのが10時10分頃だったから、途中休憩はしたとは云うものの、六時間半も費やしたことになる。日本橋からの歩数は36,478歩、大凡23Km。東京マラソンは7時間でタイムオーバーだが、私はその距離に20㎞も残して、タイムオーバーだ。


田無から所沢を経て入間まで。歩いた日・2013年3月3日。

田無町一丁目の新青梅街道交差点を10時に出発した。ここが所沢街道の起点になるからだ。この所沢街道の道筋について、『新編武蔵風土記稿』北秋津村(今の所沢市南部)のところに、「是江戸より秩父への往還の路なり」と書かれている。今日の歩行予定は入間まで、大凡20㎞の道のりだ。

     
西東京市田無町一丁目交差点・所沢街道の起点

 田無という地名の起こりについて、『新編武蔵風土記稿』は次のように記している。「・・・土性は黒土にて皆畑なり、故に田無村と稱すと云、されど此邊皆畑の村多し、然るを當村のみかく唱ふというは外に故ありや、今より考ふべからず・・・」
 この辺りの村は皆畑が多いのだが、この村だけ「田無」と称するのは他に理由があるのかもしれない。だが、今になっては分らない、と書いているのだ。このくだりを纏めた担当者の要領のよさが伝わってくるようで、何とも微笑ましい。もともと、『新編武蔵風土記稿』は史料としての価値は低い。江戸期の文化・文政期(1804~1829)に編纂された武蔵国の地誌であるが、細やかに調べて綴った観光案内書であると思って読めば、楽しい発見が出来る。
 歩きはじめて間もなく、道端に「石幢六角地蔵尊」の祠があった。安永8年(1779)に建立されたもので、風雨に晒され、かなり破損しているが、六角形の石柱それぞれの面には、浮き彫りされた地蔵菩薩の姿が確認できる。この石幢(せきどう)といわれる六角形、あるいは八角形の仏塔は、室町時代以降に多く見られるそうだ。
 この六角地蔵尊が貴重なのは、当時この場所が南沢道、前沢道、所沢道、小川道、保谷道、江戸道の六筋に分かれていて、六角形各面の脚部に、江戸道と各道路の方向を刻んで道標にしたことである。旅人の平安と無事を祈った道しるべであり、江戸時代の交通に関わる貴重な資産として、西東京市指定文化財第一号になっている。

      
石幢六角地蔵尊・西東京市指定文化財第一号

 もともとは所沢街道の北側に在ったそうだが、昭和60年(1985)に現在地に移した際、正面の向きが180度変わってしまったそうだ。だから、「右、江戸みち」は、「左、江戸みち」と読み替える必要がある。
 六角地蔵尊の道路を隔てた反対側に、庚申塔があった。石塔に寛延二年巳年十一月(1749)という文字が読めるが、道路整備により、何処かから移されて来たのだろう。屋根を設え、綺麗に整えられて保存されている。
 野火止用水に架かる「界橋」を渡った。その名の通り、下里村(現東久留米市)と南秋津村(現清瀬市)の境界に架かる橋である。この野火止用水が開削されたのは承応4年(1655)で、それより前、承応2年(1653)に完成した玉川上水の分水である。
 この地域は、関東ローム層の武蔵野台地が広がり、渇いた地質で、江戸期には生活用水に難渋する土地であった。野火止用水は幕府の老中で、上水工事を取り仕切っていた川越藩主松平信綱のもとで開削されたので、信綱の官命にあやかって「伊豆堀」とも呼ばれている。開削は、僅か40日間の工期だったと伝えられているが、事実かどうかは分らない。川越藩では大規模な新田開発を行い、農民や家臣を入植させている。江戸幕府の開府に伴い、江戸近郊の新田開発が加速した時代であった。
 今度は、空堀川に架かる「新空堀橋」を渡った。野火止用水の北側に、ほぼ並行に流れている川だが、さらに北側を流れる柳瀬川の支流である。今日の空堀川は一筋の流れもなく、その名の通り空堀だった。石ころが露わになっていて、乾いた川底が遊歩道のようにまっすぐに伸びていた。今は渇水期なのだ。『新編武蔵野風土記稿』、南秋津村の項に「用水には柳瀬川を用すれど、此邊敷村に引用するゆへ、久旱のときは用水たらずして旱損の患いあり・・・」と書かれている。この地方には、「火事は土で消せ」という言葉が残っているそうだ。

           
     
