筑  前  筥  崎  八  幡  宮

筑前筥崎八幡宮三重塔・多宝塔

筥崎宮境内古図(神仏分離資料より転載、土佐広澄画、筥崎宮蔵)

筥崎宮境内古図( 下図拡大図)

 □筥崎宮室町時代古図(上記図の三重塔・多宝塔部分図です)
  :2007/01/02「Y」氏ご提供「絵葉書」画像に入替え:筥崎宮室町期古図、筥崎八幡宮縁起所載

八幡宮は延長元年(923)の創建と伝え、創建後まもなく多宝塔の建立を見る。
但しその後の多宝塔の興亡、三重塔の興亡は全く掌握できず。
 ※筥崎宮は延喜21年(921)の託宣により、筑前穂浪郡大分宮より移座して、延長元年(923)に建立される。
 移座は新羅に対峙する博多湾の重要性が増したことが理由であり、この意味で創建後間もない筥崎宮に六所宝塔を建立したことは
 肯定できる。これは太宰府の意向が強く働くと云う。

「八幡宮指図並材木目録帳」(永享3年<1431>):
 神宮寺多宝塔寸法;中央間6尺3寸、脇間5尺4寸(脇間が中央間に比べて、2枝<9寸>狭い)との「多宝塔」記録があると云う。

2008/05/20追加:
「筥崎八幡宮縁起絵巻に描かれた建築について」土田充義
  (「大会学術講演梗概集. 計画系」日本建築学会、 昭和43-49年度  所収)より
○多宝塔:
・承平7年(937)建立
 (「石清水文書之ニ」、弘安4年<1281>「筥崎宮造営材木目録」、永享3年<1431>「八幡宮指図并材木目録」、
  天正・文禄頃「筥崎宮社殿注文」)
・治安4年(1026)修理
 (平安遺文、石清水文書<田中家文書>、「筥崎宮造営材木目録」、「八幡宮指図并材木目録」、「筥崎宮社殿注文」)
・多宝塔寸法:桁行3間梁間3間・中央間6尺3寸脇間5尺4寸。(「八幡宮指図并材木目録」)
○三重塔:
・北ノ塔と称する。 (「筥崎宮造営材木目録」)
・三重塔寸法:中央間6尺4寸、脇間5尺3寸5分・三間四方。(「八幡宮指図并材木目録」)
○その他の堂宇
「筥崎宮造営材木目録」、「八幡宮指図并材木目録」、「筥崎宮社殿注文」の文書ではおおよそ以下の堂宇の存在が知られる。
 平井社・高良社・阿蘇社・今宮・若宮八幡・赤旗社・乙子宮・一切経蔵(南ノ経蔵)・鐘楼・護摩堂・唐櫃屋・御供所・常行堂・弥勒堂・西堂・黒木御所・神輿休・石塔・燈籠堂・外社ニ社
さらに近世の「日高家文書」では以下の堂宇も知られる。
 中島弁財天社・仲哀殿・厳島殿・御本地堂・荒神堂

