秩父札所・第5長興寺・語歌堂 | ||
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金昌寺の仁王門を後にして、もと来た道へ引き返すと、道筋はすぐに直角に左へ曲がる。この右角に塀を背にした道標があり、そこには「右二番 左五番道」と刻字されている。右二番とは真福寺を指し、金昌寺の山門を背にして右に八百mも進むと、真福寺の納経所がある光明寺に突き当たる。
この道標の位置関係から、指す方向が間違っているように思えてならない。右方向には、先ほどお参りした第四番金昌寺の山門が見えるし、道標を背にして直進すると第五番語歌堂へ向かうことになる。長い年月を経て、巡礼道の道筋が変化したのだろう。左五番の「五」の字が記号のような文字になっていた。古文書に見る崩し文字の様だ。この道標にも、願主は心求・はま、と刻字されている。 心求・はまの道標石「右二番 左五番道」 7、80mも進むと、道は直進と右折の二手に分かれていて、その辻に「右三番 左五ばん道」の道標が建っていた。五番の「五」の文字は、先ほどと同じで崩し文字になっている。これも願主心求・はまの建立によるものだ。 心求・はまの道標石「右三番 左五ばん道」 すぐ先の辻には「右五番 左山道」の道標が建っていた。次々と道標石が現れるが、ここにも願主心求・はまの刻字がある。これから先の巡礼道にも、心求・はまの道標石が続くのだろうが、心求・高橋喜兵衛は余程信心の深い人だったのだろう。それに、これだけの道標石を建てるとなると、元禄の世と云えども相応の資金が必要になる。お金持ちの商人だったのかもしれない。ますます興味が湧いてくるのだ。 心求・はまの道標石「右五番 左山道」 これまでに見てきた道標の殆どは風化によって銘文を読み取ることが出来ない。それでも札所の方向を示す文字は白くなぞられ、修復されているので読める。願主心求・はまの文字も、なんとか判読できる。風化してしまった文字が分かれば、心求、つまり高橋喜兵衛の人物像が浮き上がって来るのだが、これでは掴みきれない。これまでに、「江戸」、「上野国」、「施主」、心求・はま以外の願主「はる」「念仏講中」、などの刻字を断片的に拾い上げることが出来た。このことから想像すると、高橋喜兵衛は念仏講を組織して、多くの信者から寄進を受け、妻のはまと伴に秩父札所の代参をしたのではないかと考えられる。施主や併記された願主は、巡礼資金の提供者なのかもしれない。 巡礼道は秩父市から横瀬町に入る。キヤノン電子の工場に添いながら、しばらく歩くと右手田圃の中に、第五番語歌堂が見えてくる。納経所は手前の道を左折した突き当りにある長興寺だが、先に語歌堂にお参りするのが順序だろう。このお堂は、もとは長興寺の境内にあった観音堂だそうだが、享保五年(1720)に現在地へ遷されたという。語歌堂とは詩的で、何となく曰くがありそうな名前である。 語歌堂の山門 観音堂 田圃の中の語歌堂 『新編武蔵風土記稿』にある記述を抜き書きする。「・・・御寺創立の大檀那はこの所の長にて本間孫八と云人なり、大師の高徳を信じ、彫刻の像をこゝに安置せんと、私財を喜捨し堂宇をいとなみ、信心厚く、會て鋪嶋の道に意をよせける折ふしに一日旅客あり、此堂に通夜し、夜もすがら孫八と和歌の奥義を談し、鶏鳴に至りて聖徳太子、片岡山の化人と贈答の和歌を講じ、因みに祖師西来の本旨を示し、東の峯の白む頃忽その人の姿を失せり、孫八歓喜して即ち御堂を語歌堂と名づく、・・・」とある。 この文章、その繋がりが理解できない箇所がある。要は、私財を喜捨して堂宇を営んでいた本間孫八が、ある夜御堂を訪ねてきた旅人と「夜もすがら和歌の奥義を談じ」合い、この旅人が聖徳太子の化身であったと気が付いて、「孫八歓喜して即ち御堂を語歌堂と名づく」と云うのが、その名の由来なのだ。 長興寺の本堂に向かい、例によってぶつぶつと般若心経を唱え始めたら、間を置いて年輩の御婦人二人連れが、私に並んで般若心経を声高に唱え始めた。その声に引かれ、唱えていた般若心経の文言が途中から、元に戻ってしまった。つまりは、ご婦人二人連れと般若心経を唱和したことになる。言外に、「もう少し小さな声で唱えましょうよ」と、いう皮肉を込めて、「唱和させて頂きました。」と、挨拶したら、「結構でございますよ。どうぞ、どうぞ」という答が返ってきた。いかん、いかん。修行が足りぬ。 (2013.4.25記) |