乾いた川底を見せる空堀川(2013.3.3.)         一級河川・からぼり川の標識

 早咲きの桜が満開だった。路の端に立って暫くの間だ眺めていた。顔に当る風は冷たいが、歩くにはもってこいの季節である。田無から歩くこと2時間、埼玉県所沢市に入った。
 『新編武蔵風土記稿』、所澤村の項を参照する。
 「所澤村は河越城より南の方其行程及び江戸も前村にをなじ(註:河越城より四里、江戸より八里)・・・略・・・、此所今江戸より秩父郡への往還の馬次なり・・・」と書かれている。交通の要衝であり、民家が軒を連ねた繁華な土地であったことに触れて、さらに「・・・村内陸田多し、民家戸毎に蠶を養い、機織を業とす又木綿は土性にかなへるにや、極て好品なれば近郷の者所澤木綿と呼して珍重せり・・・」とあるので、農産物も豊富な土地であったことが分る。江戸期には、東は江戸、北は川越、西は秩父、南は府中・八王子に通じる主要道路の中継地として、人馬の往来が繁多で、物資の集積地とし栄えた町であったのだ。
 今でも所沢は交通の要衝である。西武鉄道が本社事務所を置き、所沢駅を分岐点として、北は川越、東は池袋・新宿、西は飯能から秩父、南は国分寺から立川・拝島方面へと、縦横に鉄道網を張り巡らしている。だから、たまに訪れる旅行者にとっては、所沢駅での乗り換えには難渋するのだ。

     
所沢駅(中央赤印)を中心に縦横に走る西武鉄道の路線図

 年月を経て、かなり古くなった石碑を見つけた。あっちこっちが欠けている。彫られた文字を読むのは難義だが、「月山・金華山・立山・湯殿山・羽黒山」それに「百番供養塔・西国秩父坂東」と刻まれているのが読める。修験者が建てたものだろう。「秩父の山岳信仰」の項で、秩父巡礼の成り立ちと、三峰山信仰、熊野信仰の山岳信仰との関わりについて書いたが、この山岳信仰と百観音は極めて自然な結びつきにあったようだ。石碑を読むと、それが裏付けされたような気がする。惜しむらくは建立した年代が判読できないことだ。

     
年月を経た石碑、目を凝らさないと判読できない

 午後2時20分、入間市に入った。
 道端に建つ六地蔵に出合った。お堂の中に赤い涎掛けを着けた地蔵様が行儀よく並んでいる。救いを求めることにより、天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道の世界に住む苦しみから救われると云う。よく見たら七つの地蔵様が並んでいた。あと一つは何道だろう。まさか外道ではあるまい。外道を仏様の姿で表すなんてことはありえない。あっちこっち見回してみたけど、それらしき説明書きは見当たらなかった。これまでに七地蔵なんて見たことも、それにまつわる話も聞いたことがない。「分からんわぁ~」と声に出したら、通りすがりの人が怪訝な表情で私を見ていた。

     
六地蔵ならぬ七地蔵、何故だ?

 入間市は狭山茶の主産地である。道すがら、茶園、狭山茶専門店の看板を多く見かけるようになる。江戸時代、狭山丘陵一帯は川越藩の領地であり、藩政の下で進められた新田開発によって茶葉の作付面積が広がり、江戸市中では「河越茶」の名前で知られていたという。入間市役所の敷地内には広い茶畑が設えられ、道路と隔てる塀には、「さやま茶の主産地」と書いた大きな看板が挙っていた。狭山茶の主産地であることをアピールしている。
 
      
入間市庁舎と茶畑

 入間市役所から西武池袋線の入間駅は近い距離にある。今日の行程はこれで終えるつもりで出かけて来たのだが、まだ余力があったので、もう一つ先の仏子駅まで歩くことにした。道路標識に、やっと秩父の名前が表示されるようになってきた。秩父までには、まだ半分の距離も歩いていないけれど、近付いたんだなぁという思いが実感として湧いてくる。
 この地名、仏子は「ぶっし」でなくて、「ぶし」と読むようだ。地名の起こりは分らないが、佛を信仰する仏弟子のことを思い、秩父に向かう道筋なので、何となく観音巡礼に所縁のありそうだなぁ、と考えた。

         
       
やっと秩父が表示された             西武池袋線の仏子駅

 歩きはじめて六時間、35,000歩、およそ22km。仏子駅発、16時4分の電車で帰路につく。所沢で乗り換えて、今朝、歩き始めた田無駅迄僅か35分。何ともあっけない幕切れだ。


