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荒野の火

 沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火(連載:琉球新報1982.03.15〜1982.05.09)


  山 城 善 光

◆ 目  次 ◆
序 章 灰じんの沖縄に帰る
第一章 言論の自由への闘い
第二章 結社の自由への闘い
第三章 出版の自由への闘い
第四章 知事、議員公選への闘い
第五章 知事、議員公選への闘い[続き]


第五章 知事、議員公選への闘い[続き]


 1、爾後の沖縄政局

 @合同演舌会の経過<演舌会は花盛かり>
 全住民待望の知事と議会議員の公選は間近いとの軍政府の公式発表に、沖縄中が色めき立つが、その期日が明示されない限り攻めの手をゆるめるべきではないとして、両党は益々固くスクラムを組み、次々と演舌会を実施していった。参考までに第1次合同演舌会の記録を追加記入してみる。昭和24年1月16日、名護聴衆1500人。同17日、コザ聴衆600人。同18日、糸満1300人。(民政府への政党活動報告書控えより)
 さらに5月1日から社会党の大宜味朝徳先生も参加して三党合同で第2次演舌会を名護町を皮切りに北部で展開しているが、その詳しい記録は残ってない。選挙期日公表前までは三党がどれ位仲良く共斗したかと云えば、昭和22年から同25年4月中旬までに47回開催している演舌会の内、その3割程度は合同演舌会であった(民政府創立4周年記念行政展覧会に提出した党活動報告書控えを基礎に記憶を織りこんで考察した)。さらに控え書によると、民主同盟の党員数は結党当初の22年が3000人、23年が2000人、24年が2500人、25年が3000人と中山事務局長名で報告されているが、それは登録された党員数ではなく、演舌会等を通じて感知される支持者層の大勢を捉らえての報告であったのに過ぎない。それでも当時の民主同盟の消長をよく物語っている好個の資料である。結党当初の3000人が次年度に2000人に落ちているのは、人民党、社会党の誕生で両党に流れていったのと軍の民主同盟弾圧に基因しているものとみてよい。3年目の24年に500人ふえて2500人になっているのは、知事議員の選挙実施間近しとの情報によって活気づけられたためである。さらに4年目の25年の3000人は知事、議会議員選挙施行についてのシーツ長官声明、ハインズ副長官の公式発表による政党活動の高潮化を物語っていて、当時の客観情勢とも符合しているので興味深いものがある。
 さて、この記録は自叙伝の形になっているが、一面民主同盟史の性格も帯びているので、誠に申し訳ないけれどもこの辺で記述洩れの幾つかを追加捜入させていただくことにする。それによってこれからの記録との関連性と一貫性を持たせることができると思う。
 先ず第1に、第2回大会で決定された党組織と陣容である。第1回の結党大会では、組織も陣容も暫定的なものとし、委員長をおかず事務局長を党代表として仲宗根先生にその要職について貰った。ところが民主同盟の誕生に次いで、人民党と両社会党が誕生したために、啓蒙運動を主とした国民党的性格から脱皮せざるを得なくなってきた。特に人民党から、綱領のない政党なんてナンセンスだとの批判が加えられてきたので、民主同盟もその在り方の再検討をせざるを得なくなってきた。
 そこで昭和23年の5月ごろではなかったかと思うが、第2回党大会が持たれ、次のような組織と陣容が確立された。

中央常任委員
 中央常任委員長 仲宗根源和
 同 事務局長  中山一
【註】極めて短い期間ではあったが、中山氏の前に嘉数昇氏が就任していた。
 同 組織部長 山城 善光
 同 総務部長 桑江 朝幸
 同 調査部長 山里 政勝
 同 資金部長 添石 良恒
 中央委員兼支部長
  國頭村支部長 新城高太郎
  大宜味村支部長 玉城美五郎
  今帰仁村支部長 大城 真一
  本部村支部長 仲宗根源栄
  屋部村支部長 吉元 英真
  名護町支部長 照屋規太郎
  石川市支部長 宮城 無々
  首里市支部長 真栄城玄明
  越来村支部長 ?
 中央委員
  宮里栄輝、大城善栄、久場長文、新垣金造、中村信松、遠山謙、真栄城信昌

