Toppage | Critic | 図書室 | リンク | Emigrant |
沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火(連載:琉球新報1982.03.15〜1982.05.09)
◆ 目 次 ◆ 序 章 灰じんの沖縄に帰る 第一章 言論の自由への闘い 第二章 結社の自由への闘い 第三章 出版の自由への闘い 第四章 知事、議員公選への闘い 第五章 知事、議員公選への闘い[続き] 第一章 言論の自由への闘い 1、普天間A・J工作隊の結成<隠忍自重の日々> 1月の初め頃だったと思うが、大山一雄君と前田勇君が、中部から帰ってきて、大城行三君宅に20人程の喜如嘉大工と、有志を集めた。私も呼ばれて行ってみたら、中南部の復興状況の報告があり、この際喜如嘉大工の本領を発揮して、新沖縄建設に貢献しようではないか、と呼びかけられた。このような経過を経て1月の26日に普天間キャンプA・J工作隊が結成された。 A・Jは米国の土建会社でその支配人は、デッキ・ゼニアと呼ばれる日系二世であった。沖縄側の総大将は大宜味村饒波村の金城田助氏で、その下に沖縄側支配人として新城信一君が控えていた。同工作隊にはおよそ2千数百人の沖縄人が各地から集まっていたが、その中核を形成してきたのは、喜如嘉出身者であった。 即ち工作隊長大城行三、副隊長山城善正、外勤募集部長大山一雄、用度部長山城秀一、工事本部付監督平良善昌、警備隊長平良光仁、医師金城貞光の諸君を先頭にして、金城景太郎、前田勇、金城信彦、山城兼三郎、山城米夫、山城嘉助、前田貞四郎、山城貞雄、平良兼正、前田勝男、山川岩三、金城重宣の諸君がその中核となって続き、さらに数多くの喜如嘉出身男女が参加していた。 他市町村出身者の幹部としては、管理部長下門哲、労務部長山城静宝、漁撈部長玉城克也、農耕部長稲福清彦、診療所長仲間武豊、文化部図書館長に具志堅興雄(現真喜志)山田盛良(座喜味)中山良彦、桃原進の諸君がいた。さらに岸本利実、神谷米信、新里文徳、金城清輝、浜元栄吉、喜納喜政、稲嶺盛国、比嘉吉雄、屋部保、伊波尚君らも活躍していた。 足を奪われたあの時代に、隊長や幹部達はジープやトラックをあてがわれて、自由に中南部をかけ回っていた。土曜になると隊員を乗せて必ず帰郷し、日曜の夕方に帰隊する慣わしになっていたので、私もよく便乗させてもらった。お陰で在京時代の同志桑江朝幸、当山ェ光(現遠山謙)牧野博嗣、比嘉信光その他の知友とも連絡がとれた。 さらに熊本県で九州在住疎開民や戦地引揚民のために奮闘しておられた宮里栄輝先生、国吉真哲先生らその他多数の方々をお訪ねして回った。その都度、私は沖縄の政治の在り方や、社会風潮などについて意見をたたいてみたが、一人残らず沖縄の荒れ果てた姿に、深刻な悩みを持ち、憂慮しているとの言葉を漏らされた。自分自身で中南部を回り、この目で住民生活の実体を見極め、さらに多くの人々に会って知りあえたことは、もう座視するに忍びない深淵に落ちこんでいる沖縄の姿であった。 あちらこちらを歩き回っている内に、仲宗根源和先生や、新垣金造先生らが立ち上がって、民政府批判をしたが、さすがの御両人の闘魂でもどうにもならなかったのみか、かえっておふたりは反逆者の行く末の手本を示した形となり、血の気の多い若者たちを縮みあがらせる結果になっていることも知らされた。 民主主義の指導者である米軍の直轄下において、このような非民主的な政治が許されるものではないと、また沖縄人がこのような現状に泣き寝入りするような骨なしの民族でもないから、必ずや誰かが立ち上がって烽火をあげるだろうと、私は心ひそかに期待して黙っていたのである。 終戦直後、私は東京で沖縄協会、沖縄人連盟創立世話人の一員として、その組織強化の面を担当していた。45万沖縄県民が玉砕し全滅したと発表され、在日同胞が悲嘆にくれていた終戦直後のある日、小禄村出身のタマキという二世が、丸ビルの沖縄協会事務所を訪ねてきて、沖縄からの第一報をもたらした。 全滅したとばかり信じこんでいた私達の耳に飛びこんできたのは、意外にも沖縄の同胞はほとんど皆生き残っているという朗報であった。ところが昭和21年の夏の頃だったと思うが、沖縄から引揚げてこられた仲吉良光先生が、沖縄の実情報告会を開催されたので、私も満場の在京県人と共にその報告を聞いた。 仲吉先生の報告はタマキ二世の報告とは全くあべこべで、沖縄には言論の自由はおろか、生きる自由さえもない。もし民政府の政策を批判でもしようものなら、直ちに捕えられて投獄されるという暗黒の沖縄だ、とのことであった。会場の中央に座して一部始終を聞いていた私は、講演が終わるや否や立ち上がって、「しからばなぜあなたはこのような沖縄を後にして日本へ逃げて来られたか?」と詰め寄った。 その直後に私達はマッカーサー司令部に沖縄担当官を訪ね「沖縄もマッカーサー司令部の管轄だのに、なぜ沖縄には言論や結社の自由を与えないのか」と突っこんだら、「そんなことはない、沖縄も完全に言論結社の自由が与えられ、むしろ沖縄の方がより民主的であるはずだ」との返事をくれたので、一応矛を収めて引きあげた。 仲吉先生は沖縄を見捨てて、逃げて来た自分の弱味をおおいかくすための放言だ、と判断していたのであるが、自分が現実の沖縄の姿を目のあたりに見るに及んで、私は今さらながら、仲吉先生の報告を思い出し、人知れず赤面してしまった。「今さら何の顔(かんばせ)あって郷党にまみえんや、苦労をかけた母にただひたすらに孝養を尽くすのみ」との堅い決意が、ぐらついてくるのをどうすることもできなくなってきた。 沖縄決戦末期に、45万非戦闘員同胞の玉砕を黙視し得ず、特高と憲兵につけられている身の上でありながら、決然として立ち上がり、その救援運動に没頭したために、人知れぬ苦労をかけてきた妻初枝にまたしても苦難の行路に引きずりこまねばならぬかと、自問自答する幾日かが続いた。 沖縄に引揚げてから約2ヶ月間、私は隠忍自重してその進展を見守っていた。しかし誰も立ち上がって狼煙をあげる者がいない。そのままでは沖縄は完全に奴隷民族になる。このように思いつめた私は、とうとう3月の末頃に立ち上がる決意をした。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火5・新報1982.03.19) | |
2、蘇った残り火<在野の名士結集へ> 昭和6年に勃発した大宜味村政革新運動、並びに消費組合運動は、当初から共産主義にいろどられて展開した農民運動ではなかった。素朴な農民の至情が、長い闘争の過程に於いて、言語に絶する弾圧の結果必然的に共産主義に結びついたのであった。その必然的結果の火は時の軍閥の軍靴と、特高の魔手によってあとかたもなく消されてしまった。 それが「山原の火」であった。しかし郷土と同胞を愛するというその火の心は、私の胸の中に生きつづけていた。戦時中に吹き荒れた弾圧の嵐は、私のその残り火をも吹き飛ばし、抹殺しかねない場面も幾度も展開した。すなわち私は死の門をくぐって生きのびてきたのである。指導者上里春生は、サイパンで病死し、A級の同志金松も忠一も戦死してしまって、A級では私一人が生き恥をさらしている形となった。 16年前喜如嘉校々庭で腕を組合って闘った場面、名護署の檻房で共に死を待った情景、などが、私の脳裡で明滅して熱い血潮が四体に波打ってくるのであった。「山原の火」は蘇ったのである。 さて、立ち上がる決意をした私は、まずその大義名分をどのように組み立てるか。どのような人々に呼びかけるかについて考え続けた。その結果、大体次のような基本項目と態度を素案とすることにし、まず第1に、日本本土で沖縄人の救援運動にたずさわった同志に呼びかけること。第2には、在野の巨頭達の奮起と結集を図ることにした。基本項目は 1、民政府を批判する者は軍政府を批判する者であるということは、全くでたらめで迷信である。この迷信を打ちたてて、住民にそのような概念を徹底的に注入したのは軍政府ではなく、民政府である。これが沖縄の道義の頽廃、生活不安等一切の暗黒面の根元をなしている。従ってこの迷信の打破、すなわち言論の自由獲得が先決問題である。 2、灰じんに帰した郷土の復興は、ひとり民政府のみには任せられない。官も民もない、民族が打って一丸となった体制を作りあげ、官民相呼応して総立ち上りを図らねばならない。そしてまず生活の安定を図ること。 3、道義頽廃は根本的には政治の貧困に基因するものだとはいえ、啓蒙運動で、民族的人間的良心を喚起し、その昂場が図られる。従って少しでも住みよい社会建設のために、ぜひ取り上げねばならないのが、道議昂場のための啓蒙運動の展開とする。 以上の構想がまとまったので、私は3月の25日ごろ、例の如くA・J工作隊のトラックに便乗して、普天間に行き、A・J工作隊キャンプを根城にして、事前工作に取りかかった。 私が収録している「沖縄民主同盟史」の中の「戦後の沖縄の言論の自由は如何にして闘い取られたか」という1章の冒頭の部分を、次に参考までに引用してみる。 〈参考資料メモ〉 昭和22年3月25日ごろ、軍政府にクレーグ副長官を訪問、不在。仕方なく宮城友信氏を訪ねる。時局問題、並びに沖縄の現状に付き、意見の交換をなしたるところ、その一致を見、局面打開のために互いに奮起することを約す。軍政府との連絡、特に諒解を得る必要ある事項等については、宮城氏の担当とし、全県の組織化については小生がこれを受け持ち、4月の初旬より活動開始をなすことを約して別れる。 【註】宮城友信先生は、私と同郷の大宜味村字塩屋出身。昭和の初期に米国より帰国した際、沖縄のパイロット第1号として当時の沖縄の新聞紙上を賑わした。時の民政府工務部長松岡政保先生と共に、アメリカ通で、軍関係の要職を占めて、終戦直後の沖縄建設に尽した功績は大きい。 この日記の文面の裏側には、私の次のような遠謀術策があった。すなわち、この運動が具体化し表面化したならば、必ず軍を傘にしている民政府の弾圧がくる。その時には既に軍政府の諒解も得ていて、何も怪しむべき運動ではない。むしろ官もない民もない官民一体の総立ち上がり運動であって、民政府にとっても喜ぶべき運動であると説明し、必ず来るであろうところの弾圧をふり払うためのクレーグ副長官訪問であり、宮城氏との提携であった。 