讃 岐 石 清 尾 八 幡 宮 ・ 多 宝 塔

讃岐石清尾八幡宮・多宝塔

近世(江戸期)の石清尾八幡宮多宝塔

石清尾八幡宮多宝塔は明治維新で廃塔となると伝える。(詳細は不詳)

1.「金毘羅参宮名所圖會 巻之六」:石清尾宮:2018/01/25情報追加

 ●石清尾八幡宮全図:左図拡大
本社、祭神一座、応神天皇(東表山上にあり)、幣殿(本社に続く)、拝殿(石段の下にあり)、神楽殿御牘(ふだ)所、神明宮(本社の左、山上にあり、・・)、石清水宮(神明宮の左にあり)
多宝塔(神明宮の後の山上にあり、細川右馬頭頼之の建立なり)
薬師堂(石段の下、南の傍にあり、・・)、神馬舎、随身門、回廊、御供所、反橋、社頭に石灯篭・末社等多し。
石鳥居(反橋の前にあり、右に下乗の石あり。左の傍僧坊あり、阿弥陀院と号す。場場の東西行程凡そ10町余、道幅凡そ20間余・・・・右の方の寺を福寿院と云ふ)
 ※阿弥陀院=五智院
中の鳥居(同馬場にあり)・・・放生川(二の鳥居の向かふにあり。石橋を架す)、行宮(放生川の東北の傍にあり、・・例祭の御旅所なり)・・・阿弥陀堂(馬場の右にあり)
南にニケ寺(観音寺・覚王寺)北に三ケ寺(西願寺・浄光院・円満寺)、一の鳥居(この辺を茶屋町といふ)

「八幡宮本紀」
 当社は、延喜18年八幡大神香川郡亀の尾山に鎮座せんと託宣したまひける。・・・・これによって国司山の前に神殿を造り、石清水八幡宮を勧請し、石清尾八幡宮と号し奉る。これは石清水と亀尾山の両名を取りて名付けけるとか云々、・・・・
 例祭8月15日放生会執り行はる。また4月3日に祭礼あり。これを俗に右馬頭(うまのかみ)祭という・・・。

2.「讃岐名所圖會 巻之六上」:石清尾八幡宮:石清尾宮:2018/01/25情報追加、画像入替。

石清尾八幡宮全図

 ●石清尾八幡宮全図:上図拡大図

そもそも当社の勧請は、年歴久遠にしてその濫觴さだかならず。あるいは云ふ、養老年中また延喜18年御勧請なりとも云々。
中古貞治2年、細川右馬頭頼之朝臣、予州河野氏征伐の時箆原庄に来り、岩清水八幡宮に祈願これあり。よって予州平定の後、八幡宮へ凱陣ありて、立願成就拝謝の為、臨時の祭を修行す。4月3日神事これなり。・・・・・・・・
 ●石清尾八幡宮古図:古来かくのごとくに候へ共、寛永甲申の年より廟社神法地影石■あらためて候て、かうがうしく仕候。・・・
霊籟塔(石清尾社の後にあり、俗に赤堂といふ。応安年中、細川頼之朝臣建立、慶安4年国祖君御造営あり、その後天保3年御再興あり。・・・・・・)

五智院:
 石清尾馬場にあり。帰命山護国寺阿弥陀院。真言宗、京都仁和寺末。石清尾社僧。
 本尊阿弥陀如来。
 慶長年中、生駒一正御建立・・・寛文8年国祖の命にて今の寺号に改む。・・・・
 明治2年御一新、神仏混淆を御糺正によりて帰俗なして廃寺とはなりぬ。
福寿院:
 同所にあり、法昌山慈光寺、五智院末。元中村天満宮別当であったが、後に石清尾社僧となる。
浄光院:
 同所にあり、瑠璃山薬師寺、五智院末。
覚王寺:
 同所にあり、普門山西泉院、五智院末。
観音寺:
 同所にあり、神照山花香院、五智院末。
円満寺:
 同所にあり、摩尼山善慶欲院、五智院末。
  阿弥陀堂(境内にあり、石清尾八幡宮本地仏これなり)
    以上5ヶ寺、明治2年御一新によりて廃寺とはなりぬ。
西願寺:
 同所にあり、宝池山大光院、五智院末。以上石清尾供僧。
 明治2年御一新によりて帰俗して西原舎人と改め廃寺とはなりぬ。

●「新編香川叢書 史料篇1」香川県教育委員会編、1979.3:所収「御領分中宮由来・同寺々由来」原本不明、文政13年書写。
仁和寺御門跡末寺 真言宗香東郡 阿弥陀院
1.石清尾八幡宮は延喜18年当山に勧請、寺開基は慶長年中生駒一正家来佐藤掃部の建立。
1.社領高10石。