沖縄民主同盟綱領
 一、本同盟は全琉球民族の速かなる統合を図り、その自主性の確立を期す
 一、本同盟は民族多数の名に於いて一部の階級の利益を食らんとする一切の不正と斗い、共存共栄を本旨とする琉球の建設に努力す
 一、本同盟はポッダム宣言大西洋憲章等の国際公約の連合国による履行を確信し、琉球の速かなる解放を期す

宣言 琉球は厳として琉球人のものなり。
 吾等は琉球の民主化を阻む一切の封建的陰謀と断々手として斗うと共に琉球の自主性確立のために勇敢にその政策を推進す。右宣言す。

 私はこれまでの記録をふり返ってみて、何か物足りないのを覚えたので静かに眼を閉じてみた。すると結党以前から、あるいは途中から馳せ参じて来て党のために貢献された無数の方々の顔が次々と浮んできた。その中から名前だけでも是非書き記しておかねばならない方々を列記してみる。先ず結党当初から桑江君と一心同体となって活躍した添石良恒君。大城善英先生と肝臓相照らして斗った熱血漢で仲泊出身の松田豊太郎氏。戦後沖縄教育界の再建に先駆的役割を果し後日民主同盟の調査部長として大任を果した久米島出身の山里政勝氏、正義感と実践力に充ち満ちて私と共に東奔西走した本部出身の中村信松君、不自由な足に鞭うって南部地区の組織者として巨歩を残した知念村の仲里常利君、今帰仁支部を拠点として活躍し、後日沖縄社会党の幹部となった花城清光氏や大宜味支部長の玉城美五郎氏、そして民主同盟誕生前夜のその前夜から最後の最後まで私の後ろ側にいて黙々と尽してくれた弟山城善秀もその一人である。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火50・新報1982.05.04)


 A民主会館の店開きと知事候補<那覇に住宅移し会館に>
 旧那覇市を占拠していた米軍が、その金網を外して住民に解放したので、元那覇市民が次々と那覇に舞い戻ってきた。たちまちにして那覇市が経済、文化の中心となった。そのために自然と政治の中心も那覇市に移動した。そこで民主同盟も時勢の推移に対応して、本部事務所の移転問題を俎上にのぼらせた。昭和24年12月15日に石川市の中央ホテルで第3回中央委員会を開き@向後運動方針決定の件A第3回党大会延期の件B本部暫定事務所設置の件を協議した。暫定事務所の件は、私の提案で、新築したばかりの喜如嘉の私の住宅を那覇に移築して間に合わせることにした。それは当時の世情と党の財政状態では到底新築不可能だとみてとったので、やむにやまれず自分の住み家を那覇に移し、自分もそれを拠点として党活動に専念する決意をしたからであった。本記録冒頭に記してあるあの部落民達の血涙の結晶である愛の巣を壊して、郷里から移動させるということは誠に忍びないことではあったが、私は妻を説得して、沖縄の明日のために提供することにした。余計なことのようだが、当時の世相を知り本稿を理解させる一助になると思うので、建設祝賀会の案内状を掲載してみる。

 拝啓、沖縄最近の復興振りは各面に亘って目覚ましいものがあり、誠に御同慶に堪えません。然るに依然として政治の貧困さはおほひ難く人民の不平不満は増大して参りました。その不平不満と平行して逆に政党に対する人民の信頼と期待とは愈々増大しつつあります。我が民主同盟では昨年末既に別記の場所に「民主会館」を建設し、党活動の本據を完成していたので御座いますが諸種の事情により事務所開設の運びに到らず今日まで遷延して居ります。来るべき重大時局を控え事務局の諸準備も整ひましたので左記の通り事務所開設祝賀懇談会を開催したいと思って居ります。何卒御期待の上御出席願います。 
 敬具
   記
 一、日時 1950年5月10日午後2時
 一、場所 那覇市安里(料亭左馬向隣)沖縄民主同盟事務所(民主会館)
 註、会費60円当日持参下さい。宿泊は当事務所で出来ます。
 1950年4月28日  沖縄民主同盟事務局
      殿