この機会に私は、桑江朝幸君や遠山謙君その他の人々にも会って根廻しをしたように思うが、残念ながらその部分の記録が脱落している上に、記憶も薄らいでいる。何日間かA・Jキャンプを拠点としてかけ廻った上で一旦帰郷し、手がけた田植えを急いだ。日記帳は約20日間の空白をおいて、「4月13日(日)、予想以上に田植えに手間取り、漸く本日本格的活動開始の為中央へ進出。先ず当面の足溜りとして普天間に居を拝借」となっている。そして翌14日から始動していて、日記は次のようになっている。 4月14日(月)、平良助次郎君を伴い、野嵩に桃原茂太氏を訪問、不在。明日さらに訪問する旨を告げて帰宿。午後2時半金城田助氏の好意にてジープで軍政府に赴く。宮城友信氏と再打ち合わせを為す。軍部との折衝、諒解獲得は同氏の責任とする点を再確認し、小生が全県組織化への遅延を詫びる。 私は拙者「火の葬送曲」で詳しく書いてある通り、戦時中「報国沖縄協会」を組織した体験を思い出し、成功したその手法を再現して、在野の知名士の結集を図ることにした。それは具体的な協議案件を提示して賛同を求める方法であった。すなわち私の時局観を説明した上で、来る21日に普天間で「新沖縄建設大懇談会」を開催するから、と事前に決めておいた形で説得していく方法であった。 このような具体案も前記の基本態度も事前に桑江朝幸君と平良助次郎君には提示し、両君の意見も取り入れ、さらに宮里栄輝先生の賛同を得て推進した、という点を附言しておく。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火6・新報1982.03.20) | |
3 [小見出し欠落]<巨頭連の結集にまい進> 民政府を批判する者は軍政府を批判する者であり、その軍政府は猫で住民は鼠だという。現に軍政府ならぬ民政府ににらまれて、身動きができなくなった生証人のいる沖縄である。このような沖縄でどのようにして言論の自由を確立するかが苦心の焦点であった。 狭い沖縄である。まかり間違えば消されるのである。それは雷光石化的に決定的な力を確立する以外に道はなかった。宮城友信氏の態度を見究め、氏の責任を再確認した私は、翌日の15日から本格的な活動に入った。旧式の硬い日記文で読みずらいけれども、真実を記載するために、原文のまま引用する。 4月15日(火)午前6時、石川市の仲宗根源和氏を訪ねるべく、石川行のトラックに便乗。6時半同市着。同氏転居にて不在。午前10時桃原茂太氏を訪問。小生の理論を展開した處、同氏も同感と肯き、小生の提唱に賛同する。次に氏が沖縄帰還後、民政府に建言されたという独立論に言及さる。更に仲宗根源和氏との会見談とその顛末も拝聴。午前11時半、那覇市外與義に宮里栄輝氏を訪問、民政府行にて不在。寸時を惜しみ首里に仲宗根源和氏を訪ねる。同氏も不在。令夫人に再訪問を約して辞去。首里裁判所に新崎書記を訪問し、事情を話した處同氏も協力を約す。同氏を伴い午後5時半頃、再び仲宗根氏を訪問。帰宅されたばかりの同氏を捉えて例の如く直ちに小生の見解を述べて協力を求める。同氏も全幅的に賛同さる。 特筆すべきことは、同氏のこれまでの闘争談と現在の立場を詳しく拝聴できたことである。平良辰雄氏とも連絡をとるようにとの申し入れあり。暮色迫る頃裁判所のジープにて宮里氏宅へ。未だ帰宅されず。伊仲世根子嬢と近くの郷土舞踊の稽古場に行き、青年男女の稽古振りを覗く。9時頃宮里氏帰宅。小生の来訪を喜ばれること限りなし。 心尽くしの酒肴を味わいつつ時局談を交わして深更に及ぶ。又吉副知事と半日懇談したる由。その大要を拝聴し興癒々募る。相共に起き上がるべく酒魂士魂を発揚す。 宮里先生が又吉副知事と半日も懇談された内容を聞いて、興癒々募るとあるが、その内容は今では忘れて思い出せない。その時民政府の黒幕は誰だとの裏付を得たので、早急にお会いして直接御高見を聞かねばならぬと決意し、その時機を待つことにした。宮里先生宅に泊めていただいた私は、明けて16日の水曜日は前晩に打合わせてあったので、次の日記の通り行動した。 4月16日(水)、午前9時前、農連に平良辰雄氏を訪問した處、引越日に当り不在。午後には引っ越して来られる由なるも、恰度伊波の同氏宅行トラックが発車せんとするのを捉えて便乗したが、行き違いで不在。折角石川市進出故に、ウルマ新報社に歩を運び、池宮城秀意編集長に会う。 浦崎康華氏も来訪あり。小生より両氏に対して今次計画に付説明し協力方求めたる處、新聞社側も社長か誰かを出席させると約束さる。さらに有力なる人々をも推薦さる。 東恩納に台湾帰還者の與儀喜宣氏が居住して居られる由を聞き、同氏の賛同奮起を求めるべく、足を引き摺りながら、浦崎氏も加え、宮里氏も3人で同氏宅に赴く。 然るに同氏は既に首里市平良町へ転居済にて失望落騰したが、博物館の大嶺薫氏より與儀氏の人となりを聞き、愈々勇気百倍し、期待は大となる。浦崎氏と別れて宮里氏と2人は那覇行のトラックを捉えて普天間まで便乗す。宮里氏も普天間に一泊。 4月17日(木)平安座行のトラックあり、直ちに便乗す。宮里氏外泊にて同道出来ず、1人で具志川村南風原に疎開中の元那覇市長富山徳潤氏を訪ねる。先ず前原高校に世嘉良栄君を訪う。同君の歓待を受く。昔の夢何處の勝連城跡に佇み、ありし日の阿麻和利を偲ぶ。 午後10時半頃南風原着、新垣澄子嬢を訪問。心から歓待を受く。手打ちそばの味は一種格別。同嬢の芸術への情熱愈々熱烈なるものあり。近くに富山氏病臥中の由。直ちに訪問す。見舞旁々、所用の件に觸れ、例の如く熱弁を揮う。富山氏は無條件降服の形で一切を小生に任さる。当日は無理をしてでも出席する旨を約さる。 帰宿の車なく徒歩で野道を急ぐ。幸運にも10数分にしてアメリカさんのジープが小生の前に来て停車す。エンジン故障の為なり。神ありとすればこの事かとばかりに直ちに便乗。与那原方面行に付予定を変更して知念の軍、民両政府行きに決す。然るに西原の手前にて終点。 小生大いに面喰ろう。またてくてくと歩く。歩くこと数分にしてまたしても神ならぬ普天間行のトラック来たる。?い上げられて一路帰宿。A・Jキャンプにて宮里氏と落ち合う。小禄工作隊長高良幸四郎君の厚意にて、那覇迄便乗させて貰う。 午後4時那覇着。宮里氏と2人で農連に平良辰雄氏を訪う。例の如く店を出す。同氏も一も二もなく大賛成され、是非真栄城守行氏も参加させるようにとの推薦あり。宮里氏宅に一泊す。夕食後真栄城守行氏参加の可否に付慎重に審議す。結局今大会の主旨にかんがみ、真栄城氏の参加を認めることに決す。興奮の余り終夜寝られず。 当時陸上交通機関としては、唯公営バスがあっただけで、それも発車回数も少ない上に石川を中心とした限られた幹線だけであった。従ってこのように東奔西走するには、どうしても無料で乗れるトラックやジープに頼る以外に道はなかった。 道端に立って通り過ぎる車に手を挙げれば、誰でも乗せてくれる時勢であった。私は車であれば見さかいなく手を挙げていたので、後日M・Pの車を停車させて乗り込み、いづれ後述するような笑えない災難に会った。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火7・新報1982.03.21) | |
4、警察の虚をついた普天間会談<弾圧の不安けって> 4月18日(金)午後4時頃起床。暁闇を散歩す。なかなか夜は明けず。冷水をかぶり心機の明朗を図る。5時半頃朝食をとり、技術上宮里氏は真栄城氏との面会を見合わし、小生1人で奥武山公園に同氏を訪ねる。就寝中を叩き起こして面会す。 時局観については双方一致したが、打開策については悲観的な見解を表明さる。小生の意見に同意なりや否やを再び確認したる後に、是まで折衝してきた経過報告を為したるところ同氏も、バスに乗り遅れるな、とばかりに即座に出席を快諾。6時半頃辞去。小禄工作隊長等通過中のトラックに便乗し、宮里氏と2人で当間重剛氏に会うべく糸満に向う。 午後8時糸満着。折良くも瀬長亀次郎氏も来訪し来たり、一挙に両氏を獲得す。当間氏は予定の本部村行を取止めても出席するとの意気。同氏宅を辞去し、更に南へ転進。途次姫百合の塔に無限の哀悼を捧げて、具志頭の雄伊仲浩氏を訪ねる。同氏手を合わせて拝まんばかりに大喜び。青年の奮起を要望さる。同氏も大賛成。之で一応の連絡は済む。 軍政府に宮城友信氏を訪ね、準備情況を報告し、軍部との連絡、諒解取りつけなどについては、万遺憾なきよう配慮方を重ねて懇請して辞去す。知念に居住中の南風原朝保氏と、民政府の国吉真哲、牧野博嗣の両氏との連絡に心残りを感じながら帰路に就く。又全く幸運にも途中国吉氏便乗の車を追い越し、小生の車に乗り移って貰い、南風原氏牧野氏との連絡方を依頼して、古波蔵にて別れる。宮里氏は與儀氏と連絡のため首里へ、小生は拠点のA・Jキャンプに帰る。 僅か4日間で、乗物の不便なあの時世に、宮里先生と2人は、在野の巨頭を殆んど洩れなく訪ね廻り、全員の賛同を得ることができてほっとした。然し集会が政治的性格を帯びているので時節柄その内の何人が約束通り出席してくれるかとの懸念はあった。特に交通事情が極端に悪い時世であったので。翌19日に私は郷里喜如嘉に帰り一泊して20日の午前9時に部落内の同志や友人等10余人を集めて、今次計画の経過報告をして一同の奮起を促した。そして4時半に喜如嘉を発って7時半に普天間に着き、翌21日の本番に備えた。夜が明けていよいよ本番の日となった。 ところが当日になって会場予定のA・Jキャンプでの開催が不能に陥り、平良助次郎君、真喜志興雄君の2人は慌てふためいてしまった。私も同道して宜野湾村役場や洋裁学院等に飛びこんでみたが断られ、仕方なく普天間北初等学校に乗り込み、強引に一室を借りた。 午後1時より開会となっていたので、宮里栄輝先生と2人で、開会2時間前の午前11時直前に野嵩警察署に出頭し、集会届を提出した。するとその集会届を受け取り一読した署長はたちまち顔色を変えてしまった。宮里先生が法的に開会2時間前までに届け出ればよい、という法律が依然として生きていることを前もって、調べ上げておられたので、2人は微笑を浮かべて泰然と署長に対することができた。 宮里先生の説明で署長も納得したかどうか、また警察本部に報告して指示を仰いだかどうかは知る由もなかったが、会談はなんらの干渉もなく、左記のように無事終了することができた。