●「新編香川叢書 史料篇1」香川県教育委員会編、1979.3:所収「寺社記」著者不明、天保4年書写。
岩清尾八幡宮神領 1.高236石6斗5升
 内20石は生駒一正慶長年中寄附・・・・英源様によって麓より山腹を遷宮、馬場先本地堂旅所残らず再興・・。
 右の内(寺院関係のみを掲載)
 高松真言宗仁和寺末・阿弥陀院(20石)、円満寺(5石)、観音寺(同)、浄光院(同)、西願寺(同)、覚王寺(同)、福寿院(同)

2008/05/08追加:

「高松城下図屏風」:(江戸前期、八曲一隻、香川県立ミュージアム蔵)

高松城下図屏風・全図
屏風絵下が北、上が南に描かれる、右上(城下南西方向)隅に多宝塔が描かれ、この塔は石清尾八幡宮多宝塔と推測される。

高松城下図屏風・部分1
多宝塔を伴う堂宇がある、位置・反橋・鳥居などから石清尾八幡の社叢と推測される。

高松城下図屏風・部分2:多宝塔拡大図:左図拡大図

2018/01/23追加:
○「高松城下町屋敷割図」幕末頃 より
石清尾八幡宮 高松城下町屋敷割図:
 石清尾八幡宮部分図:左図拡大図
亀山山上に多宝塔が建つ。亀山山腹、随身門内に本宮以下の社殿が建つ。山下には長い参道/馬場が続く。
 (参道・馬場は「東西行程およそ10町余、道幅およそ20間余」という。途中に新小橋が架かるが、この川が放生川であろう。)
山下・随身門外直ぐの社頭に別當五智院及び宮司中川五百城・供僧福壽院がある、そこから遥か離れて参道が始まる立札内の左右に別當五智院末供僧である円満寺、浄光院、西願寺並びに覚王寺、観音寺が配置される。
 本図により、石清尾八幡宮の全容が明らかとなる。石清尾八幡宮も山城石清水八幡宮と同じく、八幡宮を祭祀管理運営するのは別當及び社僧(供僧)であり、その意味で殆どの八幡宮の例にもれず、神仏の習合した社の典型例と云える。
 なお、本図の左端下は石清尾八幡宮の由緒・風物などが記載される。
  高松城下町屋敷割図:石清尾八幡宮由緒・風物
一部不明なるも、以下のように記載される。
 石清尾八幡宮 初め御旅所の東の方當社の供僧円満寺の地にあり故に彼地を古本地といふ
  祭神石清水に同鎮座の歴代詳らかならすと云
  神事八月十五日なり 府下の市坊より練物を出し 踊車楽獅子數鎗母衣負高荷飾馬等の各差あり
  殊に享保の頃
 源参議成公入府し給ふ后遙に
  神納し給ふ御舩ありて三日三夜御紋付に太鼓を拍むやし四街に吹貫を飄せり 悉録すに遑なし 實に四列に冠たる御祭式なりといふ
  神領二百餘石
 農具市四月三日
   (以下略)
 龜山 宮柱立ち給ふ故石清尾山とも云 山上に三曾の宝塔あり 塔に丹塗なれは赤塔山ともいへり 本地阿弥陀如來を奉安す
  相傳細川頼之伊予の河野を伐すへき勑を奉し出陣の時此御神託して宣ふ■あり
  里人云頼之河野と戦う時數万の蜂飛来りて伊豫勢を刺し悩ます故に敵忍ひすして敗亡する今蜂穴いふは其の蜂の出し窟なり 
  春秋二度の祭事あり ■■頼之伊与の群黨を平治なし凱陣して一の高塔を奉る 今以赤塔を肥後矦の普請なりといへり
  或頂上塔の所在ハ 龜山院御陵と云
  皇統山稜記に龜山帝ハ嘉元三九月十五日龜山殿に崩し則龜山の上荼毘し奉る由見ゆ是ハ山列にある龜山なり 是悲■志■■
 紫藤 随身門内薬王堂の傍一■の古松に添てあり
  一箇の荘観なり 借日二四屋の主人詰テ来に別当の五智院を龜命(かめい)山と號したると召連し小僧の名に負して狂す
   藤松よ■花をたれなる龜命山
                  一三

石清尾八幡宮多宝塔跡

2003/12/29訪問するも、夕闇が迫る時刻となる。
多宝塔があったと思われる本殿右奥の山林に続くと思われる道に足を踏み入れるも、数匹の野犬が現れ、夕闇のためか、激しく威嚇する状況であった。止む無く、山林に足を踏み入れることを断念、その為多宝塔跡などの確認は出来ず。