入間から飯能を経て吾野まで。歩いた日・2013年3月11日。

スタートは入間仏子駅、9時50分に発つ。この時期は日々陽気が変化する。三日ほど暖かい日が続き、昨日は強い南風が吹いた。今日は肌寒い。昨日との温度差が10度以上もあるだろう。長い距離を歩くにはこの位の陽気が良い。
 今日の行程は、飯能を抜けて吾野郷に入る。この地方は、戦後の大規模な植林事業で、計画的に造成された杉山が続いている。私は、かなり重症な花粉症患者である。まだ花粉症の名が世間で知られていない頃から症状が出ていた。建国記念日を過ぎると、酷い鼻炎に罹り、風邪の症状に似ているのだが、発熱を伴わないので、当時は医者にかかっても要領の得ない診察結果しか得られなかった。だから、スギ花粉が渦巻く吾野の郷へ足を進めるのは、それなりの覚悟が必要なのだ。
 飯能市内に入った。交差点の信号に「六道」という標識が挙がっていた。旧道の交差点が六差路になっていることから、単純に名付けたられたようで、仏教で云う六道とは関わりはなさそうだ。

     
六道の地名がある交差点

 飯能村について、『新編武蔵風土記稿』は次のように書いている。
 「・・・略・・・、江戸より十三里の行程なり、加治郷加治庄加治領に属す、・・・略・・・、ここは川越城下より秩父へ通ふみちなり、又一條は南の方八王子邊より秩父へ通うの道なり、・・・略・・・、前々より毎月六の日十の日市を立てり、その始めは山あいの村民、縄莚を第一として売買し、或炭薪を出せしが、今は青梅縞・絹太織・米穀等に至るまでを交易す、・・・略・・・」とある。江戸期には内陸にあって、周辺の村々との経済活動の中心として栄えた街だったようだ。今では池袋まで電車で40分の距離だ。顧客を都心部に奪われ商業地としての面影はない。市街地は閑散としていた。今では、東京のベットタウンと云った方が当たっているのかもしれない。

     
午前11時の飯能市街中心地

 道筋は、一旦飯能市を抜けて日高市に入る。道端の岩肌に抱かれるようにして「滝不動尊」があった。この辺りは「台(だい)」という頗るシンプルな地名である。だから、「台滝不動」とも呼ばれているそうだ。不動明王の石仏が祀られていた。五智如来の色とも云われ、五つの知恵を表す、緑・黄・赤・白・青の五色幕が風に揺れていた。五智如来とは大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来の五如来を云うが、五つの知恵、「五智」については何のことやら分らない。

     
道路際にある滝不動尊

 左側の高台に西武線の高麗駅が見えて来た。高麗神社への案内標識が目につくのだが、いま歩いている所ら4Km近くも北に逸れているので、ちょっと寄って見ようと云う訳にはいかない。今は日高市になっているが、古くは埼玉県入間郡高麗村である。
 この高麗村は、天正天皇の時代(註:在位715~724年・女帝)に、時の朝廷の招きにより、若光という高句麗の王と、その一族が移り住んで出来た村だという。高麗神社は、この高麗若光を祀っている。現在、若光から数えて六十代目の高麗文康氏が宮司を務めておられるそうだ。
 同人仲間に埼玉県在住の岡登久夫氏がいる。尊父は、入間郡高麗村の出身である。彼の話によると、十二世紀に高麗家の系図を作成するにあたって、新氏、野々宮氏、岡上氏、岡登氏などの長老が意見を述べたと、系図の冒頭に記されていて、その系図の中にも岡登の名前が出てくるそうだ。このことから、岡登家のルーツを辿れば高句麗に行き着くのだと云っている。
 「高麗石器時代住居跡」の標識を見て坂を上った。縄文時代中期の住居跡である。わずか十坪足らずの住居跡から多数の縄文土器、土製品、石製品が発掘されたと説明されている。縄文の時代から、高麗地方には恵み豊かな自然が広がっていたのだろう。

         
            