定刻より約1時間半も遅れて午後2時半に開会し、3時間半の長時間に亘って懇談審議し、午後6時頃に閉会した。出席者は次の通りであった。 桃原茂太 真栄城守行 平良辰雄 伊仲浩 與儀喜宣 南風原朝保 宮里栄輝 嘉数昇 平良助次郎 真喜志興雄 大城行三 山田真山 山城善光― 計17名。 私は当日の開会前にわざわざ野嵩の桃原茂太先生を訪ね、会談の持ち方などについて御高見を承りに行ったが、一切は私の責任で進行させるように、との日和見的な要望があったが、別に気に留めずに会場に伺ったら、最も熱心に積極的に参加を表明された仲宗根源和先生と、当間重剛先生が見えないので、開会を一時何時間半も遅らせたほどであった。 まず司会者に宮里栄輝先生を推し、主旨を述べて貰って、次に私が経過報告を詳しく述べ、その主旨に就いても補足説明したが、超党派とはいえ、黒白混肴、呉越同舟のためか、なかなか発言する気配がないのみか、桃原先生が責任回避と見られる消極的な質問をなされたので、私は大声叱咤して、一同の煮え切らない態度を責めたら、やっとみんなが乗り出してきたというような出足であった。 行きがかり上、私が座長に推されたので、私は若輩を顧みず、座長席に着いた。そこで座席順に真栄城守行先生、桃原茂先生と指名して時局観を述べて貰った。各人の発言を通じて感知されたことは、矢張り民政府の弾圧が来るのではないかという不安感であった。 この難局をどう打開すべきか、との具体案の討議に入ったら、たちまち意見百出し、やっと会場は熱気を帯びてきたが、結局、與儀喜宣先生の見解に基き、軍占領地行政下という特殊条件下の枠内で次のような具体案を実施することに一決し、予想以上の成果を収めて閉会となった。 会談合意事項 一、経済不安、道義頽廃の沖縄の現状に鑑み、超党派官民一体の民族的総起ち上がり運動を展開してその打開に当る。 二、そのために先ず早急に県下各市町村の代表人物を招集し、「沖縄建設懇談会」を開催し、世論の統一結集を図る。 三、その実施の具体的案件については、宮里栄輝と山城善光に一任する。 その晩、私は拠点のA・Jキャンプに帰り、早速喜如嘉出身者を主とする10数名の幹部を集めて、みんなの協力と決起を促した。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火8・新報1982.03.22) | |
5、弾圧回避のための民政府懐柔策<又吉氏の退陣決意> 4月22日(火)、起きてみたら、空は快晴であったかどうかは、今では思い出せないが、私の心は限りない快晴で胸は躍動していた。遠山謙君は私と共にA・Jキャンプに泊り、宮里栄輝、伊仲浩の両先生は真喜志興雄君宅に一泊され、午後2時頃に帰覇された。 宮里先生と私はそれまでに、一任された實施案を次のようにまとめあげ、それを携えて翌23日に民政府に行き、事前諒解を得て弾圧回避の手を打つことにした。 沖縄建設懇談会開催要項 1、日時 5月5日午前9時―午後4時 2、会場 知念高等学校 3、招請人員 一村に付3名乃至5名、那覇首里の両市は各々25名程度 4、懇談項目 イ、道義昂揚問題について ロ、民意を代表する議会設置の件について ハ、食糧其他諸物資配給の適正化について 弾圧はないとの保証はなかったので、当初は電光石火的な抜打開催とすることにし、5月1日を予定していたが、それでは期間が切迫しすぎ、準備不十分で不成功に終る怖れがあることと、もう一つの大きな理由はメーデーの日に当ることであった。というのは、A・J工作隊の中核をなしている喜如嘉出身者の大城行三隊長をはじめ、山城貞雄隊員らの幾人かが、戦前沖縄に於ける農村メーデー開催の先駆者であったので、メーデー祝典の準備をすすめていたからであった。それで5月5日に延期したのであった。 なお前日の打合せでは「賠償問題について」「民営事業と公営事業について」なども懇談項目にすることになっていたが、当日の会場の混乱を案じて削除した。さらに懇談会開催についての趣意書は、平良助次郎君と真喜志興雄君に起草方を依頼した。 4月23日(水)、私は宮里先生との約束に従って、真喜志君と2人で、金城田助氏の厚意によるジープに乗りこみ午前9時にキャンプを出て知念に向った。南風原朝保先生宅で待ち合わすことになっていたので、そこでしびれを切らせていたら、正午頃になってやっと顔を見せられた。 ところが全く意外なことには、又吉副知事と共に乗りつけて来られた。これは好機とばかりに、私が懇談会の主旨を申し上げようとしたら、私の発言をおさえられて「その件については私の家に行ってゆっくり聞きましょう」といわれ、3人を促がして車に乗せられた。 間もなく志喜屋の先生宅に着き、昼食をご馳走になったが、食事を共にしながら懇談会の主旨と経過を申し上げたところ、先生の誤解と不安は解消したらしく、色白いやせた顔面に安堵に似た微笑を浮べられた。 その日の私の日記の中に「小生の作戦と見透しの余りにも命中したるに聊か愉快になる。しかし飽くまでも虚心坦懐、超党派の持論を固持す」と記されていて、適確にその情景を思い出させている。 当日、又吉副知事は知念高等学校に全島の市町村長並びに警察署長を招集して、経済問題対策協議会を開催し、議長となってその運営に当り、会議を進行させている際中であったそうだが、敢えてその会議を2時間も中断させて、飛んで来られた点に注目せざるを得なかった。前記の通り普天間署に集会届を出していたから、その情報は握っておられるようであった。 私の決意をさらに一段と強くし、又吉副知事とは相容れないと判断させた絶対に忘れられない思い出話があるので、この際披露して、民主同盟を理解していただく一助にしたい。 食事も済み、懇談も一段落した頃、私は床の間にかかっている一幅の掛軸の書が気になってならなかったので、気分転換の意味も含めて質問した。「先生!書道のことは全然分りませんが、この書は何だか素晴らしい書だなーと思われますが……」といいかけたら、先生は得たりとばかりに、急に語気を強め「この書は私の家宝で、鄭嘉訓と並び称せられた蔡○○の書だ。よく聞いてくれ」と語り出した。 ○○○王即位の時に王冠を授けに冊封使が来るが、その歓迎式場に掲げる書を誰に書かせるかが、大きな課題となった。○○○王は琉球の意気を示すために、男性的な書をよくする蔡○○に命じたところ、出来上った書を見たら、○○○王のねがいとは正反対の女性的な書となっているので、激昂した王が、一体どうしてこんなおとなしい書にしたのだとどなられた。 すると蔡は「御主加那志様!いくらこの小さい琉球国が威張ってみたところで、どうにもなりませんよ。それで私はひれ伏して恐れ入ってお迎えします、という気持をこめてこの書を仕上げました。これがこの書なんだよ…」と話されたかと思うと、一転して「山城君!ここだよ、沖縄の政治の要諦は、いくらわれわれがじたばたしたって、アメリカの前ではどうにもならないのだ…」といわれた。 瞬間私は身の毛がよだつ思いに襲われ、思わず唇を噛みしめてしまった。封建時代と民主主義時代との区別も分らない又吉副知事は、断じて許すことができない。沖縄のために退陣していただく以外に道はない、と秘かに決意をあらたにせしめられた。 興奮の余り私はどうして先生宅を辞去したかは全く覚えてないが、民政府に連れて行かれて、志喜屋知事に紹介されたのを覚えている。その顛末については、次回に譲ることにして、本稿を結ぶにあたって断っておきたいことがある。 それは男性的な書をかいたのは、蔡といわれたか鄭嘉訓であったかは思い出せないので仮に蔡とした点と、王名を○○○王としたのは調べればすぐ分ることだが、先生がいわれた王名が記憶にないのでわざと○○○王とした。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火9・新報1982.03.24) | |
6 志喜屋知事頭をかしげる<知事も出席を約束> 又吉副知事のジープで民政府に午後2時頃着いた。副知事は早速知事室に私達を案内し、私を知事に紹介されてから会議に戻って行かれた。私は沖縄に帰るに当たって伊江男爵に別れの挨拶に行ったが、その時男爵が御自分の名刺に「山城善光をよろしく」と書かれた紹介状を戴いていたので、その名刺をお渡ししたところ、知事は名刺と私の顔を見比べて「君はあの大宜味の山城善光か」と質された。「はい、さようでございます」と答えたら、如何にも納得がゆきかねるような顔付をされたが、伊江男爵の名刺が大いに功を奏して、じっくりと会談できるような機会に恵まれた。 私は大正14年から昭和5年まで、志喜屋知事が校長をしておられた沖縄県立二中に在学していたので、文字通りの教え子であるから覚えておられたのであろう、と思うのは間違いで、同校を卒業した翌年昭和6年の大宜味村政革新同盟の幹部の一人として、赤化事件、不敬事件などの新聞記事で先生を痛めつけていたから、はっきりと私の名前を覚えておられるのであった。知事も私達の動きを知っておられたらしく、大事をとられ、島袋秘書課長外一名を呼びつけ、記録をとらせられた。 まず宮里先生が懇談会の趣旨を述べ、私が経過を報告し、引続き懇談の形で互いに質疑を交わした。私はこの機会にと思い、自分の思想的立場と日本並びに沖縄の運命について外交面から詳しく私なりの説明をしたら、知事も感ずるところがあったらしく、最近の米軍の行動に符節を合するものがあると一例を挙げてうなずかれた。ついに私達の運動に賛同されて、懇談会に出席すると約束された。知事はそのことを部長会議に諮ったらしく、いづれ後述するようなハプニングが発生したらしい。 知事との会談を終えたら、もう退庁時刻になっていた。普天間行の4分の3トン車に便乗してキャンプに帰った。帰ってみたら、仲宗根源和先生がわざわざ訪ねて来られていたとのこと、さらに平良辰雄先生からも手紙がきていて、懇談会まで先生宅に来てくれとのことであった。 明けて4月24日の木曜日の午前中は疲れをいやし、無為に過したが、真喜志君達が作成した懇談会の趣意書を検討し、加筆修正して完成した。そして午後4時頃那覇行の車に便乗して宮里先生宅に向った。 趣意書は上出来だとほめられたので、直ちにそれを持って、2人で平良辰雄先生を訪ねた。平良先生も同意されたので、それを印刷に廻すことにした。これまでのいろいろな報告が一段落したら、先生は泡盛を出して私達の労をねぎらって下さった。