推定多宝塔跡山林:左図拡大図:本殿右奥の山林

推定多宝塔跡山林に至るであろう山道

但し写真の山林には野犬が生息し、踏み込むことが出来ず。

貞治年間(1362-68)細川頼之社殿を拡築。
天正16年(1588)生駒親正社殿を修復。
寛永21年(1644)松平頼重、社殿を造営・現在地に移転
昭和61年本殿・上拝殿炎上、平成元年復興。

2009/12/26訪問:
●多宝塔の諸記録
「金毘羅参宮名所圖會」:「神明宮の後の山上にあり、細川右馬頭頼之の建立なり」
 本社右横の石階(現存)を上れば神明社・石清水の社があり、その背後に多宝塔を描く。
  ※神明社は現存、石清水は若宮神社(祭神は仁徳)として現存する。
「讃岐名所圖會」:「霊籟塔(石清尾社の後にあり、俗に赤堂といふ。応安年中、細川頼之朝臣建立、慶安4年国祖君御造営あり、その後天保3年御再興あり。・・・) 」
 霊籟塔は本社背後の山上にあるように描かれる。
「高松新繁昌史」長尾折三(藻城)著、宮脇開益堂、明35.2:p.60:
「山上元塔あり之を丹(あかに)す、霊籟と号す、俗に丹堂(あかどう)と称す。□□□・・・(以下文字が薄く判読不能)・・・」
以上の諸記録によれば
本社背後の山上に多宝塔(霊籟塔、赤堂、丹堂)があったと推定される。また神明社・石清水の社の背後に位置したと推定される。

●推定多宝塔跡
本殿背後の山林は狭く、山上以外に塔があったと推測させる平坦地は認められない。山上のみが塔の建立可能なスペースを有する。
それ故、諸記録および社務所での談を総合して、本殿背後の丘の山上が多宝塔跡地と推定される。
但し、塔の遺構は何も地上には留めない。
今、山中には径らしき径もなく、潅木が疎らに生えるのみである。
山上には、僅かに「奉献紀元2600年・教育勅語渙発50年記念」と記す「国家神道・天皇教」の残滓が残る。
この忌まわしい国家神道の今は半ば破壊され残滓となる記念物の建立で「塔跡」の遺構の消滅にダメ押しをしたのであろうか?。
 ※明治維新の神仏分離を遂行したと同じ思想系列の勢力が後世にも更なる悪行をなしたと云うべきなのであろう。
 赤塔山山上推定塔跡:本殿背後(西)の赤塔山山上、この山上は平坦地となり、唯一塔が建立できる場所であろう。
         土壇らしき高まりも残るが、塔の土壇なのか、近年の国家神道の記念物に付随した土壇なのかは不明、
         国家神道の残滓も写る。なお、手前に石列とも見えるものが写る。
 赤塔山山上石列か:山上の土壇から少し離れて石列と見えるものがある。おそらく近年のものであろうが、
         塔の土壇の外周の縁石と考えられなくはないとも思われる。
 国家神道の残滓:日本全国どこにでも狂信者がいたものと思われる。
 赤塔山1:中央石階の上に今も神明社・石清水(今は若宮)の社がある、その背後は赤塔山でこの山上に多宝塔があったと推定される。
 赤塔山2:左の社殿は本社・拝殿
  ※社伝では、延喜18年(918)八幡神が赤塔山(現石清尾山)に現れ、この山麓に社殿を造営と云う。
  ※赤塔山は亀ノ尾山(亀命山)の山裾に当る。この山麓の東に社殿がある。山上には多宝塔(赤堂)が造営されたと伝える。

●社務所での談
以前多宝塔があったと聞いている。塔の痕跡は何も残らない。塔のあった場所は本殿背後(本殿は東向きであるから本殿西)の山上であろう。
山上には何かの「碑」の残骸があるが、その付近であった可能性はある。(山上には「碑」の残骸があるが・・との問いかけに対する返答)
寺院(寺家)は今は全く残らない。唯一の名残りとして以下がある。
随身門を入り右に北門がある。随身門を出て北門の外に廻ると堀があり、この堀に北門に通じる石の反橋が架かる。寺家(僧侶・社僧)はこの反橋を渡り、北門を入って(江戸期には)出仕したと伝える。なお反橋付近に寺院が戦前まであったと聞いている。(昭和20年の戦災で廃絶?、寺名は不明。)なお、この反橋(と北門)は今は全く使われていない。(通行は禁止)
 ※社僧の詳細やその位置については未だ不詳。
 石清尾八幡北門
 石清尾八幡北門反橋1     石清尾八幡北門反橋2
 石清尾八幡北門反橋3:かっては社僧が出仕の折渡ったと伝える、 写真中央が北門で、この門を潜り社僧は八幡社境内に入ったと云う。


2006年以前作成:2018/01/25更新:ホームページ日本の塔婆