秩父札所・第6番卜雲寺(荻野堂) | ||
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緩やかな登り道が続き、第六番卜運寺の参道下に出た。右辻に大きな供養塔があって、その先に、「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」と刻字された石柱が建っている。札所の「札」に「補陀」の文字を当てているが、この駄洒落が気に入った。さらに並んで「みぎ七ばん」の道標石がある。願主心求・はまによるものだ。六番にお参りして七番に向かう巡礼者への道標になる。この道標石からは、「江戸」の文字が読める。願主の文字が「くわん志ゆ」とも読めるし、心求・はまに並んで「こきん」の名が刻まれている。面白くなってきた。
心求・はまの道標石「みぎ七ばん」 第六番札所は、長享二年(1488)に記された番付表に、「荻堂」として記されているが、後に別当寺であった今の卜運寺に移されている。経緯については、第七番法長寺のところで触れた通りだが、この辺りの伝承について『新編武蔵風土記稿』には、「・・・往古はこの堂今の境内より、西の方七町許を隔て荻の堂と稱せし草庵に在りけるを、寶暦十年(註:1760年)に今の地に遷座せしむと云、この観音年久しく、武甲山の蔵王権現社内に納置して、後年荻の堂に移すと云、・・・、」とある。 卜運寺の在る集落は、「横瀬町刈米」という地名だが、『新編武蔵風土記稿』に、「この邊の地名に横肯刈込など云所あるも・・・」の、記述を見つけた。横肯の「肯」の字は、「背」の当て字だろうと思うが、横背は「横瀬」、刈込は「刈米」のことだろう。古くからの地名が残されていたので、嬉しくなってきた。 般若心経を唱え終えところに、白装束に身を固めた巡礼姿の団体さんが登ってきた。急いで納経所へ行き、御朱印を頂戴した。団体さんの後に着いたら、御朱印を頂戴するのに、じっと我慢して順番を待たねばならないからだ。 四国を歩いた時のこと。第四十五番札所の岩屋寺で御朱印を戴いたら、納経帳に一枚の紙が挟まれていて、次のような文章が書かれていた。 白装束の団体さん 「お納経の揮毫・朱印は、美術品や趣味のスタンプ収集ではありません。お参り下さったあなた御自身が心を込めて、ご本尊様に納められたお経を、確かにお取次ぎさせて頂きます、との住職の受取証印です。」 さらに続けて、「自分自身を尊いと思えますか? 今に最善を尽くしていますか? 今を精一杯生きていますか? そして、今の生き方が先の明暗を分ける鍵となります。」とあった。 数々の反省はともかくとして、「今の生き方が先の明暗を分ける」という件には、心にずしんと圧し掛かるものがあった。何か掴みどころが無く、心に溜まっている鬱積を発散させたいがためにお遍路に出たのだが、そんな己に対して「これからの生き様が大事だぞ」、という厳しい叱責を喰らったような気がしたのだ。 四国お遍路で、団体さんの後に着いたら本当に悲劇だ。唱える般若心経は、リズムに乗って唱和する団体さんの声に掻き消されるし、引っ張られてお経の文言はふっ飛んでしまうし、結局、終いには団体さんに合わせて唱えることになってしまうのだ。 それに、御朱印を頂戴するのに順番を待たされるのが堪らない。中には、「この方はお一人のようだから、先にお済ませになっては・・・」と声をかけてくれるご婦人もいる。でも、たいていの場合、ツアーの添乗員が大量の納経帳を入れた大きなカバンを抱え、納経所に駆け込んでくるから、寺院の職員や僧侶は大わらわで揮毫し、押印することになる。そして、順番が来るのをじっと待っているお遍路さんがいるのだ。秩父札所には、そんな慌ただしさは無い。 境内から武甲山の雄姿を望むことが出来る。ここに来るまでも武甲山を眺めながら歩いてきた。けれど電柱や電線、建物が邪魔になって、すっきりとした全貌を眺めることは出来なかった。高台にある境内から望む武甲山は、そんな邪魔物はない。山間に広がる横瀬の集落の向こうに、春霞に煙った武甲山が聳えている。 武甲山の山頂には御嶽神社があり、古くは、東国における御嶽信仰の中心的な存在であった。しかし、北側斜面から良質な石灰岩が産出され、明治期からセメントの原料として採掘が進み、昭和15年(1940)には秩父石灰工業が創立された。それ以降、大規模な採掘が進み、今のような醜い姿に変貌してしまった。西武秩父線に乗って横瀬駅に近づくと左手に武甲山が見えくる。最初に出合った武甲山は、私の記憶の中に異様な姿として残っている。 (2013.4.29 記) |