杯を重ねる毎に酔い、酔う毎に杯が傾いて、遂に私は先生宅に轟沈してしまった。ほめられたという趣意書は貴重な資料なので全文掲載してみる。 沖縄建設懇談会趣意書 戦争終結後軍政府当局及び民政府当局が、沖縄建設の為其の薀蓄を傾け盡瘁された事に対し、吾々島民は感謝に堪えない次第であります。然るに熟々沖縄の現状を凝視します時、民心は五里霧中まことに混沌として、未だに虚脱の域を脱し切れず、その帰趨に迷い、道義的には頽廃の一途を辿りつつありまして、文字通り憂慮すべき事態に立ち到って居る様に思われます。之は今次世界大戦に於いて、精神的に物質的に、最大多数の最大犠牲を蒙って来た処に基因する無理からぬ事でありましょうか。しかし吾が郷土の有史以来嘗て見ざる道義の頽廃、経済の混乱は、吾々の断じて黙過し得ざる事であります。 抑々荒廃し切ったこの沖縄の建設は、吾々に負荷された歴史的大事業でありまして、申すまでもなくその前途には幾多の苦難が横たわって居るのであります。この苦難を乗り切る事は、官も無く民も無い處の軍に呼應する官民を打って一丸とする総起ち上がりの力のみがよくする処であります。茲に於いて吾々は相寄り相諮り、その淵源する処を究明し、以て或いは陳情し、或いは建策すると共に、民の建設的意欲を旺盛ならしめるの契機たらしめんとして居るのであります。 凡そ人心交替の根本は正しい世論によるものでありまして、之は人に光明と希望と自由とを喚起し、新展開を迫るものであります。茲に局面展開を図る本懇談会を通じ、新沖縄建設に挺身せんとする同志諸君の賛同を願うと共に、奮起を促す次第であります。 1947年4月23日 沖縄建設懇談会発起人(イロハ順)伊仲皓 南風原朝保 桃原茂太 富山徳潤 当間重剛 当山寛光(遠山謙) 与儀喜宣 平良辰雄 平良助次郎 嘉数昇 仲宗根源和 仲里朝章 具志堅興雄(真喜志) 桑江朝幸 山田真山 山城善光 真栄城守行 真栄城守仁(前川) 金城田助 宮里栄輝 宮城友信 比嘉信光 瀬長亀次郎 右の趣意書を発送するに当たっては、次の注意事項を添えてあった。 注意事項 一、当日の食糧、宿舎、乗物等は各自考慮されたし 二、発言希望者は定刻前に受付に通告されたし 三、其他連絡はAJカンパニー普天間キャンプ図書館内山城善光宛にされたし 私はこの趣意書の印刷が出来上がったので、桑江朝幸・青山洋二や当山寛光(遠山謙)、真喜志興雄、平良助次郎の諸君に集まって貰って、その配布方法を協議した。中部地方は桑江君と青山君の受け持ちとし、さらに真喜志君、遠山君も適当に責任分担をさせ、私と平良君は北部地方と首里、那覇、南部地方を受け持った。那覇では新しく我謝試験場長や知念忠太郎氏、北部では宮城清一、山田義福、大城感一らにも呼びかけた。東奔西走多忙のため私の日記はその頃からと絶えている。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火10・新報1982.03.25) | |
7、戦後初のメーデーとその余談<22年に初のメーデー> 沖縄建設懇談会に向けての東奔西走という多忙な明け暮れのために、私の日記は4月28日で終っているが、その終わりに 晩メーデーの対策をするとかで、幹部会に出席を頼まる。意見両立の形、小生建設的な穏やかな方法を採用すべきことを希望す。とある。何故私がこの一項目を取り上げたかといえば、第1にこれもまた、あの時勢下では想像もつかない程の、青年の新しい動きを示していて、本稿の流れの中の一つと見ざるを得ないこと。 第2には沖縄のこれまでの戦後史の中では、昭和23年に決行されたメーデーが、戦後沖縄に於ける初回だと信じこまれているが、それは間違いで、その前年の昭和22年にA・J工作隊普天間キャンプ広場で催されたのが、文字通りの初回だと指摘し訂正せざるを得なくなったためである。 しかも愉快なことには、第2回メーデーの20人程の幹部記念写真に、第1回メーデーの中核となって組織活動をしていた私の同郷の後輩山城貞雄君と山川岩三君が載っている。昭和7年に大宜味村で決行された、沖縄初の農村メーデーの時、山城君は17歳、山川君は14歳で参加した闘争歴の持ち主だった。 A・J工作隊の中核を形成している大城行三隊長以下殆んどの隊員がメーデーを体験し、または実見して来ているので、その体験を生かし、その決行に当っては、宿舎毎に推挙されている班長を集めての代表者会議を3回も開いている。班長会には平良助次郎、金城信彦、山城秀一、前田勇、金城重宣等も出席し、ストを決行するか否かを討議したと貞雄君と岩三君が証言している。 私もこのメーデーの企画には参加し、参考意見を述べたりしたが、組織化の実務には携っていなかった。云わば相談役みたいな役割を負わされていたので、当然の成り行きとして私も指名されて壇上に立ち祝辞を述べた。 当時私が一番気にしていたのは、その運営を誤ったならば、自分が展開させている、民族総立ち上がり運動の帰趨にもかかわりが起きてくるという懸念であった。従って私は階級的な立場というよりも、民族的な立場から沖縄の復興のために大同団結せよと訴えた。 金網で張りめぐらされた広大な基地の入口には必ずといってもいいぐらいに「沖縄人入るべからず」と書いた貼り札をかけてあったあの時勢に、アメリカの基地も同然と見做されるA・J普天間キャンプの広場で、つまり米軍基地のどまん中で、デモ行進こそしなかったけれども、堂々とメーデー祭を決行できたということは、誠に画期的であったといわざるを得ない。 先日大山一雄、大城行三、山城善正の3君を拙宅に迎えて、当時の思い出話に花を咲かせたが、約3千人の工作隊員中その半数に近い1千数百人位が参加したと証言している。その時の司会は図書館長の真喜志興雄君で、貞雄君と私が演舌をし、大宜味消費組合時代ピオニールとして活躍した金城重宣君がメーデー歌の音頭をとったと証言している。 「聞け万国の労働者!…」とのメーデー歌が流れて、会場がどよめき、私も胸をときめかせたのを覚えている。ところが大山君等3人から実に意外な新事実を聞き、思わず唾をのみこみ、身を乗り出してしまった。それは私が今まで疑問としていた一件につき、成程そうだったのかと明快に肯くことができたことであった。 この一件とは、メーデー祭りの終り頃に一隊のMPが駆けこんできて、突然威嚇発砲をし、解散せしめたとのことである。このような重大事実を何故私が知らなかったかと今更ながら自問自答してみた。それは当時の私は寸暇をも惜しまねばならなかったので、祝辞を述べ、メーデー歌を斉唱したら、すぐ次の仕事のために引き揚げて行ったためであろう。 その日私は例の如くA・Jキャンプに一泊したら、翌日米側総支配人のデッキ・ゼニヤ氏に呼び出された。既に新城信一沖縄側支配人、大城行三工作隊長、山城善正副隊長、真喜志図書館長等キャンプの幹部10人位が一緒に顔を揃えて待っていた。何事かと案じながら部屋に入ると、その途端にデッキ・ゼニヤ氏がいきなり大きな声を投げつけてきた。 「君は山城君か?」 「うん、そうだ」 「君は誰の許しを受けてこのキャンプに入って来たか?…君は共産党だ、今すぐこのキャンプから出て行け!」 ただでさえ気の短い私は、意外なる暴言に触発されて、私の肚の底で噛み殺され、うずくまっている対米感情が爆発してしまった。 「何ッ!出て行けってえ?…一体君は誰だ?…、誰の許しをうけてこの沖縄に来たんだ、ここは僕達の土地だぞ!君こそ今すぐ出て行け!!」 するとデッキ・ゼニヤは顔面蒼白となって今にも私に飛びかからんばかりに眼をいからせて、私をにらみつけた。その時並みいる幹部連中がどのように対応したかは全く覚えてないが、右の私のセリフとデッキ・ゼニヤの眼光とだけはずっと私にこびりついている。 後日或幹部が私に語ったところによると、デッキ・ゼニヤは生れて始めて、而も敗戦国民に馬鹿にされたといって、大変くやしがっていたとのことであった。今まで私は、デッキ・ゼニヤは、私が主謀者となって、メーデーを企画し、決行したものと誤解したのだなーと単純に思っていたが、MP隊の威嚇発砲という新事実を知らされて、追いこまれたデッキ・ゼニヤの立場を改めて分り、あの異状な程の眼光に対する疑問もやっと解けたのである。 年のせいか、今頃になって、済まんことをしたなーとの思いが、一段とデッキ・ゼニヤに対する懐かしさを蘇らさせている。彼は今頃どうしていることだろうか。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火11・新報1982.03.26) | |
8、沖縄建設懇談会の全貌 @沖縄建設懇談会の主旨<大成功の懇談会> 1947年5月5日!その日は私達同志にとって、否全沖縄にとって忘れることのできない日である。荒廃のどん底から沖縄民族が立ち上がれるか否かを占う日であった。私の拠点のAJ工作隊普天間キャンプから、例の如く郷友達の厚意による車で会場に飛んで行った。 郷友の大城行三君や山城善正、山城貞雄君達が会場を整備し、全島からの来会者を待った。受け付けで1人1人の住所氏名、年齢、職業などを記入させた。あの頃の悪い交通事情下で、よくも全島から集まったものだと感激させられたが、集まりも集まったり、実にその数300人に達し、講堂を埋めつくす盛況を呈した。交通事情のため定刻9時を1時間延ばして10時に開会した。幸いに当日の情況を私が丹念に記録して手元に保存してあるので、その大要を採録してみる。 開会要領 1、開会の辞 司会者 山城善光 2、挨拶 宮里栄輝 3、経過報告 山城善光 4、座長推挙 司会者の推挙で與儀喜宣先生に決まったが、遅参のため宮里栄輝先生を暫定座長として懇談会を進行せしめる。 5、懇談 A、民意を代表する機関設置問題について(平良辰雄氏が提案者としてその主旨を説明された) B、道義昂揚問題について(本項以下は與儀先生が見えたので座長になって貰って、同時に本項の提案者としてその主旨を説明して貰った) C、生活安定問題について(真栄城守行先生が提案者として主旨説明をなされた) 6、懇談事項処理審議(大宜味朝徳先生の提案)で発起人会に一任された。 7、閉会の辞 宮里栄輝 さて、ものもいえない当時、抜き打ち的に普天間会談で突破口を作った私達は、電撃的な作戦を展開して、文字通り全島代表による大々的な懇談会を持つことに成功した。これが沖縄の終戦後に於ける最初の組織的言論大会であった。