秩父巡礼・旅のはじめに | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
その動機 お遍路と巡礼の違い 観音巡礼三十三所の起源 秩父札所の成り立ち 秩父の山岳信仰 秩父札所の番付表 秩父札所が三十四所になった背景 江戸から秩父札所への道筋 吾野通りの道筋 |
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秩父巡礼・その動機 秩父巡礼・お遍路と巡礼の違い 秩父巡礼・観音巡礼の起源 そもそも、観音巡礼の起源はいつなのか。西国三十三ヵ所は、養老二年(718)に大和長谷寺の徳道上人によって設けられたという。伝承だが、病で仮死状態にあった徳道上人が、閻魔大王から三十三の宝印を与えられ、元気を回復した上人は、近畿地方の三十三ヶ寺に札所を開いたそうだ。しかし、上人の教えに耳を傾ける人々はいなかったという。上人は、やむを得ず中山寺にこの宝印を埋めたそうだ。中山寺は西国三十三札所の第二十四番で、私は平成11年5月に参拝しているが、今の本堂は、豊臣秀吉の世継ぎ、秀頼が家臣に命じて再建されたという、由緒の深い寺院である。 秩父巡礼・秩父札所の成立 『新編武蔵風土記稿 巻之二百四十六 秩父郡之一』に、秩父巡礼三十四札所の成立に関わると思われる次のような記述がある。長くなるが記録に留めて置きたい。 秩父巡礼・秩父の山岳信仰 秩父は山岳信仰の聖地である。拙著「東京お遍路」の第60番吉祥院のところところで触れたが、境内に御岳講・御岳教の開祖と云われる普寛行者の供養塔があった。普寛が生まれたのは秩父大滝村(現在は、秩父市大滝)で、小鹿野町との境界に海抜千八百メートルの御岳山がある。普寛が開山したことは明らかであろう。普寛は、修験者として阿闍梨にまで進んだが、その地位を捨て諸国を行脚し、越後八海山、上州武尊山等を開山、寛政四年(1792)には木曾御嶽山の王滝道を開いている。 秩父巡礼・秩父札所の番付表 秩父三十二番札所法性寺に長享二年(1488)に記された古文書として、秩父札所の番付表が残っている。文献(秩父巡礼道・埼玉県教育委員会・1992発行)を参考に、そこに記された札所三十三ヶ寺と現在の三十四ヶ寺を比較してみた(別表参照)。
秩父巡礼・秩父札所が三十四所になった背景 先にも触れたと思うが、観音菩薩がその姿を三十三に化身させて、世の中のすべての苦しみから人々を救済するという法華経の教えに基づき、三十三の札所が成り立ってきたと云う。それならば何故、秩父巡礼の札所が三十四ヵ所なのか、疑問が残るのだ。拙著「東京お遍路」の中で、西国、坂東、秩父を合わせて九十九箇寺ではキリが悪いし、苦渋苦を連想させるから、室町時代の知恵者が、一箇寺を加えて、切りの良い百観音にしたのだろう、現代のビジネスマンだったら、その宣伝効果抜群と云うことで、社長表彰ものだと書いた。これはあくまでも冗句で、実のところ、いつの頃から三十四所になったのか、またその背景には、どのような経緯があったのか、ずっと疑問に思っている。 秩父巡礼・江戸からの道筋 これから江戸期の巡礼道を辿って秩父巡礼の旅に出ようと思っているのだから、巡礼道について詳しく調べておく必要がある。 秩父巡礼・吾野通りの道筋
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