★紀伊國名所圖會に見る野上八幡宮
野上八幡宮:下図拡大図
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記事:
「本社:三扉、礼殿:本社の属す、若宮:本社の艮の方にあり、神輿堂:若宮の東、本地堂:舞殿の東、宝蔵:本社の東、
多宝塔:本地堂の南にあり。鰐口の銘に「永禄7年甲子8月15日本願江州真賢上人敬曰紀州那賀郡野上郷八幡宮鰐口」とあり。舞台:本社の正面、御供所:不動堂の後、庁:舞台の前、鐘楼:庁の右、末社:24社、神宮寺:不動堂の西、本願院:本地堂の東。」
野上荘は往年石清水八幡宮の神領なりしかば、万治年中・・・この地に別宮を造営、大神を勧請・・・」
「・・・永禄年中近江国真賢上人・・再興・・・」「当時神事に預かるもの社僧2箇寺、供僧4箇坊、神主1人、社家8人、・・・」 |
★野上八幡宮多宝塔跡
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紀伊國名所圖會
に見る多宝塔位置が正しいならば、多宝塔跡推定地は更地であり、多宝塔を偲ばせるものは何も残らない。
但し中門前にあった鐘楼は(その当時の鐘楼かどうかは不明であるが)境内南東(元多宝塔跡地の東)に移され、唯一神仏分離以前の様子を伝える。
推定多宝塔跡1(鐘楼前の更地が多宝塔跡と思わる。)
同 2:(左図拡大
図)
同 3(中門前参道石段から多宝塔跡平坦地を撮影)
野上八幡宮鐘楼 |
★大和吉野山東南院多宝塔
「日本の塔総観」では
明治の神仏分離により、塔は和歌山・松井伊助氏の所有になり、さらに松永定一氏により、昭和12年東南院に移されたという。
紀伊國名所圖會に見える「鰐口」(永禄7年の銘)は今も塔に付属する。
塔の建築年代について、永禄年中の建立は無理であり、様式上江戸中期以降としたいとの推定がある。
東南院は金峯山寺の一山寺院であった。神仏分離により明治7年廃寺になるも、明治12年再興される。
伝承では役行者の開基という。奈良期日円上人を中興とする。
→ 大和金峯山寺塔跡
2012/03/29撮影:吉野山東南院山門 吉野山東南院本堂
2017/03/09撮影:吉野山東南院本堂2
★野上八幡宮の社殿
八幡宮の創建についてははっきりしない。
しかし、平安中期には野上庄が石清水八幡宮荘園とされ、すでに石清水八幡宮別宮が成立していたと推定される。
天文10年(1541)火災で焼失、以降順次社殿を再興する。
別当は本社の左右に造建され、東は本願寺、西は神宮寺と号すると伝える。
以下5棟の重文の社殿を残す。
野上八幡神社本殿(三間社流造・重文・弘治3年1557あるいは元亀3年1572)
野上八幡神社拝殿(五間×四間・重文・天正元年1573)
同 拝殿向拝部
野上八幡神社摂社武内神社社殿(一間社流造・重文・天正6年1573あるいは元亀3年1572)
野上八幡神社若宮(三間社流造・重文・弘治3年1557元亀3年1572)
同 向拝中央部 同 向拝東部 同 向拝西部
野上八幡神社高良社(一間社流造・重文・天正6年1578)
同 向拝蟇股 同 向拝組物 同 身舎軸部
そのほか、神輿庫、宝蔵、舞殿、中門、長庁、御供所などを残す。
参道・中門 <参考>
海南から野上間は野上電気鉄道廃線跡がまだ残る。
■野上電気鉄道廃線跡
2006年以前作成:2012/04/14更新:ホームページ、日本の塔婆
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