ついに目指す「言論の自由」は獲得されたのである。 如何なる主義主張であろうと、いつでもどこでも思う存分に吐き出すことのできる当節の若者達には、とうてい合点の行く事柄ではないし、また、従来の沖縄の戦後史からはほとんど抹殺されている形になっているので、私だけが持っている民主同盟の資料の中からその一切を暴け出して、真実の戦後史作成の一助にしたい。従って本懇談会の重要性に鑑み、特にその全容を明らかにしてみる。 宮里栄輝先生挨拶要旨 今次戦争によって沖縄は一切を失い無一物になった。ために沖縄は世界最大の悲境に陥った。この不幸なる民に対し、米国はあらゆる物資を提供し、生活保障、福利増進のために、多大なる努力を払った。お蔭で今日の復興を見たが之は沖縄人の斉しく軍政府に対し感謝するところであり、又軍政府の命令を遵守し、その施行に当たった民政当局に対しても感謝する処である。 然し現在沖縄人は全く萎靡沈滞し、建設意欲に欠けている。之は終戦後の虚脱状態にも由るが、その他にも多々原因があると思う。斯かる状態は速かに打開せねばならず、之が打開なくしては沖縄建設は望まれない。この局面を打開して新展開を図る事は、全沖縄人の意志であるが、これはただたんに話し合うというのではなく、官も民も文字通り胸襟を開いて懇談し一体となって立ち上るのでなければ出来ないことである。 過日クレーギ副長官は、民政府の一周年記念式典に当たり「軍政府は近き将来に於て沖縄人をして一国政治を担当せしめるであろう」との意味のことを述べられている。これは沖縄が世界史の一環として、人類構成の一員として如何なることを為し得るかということを大きく示唆しているものと看做される。それ故にわれわれは希望を持って局面の打開を図らねばならぬ。本会が堅実なる輿論を起こす政治的契機となるよう、建設的意見の発表を希うや切である 宮里栄輝先生は終戦後の沖縄の民主化運動に大きな足跡を残した方であるが、昭和初期の頃、沖縄県立図書館で、司書として伊波普猷館長の下で働かれた。それで伊波先生の影響を受け、否むしろ感化された方だと私は見ている。終戦直後本土で、共々に伊波先生を会長とする沖縄人連盟の傘下に走り、伊波先生の指導を受けたが、伊波先生は当時沖縄の独立を希って居られるような匂いのする発言をして居られた。 従って宮里先生の脳裡には伊波先生の考え方が刻まれていたものと私は思っている。一途に革新の道を歩んで居られる宮里先生の今日の姿と思い比べた時、先生のこのあいさつに当時の実情を知らない若者達の間には頭をかしげる人もいるかもしれない。 しかしあのようなあいさつになったのにはもう一つの大きな要因があった。それは宮里先生が又吉副知事とは共に文化人として戦前深い交流があったという点である。このような仲の良い又吉副知事とはいずれ対立せねばならぬことを十二分に知りながら、沖縄の現状を黙しがたく宮里先生が私の呼びかけに応えて、超党派の理論を構築されて緒戦に臨まれた。 先生の心情を偲んだ時、私は今でも頭が下がるのである。事実あの時、人格円満でみんなから好かれた顔の広い文化人の先生が、私達の戦列の先頭に立たれたればこそ、弾圧もなく、無事に普天間会談を実現させ、沖縄建設大懇談会も実を結ぶことができたのである。戦争で焼け残った郷土沖縄と人民のために、惜しみなき愛情と献身の精神で言論の自由を確立された先生に対し、この機会に謝意を捧げる。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火12・新報1982.03.27) | |
A民意代表機関設置について<民政議会議員の選挙を> 宮里先生の挨拶に続いて、組織者としての立場から私は懇談会の主旨と経過報告を為したが、それは既に述べてきたこれまでの記録から汲みとれるので一切省略して、直ちに懇談会の実況を記してみる。私が降壇すると宮里先生がピンチヒッターとして座長席につかれ、次のように発表された。 座長 本日のこの会合は戦後沖縄に於ける民主化運動の第一声で、その影響は大きい。この会合を契機として各地区に於ける民主的会合が穏健妥当で立派な成長を遂げることを希う。この会は反対せんがための反対、又は過激な言論は排して、堅実に運ばれるよう希望する。 と述べられ、日記通りの懇談項目に従って真っ先に平良辰雄先生の発言を求められようとした矢先に、いきなり大宜味朝徳先生が手を挙げて発言を求められた。座長が発言を許したので演壇にかけ上がり、およそ次のような民政府攻撃を堂々と展開されたので、初っ端から会場は殺気立ってしまった。 大宜味朝徳氏 何故に民政府は行き詰まったか。それは帰属問題に就いて上層部がはっきりした見透しがないこと。是非如何に拘わらず沖縄は米国の指導下に行くのは当然であるのに、この事実を認識せず、今尚日本的考え方を持っていること。更に米国の国是、国民性の研究、理解が足りないこと等に基因する。例えば、米国は地方分権政治が特色であるのに、ドイツの如く民政府は中央集権的に政治を指導し施行している。そして専制政治を断行している。(座長より日程外に付過激にわたらぬよう注意あり) ウイリヤム中佐は、沖縄は世界に於ける唯一の完全なる統制経済の国だといわれているが、現実は利権確保に走りつつある。要するにこれは民政府が統制経済の何物たるかを知らず、その運営方法を知らないためである。更に現在の民政府は責任政治ということを知らない。民主政治は正義、責任、手腕、人格に依る政治で、責任政治であらねばならない。一人で三つの地位にあることは断じて排さねばならぬ。現在の民政府には民主政治はない。政治を知らない官吏がいる。一官吏は軍政府に対し、無責任なる言を為した事実がある。 道義問題については戦果、役得は皆背徳である。200円生活が沖縄の標準生活であり、それ以外は闇である。更に言論の自由は与えられているのにも拘わらず、如何にも許されてないかの如く装い、沖縄を暗黒の中に叩き込んでいる。世論の国が民主国家である。正しい世論を喚起することが急務である。 行政面に於いては官吏が責任を感ぜずに、やり放題で、官吏を監督する機関がない(二三の具体例を示したので、座長より人身攻撃に渉らぬよう注意さる)。要するに世相の不安は政治の貧困に由来するから、強力なる政治力を確立し、最も進歩政治を施行すべきである。座談会等を頻繁に行い、最善を尽くして民主国家建設に進むべきである。 大宜味先生は宮里先生や私達の遠謀深慮にはお構いなしに、堂々と民政府攻撃をされたので、終わると同時に万雷の拍手が湧いた。宮里座長は次のように発表されて荒れようとする懇談会を収拾された。 座長 大宜味氏の熱と力に押されて、日程外の発言を許し、之を制禦できなかったことは座長の無能のためで全く申し訳がない。他意はないから御容赦をお願いします。 と述べて本来の日程に移り、「民意を代表する機関設置問題について」の提案者である平良辰雄先生の登場を促した。平良先生は提案の主旨を次のように説明された。 平良辰雄氏 今後沖縄がデモクラシーでなければならないということは、全沖縄住民の渇望するところである。然るに現在沖縄の政治が、王政時代に復帰せんとする傾向があるが、之は絶対に反対し阻止せねばならぬ。専制政治は一部特権階級の国家になり易い。一部の反対があっても議会政治でやって行かねばならぬ。このような自由の天地に立ってこそ凡ての問題は自ら解決されるようになるのである。米国は民主主義を標榜していると世界に公言しているから、沖縄が民主化することに反対する訳はない。 クレーギ副長官も機会ある毎にそのことを言及している。既に去る4月から我々は納税の義務を負わされている。納税の義務を負う以上、政治に参与する権利を与えられるのは当然である。故に1日も早く市町村議会議員、民政議会議員を選挙して、真に民意による機関を確立すべきである。 この提案は当時の心ある沖縄人の一致した最高の切実な政治的な要望であったので、期せずして万雷の拍手となった。平良先生の着席と同時に真っ先に手をあげて質問に立たれたのは、戦前の沖縄県議会の雄で島尻地区代表の平田吉作先生であった。 平田吉作氏 この問題に対する民政府の意向は奈辺にあるか。 との質問に対し、横から大宜見先生が「民政府幹部諸公は、自分達は沖縄に於ける最高の知識であるとうぬぼれている」との中傷的な言葉が飛びこんで来たりしたが、結局、軌道に戻されて、懇談会は次のように展開していった。 桑江朝幸氏 クレーギ副長官は去る4月5日開拓庁の開庁式に於いて、沖縄の諸問題は沖縄人自ら之を解決せよといわれているから、民政府の意向如何に拘わらず、我々としてはこの言葉を実行し、且つ具体化する方向へ、即ち議会を設置する方向へ全力を傾注して行けばよいと思う。 と発言し、中部地方並びに青年層を代表して全沖縄人の民族的総結集を計り、闘い取っていく以外に道はない、と強調した。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火13・新報1982.03.28) | |
