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●慶長5年(1600)
●慶長8年(1603)
●慶長9年(1604)
●慶長10年(1605)
●慶長11年(1606)
●慶長12年(1607)
●慶長14年(1609)
●慶長17年(1612)
●慶長19年(1614)
【対馬】
●慶長4年(1599)
日蓮宗の僧・日奥が家康の大仏供養会への出仕を拒否し、対馬へ流される。
対馬藩宗家による朝鮮国との講和交渉始まる。この年朝鮮に派遣した梯(かけはし)七太夫、吉副(よしぞえ)
左近、翌年に派遣した柚谷弥介、帰還せず。
2月23日−宇土城主小西行長・対馬城主宗義智(よしとし)らが朝鮮に捕虜160名を返還し、講和使節を日本に送るよう求めた。
対馬藩主宗義智が、金光ら朝鮮人捕虜数百人を送還して修好復活をはかる。
釜山での貿易許可を伝えるため、朝鮮より僧惟政(ユジョン=松雲大師)と孫文○(ソンムンウク)が派遣される。
3月−宗義智が惟政、孫文○を伴って伏見で家康、秀忠に謁見する。
筑後国養父(やぶ)郡のうち二千八百石が対馬領となる。(うち千石は家康の命により、宗家家老柳川氏に与えられる)
7月−朝鮮・李朝は、二つの講和条件を提示(@家康から先に国書を送ることA朝鮮王陵墓を荒らした犯人を引き渡すこと)。
これを受け藩は、偽造国書と犯人に仕立てた対馬島内の罪人を朝鮮に送る。
1月−朝鮮から正使呂祐吉(ヨウギル)ほか使節一行460名が対馬に来着。3月、宗義智(よしとし)、これをともない江戸へ向かう。(5月6日、将軍秀忠に謁見)
対馬藩と朝鮮との間で己酉約条(きゆうやくじょう=貿易協定)が結ばれる。
日奥が赦免されて妙覚寺に帰る。
徳川家康が宗氏を通じて、ふたたび朝鮮使節を要請。