 さていよいよ祝賀会の5月10日を迎えた事務局員は午前10時に集まって諸準備を進め、一般は午後3時から来場して貰って祝賀懇談会を始めたが、紹介した幹部約80人中の50人程が全島から馳せ参じてきて、会場に収容できず、場外に溢れていた情景が未だに記憶に残っている。場外に溢れるのは当り前の話で、「民主会館」とは看板だけで、思い出しても苦笑が蘇る2間半に3間、すなわち7坪半の小屋の中の6畳と3畳がその会場だったからである。でもテント小屋か茅葺き屋根しか見られなかった当時の姫百合橋の一角に約100坪の土地をためて、山原竹でアンヌミ囲いをした瓦葺きの聳え立つ(?)偉観は誠に会館の呼び方に相応しかったのかも知れない。記録によると60円の会費で山羊汁1500円、いなり寿司500円、酒一斗800円、雑費200円で合計3000円で当時としては豪華パーティーとなっている。50人程の地方党員を招待しておきながら「宿泊は当事務所でできます」とつけ加えてあるあたりが、ユーモアたっぷりで、7坪半の大会館の果たしたその機能に今更乍ら恐れ入るばかりである。私の記憶にも記録にもないが、奇しくも落成祝賀会の5月10日は私達政党代表がハインズ副長官と会見して、初めて知事議員の公選近しとの公式発表を受けて来た日であったから、嘸かし燃え上がり熱気ほとばしる祝宴になったことと思われる。そのあたりが思い出せないのは誠に残念だが、僅かに残っている記録から判断してみるとその席上で6月15日に結党4周年記念大会の開催を決め、準備委員も詮衡したらしい。しかしその大会は諸般の事情で開催することができなかった。
 ハインズ副長官の公選間近しとの公式発表から2カ月近く経過した7月4日に、知事選挙は9月17日、議員選挙は9月24日との布告が発表されたので、沖縄政界との話題の焦点は専ら知事候補の顔触れに絞られた。するとその発表と同時に沖縄の政局は複雑径奇の様相を帯びてきた。先ず私達の民主同盟にも微妙な動きが陽動してきた。すなわち仲宗根委員長の、理解に苦しめられた松岡政保先生推挙の動きであった。そして私を先頭にする仲宗根委員長擁立集団との対立となった。幾度か論議を重ねたが、平行線のまま幾日かが経過して遂に7月20日ごろに開催された中央委員会で結着をつけることになった。そしていよいよその日となったが、当日の出席委員は29名で、物凄い激論となり、沈痛の面持ちで延々9時間に及んだ。沖縄の第一党として当然党首の仲宗根先生が立つべきだと迫る私達に対し、強硬に之を拒否し、多数意見だとして党外の松岡政保先生を推してきた。全く窮地に陥った私達は代案として党籍のある平良辰雄先生を推挙した。しかし果たして平良先生が応諾されるかどうかは全く不明であったので、休憩を要求して、私が代表して打診に行くことになった。平良先生本人の意志いかんにかかわらず、私は平良先生は依然として民主同盟員であることを主張し、委員長がどうしても出馬しないとあれば、政党の当然の行き方として党内から立候補者を選定すべきだと主張した。2度も休憩を求めて2度平良先生を訪れて三拝九拝したが頑として聞き入れられず、結局決戦投票となり、その結果松岡先生が25票、仲宗根先生が4票で、私達の一派は完全に敗退した。民主主義の鉄則に従って多数決で決まった以上、私達4人も潔く松岡陣営の戦列に立つ事を承認した。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火51・新報1982.05.05)


 B昨日の友は今日の敵<選挙後に党を解散>
 私は1979年の6月、沖縄の郷土月刊誌「青い海」の第83号誌に「岐路に立つ沖縄」との標題で沖縄社会大衆党論の拙文を発表したが、その中で相当詳しく知事公選前後の沖縄の政治情勢を私なりに解説してある。あらためて読みかえしてみたが、何等補足することなく、そのまま引用できるので、その一部分を転載させていただくことにする。