B注目された仲宗根源和氏の発言<民主化をめぐり論議> 慎重にみんな発言を聞いて居られた時の人仲宗根源和先生が、時到れりとばかりに手を挙げて発言を求めて登壇された。みんな一様に片唾を飲んで先生を見守った。 仲宗根源和氏 一昨年の8月15日約150名の人が石川市に集まり、その中から15人の諮詢委員が選ばれたが、私もその中の1人になった。軍政府に対し諮詢会が責任を負うというようになっていたが、昨年の3月に、民政府が樹立され、行政府に変って行くという話が持ち込まれた。 一昨年の9月、戦後沖縄に初めて議員が選挙されることになった。その方法について問われたので、如何に対処すべきかに付論議したが、その時私は先ず敗戦国民という考えを捨てることが敗戦から起ち上がる根本だと考え、20歳以上の男女に選挙権を与えることを主張した。 その後民主主義研究会を催したいという青年がいたが、夫れに対して諮詢委員の1人が時機尚早とし、軍政府に対してその青年はアブノーマルだと告げた部長がいる。 そこで私は、今日米国は民主主義を施行しようというのに民主主義研究を許すなとは何事だ、といったことがある。更に民政府成立に際し、諮詢会に諮問があった際、諮詢委員が相互に推薦し合って、民政府を作るべき立場ではない、と主張したのであるが、14対1で否決となった。理由は民の衣食住が不安定であるからとのことであった。 将来の政治は、議会中心の政治でなければならぬ。和気藹々裡に民政府と議会とが協力し、結合していくのでなければならぬ。今の議員は無力ではあるが、民政府は今迄に6回しか相談してない。之は明らかに民政府は議会に対して責任を果たしていない証拠である。主要案件は須く議会に諮るべきである。 次に言論の問題については、私は或責任を感じている。然し「民政府を批判する者は軍政府を批判する者である」とは言語道断の全くの迷信である。その正体は斯うである。 即ち軍政府に資料を提出して軍政府より指令を出さしめ、その指令の施行に際しても、民政府自身は責任よりのがれようとする実にけしからん魂胆の所産であるが、これは軍政府の指令でも何でもない。只単なる一将校の談話を、而も一個人宛の警告を恰も全島民に対して発せられたが如く偽装せしめて、総務部長と警察部長の名に於いて発せられたものに過ぎない。世界いずれの国に責任をとらない政府があるか。私は10日の議会で、知事にその布告の撤去を迫ったが、未だにそのままである。 平良辰雄氏からも話があったように、4月から税制が布かれ課税されるが、義務を負わされるなら、民意を代表する議会に参与するの権利がなければならぬ。税制施行は民意を代表する機関に諮ってやるか、軍政府の命令に拠ってやるかのどっちかでなければならぬが、その点に付、財務部長に尋ねたら、これは軍政府の命令に拠ってであろうとの返答だった。だとしてもそれは当然民意を代表する議会にかけて為さねばならぬのに、そうしなかったということは、責任を負うことのできない政府たるが故に、軍の命令に従ったものと思われる。 我々は民政府を守ることが大切であるか、沖縄建設のために協力するのが大切であるかについて、よく考えねばならぬ。若し民政府が沖縄建設に妨げになるのなら、之を切り替えることも必要である。 これまた拍手を浴びて降壇したら、すかさず平田吉作先生が再び発言を求めて登壇した 平田吉作氏 先に言った通り、この件に関して民政府の意志は奈辺にあるかということをお尋ねする。議員である仲宗根氏の言によれば、民政府は反対のようだが、今議席を持っている議員は民意を代表するものとは云えないから、辞表を出させて総選挙をやる事が緊要だと思う。要するに今の民政議会を議決機関たらしめるか、総選挙で改善するか、政党政治に持って行くかの3点に帰着すると思う。 平良辰雄氏 その事項については提案者から明らかにする。民政府は民意を代表する機関を設ける意志はない。然し我々の意志はどうしても民意を代表する機関を建設しなければならないというのである。 熱気を帯びてきた会場の一角から、中部代表の宜保為貞氏が発言を求めた。 宜保為貞氏 世界は民主主義に進みつつあるのに、今の沖縄の民政府は官僚主義で政治をやっている。民政議員は民意によって選出された議員ではない。皆辞表を出して頂きたい。諮詢機関にすぎない。ただそれだけで俸給を貰ってはいけない。 大宜味朝徳氏 民主主義では議員の選挙で知事を選出する。故に第1段階として選挙を断行すべし。 山城貞雄氏 その前に言論、結社、出版の自由が認められなければならぬ。 真栄城守仁氏(前川)現在の諮詢会の改革だけにとまってはならぬ。是非徹底的に改革の方向へ進めて行かねばならぬ。 平田吉作氏 この問題は是非民政府にも陳情して、同一歩調をとるようにせねばならぬ。 仲宗根源和氏 終戦後、生き残り議員の懇談会があったが、その時ワトキン氏から議会設置に対する諮問があった。その時総選挙によって全部やり直しをして貰いたいと、全議員が申し上げたのであるが、一議員のために今日の如き結果となった。 与那嶺堅亀氏 議題がはっきりせぬが、現在の市町村議会等をを解散して新たにやり直すというか、それとも別に機関を設置するという意味か。 仲宗根源和氏 全部解散して新たにつくる事である。そして議決権を確立することである。 以上で本項の討論は打ち切って昼食となった。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火14・新報1982.03.29) | |
C道義昂揚問題について<青年らに希望を与えよ> 昼食を済ませた全員が再び会場に結集したので、定刻通り午後1時きっかり再開の運びとなった。幸い座長に推戴された興儀喜宣先生が見えられたので、宮里先生に代わって座長席についてもらった。車が拾えず、遅参したことを詫びられてから次のようにあいさつされた。 座長 私の青年時代の沖縄と今日の沖縄とは道義の点において非常に差異がある。今日の青年の思想行動は誠に慨嘆に堪えない。道義の昂揚は現下の喫緊事であり、それなくしては真の沖縄建設は望まれない。いかなる組織でいかにして行くかが最重要事で、それは沖縄の運命を握っているものと思われる程重大である。本提案の主旨を要約するとこれに尽きるが、これの具体的方法について充分ご意見をうかがいたい。 すると真っ先に一女性が手を挙げて発言を求めた。座長は即座に彼女に発言を許した。登壇した彼女は毅然とした態度で「大城百合子【「ツル」の誤り】であります」と自己紹介をした上で次の通り訴えた。 大城ツル氏 まず沖縄の青年男女に沖縄の将来について希望を与えることである。選ばれた人達や父母が敗戦で痛手を受けている青年達を温く抱き、正しい道に導いて行く。やがて紳士淑女になるのだぞ、という気持ちを喚気し、社会的には青年会とかいう組織をつくり、強化して行くこと。種々の困難は伴うものとは思われるが、適切、妥当な指導を施すとうまくいけると思う。 私は彼女の発言を筆記していたが思わず筆をとめて彼女の神々しい程の顔を見つめた。後日、彼女は婦連会長として活躍するが、それはさておき、彼女が軍経済部に通訳官として勤務していたころの偉大なる逸話を紹介する予定になっているので、ここでは割愛して前に進むことにする。大城先生が降壇すると、またしても大宜味先生が起ち上がった。 大宜味朝徳氏 マッカーサー司令部の基本政策にもある通り、平和への道の理解をよくなさしめて、日本がなぜ敗けたかをよく知らしめること。従来の日本軍閥の専制教育が人格形成に寄興するところが無かった点を究明にすると共に、民主主義精神こそわれわれの指標であることを徹底的に脳裡に叩きこみ、政策としても平和建設の方向を定めることだ。そして、沖縄人自身の沖縄だという観念を深く植えつけ、沖縄を生かすも殺すも沖縄人自身だという風に啓蒙していくことだ。また、統制経済の知識をよく教える。生活の標準を規定されたことに対しては、その範囲内で生活して行くようにすること。片方で甘い汁を吸い、旨いことをしていると他方では必ず人を貧窮に陥れているということを自覚せしめる。青年が分かることに対して理解を持つことによってのみ、平和建設の事業はできるのである。 次は元県会議員の島尻代表興那嶺堅亀先生が発言された。 興那嶺堅亀氏 道義問題について二、三の実例を挙げてみる。最近巷間ではこんな琉歌が流行している。「上や役得に中や闇しゆい、わした下方や戦果あぎら」。この歌の通り世の中は正に戦果、泥棒、闇等の横行である。こんな事実もある。盗人を捕えに行ったら、逆に盗人に捕えられて、おまけにその盗人に荷物までも担がされたという話だ。 思わず満場の全会員が噴き出した。その哄笑は、全くその通りだと云わんばかりの共鳴の爆発であった。続いて現沖縄市長の桑江朝幸君が青年代表として次のような熱弁を揮った。 桑江朝幸氏 まず第1に沖縄の進むべき方向を正しく示すことだ。第2に、物資が欠乏しているからこそ、生きてゆくために仕方なく悪いことをするのだから、最少限度の諸物資の保障はせねばならない。娘達は人並みの化粧をしたさに遂に売春婦にまで陥って行く。男は煙草欲しさに手段を選ばなくなっている。だからどうしても日用必需品の最少限度の裏付けをせねばならない。それと同時に教育問題であるが、演劇の如き慰安面を通じ、趣味を高尚にし教育を昂めて行く方法を執らねばならない。指導層が幾ら道義昂揚とかを口で叫んでみたところで、指導者達が役得というものを認めて、旨いことをしている限り、青年の道義昂揚はできるものではない。 真栄城守仁氏(前川)沖縄官史の態度はわれわれ引き揚げ青年に希望を失わしめている実情であるが、青年の道義昂揚は青年の手によってなさねばならない。しかるに、現在われわれ青年にはその実権は興えられてない。すべからく青年に法的にも指導的な実権を興えるべきである。 仲宗根源和氏 現在の青年層に希望が興えられてないから道義心が頽廃しているのだとの点はもっともだ。闇の中で道義昂揚を云々したところで求められるものではないが、しかし前に光がある希望は自らわいてくるものである。青年に接する時は沖縄に希望が持てる点を語ることである。すなわち沖縄は民主共和国になるのだと叫ぶ時、彼等は雀躍するのだ。沖縄はこのまま放置すれば米国一国による信託統治になる。信託統治は将来独立を約束されているのであるが、沖縄は元々独立国家であったのであるから、われわれは独立するんだとの意気で行きたい。そして米国とも親善関係を結び、ひいては国際連合にも加入するのである。今日かくの如くになったその根本的原因の一つは、食物がないということである。ゆえに将来、世界と親善関係を結んで南方諸地域にも進出し、次々と新しい土地を開拓して、沖縄移民をどしどし送って行けば、沖縄は健全に確立されて行くのである。もし沖縄が信託統治になるにしても、信託の年間をわれわれの手で縮めることができる。それはわれわれが自主的に政治をとることができるか否かによって決まる。アメリカは宿を借りているだけに過ぎない。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火15・新報1982.03.30) | |