高麗石器時代住居跡の碑と住居跡

 この遺跡の近くに、高麗川が大きく蛇行して形成された台地があり、その地形が巾着袋に似ていることから「巾着田」と呼ばれている場所がある。高句麗からの渡来人が、この高台を切り開き、田圃を造り、稲作を傳えたと云われる所だ。今では「巾着田曼珠沙華公園」として整備され西武鉄道沿線の見所として、曼珠沙華のシーズンには観光客で賑わっているそうだ。
 遠目には、地蔵様を祀った祠のように見える一角があった。近づいて見たら、使えなくなった農業運搬車の荷台に屋根を付けて竹細工が並べられていた。錆び付いた鉄製の金庫が置いてあったから、無人の販売スタンドなんだと云うことは分る。何の変哲もなく、ただ単純に竹を輪切りにした一輪挿しが、棚一杯に並べられていた。目を引いたのは、竹を焼いた炭片に彼岸花の絵を描いて、「彩の国こま」と書いた飾り物が4枚並んでいたことだ。この飾り物が商品で、あとの竹筒は単に陳列棚の隙間を埋めるために並べているようだ。この山里に住む老人の手すさびなのだろうと思った。

        
       
竹細工の無人販売スタンド           中央に陳列された竹炭飾り物

 白子という集落に入り、道沿いの蕎麦屋で遅い昼食をとった。お客は私以外には誰もいない。手持無沙汰な主人が話しかけてきた。「昨日は風が強く、スギ花粉が舞い上がって、すぐそこの杉山が白く霞んで見えなかった」、と云う。私がマスクして店に入って来たから、花粉症だということが分かったのだろう、「お客さんは今日で良かった」、としきりに云っていた。
 この主人も数年前から花粉症で苦しんでいるという。直線距離にして200mも離れていない杉山を指して、「自分が子供の頃は雑木林で、炭窯があったことを記憶している、」と云っていた。戦中、戦後の大掛かりな植林事業で杉山に変わってしまった。「今は利用価値もなくなって、一山100万円の値しか付かない、土はゼロ円だ。二本、三本の杉の木だったら、只で持って行って貰っている・・・、」と嘆いていた。
 杉の木は成長が早く、まっすぐに伸び、柔らかくて軽いために加工しやすい材木である。戦後の復興には大いに貢献しているのだ。その後は、外材に押され、放置されたままの杉山になってしまい、いまや国民病である花粉症の元凶として嫌われている。杉山の植林事業に携わった人の多くは、この蕎麦屋の主人の年輩である。誰もが将来、自ら花粉症で苦しむことなんか想像もせず、国策に従って造林に励んできたのだ。

     
一山百万円の杉山

 道筋は既に吾野郷に入っている。『新編武蔵風土記稿』の中では、上我野郷、下我野郷として記述されている。古くは、「吾那」と云う文字が充てられていたようだ。「我野は高麗国の地名にしてあかなと云べきを、いつしか我野と改めしと云、本郡(註:入間郡)に下我野ありて、秩父郡に上我野あり」とある。
 その、上我野の中心に位置していたのが、「阪石町分(さかいしまちぶん)」と云われる集落である。『新編武蔵風土記稿』には、「此村はもともと坂石村の内なりしが、元禄十三年に分郷して一村となれり、民家廿九軒を並べ、秩父街道の左右にありて、馬継の宿場なれば町分けと稱することにや・・・略・・・」とある。いま吾野宿と呼んでいるのは、この坂石町分である。
 秩父街道、吾野宿と書かれた大きな案内板に従って、旧街道に入って行った。古い街並みが続いているが、人影は全くない。観光に訪れた人もなく、ひっそりとしている。突然車の警笛に追われた。なんと道路の真ん中を歩いていたのだ。今日の予定は吾野宿までのつもりで出掛けてきたのだが、あと一駅、4Km先の西吾野まで歩くことにした。

        
     
旧道の入り口に建つ「吾野宿」の案内板           吾野宿の街並み

 吾野宿の外れ、道端に石碑が五基並んでいるのが目に留まった。道路整備か何かの理由でここに集められたものだろうが、真ん中の大きな石柱に、「立山大権現」、その左側は「庚申塔」、左端は「馬頭観音菩薩」と、それぞれに文字が刻まれ、右の石柱には、明王像らしき仏像が浮き彫りにされていた。右端の石碑は何だか全くわからない。自然崇拝の山岳信仰と仏教と道教が、ごちゃ混ぜになっている。そのことを誰も不思議だと思っていないようだ。それぞれを信仰の対象として、拘りなく柔軟に受け入れてきた日本人の精神構造が、ここに集約されているようで、なんとも面白い。