筥崎宮神仏分離に関する調査」 明治維新神仏分離資料より、筑紫頼定氏報

第1条 神仏分離発令当時に於ける状況一般並びに分離実行の顛末
本宮においても廃仏毀釈を唱える輩(社僧及び社僧より力弱かりし社人の輩)多く、仏像仏器などは仏臭として箱崎鯨須磨にて焼却す。内陣木像をも同地にて焼却す、石灯篭は台石蓮華を形作するをい以って放生池に沈め、また境内に埋める、また今まで社僧たりし者、発令におよび、地蔵尊および同寺本尊などの像を縄にくくりて町中を引き回し、或は石像・木造の首を打ち落とし、寺の位牌経書仏画をも火に納めたる行蹟があった。幸いにして本宮本地仏は火入れの難を逃るる、また五智輪院賢秀は当時還俗せず、五智輪院菩提寺馬出恵光院に転住し、残余の仏教関係の物品を持ち出した。
第2条 神仏分離以前神社に於ける仏教関係の建築物及び分離時に於ける其処置
本殿;9間×3間社流破風造、今の本殿は天文15年大内義隆の造営
拝殿;3間半×5間流破風造、今の拝殿は天文15年大内義隆の造営
楼門:4間×2間半三手先千鳥破風造、今の楼門は小早川隆景の造営
廻廊:2間×21間5尺4方、楼門と沿革は同じ
大渡殿、小渡殿、神前鳥居、浜鳥居
護摩堂・仏供屋閼伽井:寛永17年黒田忠之建立、分離の際護摩堂は恵光院へ移転、その他は取り除く
本地堂並びに宝堂門:慶安5年国主造立、分離の際取り除く
仲衰殿、厳島殿、北辰殿、若宮殿、住吉殿、若宮八幡宮、乙子殿、竜王社、稲荷社、荒神社、宇佐殿、恵比寿社、相保殿、放生堂、弁財天社、御旅所、神楽殿、御供屋、宝蔵・土蔵、舞台、・・・
毘沙門堂:分離の際取り除く
灯篭堂:承元2年創立、寛政9年修築、分離の際恵光院へ移転
鐘楼:文化4年立替、分離の際解除す
連歌屋:分離の際取り除く
弥勒寺:本尊弥勒菩薩、延喜21年の宣託により造作、後再作。
     灯篭堂:慈眼院と号する
     十一面観音菩薩:承元2年海底より出現の像
     以上(3点)は恵光院に有り
       ■五智輪院本陣弥勒菩薩坐像(神仏分離資料から転載)
第3条 神社に於ける仏教関係の図像の類及び其処置
 第4条にて述べる。
第4条 神社に於ける仏教関係の器具粧飾の類及び其処置
長講所:仏具、大般若経等・・恵光院へ持入。釈迦如来三尊・・元瑞応じ本尊で寛永10年長講所へ安置、恵光院へ
御本地堂:八幡大菩薩本地阿弥陀如来像、雨宝童子像、聖徳太子像(黒田忠之寄進)・・大浜の町民願い受け、同町に安置し、現存する。毘沙門天像・・恵光院へ
第5条 神社に於ける仏教関係の官職位及びその変
第6条 神社に於ける仏教関係の祭礼行事儀式作法及びその変
第7条 神仏分離以前の於ける慣習の今日に残存せるもの
第8条 仏教関係の文書記録の種類及分離当時に於ける其処置
第9条 社人社僧の状況日常生活、社僧と神官の関係及び維新当時に於ける社僧の実況
・・社僧は勧進坊以上は京都仁和寺直末寺で、座主坊支配・・
神領518石余り
本社造営料(221石)、大興山五智輪院弥勒寺<座主坊>(106石)、赤幢坊(20石)、蓮城坊(絶家、7石)、円台坊(絶家、7石)、智禅坊(15石)、学頭坊(絶家、10石)、勧進坊(4石)、一乗坊(絶家、14石)、一御燈坊(絶家、6石)、二御燈坊(7石)以下略・・
第10条 廃仏毀釈の状況
五智輪院(座主坊)
 弥勒堂(4間×3間)享保年中改築・・取除、護摩堂、慶安5年再建・・取除、客殿(7間×5間半)玄関・・取除、唐門・・取除、表向塀廻り路次、寛永年中再建・・現存、仁王門(3間×1間半)、宝暦3年建替・・取除、書院、慶安5年再建・・現存、庫裏・・明治13年大光寺(那珂郡金平、本願寺派)本堂として265円と米2表代金6円で売却。
赤幢坊
 護摩堂、客殿、庫裏(いずれも文化2年建替)・・取除  以下略
寺領は座主、赤幢坊、恵光院、学頭坊以外は悉く召し上げられ、境内も上地となり、末寺の社僧は座主より僅少の金子を受け取り、商人あるいは故郷に帰り帰農す。
座主賢存は還俗、筑紫大学と改め、神職となる。

※恵光院:寛永年中黒田忠之開基、五智輪院中興正範の開山と云う。
筥崎八幡宮の西約300mにあると思われる。歴代座主、祠官各家の菩提を弔うと云う。 高野山真言宗、本尊薬師如来。

六所宝塔(安南宝塔院)「八幡宮の建築 」(土田充義、(財)九州大学出版会、1992)

 ※以下のように安南宝塔院は当初豊前宇佐に建立予定であったが、筥崎に建立される。
弘仁5年(814)最澄は宇佐八幡宮参詣、千手観音・大般若経2部1200巻、法華経1000部8000巻を奉納。
弘仁6年最澄は大安寺塔中院を経て、上野縁野寺・下野大慈寺に赴き、宝塔を建立し法華経1000部8000巻を塔下に置く。
弘仁9年最澄は六所宝塔建立の祈願を立てる。
六所宝塔:
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存 上野緑野寺跡
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮寺)→筥崎神宮寺宝塔に変更 八幡宇佐宮
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、近年本谷礎石群が発掘され、この遺構が宝塔跡とほぼ断定される。竈門山
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺) 下野大慈寺塔跡
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院 比叡山
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院 比叡山
近江・山城・上野・下野は既に存在し、
承平3年(933)筑前竈門山宝塔が完成し残りは宇佐弥勒寺のみとなる。ところが弥勒寺では法華経の一部を焼き、このため筥崎神宮寺に新たに1000巻を写経し筥崎神宮寺に宝塔が建立された。
筥崎神宮寺宝塔完成は承平5年起工、承平7年完成。