D甲論乙駁の熱気充満す<退廃の歯止めは芸能で> 道義昂揚問題についての発言はまだ続くが、ここで私は極めて重要な点について解明しておかなければならなくなった。 それは仲宗根先生の右の発言中に、沖縄の将来の在り方について、沖縄はそのままほっておけばアメリカ一国による信託統治を経て独立国になる。然し沖縄は元々独立国であったから、我々は直ちに独立に向って邁進するんだとの沖縄独立論を公的な場において、初めて発表されたことである。それが沖縄民主同盟は独立論者だと、規定される原因となった。また事実、仲宗根先生は演説会においても独立論をぶち上げておられた。その点において私とは似て非なる相違点があった。仲宗根先生の独立論に対し、私は「自主性の確立」ということを沖縄の政治課題として大衆に訴え続けた。その証拠には、私の草案になる民主同盟の綱領と宣言に自主性の確立という点を明確にしてある。 私は終戦直後の一時期に外務省外廓団体の国際連合協会日本支部に勤めていて、国際関係について、多くの専門家達から教えていただける職業柄にあったので、特に沖縄の将来の在り方については当然のことながら深い関心を持った。結局、沖縄はアメリカ一国による信託統治と国際連合による信託統治の二つの道しかないとの結論に達していた。 私は沖縄に引揚げるに当って、当時終戦連絡事務局長をしておられた元駐米公使の山形清先生にお別れの挨拶に行ったところ、公使は私に「沖縄は可哀想だが50年間はどうにもならないだろう、辛抱強く頑張ることだな」と暗にアメリカに併合されないようとの激励の言葉を下さった。その言葉を噛みしめて、沖縄の隷属化を防ぐために私は「国際連合による信託統治」を心の中で秘かに目指していた。それが即ち「自主性の確立」という政治理念となったのである。 さて話を懇談会の席上に戻してみよう。次に当山ェ光君(遠山謙)が発言を許された。当山ェ光君は現在浦添市の議会議長として市民に奉仕している。 当山ェ光氏 配給されてない物資が実際には我々の全生活にも出回って、それによって生活を支えているという事実を忘れては道義問題を云々することはできない。我々はこの現実を民政府を通じて、軍政府に訴え、解決してもらってこそ、はじめて青年の道義心云々もできるのだ。自分達は勝手なことをしていて、青年に対しては道義心を云々したところで効果はない。先程、真栄城氏は青年に実権を与えよといわれたが、私はむしろ実権を獲得せよといいたい。青年は自ら進んで各村と横の連携を図り、全沖縄青年の団結を為す組織を作ることが重大である。 真栄城守仁氏 青年運動をするのにあい路がある。それを打破せよとの意味だ。 赤嶺成春氏 食うためにというのが、もうけるためにという風に変ってきている。これはすべて物質がないことが原因である。故に生産力を高め、物を造り出すことこそ緊急事である。そして悪質ブローカーを警察力によって徹底的に破砕することだ。 次に国頭郡代表の1人として、新進気鋭の名護町長岸本清君が発言した。彼は私と県立二中時代の同級生であったが、今は故人となっている。 岸本清氏 この問題は「民意を代表する機関設置について」の項目と関連しているから、実際問題としては先ずそれを実現させることが第一である。この懇談会で決ったことは徹底的に実践するということが重要である。 山城貞雄氏 民政府で決めた公定賃金なるものは、物資を公定で買うということを前提としているが、然し現実は何一つ公定で買えるものはない。すべては闇値である。従って現在の賃金では絶対に生活は成り立たない。だから生産品の出回りをよくし、賃金を引き上げるようにすれば、自然に闇も無くなる。 恩阿(名不詳)氏 ここに居られる先輩各位にお願いするが、先ず率先実行してもらいたい。理論よりも実行が第一である。範を示してもらいたい。青年の力は云々正しく強いものであるが、今日のようになっているのは結局先輩の導き方が悪いからである。青年の力を信じて正しく指導して行くことだ。 大方の論議は尽くされたので、座長は締めくくりとして次のような発言をして本項目の討論は閉じることとなった。 座長 道義退廃の原因は社会的であり、経済的であろうが、私はそれ等よりも社会が退廃の事実を黙視するということが最も悪いと思う。周囲の社会がもっと緊張し、退廃を許さぬ組織になっておれば、もっと引締まった道義的社会が成り立つと思うのである。この点にもどうか充分に考慮を払ってもらいたい。本項目は時間の都合上、また大方論議し尽くされたと思うので以上で打切って、次の項目の討論に移る。 私は最近、ある会場で「終戦直後の退廃したこの沖縄で真っ先に起ち上がって、希望を失った沖縄大衆に慰安を与え、復興に奮い起たせたのは、沖縄の伝統芸能と沖縄演劇である」と明言したことがあるが、本項をまとめるに当って、桑江君の発言中の「演劇の如き慰安面を通じ、趣味を高尚にし、教育を高めて行く方法を執らねばならない」の点に留意せざるを得なくなった。 それは後日私達民主同盟の同志のほとんどが足並みをそろえて、桑江君の提言の通り実践したからである。即ち仲宗根源和先生は本部で、桑江君はコザで、上原信夫君は辺土名で、湖城基章君は名護で、そして私は喜如嘉で、それぞれの出身地に劇場を創立して、啓蒙運動の一環として、伝統芸能をはじめ演劇、音楽等の文化活動に足並みをそろえて行った。関連するのでこの機会に附記することにした。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火16・新報1982.03.31) | |
E生活安定について論戦<沖縄再建で大討論> 最後に、「生活安定について」の議題を討義したが、前の2項目の場合に熱弁を揮った青年代表の発言はほとんどなくなり、文字通り沖縄一流の在野巨頭連の討論会の形となった。しかも大局的視点に立っての政治的一大討論が展開され、沖縄再建についての幾つかの具体的構想が提示され、参会者一同に希望を與え、勇気を揮い起させた。その記録は次の通りになっている。 座長 次は生活安定問題について懇談したい。乗物の関係で時間を3時半までに限定する。先ず提案者の真栄城守行氏に主旨の説明をお願いする。 真栄城守行氏 生活の安定が一番急務で、それがすべての根本である。これは一人アメリカのみに任すべき問題ではなく、自発的に沖縄人自ら解決せねばならぬ問題である。先ず第1に供出問題について見ると、沖縄人の総起ち上がりによって共に生きて行くのだという相互扶助の精神を発揮することによって成績をあげることができると思う。生産がない状態だから、物資が偏在せぬように気をつけねばならない。生産と消費とが道義に結びつかなければならない。土地問題についても今日は全く放置されている形だが、早く適当なる方法を考究し、土地配分の適正化を期すべきである。インフレは日一日と深刻化し、その速度も早くなっているが、今にして手を打たなければ、沖縄の経済は破綻してしまうおそれがある。民間事業についてもどしどし復興促進せしめ、特に貿易については民政府が積極的に運動すれば実現可能である。各人の才能に応じ、各職場に失業者を無くして皆働かさせねばならぬ。民業の発達により物資を生産して、来るべき段階に備えるべきである。 大宜味朝徳氏 民主々義社会になれば自然にこの問題は解決できる。自由競争的な経済組織下では、生活の不安は消えない。だから社会主義的経済組織にせねばならぬ。物資の偏在を無くし、金の使い方に対する観念を是正して行く。要するに我々の頭の切り換えの問題だ。供出の問題にしても現在の民政府は統制経済に対する認識がない。供出の方法を知らない。土地問題については現在民政府に開拓庁ができて、泡瀬等の開拓に当っているが、そればかりでなく、住宅は山手の方に移したりすることにより、また、農家と非農家とを分けて処理して行くといったような方法によっても解決される。インフレ防止問題については、大体沖縄の全通貨は以前千万円程度であったのが、今日では数億円になっている。しかもその金が偏在している。それも皆政治的貧困に基因する。金を適正に配分し、沖縄の銀行の金もよりよく立派に使うようにせねばならなぬ。民間事業については統制経済で処理して行く分と、自由経済に任せて行く分との区別を判然とすることだ。 平良辰雄氏 生活安定は闇取引の防止にある。しかし、それは警察の力をもってしても不可である。日本々土から流入紙幣が問題である。大体流入紙幣を放任していたために約2億円の金が入って来ている。それに対し民政府は大きな責任がある。通貨縮小を計らねばならない。流通高と必要高と物資量との均衡が重要だ。これは経済の三大要目である。 桃原茂太氏 この問題は本懇談会の最も重要なる項目である。前の2項目とも関連せしめて解決せねばならぬ。生活安定問題は政治経済の核心を衝かねば話にならない。結論を云うと強力なる政治経済政策無くしては生活の安定はあり得ない。生活安定の根本は民政府の財政安定にあり、さらに市町村財政の安定にある。従って我々はいかにして生活の安定を計るかと云えば、国としての財政の安定を第一義とする。あらゆる事業を興す本は資材資金をいかにして得るかにある。沖縄がこの問題を解決するには、日本に対し莫大なる賠償を要求するより他に道はない。我々は今日まで日本に利用されていたのである。我々は立派な独立国であったことは歴史が示している。日本の侵略によって沖縄は今日の悲境に突き落されたのである。ゆえに我々は堂々と日本に対し、賠償を要求し得る理由を持っている。現在日本の予算は1500億円に上っているが、もし我々が未だ日本に属していたものとすれば、少なくともその百分の一に当る15億円は当然復興費として要求できたであろう。しかし、我々は今日日本には属してないし、独自の立場にあるのであるから、思い切って200、300億ないし500億円を賠償要求をなし、米国に代行してもらって、復興資材を獲得せねばならぬ。今から米国にその実情を訴え、国際連合にも参加して、日本に対する我々の要求を世界の輿論とするように努めねばならぬ。民政府においてもしかるべく対策を論じているものとは思うが、全沖縄人も早く一致して、その政策をとられんことを希望する。当面の財政々策はこれであって欲しい。 次に今日の世界の趨勢は米国式民主々義か、ソ連式民主々義かのいずれかであるが、沖縄は土地狭少にして、人口大なる土地柄であるから、このような土地に資本主義、自由主義経済を導入してはならない。資本家の為すがままに任せておくと、混乱をおこすことになる。それ故に社会全体が、協同体としての政策に基き、社会主義的に進むべきだと思う。物は国家が出して経営は民間代表者にさせるようにする。営業を個人のものにすると、その利益は個人に集中し、民衆の福利にはならない。各人は社会に奉仕することを最大の名誉とし、それによって報いられるようにしなければならない。かかる社会が実現してこそ、生活の安定は期待できるものと思う。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火17・新報1982.04.01) | |
