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荒野の火

 沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火(連載:琉球新報1982.03.15〜1982.05.09)


  山 城 善 光

◆ 目  次 ◆
序 章 灰じんの沖縄に帰る
第一章 言論の自由への闘い
第二章 結社の自由への闘い
第三章 出版の自由への闘い
第四章 知事、議員公選への闘い
第五章 知事、議員公選への闘い[続き]


序 章 灰じんの沖縄に帰る


 1、ああ!沖縄よ<引揚者の衝撃>

 誰も何とも云わなかった。船底から這い上がって甲板から、眼前にひらけた懐しい沖縄の島影に、喰い入るように見守っているだけであった。島の原色である青がところどころに残っていたが、焼き盡された表土には、まだ余燼がくすぶっているような錯覚がよぎった。
 昭和21年の初冬、12月1日の昼下がり、空は晴れ渡り、海も珍しい程に凪いでいた。東京の幾千日かを泣きの涙で恋い慕い、嘆き憂えてきた郷土の焼け残りの姿が、LSTの甲板上に這い上がってきた私達引揚者に、ただ無言の溜息をつかせるばかりであった。近づいてくる島影に、しばし見とれていたが、何か動いているものが眼底に飛びこんできて、私の深く長い溜息は急にとぎれてしまった。
 ジープやトラックの交錯する姿を、遠景の中に確認したからであった。LSTが急にエンジンの音を落したので、その瞬間私は妻のことを思い出し、慌てて船底に下りて行った。妻初枝は海のない栃木県生れで、初めての船旅であった。勿論沖縄入りも初めてであった。乗船以来5日間も絶食し、茶湯だけで生きのびているようなものだったので、入港を知らせて元気づけるためだった。
 「おい、着いたぞ!すぐ上陸だぞ!!」
 船酔いは妙な病気で瀕死のような重態でも島影が見え、岸壁に着けばけろりと癒るもので、初枝はとたんに小さい眼を大きく見開いて起き上った。共に引揚げて来た親戚と同郷の一団が、「着いたぞ!着いたぞ!!」と口走りながら、次々と上陸を待ちわびる行列に加わった。船底がきしり船首が開いていよいよ上陸となった。みんな無言であった。一様に両眼だけを輝かせて静かに前進していた。
 郷里の喜如嘉から誰かが迎えに来ているのではないかとの淡い期待が、私の胸騒いに入り交って背のびを繰りかえさせた。遠い喜如嘉からは来てないとしても、民政府の受け入れ担当官や、入港地近在の生き残り同胞達が、待ちわびているのではないかなどと、勝手な思いを馳せながら刻み足で出口ににじり寄って行った。やっと船首にいざり着き、桟橋に上陸の第一歩を印したその途端、私は異様な光景を目撃し、一瞬たじろいでしまった。次の瞬間私は変り果てた沖縄人の姿に暗然となり、名状し難い淋しさに囚われてしまった。
 それは一見してすぐ分る沖縄青年の変り果てた姿であった。腰には拳銃をぶら下げ、腕にはCPという腕章を巻いた青年の血の気のない表情!まるで化石のように棒立ちをして私達を出迎えるのでもなく、また警護するのでもない虚脱の姿に、私は全く予期しない衝撃を受けてしまった。上陸したらたとえ知らない人であっても、抱きついて互いに生き残った喜びを語り合うという情景を、勝手に思ったり考えたりしていたので、無惨にも裏切られた上陸第一歩となったのであった。
 そこは戦前よく訪ねた泡瀬に通ずる東海岸の一角であることは見当がついたが、地名が久場崎だとは知らなかった。その久場崎海岸の見覚えもない大きな大きな道路を、ジープやトラックが間断なく行き交っていた。その道路を横切って上った丘には、一群のコンセットが私達を待ちかまえていた。まるで捕虜のように行列をさせられた私達は、頭からDDTをふりかけられて、これこそ文字通り浦島太郎の里帰りとなってしまった。引揚者達が一様に受けねばならぬ上陸第一歩の洗礼であり、忘れられぬ寸劇であった。
 間違いなく沖縄に着いたのであるが、凡そ視界にあるもの、耳に聞える音、配給される食べ物までも、昔の沖縄を何一つ語ってくれなかった。ただ私達を誘導し、世話をする生き残りらしい労務者の口をついて、時折りこぼれてくる沖縄口だけが、ここは確かに沖縄だと裏づけるだけであった。5日間の海路も長かったが、ここに着いてからの3日間はその数倍も長かった。
 12月4日、待望の北山原行のトラックが配車され、名古屋でLSTに乗り込んだ時よりも大きく胸を躍らせて乗り込んだ。インヌミヤードゥイを後にして、無雑作に大きく拡げられた道路の両側に点在するテント小屋や焼け残っている瓦葺きの家々を見やりながら、北へ北へと物凄い車の後塵に追われるようにして突進していった。東恩納から仲泊に出たが、そのあたりからやっと戦前の沖縄を思い出させる風物が私達にほほ笑みかけた。焼け跡らしい屋敷の生垣に、血のような真紅の数点が私を射すくめた。思わず私は「後生花...」と叫んだ。そしてよぎった瞬間に大きくざわつき揺れた花達に合掌した。昔の姿そのままに咲いている後生花は何故か私を涙ぐまさせた。沖縄帰還上陸第2番目の強烈な印象として、その赤色は未だ私の眼底から消えない。

