秩父札所・第4番金昌寺 | ||
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常泉寺の参道を横切るように用水が流れている。巡礼道はこの用水に沿って右折し、南に向かう。道が二股に分かれ「四番道」と刻字された道標があった。これも心求・はまを願主にするものだが、ほかに「江戸」、「願主・はる」の文字が辛うじて読み取れる。同じ標石で願主が二人と云うこともあるのだろう。「はる」という人物と、心求・はまとは、どの様な繋がりがあるのだろうか。
心求・はまの道標石「四番道」 左に取って百mも進むと道は左右に分かれる。二股の辻に、「右四番道」の道標が建っている。この道標も願主心求・はまによるものだが、ほかに「上野国邑楽郡館林領赤岩村・同郡新里村」の文字が読みとれる。人名らしき文字が刻字されているが、これが読めない。この道標も複数の願主によるものだろうか。心求、つまり高橋喜兵衛なる人物は上野国館林領の出身なのか。分らぬ。 この標石に黄色いテープが三本張り付いていた。心無い人の悪戯なのかと思い剥がそうとしたが、確りと石に張り付いていて取れない。歩きながら、「あっ、そうか。あれは夜光テープなんだ。」と気が付いた。近くの住人が車で追突しないよう、夜間の目印に張り付けたものに違いない。道標石に興味のない人にとっては、単なる邪魔な石ころなのだ。やむを得ぬ処置だと思うけど、これはちょっと頂けない。他に方法はなかったのか、と思う。 心求・はまの道標石「右四番道」 横瀬川に架かる「ふるさと歩道橋」を渡った。橋の欄干に、巡礼者のデフォルメが施されている。熟年夫婦を想像させる容だ。巡礼者は二人の方が絵になる。だけど、お遍路や巡礼は一人で歩くに限る。その方が、常日頃、訳もない不安や、物足りなさを感じている己から解放され、心地よく平穏な気分になれるのだ。 ふるさと歩道橋の欄干 路傍に数体の石仏を祀ったお堂があった。お堂の前に「四番道」の道標があって、土台が確りと固められていたので、近い場所から移されて来たものだろうと思う。四番道の刻字は白くなぞられているので読めるが、他に刻まれた文字は全く読めない。願主心求・はまの文字だけは辛うじて読める。 心求・はまの道標石「四番道」 地方道の熊谷・小川・秩父線を横切ると、右辻に「左四番道 右五番道」の道標が建っている。これも、願主心求・はまによるものだ。傍には車で来た巡礼者にも分るように、秩父市が建てた新しい案内ポールもある。ここが札所四番金昌寺の入り口になっているのだ。 心求・はまの道標石「左四番道 右五番道」 さらに五〇mも進むと道は二股に分かれ、辻の所に「江戸馬喰丁三丁目 施主〇〇 左四番道 念仏講中 願主心求・はま」と読める道標があった。刻字がこれほどはっきりと読める標石に出合ったのは初めてだが、残念なのは施主の名前がどうしても読めないことだ。施主と願主の間には、どのような繋がりがあるんだろう。巡礼道の道標は、どのような手順で建てられたものなのか。ますます複雑になってきた。 心求・はまの道標石「左四番道」 第四番金昌寺は石仏の寺だ。仁王門を潜ると何処を見ても石仏だらけで、その総数を『新編武蔵風土記稿』には、「その數すべて三千八百體ありと云う」と記されている。実際には千三百十九体の石仏があるのだそうだ。 本堂に向かう石段の左右にも、山の斜面にも、さらには楼門造りの仁王門二階にも、所狭しと石仏が並んでいる。そのほとんどは寄進によるものだという。石仏寺になったのは、世の中が天明(1781〜1789)の天災、飢饉から立ち直った頃の寛政元年(1789)に、この寺の住職・古仙登獄和尚が犠牲者の供養に千体石仏の安置を発願したことが発端であるという。 境内の石仏群 仁王門二階に祀られた石仏群 境内に「うどん処」の暖簾が上がっていた。空腹を覚えていたので立寄ったが、地元の人達の溜り場になっているみたいで、七名ほどの熟年男女が集まって昼間から酒盛りをしていた。一瞬、後悔したものの空腹には勝てない。山菜うどんを注文して何とか八分目ほども食べたが周りの騒々しさに耐えきれず、早々に退散した。 山門を後にして振り返ったら、大きな草鞋が両脇に掛けられているのに気付いた。巡礼の旅に出て、踏みしめる土に命をもらい、無事に満願の日が訪れるよう祈念して奉納されたものだろう。四国八十八カ所の札所にも草鞋が奉納されたお寺は多い。浅草寺の「宝蔵門」にも大きな草鞋が掛けられている。浅草寺は、坂東三十三札所の第十三番目になっている。 両脇に草鞋が掛けられた仁王門 (2013.4.23 記) |