さ | サイ(ド)カー ![]() Side Car ![]() |
ミャンマー、サイドカーを略して通称サイカー、自転車の右側面に座席を増設した人力の三輪タクシー。 座席は前向きと後ろ向きが併設され、ふたり客は背中合わせとなる。 |
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(フランシスコ) ザビエル Francis Xavier ![]() |
1506〜1552年 スペイン人、現マレーシア・マラッカを経由して1949年、鹿児島に上陸、約二年間の滞在でキリスト教の布教と西洋音楽を伝授。日本を出国したのち中国で布教を計画したが、入国直前の上川島で病没、遺体はマラッカへ搬送され9ヶ月近く安置、さらにインド・ゴアへ搬送され埋葬された。 | ||||||||||||||||
サンガ Samgha |
サンスクリット語で「集団」「組合」の意。 南伝仏教(南方上座部仏教)の出家者教団で、この組織集団が仏教を維持。在家者はサンガに含まない。タイ国のサンガは全国統一の団体、ミャンマーのサンガは複数団体が並列的。 |
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三派連合 さんぱれんごう |
ポルポト政権の虐殺行為が続いたカンボジアでは、1979年ベトナムが軍事介入してヘン・サムリン政権を樹立した。これを国家として承認したのは、ソ連、東欧諸国、インドなど少数にとどまり、明らかな侵略行為として国連も認知しなかった。このヘン・サムリン政権に対抗して、排除されたポルポト派、元国王率いるシアヌーク派、弱小のソンサン派、これら3つの政治組織が団結して1982年6月に結成。西側諸国は三派連合をカンホジア政権として承認。 | ||||||||||||||||
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し | シアヌーク Norodom Sihanouk ![]() |
1922〜2012年、カンボジアの元国家元首、2004年10月まで国王。 最初の后とのあいだにラナリット殿下、3番めの后とのあいだにシハモニ殿下。 |
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シータ Sita |
インド・ラーマヤーナ叙事詩においてヴィシュヌ神の化身ラーマの妃。 ラーマ=畦の意 |
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シーラ・マジッド Sheila Majid |
1965年クアラルンプール生まれの女性歌手。父親が高級官僚のため近代的な音楽教育を受けた。 1985年、カセットテープでデビューを果たす。マレーシア本国で発売された2枚組のライヴアルバム(1991年11月27日クアラルンプール収録)では山下達郎の「スパークル」を日本語で歌唱し日本のファンを驚かせた。近年は結婚・出産を経て活動が停滞している。 |
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シヴァ神 Shiva |
インド・ヒンドゥー神話における破壊と創造の神、疫病を救う神。シヴァ=吉祥の意。 象徴としてリンガ(男根)4本の腕と額の中央にある第三の眼。 |
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ジェマア・イスラミア Jemaa Islamia |
インドネシアとマレーシアに拠点をおくイスラム過激派組織。 インドネシアとフィリピン南部の国境地域にイスラム国家「ダウラ・イスラミア」の樹立をめざす。2002年10月バリ島爆弾テロを実行、2003年6月在タイの米・英・豪大使館の爆弾テロが発覚、未遂におわる。 |
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シティヌールハリザ Siti Nurhaliza |
1979年、マレーシア、バハン州トゥルムラ生まれの女性歌手。1995年、国内の歌謡コンクールで優勝、その後プロ活動に転じ、日本では1998年に初めてアルバム「チンダイ」が発売された。以後20を超すアルバムを発表。 | ||||||||||||||||
ジム・トンプソン Jim Thompson ![]() |
1906〜1967年(行方不明) アメリカ出身、本名はジェームズ Jams 第二次世界大戦にタイ東北部で情報活動で従軍、戦後復員したがタイへもどり居住。1948年からタイシルクの研究と製造を始め、事業化に成功。その利益を生かして東南アジア美術の収集家として著名。1967年3月、マレーシアの保養地カメロン高原で行方不明。失踪原因はは迷宮入り。 [参考図書] 失踪 ウィリアム・ウォレン 吉田勇一 訳 第三書房 1986年発行 |
