トップページ  Index

は ひ ふ へ ほ   Ha Hi Fu He Ho

バガン王朝
Bagan Dynasty
 
 
1044〜1299年、ミャンマー、エーヤワディ河中流域、ビルマ族による初めての統一国家。計4回におよぶ元の侵攻で国力が疲弊、最後は新興勢力のシャン族により滅亡。「パガンPagan」は日本語の誤記
[参考図書] 謎の仏教王国パガン 大野 徹 NHKブックス2002年発行
アノーヤタ王 1044〜1077 北伝仏教を信仰
ソール王 1077〜1084  
チャンジッター王 1084〜1113  
アラウンシドゥ王 1113〜1163  
ナラトゥー王 1163〜1165? 1165年ごろセイロンから侵略され、王位断絶か?
ナラティンカ王? 1170〜1173 057年に南部タトンからモン族の王マヌーハを連衡してパーリ語の経文とモン文化の導入、南伝仏教への変革とビルマ語の表記が定着
ナラパティシードゥ王 1173〜1211 1190年、チャパタ僧が修行先のセイロンから帰国、バガン王朝の最盛期を迎え、レンガ造りの仏教建築が続出
ナンダウミャ 1211〜1234  
チュスワー 1234〜1250  
ウザナー王 1250〜1254  
ナラティハパティ王 1255〜1287 1277年、初めて元から侵攻をうける
パゴダ Pagoda
 
語源はパーリ語のTagobaが英語なまりとして Pagoda に転化との説あり。原初はシャカの遺骨すなわち仏舎利を納める墓、時代の経過により仏法の安置所、象徴に変容した。
日本では、主にミャンマーの仏塔をさす用語。
パダウン
Padaun Tribe
 
俗にいう「首長族」 正しい分類はカレン族の一派、その証にカレン族共通の白色の貫頭衣を着用。女性だけの習慣として、幼少のころから首廻りに真鍮製の首飾りを付け、成長とともに数を増やす。
パダン料理
Padang food
ミナンカバウ族が出稼ぎのためインドネシア全土に拡散するに伴い定着した料理。
卓上に並べられた料理のうち、食べたぶんだけ代金を支払う簡便なレストランが普及。
バジャイ Bajaj
 
インドネシア、ジャカルタ、1975年ごろから人力車の代替として導入された軽便な三輪自動車。
語源は当時の製造元インド Bajaj Auto 社・・・現行機種はインドネシア製、四輪の新型車あり。
バティック
Batik
 
日本語ではろうけつ染め。語源がポルトガル語の別名としてサラサ、更紗
蝋を塗布した部分には染料が着色しない特性を生かして模様をつけた布。模様の原型は動物、植物から図案の借用や人工的な幾何学、抽象滝なもの。インドネシアのジャワ島、ジョグジャカルタやソロで盛んに生産されており、その地域によって模様の個性をもつ。また、王族だけが使用できる模様があり、おのずと用いるバティックによって民衆と区別ができた。

[参考図書] ジャワ更紗文様図鑑 吉岡幸雄 編 京都書院・アーツコレクション1998年発行
ハヌマン Hanuman
 
ヒンドゥー教の猿神。ハヌマン=顎の骨をもつ者の意。
叙事詩ラーマヤーナではヴィシュヌ神の化身ラーマに加勢、シータ妃をランカ島から救出する手柄。
バロンタガログ
Barong Tabalog
フィリピン、男性の正装となる長袖の上着。素材はパイナップルの繊維、スペイン統治時代にメキシコから伝来した。女性用は、おなじ素材を使った裾の長いワンピースでテルノ Ternoと呼ぶ。
パンチェン
Ban Chieng
タイ国ウドンターニ県、村の名前。1960年、タイ芸術局の調査により先史時代の埋蔵品が発掘。
それらの年代測定の結果、紀元前4000年と発表され一躍、世界最古の文明発祥地として注目をうけたが、のち紀元前2000年と訂正された。当地博物館で展示されているものは、前300〜後200年の土器、一般に地名を引用してバンチェン土器と呼ぶ。
バンチャシラ
Panca Sila
インドネシアの建国五原則、1945年8月18日に制定、施行の現憲法に記載。
1 最高神への信仰
2 公平な人道主義
3 代議、協議による民族主義
4 全人民の社会的公正
5 インドネシアの内国統一
バンコク
Bangkok
命名の由来は、バーン「水路の村」コーク「オリーブの樹
1782年、チャクリ王朝をこの地に定めるとき、頌詞「クルンテープ、マハナコーン・・・」の冒頭部分を借用して、タイ人はバンコクを使わずクルンテープと呼称することが一般的。
ハンサ Hansha ヒンドゥー教の聖鳥、ガチョウの姿に近似、ブラフマ神の乗り物
東インド会社
V.O.C.
1602年に設立、1799年まで存続。オランダ政府からインド洋、太平洋地域の支配を一任された国策会社。
V.O.C.はオランダ語の Vereenighde 連合 Ostindische 東インド Compagnie 会社の略称。
ピマイ遺跡
Prasart Phimai
 