  旅人よ われを枕に 憩えよと
    嘉津宇はやさし 春の夕暮れ

 仲泊を後に一路北上したら、放浪詩人池宮城積宝がこよなく愛して右の一首を捧げた嘉津宇の連峰が、懐しい昔のままの姿で私達に笑みかけさし招いてくれた。思い出も深い名護曲いを通り過ぎたら、名護の町は深傷を受けていた。羽地街道を抜けて稲嶺源河に来てみると、夫振石も古宇利島も、前地、後地も昔そのままの姿であった。今は跡かたもない源河稲嶺間の松並木は、昔さながらの美しさでその枝を海風にそよがせていた。
 いよいよ母村大宜味と隣村羽地の境界線を突破し、津波部落にさしかかった。津波も深傷を負っていた。塩屋湾の風光は変ってなかったが、寄り添う部落も傷だらけで特に塩屋の姿は痛々しかった。根路銘、大宜味、大兼久の傷跡も私達の胸をしめつけた。饒波部落は健在と肯きながらどうこうの一本松とさーざま石に笑みかけた。もうすぐ喜如嘉である。一団がざわめき出し、みんなの眼光が一様に輝いた。私は思わず初枝に寄り添った。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火1・琉球新報1982.3.15)


 2、喜如嘉に帰る<懐しい村の段々畑>

 北から南におよそ1キロ半も連なる召喜名山は、なだらかに背丈を落として、饒波村どうこうのいちぶる海岸で、その岩肌を黒潮に撫でさせている。そこは饒波村と喜如嘉村の村境になっていて、幼少の頃、よくその山裾をよじ登り、隣村を訪ねたものだが、大正の初め頃に県道となり、拓り開かれて車も自在に通れるようになった。北山原には珍しい直線道路の板敷道で、一名「いんにぷい道」とも呼ばれていた。やっと辿りついて眼のあたりにする懐しい段々畑!ここでも昔そのままの召喜名山の松共が、枝をさしのべて私達を迎えた。板干瀬に寄せて砕け散る磯小波!見えかくれする佐馬岬!そして阿旦林を背にした喜如嘉浜!!
 昭和6年9月4日、同志金城金松、仲村渠忠一等と共に、10人が後ろ手に手錠をはめられて、名護署に引きずられて行った、忘れようとしても忘れることのできないその板敷道を、トラックはあっという間に通り過ぎて、喜如嘉部落入り口の石崎(いしんさき)についた。石崎!そこは永久の旅に出て行く者達との別れの涙で湿っている場所柄であり、また無事生還の喜びを噛みしめることのできる地点でもある。