 「最近物故された民主同盟の仲宗根源和氏と人民党の瀬長亀次郎氏は後日、犬猿もただならぬ仲となってしまった。それはいつ頃からで、如何なる理由によるか、その理由の根の深さについてはよく知らないが、その時期は正にシーツ長官が知事と議員の選挙を近く實施すると発表し、知事選挙に突入したその直接からであった。共闘で見事に勝ちとった民族待望の知事と議員の公選ではあったが、一転して同じ民族同志が罵倒し合い、悪態を白日の下に曝け出すようになる起点となったのである。仲宗根氏が、人民党は共産党なりと攻撃すれば、瀬長氏は、人民の裏切者、アメリカの走狗とやりかえす、このような姿に堪え切れなくなった民主同盟の尖鋭分子と見られていた照屋規太郎、大城真一、喜納政業、上原信雄、山城善光が議員選挙の際中に名護に集って、党の解体を申し合せて、選挙後間もなく私が代表して解散を宣言した。選挙というものは民主々義の道標ではあるが、必ずしも沖縄民族の平和と幸福を約束するものではないと悟った。というのは昨年まで共に腕を組み合って共闘してきた人々が、選挙という時点を境にして、骨肉相食む姿と化したという事実を指摘せざるを得ないからである。その遠因は価値観、世界観の相違にあると思われるが、むしろ党利党略の感情が先行して、沖縄のおかれた立場への認識不足によるものが大きかった。歴史は繰りかえすとの言葉の通り、右と同じようなことが、日本復帰を勝ち取った途端に展開される。人民党、沖縄社会党、公明党は夫々本土の政党と系列化し、選挙と同時に、昨日の敵は今日の友ではなく、昨日の友は今日の敵と転化した」。

 私はこのように解説しているが、それを裏づける事実を例示する必要もない程に両党の応酬は日常茶飯事化していて選挙演舌壇上で醜い悲喜劇を展開させていた。当時のうるま新報、沖縄タイムス紙上にその痕跡を無数に残している。
 知事に立候補するなどとは、毛頭考えて居られなかった平良辰雄先生は、いわゆる5人組を先頭にした新進気鋭の憂国青年達の決起に抗し切れなくなり、松岡候補の対抗駒として、出馬決意を余儀なくされた。それはこれまで民主同盟が、軍の悪政に盲従している民政府を徹底的に批判し攻撃してきていながら、いざ選挙となったら、その民政府首脳の1人である松岡先生を、しかもアメリカ帰りなるが故に英語が堪能なるが故に、尚且つ工務部長という最重要ポストに在って天妃民政府の別名で呼ばれる程の存在であったが故に、民主同盟の松岡支持は、一転して民族の裏切者という印象を与えてしまった。特に自主性の確立ないしは独立論まで展開して軍の沖縄施政を徹底的に批判してきた民主同盟であったからだ。例えば仲宗根先生は、金網で張りめぐらしている基地の人口に決まって張り出されていた張札「沖縄人入るべからず」を指して、「アメリカ人出るべからず」と張り替えようではないかと演壇から訴えて大衆を唸らせ、現に張り替えられたこともあったと云われていた程であった。つまり大衆は、今まで民政府首脳の総退陣を主張してきていながら、何故その首脳の一人である松岡候補を支持するのかとの理路整然たる反撥であった。松岡候補が果たして当時対抗陣営から指摘されたような人物であったか否かは当時から私の関心外であった。その理由は選挙戦なるが故の一時的な論戦とみていたからである。然し私は沖縄の日本復帰に繋がる長い軍政との斗いの中において、松岡先生が後日任命主席になられた時に「任命主席は私を以て終りとさせる」との決意を表明され、その実現に向って、現地軍当局の制止を聞き入れずに敢然と米本国に乗り込み、時の大統領に体当たりして4群島の知事選実現への突破口を作られたという事実は、特筆大書すべき沖縄民主化史上の一秘史だとみている。任命主席制をやめさせて4群島知事の公選に踏み切らせたことは、たとえ、再び任命主席制に逆戻りさせられたとしてもその意義は深重だとみているので、日本復帰に繋がる斗いの一つとして併記さるべきだと思っている。
 ちょっと話が横道にそれたが、結局知事選挙は、平良辰雄候補が大差を以って瀬長亀次郎候補は勿論、松岡政保候補も蹴けばして栄冠を勝ちとった。
 知事選挙に続いて、1週間後の9月24日に沖縄群島議会議員選挙の投票が行われた。全島を10区に分けた中選挙区制であった。立候補者数は定員20人に対して43人であった。開票の結果は平良辰雄系が15人、松岡政保系が3人、人民党が1人、無所属が1人で、民主同盟5人は全滅となった。民主同盟全敗という冷厳なる大衆の審判は党に深刻な衝激を與えた。その全敗した選挙区と候補者は次の通りであった。