タイ国、ナコンラチャシマ県、12世紀前半に建立されたクメール寺院。
俗にタイのアンコールワットと形容。クメール建築で常識的な東正面を採用せず、その向きは70度ほど南へ回転、理由としてアンコールの首都すなわち現在のカンボジア、シェムリアプの方向とする説、単純に古代の街道に合わせたとする説があり、いずれも確定していない。1964〜1969年、タイ芸術局とフランス政府の共同で修復が完了、中央祠堂の彫刻類はヒンドゥー教、ラーマヤナ物語り、仏教説話、ブッダ伝説など混在。それが建立当時の混沌とした宗教観を示唆。
ビルマ
Burman
現在はミャンマーの総人口の70%を占める多数民族。
チベット・ビルマ語系の言語、ピュー族の衰退期にチベット方面から南下、騎馬民族から農耕民族に転じ、バガン王朝(1044〜1299)の時代に最盛期をむかえ、元とシャン族に侵略をうけてから、民族はさらに南方へ拡散した。
ピュー族
Pyu Tribe
 
ミャンマー、ピィ(旧名プローム)を中心地として2〜9世紀前半に成立した古代国家。遺構はエーヤワディ河の流域に点在、出土品は現在のビルマ族に伝承されておらず独自の文化を誇る。
1 死者を火葬したあと骨壷に入れて埋葬
2 南インド系、ピユー文字の使用
3 ヒンドゥー教と仏教の二重信仰
4 姓名の区分(現在のビルマ族には姓と名の区分はない)
5 銀貨の流通、表面にホラ貝、卍、仏塔、旭日 ・・・ などの刻印
ヒンドゥー教
Hinduism
インドの民族宗教、特定の開祖はなく布教のための教団組織もない。
インドでは厳格なカースト制度と不可分の関係で成立、東南アジアでは穏やかな身分制度のため、各国の国民性により柔軟に解釈。
ヴィシュヌ神 救済の神、宇宙の維持、4本の腕、
ラクシュミー ヴィシュヌの妃、美と幸運の女神
ガルーダ ヴィシュヌ神の乗り物、極彩色と巨大な口ばしをもつ架空の鳥
シヴァ神 破壊と創造の神、疫病を救う神、三つの眼
シャクティ シヴァの妃
ナンディ シヴァ神の乗り物、聖なる雄牛
ガネーシャ シヴァとシャクティの子、象の頭をもつ学問の神
ブラフマ神 万有の神、梵天
ハンサ ブラフマ神の乗り物
クリシュナ 英雄の神、横笛の名手、ヴィシュヌの化身
フエ
Hue
1802〜1945年まで、ベトナム中部、グエン朝の古都。
フランス語訛りでは、ユエと発音。漢字表記は順化
3〜10世紀はチャム族の交易都市、14世紀からはキン族(現ベトナム族)の支配下、1802年以降ベトナム最後の王朝文化の中心地。
フエテン
フィリピン特有の違法賭博。1〜37の数字から、ふたつを任意に選ぶ。
最低25センタボ(1ペソの4分の1、約 0.5円)から掛けられるため庶民に根強い人気。
仏教 ぶっきょう
Buddhism
サンスクリット語で「悟りをひらいた智者」の意。
ルンピニー(現ネパール領)出身のシャカ族の王子、シッダールタが出家して開祖。
東南アジアへは2世紀ごろから伝来し、現在の信徒は国民の割合で、タイ95%、ラオス50%、ミャンマー80%、カンボジア85%、ベトナム(北伝仏教のみ)70%を超える。
南伝仏教 正しくは、南方上座部仏教(なんぽうじょうざぶぶっきょう)
南インド、スリランカを経由して伝来し、タイ、ミャンマー、ラオス、カンボジアでひろく信仰。長老を上座におく仏教の意。
