秩父札所・第7番法長寺(牛伏堂) | ||
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瓦葺で簡素な長興寺の山門を後にした。土地の人が建てたのだろう、「6番・7番近道」の案内札に従って左折し、しばらくの間、広々として見晴らしの効く田圃風景を満喫しながら歩いた。
横瀬町民グランドに突き当り、左折して山裾の道を進み、上り坂の丁字路に差し掛かったら、比較的新しい道標があった。「←山道・正面札所五番・札所六番方面→」と、刻字されている。横瀬町が整備した道標の様だ。あれだけ次々に現れた、「願主心求・はま」の道標石に出会わないと思ったら、この道は、本来の巡礼道から東に一本逸れているようだ。近道の表示に従って歩いてきたことを悔やんだが、後の祭りだ。道標石に従って右側の坂道を下って行った。 「←山道・正面札所五番・札所六番方面→」の道標石 10分ほども歩いて、また丁字路に差し掛かると、「右六・七ばん 札所へのみち 左村みち」の道標石に出合った。これも比較的新しい道標石で、傍に倒れていた標石から、「昭和五十年三月横瀬村」の刻字が読みとれた。 「右六・七ばん 札所へのみち 左村みち」の道標石 「昭和五十年三月横瀬村」の刻字 近くに埼玉県最大規模だという「寺坂棚田」があるので、寄り道をしようと思い立ち、道案内の掲示に従って坂を上って行った。けれど、目指す場所は大分先のようだし、あきらめて途中から引き返した。あれこれ、好奇心に引かれて寄り道するのが習いになっているけど、このあとお参りする札所の納経時間に間に合わなくなっても困るのだ。この寺坂棚田は、大、小合わせて百五十枚もの田圃があって、歴史を遡ると、なんと縄文時代にまで及ぶという。棚田は大量の水を蓄え、里の人々の暮らしを支え、憩いのある美しい景観を見せてくれる。 順番からすると札所五番の後は六番なのだが、古くは「荻野堂」と呼ばれた第六番に当る札所が、宝暦10年(1760)に焼失して、別当寺であつた「卜運寺」境内に移されたという。卜運寺は第七番法長寺の先、700mも行った所にあり、そのため道順が逆になってしまった。だから、先に七番法長寺にお参りすることになるのだ。 山 門 本 堂 第七番法長寺は別称「牛伏堂」とも呼ばれている。『新編武蔵風土記稿』に次のような記述がある。「・・・往古行基、自刻の観音を、有縁の地に安ぜんと常に負擔し、所々行脚しけるにこゝに至り、盤石の如く重くなりしゆへ、此所に留置て回国施しとぞ、年経て牧童四五人この山にて草を刈けるが、日暮霧深く既にかへらんとせしに、ひとつの牛いづくともなく来たりしが、こゝに伏して動かず、各ついにそこに通夜す、その夜半ばかりに観音、草中より一僧と現して告たまうは、これより坤の方の林中に、庵を結び我を安ぜば、必罪悪の衆生を済度すべしと夢見て忽夜は明ぬまゝ、奇異の思をなし草をうちわけ、こゝかしこをみるに、十一面観音の像ありけるまゝに、人々打寄り今の牛伏堂の古地に草庵を営みて安置せり・・・」 古くはこの辺りの小名(小字)を牛伏と呼んでいたようだが、今の地図には地名として残されていない。牛にまつわる伝承が先なのか、地名が先にあったのか、そこが分らない。 『新編武蔵風土記稿』には牛伏堂の名の由来について、もう一つの説を載せている。花園山の城主、花園左衛門の家来某、「・・・悪業によりて牛に生まれしが、妻女等が佛乗に帰依して、亡父某の墓所に歩をはこびしこと霊験ありて、此所ついにさかんに佛法流布の地となり、観音霊場第七番の梵宮となりぬるは、偏に彼牛こゝに伏して、畜生道をはなれしより、牛伏の因縁たり、地名も是がために起るとぞ・・・」という縁起だ。 本堂の前に牛伏の像が置かれていた。なぜか赤い涎掛けをしている。牛は一回食べたものを、また口の中に戻して噛み砕き、再び胃に戻すという反すう動作を繰り返すので、唾液の分泌量が多いのだそうだ。だから涎掛けを着ける発想は分る。なれど、お寺の境内で見かけると、お地蔵様の涎掛けを思い出してしまう。・・・ん? そう云えば、なぜお地蔵様は赤い涎掛けをしているんだろう。 赤い涎掛けを掛けた牛伏の像 |