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シャイレンドラ王朝 Sailendra Dynasty |
750〜832年、インドネシア、ジャワ島中部に成立した王朝。 ボロブドゥールの建設に関与。 |
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ジャヤバルマン七世 Jayavarman Z ![]() |
1125?〜1218?年、現カンボジア、アンコール王朝の最盛期の王、在位は1181?〜1218?年。 アンコールトム内部の構成、その中心寺院バヨン、外郭のタプローム、プリヤカン、バンタイクデイなどの造営主で敬虔な仏教徒。俗に「ライ王」と呼称されるが、王がライ=ハンセン氏病に罹患していた根拠はない。 [参考図書] アンコール・王たちの物語 石澤良昭 NHKブックス 2005年発行 |
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ジャワ原人 Java Primitive |
学名ホモ・エレクトゥス
Homo Erectus
旧学名ピテカントロプス・エレクトゥス。 1890〜1891年、ジャワ島ソロ河上流で発掘され、70〜110万年まえの人骨と推定。 人類の進化は400〜500万年まえ、アフリカの猿人を始祖とし、180万年まえに原人へ進化、ユーラシア大陸を経由して100万年ほどまえにジャワ島まで進出した、と考えられる。のち氷河の溶解により海水面が上昇、60万年まえにアジアへ進出した北京原人とは区別。 |
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シャン族 Shan Group |
上部ビルマ、タイ北部、ラオス、中国・雲南方面に居住するタイ族のなかま。 タイ語圏での自称はタイ・ヤイ族 Thai Yai 「大きなタイ人」の意。その呼称どおり、平地タイ人より身長・体格で勝る。上座部仏教を信仰する農耕民族で、平民階層は各家族以上の集団をつくらず、親族は双系的。氏族階級は地位の継承や財産分与に父系制をもつ。 |
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自由アチェ運動 | スマトラ島北部アチェ州の独立を主張してインドネシア政府と対立。 | ||||||||||||||||
シュリヴィジャヤ Srivijaya |
インドネシア、スマトラ島東部に7世紀から成立、その繁栄期の終結を9世紀前半とする説と14世紀後半とする説あり。 | ||||||||||||||||
照葉樹林文化 しょうようじゅりんぶんか |
日本文化のルーツを探る方法として提唱された文化論。 カシ、クス、シイ、ツバキなどの照葉樹を共通項としてえらび、西はインド・アッサム地方、東は中国・貴陽付近まで、中心地を中国・雲南と設定。この論説によりモチ米の嗜好、茶の文化、豆腐、納豆、民間伝承、儀礼など、さまざまな類似点が日本文化の模索に役立つ。 [参考図書] 照葉樹林文化とは何か 佐々木高明 中公新書 2007年発行 |
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シンピュー儀礼 Shinpyu![]() |
ミャンマーの得度式。男子は7〜8歳で短期間だけ出家し少年僧となる。女子は出家を認めず、替わりとして耳たぶに穿孔を開ける儀式とする。従来はワゾー月(6月)の習慣だが、近年では学校の休みに合わせて3月に行うことも多い。 | ||||||||||||||||
真臘風土記 しんろうふどき |
中国人・周達観 1264?〜1346年、が1296年にカンボジアを訪れたときの記録文書。 真臘とは、元時代にカンボジアをさす呼称で、この書物はアンコール王朝の文化、習慣や風土、特産品などを知る記帳な資料として信憑性がたかい。 [参考図書] 真臘風土記 周達観 和田久徳 訳 平凡社・東洋文庫507 1989年発行 |
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す | 水上人形 Roi Nuoc ベトナム語 ![]() |
ベトナムの伝統芸能、沼地や水田休耕地を舞台として、高さ35cm ほどの木製人形を2.5m 前後の棒板を介して操作。人形をあやつる部分は水中に沈め、観客からは目視できない。その技法は世襲制度により秘匿されてきたが、1978年ベトナム文化省が保存活動の一環として水上人形研究所(Nha Mua Roi Nuoc)を創設、後継者に門戸をひらいた。 | |||||||||||||||
スカルノ Sukarno |