 第1区(国頭、大宜味、東、羽地、屋我地、久志、伊平屋)山城善光[○知花高直9,945○新城徳助8,363×山城善光3,467]
 第3区(名護、屋部、宜野座、金武、恩納、石川)中山一、照屋規太郎[○新里銀三7,081⇒共和党・幹事長○崎山起松7,020×照屋規太郎6,490]
 第4区(読谷、喜手納、北谷、美里、越来)桑江朝幸[○稲嶺盛昌6,618○石原昌淳6,618×大山朝常5,752×松田平昌5,104×桑江朝幸2,703]
 第10区(与那原、大里、南風原、真和志、首里)仲宗根源和[○普天間俊夫7,531○与儀清秀7,266×金城和信5,618×仲宗根源和3,486×嘉数昇2,758×玉城健490(人民党)]

 見事に負けた私ではあるが、何一つ後悔することもなかった。30有余年経過した今日でも、愉快で愉快で堪らない思い出ばかりである。次回はその思い出の幾つか記して当時の世情を覗いてみることにする。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火52・新報1982.05.07)


 C挙村一致の平良陣営に対抗<孤立無援の選挙戦>
 民主同盟の松岡支持政見発表演舌会が、那覇劇場を皮切りに展開された。郷里の大先輩の平良辰雄先生に反旗を飜えした形になった私に対し、激昂している郷党が多勢乗りこんできた。しかし私は知事選挙を沖縄の民主化への一里塚として捉え、啓蒙運動の一環だと規定していたので、松岡候補の推挙には全然ふれず、専ら知事公選の持つ意義のみを強調した。すると閉会後、私を捉えた郷友達や同盟員達からも異口同音で「一体君は誰を支持しているのだ?」となじられたり、ひやかされたりされた。知事選挙も大事だが、自分自身の群島議員選挙も軽視できないので、その直後だったと思うが、郷里大宜味に飛んで行ってみた。すると「平良辰雄後援会結成」のポスターが張り出されていたので、その会則案を手に入れて一読した私は、続々と会場の大宜味校に向う喜如嘉の人々に交って乗りこんだ。「君は顔を出さない方がよいぞ」と友人の忠告を聞かずに乗りこんで、会場の最前列に座を占めて開会を待っていたら、世話人達が私の所に来て、「ここは平良辰雄先生の後援会結成会場だから帰って下さい」と来た。「なぜだ?」と問い返したら、「あなたは松岡派だから……」と答えたので、私はすかさず後援会規則案を指し、「その会則案には平良辰雄先生の知事当選を期すとは書いてなくて、大成を期すとしか書いてないんじゃないか。自分も平良先生の大成を心から希っている一人だ」とやりかえして、そのまま居座った。その時の会場での平良先生の顔は思い出せないが、一応後援会が成立したので、引きつづき、平良陣営から議員に立候補として居られた宮城正行先生の挨拶に移った。先生の挨拶が済むと同時に、私が立ち上がって司会者に迫った。「民主々義においては機会均等でなければならぬ。私も平良先生の後援会々員であり、宮城先生と同様にこの大宜味村から群島議員に立候補している。従って彼に発言を許したからには、私にも発言させるべきである」と吐き捨てて登壇したが、拍手一つもはねかえってこなかったのが忘れられない。閉会後帰途の板敷道で、自転車で私に追いついて来た田嘉里部落の先輩の大嶺福一さんが自転車から降りて「君がいうのが本当だがな…」と後の言葉は続けずに通りすぎて行かれたのも忘れられない。