     
左から馬頭観音、庚申塔、立山大権現、明王像の石碑

西吾野駅で上りの電車を待った。一時間に二本の電車しか止まらない。三十分近くも待った。乗客は、私の他に一人しかいなかった。今日の歩数、36,285。凡そ23Km。


吾野から正丸峠を経て秩父・横瀬まで。歩いた日・2013年3月17日。

午前10時、西吾野駅から歩きはじめた。爆音を響かせながら秩父方面に向かうツーリングバイクの集団が目立った。二輪車が群れる真ん中を遮るようにして、埼玉県警のパトカーが走っている。一昔前の話だが、この先、正丸峠は二輪オートバイを操るローリング族のメッカとして話題を集めた場所なのだ。
 丁度、一時間で正丸トンネルの入り口に着いた。このトンネルは全長1918mで、昭和57年(1982)に開通している。このまま真っすぐにトンネルの中を歩いていけば、僅か2㎞の距離で秩父側の芦ヶ久保に着ける。なれど、歩くのは当然、正丸峠の山越え道だ。この峠越えは向こう側のトンネル出口まで、なんと10㎞も迂回して歩くことになる。平坦な道ではない。集落を離れ、くねくねと曲がった急坂な道が4Kmも続くのだ。秩父往還、吾野通り最大の難所である。

   右側が旧道、トンネルの上を横切り正丸峠へ

 『新編武蔵風土記稿・秩父郡之二』に、南澤峠として、「一に小丸峠、又は秩父峠ともいへり、秩父街道にて當村(註:南川村・今の飯能市南川)と、蘆ヶ久保村の界なり、東の方より上ること十八町許、」と書いている。十八町は凡そ2㎞になるから、江戸期には正丸峠の麓、今よりずっと奥深い山間まで人々の暮しがあったと云うことだ。
 同じく、『新編武蔵風土記稿・秩父郡之九』に、正丸峠西側の蘆ヶ久保村の記述の中で、小丸峠として「東の方南川村界の峠なり、こなたの麓より頂まで廿町餘、道幅三尺より六尺に及べり、盤固して難所なり、秩父街道の一條なり、」とある。道幅は1mから2mで、地肌は岩盤で、歩くのに難渋した道だったと書いている。
 正丸峠の東側に位置した南川村について、『新編武蔵風土記稿』を読むと、「南川村は郡の東にあり・・・略・・・、江戸より十七里の行程なり、・・・略・・・、民家百三拾七、もとより山村のことなれば民家各處に散在せり、・・・略・・・、土地山に囲まれ穀物生立實登りあしく、猪鹿も多く、村から宜しからず、村民農業の暇には炭焼又は木挽・紙漉などし、女は養蠶の外絹木綿など少しづゝ織だせり、・・・略・・・、何人の領せしことをしらず、又検地のことも審ならず、・・・略・・・、この村に高麗川に添いし一條の通路あり、これを秩父街道と云、東の方坂本村より西の方南澤峠にかゝり蘆ヶ久保村に達す、村にかかること廿町許、道幅五六尺」とある。民家は山肌にへばり付くように散在し、世の中から取り残された山間の村だったのである。厳しい村人の暮らし振りが記されている。
 この峠道は、正丸トンネルが開通するまでは国道299号線として、都心と秩父を結ぶ幹線道路であり、最短の道筋だった。それが利用されなくなった今では、舗装はされているとは云うものの、路面は荒れ、ガードレールは曲がり錆び付き、カーブミラーは壊されたままになっている。いまは市道として飯能市の管理下に置かれている様だ。

        
                 
正丸峠・旧国道299号

 途中で「旧正丸峠」の道標を見かけたので、細い道を辿って山の中へ入っていった。新編武蔵風土記稿に記されていたような、幅三尺の狭い道である。100mも進まないうちに、飯能市観光協会の名前で通行禁止の札が下がっていた。その先は山の斜面が崩落して、道の痕跡は残っていなかった。この道は旧正丸峠というより、古道正丸峠と呼んだ方が相応しい。江戸期、いやそれ以前から修験者や巡礼者が通った険しい道なのだ。

         
               