別名の「小乗仏教」は蔑視用語、その命名は北伝仏教から。
北伝仏教 チベット、中国を経由した日本へ伝来。
信徒の自己とともに、他者の利益までを包括した教えから大きな乗り物の意、すなわち「大乗仏教」と命名、南伝仏教の教えを小さな乗り物の意、すなわち小乗仏教」として蔑視。
仏暦 ふつれき 釈迦が入滅した翌年を仏暦元年とする。タイ国では西暦よりも仏暦を常用。
西暦に543年を加えるが、毎年4月に一年加算するので1〜3月までは542年の加算となる。
(ミャンマーでは入滅した年を仏暦元年とするので、隣国タイとは一年の差異が生じる)
扶南 ふなん 4〜7世紀前半まで、カンボジアのメコン河流域に栄えたクメール民族の王国。
語源は「」の意、これを中国語に音写。扶南の外港オケオから、152年と156年と刻印されたローマ金貨が出土、当時の交易がいかに遠大であったかを示す。チャンパと戦役、王位継承の混乱が災い、北方の真臘(しんろう)に併合された。
プミプトラ
Bumiputra
マレーシア、語源はプミ「土地」、プトラ「子供」の合成語。
1969年5月13日、下院議員の選挙結果が原因で、マレー系と中華系住民が対立、人種暴動を誘発。死者196人、負傷者439人、犠牲の大半は中華系住民。
この事件を境として、マレーシア人を優遇する政策を断行。学校教育のマレー語重視、進学制度ではマレー人を優先、外国企業のマレー法人化・・・などにより経済発展の成功をえた。しかし優先政策がたたり、マレー人の学力低下やマレー企業の体質悪化をまねいた。
ブミポン国王
Bhumibol King
 
1927〜2016年10月13日、タイの前国王、プミポンは幼少時代の俗称で、正しくはラーマ9世王
1946年6月9日、実兄アーナンダマヒドン王(ラーマ8世王)が王宮内で銃創変死、死因は迷宮入り。当時スイスに留学中の弟王は、一旦帰国して王位を継承。その後もローザンヌ大学の理学部で勉学を続け1950年に帰国、即位式典を挙行。シリキット王女とのあいだに1男3女、1956年10月に短期出家生活。王室プロジェクトによる土地改良、病院建設、児童教育、山岳民族への支援事業 ・・・ など民衆からの信望あつく、時に絶妙な政治介入では内外からの評価もたかい。音楽、写真、文学など多芸多才、歴代タイ王朝の在位として最長。
ブラフマ神 Brahuma
 
インド・ヒンドゥー神話における万有の神、梵天。
ヴィシュヌ神、シヴァ神とともに三大神を成すが、インドではブラフマ神を祀った寺院は少ない。
ブランコ
Antonio Blanco
1911〜1999年、アントニオ・ブランコ スペイン・カタロニア地方の出身1952年からウブド王宮の庇護をうけ画家として創作活動。いまは嫡男が美術館を運営し、父親の作品を散逸から防いだ。
フランス極東学院
  きょくとうがくいん
フランスのアジア研究機関。
1808年、フランスがインドシナを占領していた時代にサイゴンで準備され、1900年ハノイで正式に創設。1954年、本国バリに本部を移転したのちも活動を継続、発掘調査、遺跡修復、資料分析などで成果。元院長、ジョルジュ・セデス George Soedes のアンコール遺跡の調査報告は卓越。
プランバナン
Pranbanan
 