 当時、私は喜如嘉入口の一角に塀もないテント張りの芝居小屋を経営していたが、そこに選挙事務所をおいて、看板を掲げたが、「平良先生の敵陣営から立候補するなんてけしからん、立候補をやめろ」と村会議員をしていた叔父をはじめ、部落有志が挙げて私を攻めたててきた。さすがは血を分けた兄弟で、弟善秀1人が看板を見守っているだけであった。金もなければ、もちろん車もないから、私は1人で、それこそ全く一人で文字通り歩いて国頭村、東村、久志村、羽地村、屋我地村、伊平屋村をかけ廻った。大宜味では身動き一つできないので、知事選挙が終るまでは他村をかけ廻ることにした。雨が降ろうが風が吹こうが、真夜中でも山原の山道を一人で、自分で書いたポスターを張り乍ら駆け廻った。山原の猪はもちろん、ブナガヤも幽霊も怖くなかったが、ハブだけは怖かったので、ある日天妃校跡に陣取って居られた民政府の大宜見朝計公衆衛生部長を訪ね、事情を話しハブ血精液を分けてくれと頼みこんだら、「差し上げたいのは山々だけども、個人に渡すことはできない。他に方法がないから、僕が窓口に出しておいたら、それを勝手に持って行きなさい」と例の冗談口を利かれたので、私は、泥棒になれ、と云われるのかと反発し、微笑を浮べながら立ち去った。すると数日後、郷里喜如嘉の診療所からハブ血精と注射器が届けられた。そのハブ血精と注射器を肌身離さずに駆けずり廻ったお蔭で、ハブも恐れを為したのか、一度も遭遇することなく山原路を踏破することができた。立候補者の居ない久志村と屋我地村、伊平屋村、東村は私にとっては魅力ある票田で格好な戦場となった。幸い久志村には中学時代の同級生島袋武徳君が村会議員をして幅を利かしていたので、村の収入役をして居られた島袋仁栄氏を紹介して貰い、同氏の尽力で久志村で圧倒的な支持者を獲得することができた。
 伊平屋村でも同じく収入役をして居られた池田松永さんが全くの初対面にもかかわらず、私と意気投合して家族ぐるみの運動を展開してくれたお蔭で各部落で懇談会が持てた。
 知事選挙が済んだので予定の作戦通り郷里大宜味に乗りこんでみたら、母村は平良先生の知事当選で、上へ下への大騒ぎとなり、群島議員選挙なんかどこ吹く風かと全く関心がない。9月18日の月曜日の開票日から、火、水の3日間は全村が祝勝の酒に酔いつぶれている状態で手のつけようがなかった。それでも弟と2人でポスターを張ったりしていたら、見るに見かねた叔父金城貞一が、秘かに作戦を練っていたらしく、木曜日に私の父の生家である屋号幸地小の本家に親戚を集めた。「こいつは幾ら言ってもやめない。もうこうなったら仕方がない。せめて私達親戚だけでも善光に入れなければならないのではないか」と諮ったら、みんな一様に心の中で泣き濡れていたらしく、恰も蓋を吹き飛ばす薬鑵の中の熱湯のように一気にみんなの感情がふき出してしまった。たちまちにして選対本部に急変し、叔父が采配をふるった。中南部の工作隊員への協力要請電報は打たれるし、部落内の有力者への非常招集の飛脚は飛ばされた。まるで津波のように老若男女が押し寄せてきて、「まだまだ大丈夫だ」と残る2日間の闘いに起ち上った。その結果喜如嘉部落は100パーセント結集できたが、いかんせん時日がなく居村の挽回ができず敗退した。馳せ参じた工作隊員数台のトラックに便乗して久志や屋我地を駆け廻った2日間が忘れられない。愛楽園の8割、久志村の5割、伊平屋村で第2位の2割2分強を獲得できたが、母村で2割2分弱という票数で惨敗した。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火53・1982.05.08)