1901〜1970年、スラバヤ生まれ、インドネシア初代大統領。 1927年インドネシア国民党を結成、1929〜1931年投獄、1933〜1942年流刑・・・と、不遇時代を経て日本軍政下、政界に復帰し1945年8月17日、終戦直後に独立宣言を行い、その宣誓書に署名。民主主義を唱えた強烈な指導力で民衆から絶大の支持をえた。しかし、1966年国軍左派のクーデターが発生、これを陸軍高官のスハルトが実質的に制圧、政権を奪われる要因をつくった。1967年3月、大統領を辞任。名は副大統領とともにスカルノ・ハッタ国際空港の由来となった。 |
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デヴィ・スカルノ(1940年生)・・・1959年スカルノが戦時賠償問題で来日時に知遇、第3夫人、のち未亡人。 | |||||||||||||||||
スコータイ王朝 ![]() Sukkothai Dynasty |
現タイ国の中部、スコータイとシーサッチャナライを中心地として、13世紀初頭から15世紀半ばまで存在した王朝、ラーマカムヘン王の在位時代(1279?〜1316?)が最盛期とされ、タイ文字が考案、民衆に定着した。歴史的な石碑には・・・水に魚あり、田に稲あり・・・の記述。 | ||||||||||||||||
スジャータ Sujata ![]() |
シャカ族の王子シッダールタが出家して苦行を終えた直後、乳粥を与えた村娘の名。苦行に意義を見出さず後に覚醒して仏陀となる。ボロブドゥール第一回廊、81面と84面に壁面彫刻がある。 | ||||||||||||||||
スバエク Sbaek |
カンボジアの影絵芝居、語源は「動物の皮」の意。ジャワ島の「ワヤン」やタイ南部の「ナン・ヤイ」と同様に、なめし皮で作った人形の影をスクリーンに投影して物語りを上演する。小型の人形をスバエク・トーイ、大型の人形をスバエク・トムとして区別。内戦により20年以上も継承が絶え、健在はシェムリアプ、バッタンバン地方で復興の途上。 | ||||||||||||||||
スハルト Suharto |
1921〜2008年、 インドネシア陸軍の高官出身、第2代大統領。 初代大統領スカルノ政権の下、1966年3月国軍左派のクーデターを制圧した実力者として頭角をあらわし、以降は共産党の制圧に貢献。1967年からスカルノの後任として代行、1968年3月から正式に大統領として就任。1999年、長期安定政権がもつ腐敗政治の欠点から民衆が離反、失脚。 |
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スピース Walter Spies |
1805〜1942年、 ドイツ人の画家、音楽家。 1925年、初めてバリ島を訪れ、1927年から移住。バリの5音音階を西洋式に採譜、バリ音楽や芸能を世界に向けて紹介。現在バリ島で盛んに上演されているケチャは、彼の助力により成立し普及をみた。 1938年当時、バリ島を支配していたオランダ政府から、敵国人として身柄を拘束され、ジャワ島のヌガウィ収容所で生活。1942年、日本軍が占領したのちは、一転釈放の身となるが、船舶で移動中のインド洋で日本軍から誤爆をうけ、不運の死をとげた。 [参考図書] バリ島芸術をつくった男 伊藤俊治 平凡社新書 2002年発行 |
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宋胡緑・・・焼き すんころく(やき) |
語源は16世紀タイ国、中部にあった陶磁器の集積地サワンカローク Swakhalokが転化。 実際の生産地は、30km 北方のシーサッチヤナライ Si Satchanalai 15世紀ごろ沖縄に伝来し、16世紀後期の桃山時代に茶道の発展とともに需要が増した。 |
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せ | 迫り出し工法 ![]() Corbel Arch |
アンコール遺跡の建築に用いられた独自の工法で、出入り口や門など開口部の天側を支える。 開口部の両側、石材をすこしづつ中心にむけてせり出しながら、積み重ねる。上部からの荷重に弱く、コーベルアーチという呼称をもちながら、その強度は本来のアーチ構造より劣る。 |
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そ | ソン・サン Son Sann |
1911〜2000年、カンボジア、プノンペン生まれ。 1967年5月から12月までカンボジア首相。1970年3月ロンノルによる軍事クーデターでパリへ亡命。ポルポト政権が追放されてから帰国、反ベトナムだけが唯一の共通思想でポルポト派、シアヌーク派と和合、三派連合を結成。 |