インドネシア、ジャワ島中部。ジョグジャカルタ郊外に広がるヒンドゥー、仏教の遺跡30ヶ所の総称。最大の建築はロロジョングラン Lolo Jonggrang で「妖艶な女性」の意。またの名を地名からチャンディ・プランバナン。850年ごろマタラム王朝の時代に建立され、のち16世紀の地震により崩壊、1937年から修復がはじまり今では、周囲の小型祠堂をふくめて往時を再現。中央祠堂の高さ47m 回廊部はラーマヤナ物語りの彫刻、内部にはシヴァ神、ガネーシャ、ドゥルガーの立体像が安置。
フン・セン
Hun Sen
1951年、カンボジア、コンポントム州生まれ。
ロン・ノル政権当時、ポルポト派の一員として反政府活動、ポルポト派が政権を奪取したのち同朋の虐殺行為に反発、1977年ベトナムへ亡命。1978年帰国してからヘン・サムリン政権に加わりポルポト派を追放、頭角をあらわす。1985年からカンボジアの現職首相。
ヘン・サムリン
Heng Samrin
1934年、カンボジア、コンポンチャム州生まれ。
1979年1月16日、ベトナム軍の協力をえてポルポト政権を追放、次の政権を掌握。米国や日本など西側諸国は、ベトナムの傀儡としてこれを承認せず、反ベトナムの三派連合と敵対。
ホーチミン
Ho Chi Minh
 
1890〜1969年、本名はグエン・タット・タイン Nguyen Tat Thanh
「ホーチミン・胡志明」とは1942年、中国で使用した変名のひとつ。1911年、フランスへ出国したのち、共産主義に和合、ソビエトと中国で活動。1941年、祖国へもどってからベトナム共産党を創設。ベトナム民主共和国(北ベトナム)の初代大統領に就任。南北統一を見ぬままベトナム戦争中に病死。和平後はサイゴン市を改名してホーチミン市、名をのこす。
ボゴール植物園
Bogor Botanical Garden
インドネシア、ジャワ島西部、首都ジャカルタから60km
1817年、オランダ統治時代に副総督ラッフルズが開設。87ヘクタールの敷地、16000種をこす熱帯植物は世界最大の規模。園内の説明看板わずか、見学には植物学の知識が必須。
ボロブドゥール
Borobudur
 
インドネシア、ジャワ島中部、北伝仏教の石造遺跡として世界最大。石材に刻印された古代ジャワ文字の書体から建立年代は、760〜850年と推定される。1814年、ジャワ副総督ラッフルズの調査により世界に知られるようになった。当時は自重による地盤沈下、メラピ山の火山灰で崩壊状態、ユネスコの援助協力により1983年に修復完了。
一辺が120m の正方形を基礎として、六層の正方形基壇を積みあげ、その周囲を右回りの回廊として仏教説話を彫刻。さらに上部へ三層の円形基壇を積みあげ、72基の釣鐘型ストゥーパを配置。内部は一体づつの仏像。上空から俯瞰するなら、巨大な曼荼羅(まんだら)の様相。
[参考図書] シャカムニの生涯 溝口史郎 丸善ブックス1994年発行
ボロブドール遺跡めぐり 田枝幹宏、伊東照司 新潮社・とんぼの本1992年発行
ポルポト
Pol Pot
1925〜1998年、本名はサロト・サル、カンボジア、コンポントム州生まれ
1975年4月17日から1979年1月16日までカンボジアの政権を維持。
その間、毛沢東思想と文化大革命を手本として、原初的農業や画一的な共同生活を民衆に強要、100万人以上が過酷な労働と劣悪な生活環境のため犠牲となった。この政権の実行者たちは、従来までの金銭崇拝や富裕階級からの搾取に反感、さらにインテリ層への劣等感から虐殺に至る。

 

≪≪≪≪≪  このホ−ムペ−ジ内の移動リンク  ≫≫≫≫≫ 

トップページ

あいうえお項目事典  ・  ・  ・  ・  ・ は ・  ・  ・  ・ 

カンボジア ・ インドネシア ・ ラオス ・ マレーシア ・ ミャンマー

フィリピン ・ シンガポール ・ タイ ・ ベトナム ・ その他