9、常設機関設置を確認<民政府は傍観> 本懇談会冒頭、いきなり発言を求めた大宜味朝徳先生の、沖縄のアメリカ帰属を暗示する論陣に続いて、仲宗根源和先生の琉球独立論の展開となり、ついに桃原茂太先生の民主主義的な沖縄の社会主義国家建設論にまで発展した。桃原先生はさすがに国会議員としての貫禄を発揮され、日本政府に対する賠償金を、具体的に数字を示して要求されたが、これが公的な場における賠償要求の第一声だったと思っている。私は先生の爾後のご活躍に大いに期待して、その動向を見守っていたが、先生はその後一度か二度位顔を見せて下さっただけで姿を消してしまわれた。それにはいろいろな事情があったことだろうとは思うが、結局3年後の知事選挙にいわゆる5人組の1人として政界の表に躍り出て来られたが、ついに先生の民主的社会主義国家建設論は尻切れの形になってしまった。しかし、その血の一滴は「沖縄社会大衆党」の血液に混じって行ったのかも知れない。 座長が事前に断っておられる通り、乗物の関係もあって、進行を急いだらしく、記録にもその跡が次のように残っている。 仲宗根源和氏 生活安定はインフレ対策を確立することによって成し遂げられるのであって、その具体的方法は新しい紙幣を作り、新円切替えをなすことである。日本の円とは別個に米国ドルと関連する沖縄独特の紙幣をつくることである。 大宜味朝徳氏 この懇談会を発展せしめ、中央本部を置き、実践運動として展開するような組織を作り、具体化して行くような方法を講ぜられたい。組織運営の方法につては発起人に一任してはいかがか。 ……一同賛成す…… 山川文康氏 現行配給食糧の不適正について説明する。われわれは、一人に付き、平均1878カロリーの配給を受けることになっているが、実際は1799カロリーしか受けてない。89カロリー不足している。これを正当に要求すべきである。 座長 時間も大分経過しているから、本項についてはこれで打切り、次に懇談事項の処理方法について相談してみたい。本懇談会での懇談事項は、ただ単に記録としておくだけにとどめず、発起人は是非民政府に報告することにしたい。あるいは軍政府にも陳情してもらいたい。処理方法については先に大宜味氏の提案のあった通り、発起人会に一任したいがいかがか。 …一同賛成す…… 以上で懇談会は終ったが、私は最後に発言を求め、次のように述べて本懇談会の結びとした。 山城善光氏 アメリカの独立の際に第1回大会を開催した時に第2回大会の日を決めてやった好例があるが、別にそれにならうと云う意味ではないが、今日ここで第2回懇談会の日時を決めてはいか。この懇談会を恒常的な機関たらしめるべく、公共団体にしたらいか。さもなければこのような会をしばしば持てるように機会をつくりたいがいか。 と提案したら、全員賛同し、これも発起人会に一任することに一決した。そして宮里栄輝先生が閉会の辞を述べられて幕となった。 宮里栄輝氏 真剣にして進歩的、建設的な意見を発表され、本懇談会は予期以上の成果をあげた。各地区に帰られたら澎湃たる民論の作興に努力させられたい。(以上) 私は、この懇談会は当初から歴史的な重要な役割を荷っているものと規定し、また期待して全生命を捧げ尽しての演出だったので、是非記録を残さねばならぬと思い、当日は専らその速記に専念した。したがって、この記録からでも推測できるように、中途での私の発言はない。多量の発言記録をできるだけ原形を崩さないようにして苦心して整理したのが、この記録である。首里那覇はもち論、島尻、中頭、国頭の全市町村から馳せ参じた憂国の志士が300人も集まろうとは全く予期してなかった。有名な高安高俊先生が、閉会直前に、車がなくて歩いて来たと云って地団駄を踏んで居られたように乗物が思うように行かなかった当時、講堂を埋め尽くす参会者を得たことは、いかに沖縄が苦境にあったかを物語る。志喜屋知事は出席を約されたが、ついにその顔は見られなかった。かえって良かったと、私は胸の中で思った。それは恩師に対する私の心であった。 この懇談会が民政府に対し、どのような反響をもたらしたかが、私の重大な関心事であったが、やがてある筋からの情報が入った。それによると民政府は早速部長会議を開き、どのように対処すべきかを協議したらしい。今の内に弾圧して潰さねばならぬという説と、何、呉越同舟の烏合の衆だ、今に分裂し、自壊するから傍観しておればよいとの二説に分れたらしい。結局後者の意見が勝って、私達は何等の干渉も弾圧も受けずに済んだので、益々足音を高くして前進した。 普天間会談で言論の自由獲得への突破口を作った私達は、この懇談会の大成功によって、ついに念願の言論の自由を斗い取り、確乎不動のものにすることができた。この情報はたちまちにして沖縄全島に拡がり、沖縄の空にたちこめる暗雲を吹き飛ばす一陣の涼風となった。懇談会に参加した人々が、その土地土地の主力となって、次々と動き出してきた。そして若い世代が私の所にも足繁く訪ねてくるようになってきた。言論の自由を斗い取ることができた組織者としての私は、「次は結社の自由だ」と叫んで拳を握りしめた。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火18・新報1982.04.02) | |
10、民政府へ懇談要旨を報告<沖縄独自の新貨幣を> この懇談会の模様を民政府に報告するように、との注文を受けた発起人会は、約2週間後の5月21日付で左記の通りの報告書を知事宛に提出した。 1947年5月21日 沖縄建設懇談会 興儀喜宣外発起人一同 沖縄民政府知事 志喜屋孝信殿 沖縄建設懇談会懇談記録報告の件 首題の件に関し1947年5月5日、知念高等学校講堂に於いて、民間の代表的人物、一村に付三名及五名の割合にて合計三百人の全島代表参集の下に懇談会を開催したる處、各代表の所論を要約すれば大約左記の通りに付論旨達成万御考慮相仰ぎ度旁々右報告す。 記 一、民意を代表する機関設置問題についての懇談要旨 1 世界の趨勢はデモクラシーである。沖縄もデモクラシーでなければならぬ。然るに沖縄の現状は民意を無視した、民政府の封建的な独裁下にある。これはアメリカの意図にも反することであり、また、全島民の絶対に反対するところであるから、須く世界の趨勢に即応して、デモクラシーで行ってもらいたい。 2 民政府を批判することは軍政府を批判することで絶対に批判は相成らぬと、弾圧政策をとっているが、之は責任回避の仕業である。須く斯かる態度を清算し、軍政府に対し、責任をとる民政府であって欲しい。 3 民政議会を無視する政策をとっているが、島民は既に課税されているのであるから、義務のある虚、当然、権利がなければならぬ。主要政策は民意を代表する機関に諮るべきである。 4 現在の民政議会は有名無実であるから宜しく解散せしめて、名実相伴う民意を代表する議決機関を早急に設置すべきである。 5 民主々義では知事を選挙するのが建前であるから、選挙によって新しく選出してもらいたい。さらに現在の民政議員も全部民選によって選出し更えてもらいたい。 6 以上を実現させるためには、今日、一切の隘路の根元となっている言論、結社、出版の自由を認めてもらいたい。 二、道議昂揚問題についての懇談要旨 1 青年の道義が頽廃しているのは政治の貧困に基因する。政治的に沖縄の在り方を闡明にし、沖縄の進むべき方向を確立することである。それが確立されれば、青年も自ら進むべき方向を見出し、前途に希望が持てるようになり、自然に道義も昂揚されるから、早急に沖縄の政治を民主化し、沖縄の政治の方向を指示してもらいたい。 2 道義頽廃の第二の原因は経済的面にある。すなわち極度な生活必需品の欠乏之である。元々、沖縄は泥棒も居ない道義の島であった。それが斯くの如き事態に陥ったのは、現に採りつつある経済政策が、住民の實生活に則っていないからである。従って少くとも日常生活必需品の配給、勤労報酬等に対し、一層の改善を考慮せられたし。 3 第三に道義頽廃は社会的である。現在の沖縄はあまりにも役得徒輩が跋扈し過ぎている。指導的地位にある者は殆んど皆裕福な生活を為し、一般大衆は悲惨な生活をしている。今日の沖縄としては、原則的には皆一律の生活を興えられている筈なのにも拘らず、斯かる矛盾が存在するということは、道義昂揚を阻害する最大の癌となるのである。更に一部に於ては食わんが為にというよりも、寧ろ儲けんがために闇をやっているが、之に対しては警察力を強化し、断固たる態度を以って臨まれたい。 4 施設的には島民の趣味教養を昂める機関がないことが指摘される。大衆的な演劇等の如き娯楽施設の強化拡充を通じて島民の精神的生活向上を期せられたい。 5 青年層に対し、自主的に道義昂揚即沖縄建設に邁進できるような法的な機会を与えねばならぬ。 6 今日の道義頽廃は、社会が之を容認しているからである。もっと社会が是は是、非は非として、その非を遂げさせないようにする一つの組織を持つことが必要である。 三、生活安定問題についての懇談要旨 1 生活安定の根本策は結局、社会組織、生活組織、経済組織が民主々義に構成されない限り解決できない。故に1日も早く民主々義沖縄が実現するよう努力されたい。 2 沖縄の復旧建設には莫大な物と金が要る。この沖縄の経済的苦境は微温的な対策では克服できない。物と金は到底、沖縄だけの力ではできない。これは破壊の責任者である日本が負うべき責務である。故に民政府に於いては軍政府とも協議して、日本に対し建設復旧に必要なる賠償金を要求し、これによって永久的にして且つ決定的な施設を為すべきである。 3 当面の具体的方法としては、通貨の流通高と必需高と物資量との均衡を図るため、米ドルと関連する沖縄独特の新貨幣を造り、それと切り換えをして貰いたい。 4 アメリカから支給されている食糧を全部は受け取ってないようだが、是非、全部受け取るように努力して貰いたい。 以上 以上で「戦後の沖縄の言論の自由はいかに斗い取られたか」の項目は完結しました。引き続き「戦後の結社の自由はいかにして斗い取られたか」を次回から連載することにします。 |
|
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火19・新報1982.04.03) |