旧正丸峠、古道と呼ぶのが相応しい

 四国の遍路道を歩いた記憶がよみがえってきた。地元の人が親切に教えてくれた遍路道なのだが、山肌の斜面に、人一人がやっと歩けるほどの細い道が続いていた。二週間ほど前の台風で崩れた箇所があっちこっちにあって、木が倒れて道をふさいでいた。倒木を跨ぎ、崩れた道は斜面を登るようにして迂回した。本当に、この道が遍路道なのかと、不安がよぎったときに、遍路道を示す赤と白のリボンを見かけて安堵したものだ。リボンを結んでくれた地元の人々の温もりに触れ、お接待の心に感謝したのである。
 旧道に入って寄り道したけど、麓から1時間30分で標高636mの正丸峠頂上に着いた。そこから見る遠景は白く霞んでいた。谷あいの白さが際立っているのはスギ花粉が飛散しているのかもしれない。しかし、黄砂なのか、単なる気象現象なのかよく分らない。空気が澄んでいると、遠く都心の高層ビルが望めるのだと聞いた。峠の奥村茶屋で昼食をとった。サラダ、味噌汁、新香付の豚肉丼。
 後は下り坂である。東京では昨日16日、桜の開花宣言が出されたと云うのに、峠の北側斜面には、あちこちに雪の塊りがあった。麓の集落で、日陰に固まった雪を砕いている人がいたので尋ねたら、一月中旬に降った雪が、まだ残っているのだと云う。

     
正丸峠北側斜面の雪の塊り(2,013.3.17)

 正丸峠を越えて芦ヶ久保に入った。路傍に馬頭観音の石碑、四基が並んでいた。それぞれ建立された年代が異なるので、周辺から集められてきたものだろう。左側から、昭和十六年建立の「馬頭観世音」、次に大正十三年に立てられた「馬頭尊」、続いて、建立した年代は不明だが、同じく「馬頭尊」と、それぞれに文字が刻まれ、右端の石碑には「馬頭観音像」が彫られ、安永八亥天、六月吉日と読める文字が刻まれていた。安永八年は、今から234年前の1779年である。

     
路傍に建つ馬頭観音の石碑

 馬頭観音像は頭に馬を戴いて、憤怒の形相をしている観音様である。顔は三面で腕は二つ、または八つを持っていて、その雰囲気から明王の部類に属する仏様ではないかと思ってしまう。馬は大食であることから、人の煩悩を食いつくし、災厄を取り除くと云われ、厄除けの仏として信仰されているのが、この馬頭観音菩薩様だ。
 四基の石碑は、難渋して正丸峠を超えてきたのに、荷駄の重みに耐えかね、路傍で力尽きてしまった馬の供養塔なのだと思う。芦ヶ久保は、『新編武蔵風土記稿』の中に「秩父街道馬継の村なり」と書かれている。正丸峠を挟んで東側の坂石町分、吾野宿にも馬継があった。秩父盆地の村々で生産された絹糸や織物を馬に背負わせ、険しい峠道を超えて江戸へ運び、江戸からは生活に欠かせない物資が運ばれてきたのである。荷駄に頼った時代、この正丸峠越えが如何に厳しく、辛いものだったのかが分る、と云うものだ。
 それでも、春になると江戸の巡礼者たちは険しい峠道を越えて秩父路に入って来た。私は、お江戸日本橋から延四日間をかけて秩父、横瀬に入った。江戸の庶民は二日で歩いたと云う距離だが、私の体力、脚力ではこれが精一杯である。「超えてきました峠道、秩父市へ5.3km」の標識が、疲れた私を向かえてくれた。労わりの心を感じるフレーズである。車で走ってきた人には何の感慨もないだろうけど。


     超えて来ました峠路

 視界が開けて横瀬の集落が見えてきた。最初に目に飛び込んできたのが「札所八番」の案内看板である。江戸からの「秩父道」は、熊谷通り、川越通り、吾野通りとあるが、吾野通りは、他の秩父道とは違って最初の札所が第八番西善寺になる。ここが秩父巡礼の玄関口になり、江戸期では、これを「八番始め」と云ったそうだ。

      
最初に目にした札所八番の看板
 
 今日の行程はこれで終わりにする。札所は四月に入って、のんびりと巡ることにしよう。そう考えながら、横瀬駅に向かった。途中で、「秩父まつり会館3Km、じばさんセンター⇒」という看板を見た。秩父まつりから連想したのか、疲れていたのか、「じぃばぁさんセンター」と読んでしまった。爺々婆々が集まる憩いの場所なんだなと思った。しばらく歩いて、ひょっとしたら「地場産センター」のことかも知れないと気が付き、あとで確認したらその通りだった。ちゃんと「地場産センター」と漢字で書いてくれればいいものを、紛らわしい。とんだ勘違いをした自分の発想が可笑しかった。それにしても、先ほどの「超えてきました峠道」のフレーズで和んだ感性とは、ちょいとギャップがありすぎたようだ。

     
じぃばぁさん憩いのセンターと勘違い