筥崎神宮寺宝塔造立の事情は以下にその詳細が記録される。
「大宰府牒」承平7年(937):(「石清水八幡宮文書之二」所収)
「府牒 筥崎宮 応令造立神宮寺多宝塔一基事
 牒 得千部寺僧兼祐申状偁、謹案天台伝教大師去弘仁八年遺記云、為六道衆生直至仏道発願、於日本国書写六千部法華経、建立六箇所宝塔、一一(?)塔上層安置千部経王、下壇令修法華三昧、其安置建立之処、叡山東西塔、上野下野国、筑前竈門山、豊前宇佐弥勒寺者、而大師在世及滅後僅所成五処塔也、就中竈門山分塔、沙弥証覚在俗之日、以去承平3年造立已成。
上安千部経、下修三昧法、宛如大師本願、未成一処塔者、謂字弥勒寺分也、伝聞弥勒寺未究千部、書写二百部之間、去寛平年中悉焼亡乎、爰末葉弟子兼祐、添歎大師遺書之未遂、寸心発企念、弥勒寺分経火滅之替、於筥崎神宮寺、新書備千部、造一基宝塔、於上層安置千部、下間令修三昧、以可果件願、然則始自承平5年、且唱於知識令写経王、且運材木捜於彼宮辺巳了、彼宮此宮雖其地異、早欲造件塔、仏事之功徳、凡為鎮国利民也者、府判依謂、宮祭之状、早造立将令遂本願、故牒、
       承平7年10月4日 大典惟宗朝臣(花押) 参議師橘朝臣『公頼』」

「筑前国名所図会」に見る筥崎八幡宮

  ○箱崎八幡宮図
    文政4年(1821)のこの圖會には、既に多宝塔、三重塔の痕跡は見当らない。
    但し、三重塔があったと思われる位置附近に三重塔様のものがあるも、不明。石塔とも思われる?。

「筑前国続風土記」貝原篤信<益軒>著、元禄元年(1688)〜宝永6年(1709):
 「筑前國続風土記 巻之十八 糟屋郡 表」:
   略歴を抜き出せば、以下のようです。
○箱崎八幡宮
「・・・延喜21年・・・八幡大神の託宣に、吾穂波郡大分宮に移住の後、三悪あり。
一には竈門宮は我伯母にておわします。・・・然るに、年中節会に、府官以下、国司雑司参り来る間、愚暗の輩、或は馬に乗りながら遥拝し、或は笠をきて、御前を渡る。是甚恐あり。二には、郡司百姓饗膳供、険阻の山を越、数日民の煩をいたす。三には、放生は是海上の事也。穂波宮巳に放生の地にあらず。これによりて、彼地を避て、箱崎の松原に移り住んと欲す。・・・・・
勅許有りて其官符に曰、・・・此地に神殿を造営させ給ひ、敵国降伏の四字をば、延喜帝の勅筆にて、・・・
文永2年炎上・・やがて再興あり。・・・弘安3年又回禄にかかりしを造営あり。永享6年・・、又炎上に及ぶ。
大内多々良朝臣持世、・・文正元年・・造営の事始有、5年を経て功成ぬ。
永禄年中又炎上せしを、天文年中大内義隆本社を建立せらる。今の神殿是也。・・・小早川・・隆景・・・文禄3年新たに楼門を建立せらる。今の楼門是也。・・・・慶長5年黒田長政・・500石の神領を寄進・・・慶長14年・・舞台並石の鳥居を立給ふ。・・・弁財天の祠も、同年長政の夫人立給ふ。・・・・・・
此御社の祭礼・・・5月騎射、8月放生会を重事とする・・・後略・・・・」
○弥勒寺(真言宗)
「大奥山、五智輪院と号す。箱崎八幡宮の左にあり。本尊弥勒菩薩なり。・・・此寺の住持は、則八幡宮の座主坊也。」
○赤幡坊
「弥勒寺と相并べり。・・・」
○勝楽寺(禅宗済下)
「宝幡山と号す。・・・宗祇が筑紫紀行に、則当社の神宮寺なりと云り。また八幡宮の祈祷所なりし由、古き文書にあり。今は八幡宮の事には預らず。・・・・・」
○蓮城坊(真言宗)
「宝池山と号す。此僧舎、始は箱崎の村中にありしを、天和2年に放生池の側に移し、放生修行の会所とす。・・・・」
○灯篭堂
「慈眼院といふ。放生堂の向にあり。・・・・・」


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