 Dむすびの言葉<復帰式典で非核宣言を>
 来る15日は復帰十周年記念の式典が催されることになり、沖縄は今複雑な表情をしている。この時に当たって思い出すのは、昭和32年2月23日に日比谷公園野外音楽堂で行われた第1回沖縄返還要求国民大会と、大阪中之島公会堂での大阪大会である。日本の自民党、社会党、共産党が仲良く手を握り、沖縄県人会をはじめとする約30の有力民間団体との共催で、両会場共超満員の熱気溢れる盛況ぶりであった。私は沖縄代表の形で土地問題を主とした現地報告をなし、日本復帰を訴えたので、本稿と関連することどもを思い出の中から取り出してむすびの言葉とする。
 日本復帰運動の根は民主同盟と人民党、特に人民党の啓蒙運動にあると私は見ているが、その陽動は民主同盟の解散直後だったと記憶している。そのころ、私は自己反省をするために一切の組織活動から離れていた。展開して行く沖縄の動きを新聞紙上で捉えているだけであった。既述の通り私は最終的には日本復帰だと規定していながらもその署名者に加わらなかった。多分兼次佐一先生ではなかったかと思うが、「子供が親を慕い、親の懐に帰りたいと願うのは人間の自然の姿である。それと同じで沖縄が祖国へ帰りたいと思うのは理屈や理論ではなく、極めて自然な姿である」と訴えておられたのが、私の心にこびりついた。その論理の意図するところを憶測して私は一人でほほ笑み、実に巧妙な戦術だと感心したのを覚えている。左寄りの反米思想をちらつかせながらも「人民党は人民党で共産党ではない」と攻撃を外らしていた人民党とは一体どこが違うか、と私は静かに見守っていた。やがて私は後述するように理解し、感服するようになるが、なぜ反米運動だと規定したかといえば、それは次に記す当時の米軍施政のあり方をふり返って見れば分かる。
 米国は当時、口を開けば「沖縄を民主々義のショーウインドーにする」とうそぶきながらも現実に実施したのは弾圧を後ろ盾にした沖縄の奴隷化政策ばかりだと思われたからである。ところが、戦争終結時の米軍はこのような態度とは正反対で、人道的な態度で接していたとのことだ。捕虜になったら男は殺され、女は強姦されるぞと日本に教えこまれていた沖縄現地の生存者達は、食糧を与え、衣料を供給し、温かく手をさしのべて来る米軍の意外なる救援に感泣したとのことだ。自分達の眼前で露呈させた日本兵達の残虐非道の仕打ちと余りにも対照的な米軍の温情に地にひれ伏したとのことである。従って、その時点では沖縄人は日本復帰なんて毛頭考えてなかったはずだ。むしろ米軍に占領されてよかったと思っていたのではなかろうか。ところが、米兵達は折角温かい手をさしのべ、沖縄人から感謝されながらも大きな誤謬をおかしてしまった。それは自分達で沖縄の文化財も山野も焼き払っておきながら、ぼろをまとい裸足でひげぼうぼうの姿で防空壕からはい出てきた沖縄人を見て、これは南洋の土人以下だと勘違いをしたらしい。その誤算の物差しで沖縄統治に乗り出してきた。私はそこが米国の沖縄施政失敗のそもそもの始めだとみている。
 当時米国は未だ150年位の歴史しか刻んでないのに対し、沖縄は1000年の独自の文化を形成し確立した歴史を持っていた。時がたつにつれて、いうこととやることが矛盾だらけになってきたので、素朴で正直な住民達は、頭をかしげ、米軍の占領政策に対して疑問を抱くようになったのである。そしてだんだんと米国の野望が露骨化し、沖縄否定の意志が明確化してきたので、我慢できなくなり、ついに立ち上がったのが民主同盟と人民党であった。両党共、その実質は沖縄の植民地化阻止をねらった反米運動を要領よく展開させたまでのことであった。この両党の実践を教訓として踏まえ、最も賢明に要領よく反米運動を展開させてきたのが、社大党を中心とした日本復帰期成会の復帰運動だったと私はみている。
 ところが知事議員の公選実施を許し、住民から拍手を受けた軍政府ではあったが、意外なる平良知事の出現と日本復帰運動の組織的な展開に狼狽した軍は、憶面もなく知事公選制度を取り消し、再び任命制度に逆戻りさせてしまった。このような軍の強硬態度が社大党の分裂、共和党と民政クラブの合体、そして民主党への発展という経過を辿る裏側で、復帰運動も苦闘を続けるが、ついにそのバトンを受けついだ屋良朝苗先生に象徴される沖縄の不屈の決意によってその実現をみた。
 しからば、沖縄のその不屈の決意はどのように発展して米国を屈服せしめたか。それは先ず天願事件と呼ばれた沖縄の植民地化反対闘争であり、四原則貫徹の闘いや、コザ騒動であった。なかんずく、突発したコザの反米騒動は米国の決定的な反省要素となった。深刻な反省はしたが米国の沖縄領有化は歴史的な野望であり、世界制覇戦略上からも重要なポイントであるので、そう簡単に放棄できる地域ではない。そこで考えたのが、米軍の世界制覇政策にプラスにこそなれ、マイナスにはならない形での沖縄返還という野合となった。米国に死命を制されている日本側にしてみれば、見事に米国の歓心も買えたし、同時に基地の53%も沖縄にしわ寄せさせることができて本土国民を安どさせることもできたのだ。即ち露骨に表現してみると、いざ戦争になったら真っ先に沖縄は全滅するが、本土はまずまず大丈夫だということだ。一体全体沖縄はそれでよいのか。しかし、もう今となっては遅い。今更日本復帰論でもあるまい。こうなった以上はどうして生き残る道を探し出すかということだけが沖縄の今日の命題だ。その命題は全沖縄民族が結集して非核宣言をなし、保革を問わず世界の平和勢力の陣営に加わり、米ソ両陣営の好戦屋共を追いつめることだ。15日の復帰祝典で非核宣言をしてもらいたい      <完>
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火54・新報1982.05.09)


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