  囲(めぐ)る縁の山蔭に 集う家並の色はえて
    永久(とわ)に揺がぬ 喜如嘉村

 これはこの地点に佇んで、青春の情熱をこめてうたいあげた拙作喜如嘉口説第一節の本歌だが、その土の上にやっと辿りつくことができ、暮れゆく冬空に浮んでいる故郷を、眼のあたりに眺めることのできた私達は、身動きもせずに暫くの間佇んでいた。やがてトラックは動き出し、渡口バールを経て、浴川(あみがわ)橋を渡り、本部落入り口の前里小前広場で止った。車が止るや否や親戚に当たる嵩原久光(元琉球新報編集局長)がトラックから飛び降りて、すぐ近くの吉門家にかけて行った。吉門家は彼の母の生家であり、私の祖父の家である。トラックから荷物を下ろしていると祖父貞潔が、久光にかかえられるようにして杖をついて出迎えに来た。
 昭和14年、日本共産主義者団事件に連座して3ヵ年の実刑を堺刑務所で受け、出獄後帰郷した時、母方の叔父叔母は涙を流して私の生還を喜び、酒宴を催して温く迎えてくれたが、一座に呼ばれた祖父は、私の顔を見るや否や「あい、まじむん!(あら、魔物!)」と言って側にあった急須を私に投げつけたのであった。このような苦い思い出があったので、私はどうして祖父に挨拶をし、本土から連れてきた妻を紹介するかと、1人ひそかに思い悩んでいたのであったが、そのことも含めて私のすべてを知り尽くしていた久光は、気をきかせて、祖父の機嫌を伺いに先に降りて行ったのであった。
 「じんこう!じんこう!いっちゅてーさや!!」(善光!善光!生きていたね!!)と言って祖父はもじもじしている私に抱きついてきた。余りにも意外な言葉に、感極まり、思わず涙をぽろぽろと落として祖父に抱きついた。すかさず私は初枝を引き寄せて、祖父の手を握らせて。
 「ふすめー、わーとぅじどー、はつえどー」(お爺さん、私の妻ですよ、初枝ですよ)
 「はつええへー!?……はつえ!はつえ!!」
 祖父は初枝の手を握ってしばらく立ちつくしていたが、その眼はうるみ、口元には慈愛に満ちた微笑が浮んでいた。頑固一徹の雷祖父として村中の人々から怖れられていた祖父は、まるで人間が変わったように思われたが、それは怖い怖い祖父の愛情の極限であり、要約であった。この寸劇が余りにも強烈な印象となって残っているために、東京の空で日夜心配しつづけてきた母との対面の場は全く記憶にない。然し母は私の無事帰還を心の中では喜んでいながらも、祖父とはあべこべに依然として、私をならず者だとして責めたてた。初枝は私にだまされて妻になったのではないかといって心配し、ことさらに初枝に同情しかばっていた。
 私が育った家はいつの間にか消え去ったらしく、空屋敷になっていて、母はすぐ近くの畑の一隅に小さい瓦茸の家に1人で住んでいた。その家は狭いので第一夜は祖父の家で明かし、翌日遠い親戚に当たる腰間家の一番座敷に引っ越した。親戚は勿論、隣組をはじめ村中の者が次々と訪ねて来て、互いに生き残った喜びをかみしめ合った。
 「70に近い金城屋のお婆さんが、慣れないハイヒールを履いて、転んでけがをしたそうだ…」との情報が東京にもたらされ、私は頭をかしげたものだったが、お婆さんは昔の通り裸足で訪ねて来られた。戦災を免がれた喜如嘉は、人の心も全く戦前そのままであった。変わっているのは方々の家に疎開民が未だおおぜい居残っていることと、食べ物がほとんどアメリカ製で、缶詰が多かったことであった。ところが4、5日もたつと、やはり戦災はこの村にも及んでいることが分かり、不安と悲しみの心が頭をもたげてきた。それは毎日の如くマラリヤで死んでいく疎開民のことと、白い位牌となって戦友に抱かれて帰ってくる若者達の変わり果てた姿の多いことであった。案じていた血盟の同志の金松と忠一も、死場所が分からないままに不帰の客となっていた。大陸から、南方からも引き揚げてきた郷友で、村は喜びに湧きかえり、新しい力が充ち満ちてきた。多くの避難民をかかえている上にこのような郷友が生還してきたので、住み家が絶対的に足りなくなってきた。やがて若者達の建設譜が鳴りひびき、山へ山へと建設資材切り出しに先を争うようになってきた。私もいつまでもよその家に間借りとはいかないので、思い切って初枝と二人の住み家を元の屋敷に建てることにした。帰郷して20日にも満たない12月18日に、私は山鋸と斧を担いで、思い出も深い玉合板を登って山入りをした。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火2・琉球新報1982.3.16)


 3、愛の巣と校歌(上)<喜如嘉の人情>

 35年を経た今日、私の机の中に今なお一冊のノートが保存されている。それは戦時中に粗雑なザラ紙でできたノートで、もう表紙も抜け落ちているが、中身はそのままである。冒頭に家造日記と大書し、別掲末尾メモのように、喜如嘉の人情を物語る貴重な資料が丹念に記録されている。
 さらに私以外には見きわめることのできない、素人設計士の平面図や立体図が無数に描かれてあって、私の当時の意欲を物語っている。と同時に私の追憶をあらたにしてくれたのは、そのノートの中に喜如嘉校歌の試作が幾つも記されていて、私の校歌作成に寄せた当時の情熱と情景をまざまざと思い出させている。後日、私達喜如嘉の人々が沖縄建設の先頭に立ち上がってゆく心情の背景ともなっていると思われるので、煩をいとわずに本稿末尾に資料として若干の引用を試みることにする。
 若い頃大工となり、また船大工の経験もある祖父は、一日も欠かさずに工事現場に顔を出して、みんなの作業を見守っていたが、約2ヶ月の日子を要して、2間半に3間の小さい瓦葺平家建ができ上がった。それで、東京から持ち帰った100冊程の書籍と開戦以来の朝日新聞全部を6畳の間に並べ、読物のない青年達の閲覧に供した。初枝が持ってきたミシンも所を得て、毎日軽快な音をひびかせたので、女子青年達も寄ってたかってきた。
 それで海のない栃木から来た初枝は、微塵も郷愁にかられるようなこともなく、ひたすら彼女達から喜如嘉の言葉を覚えるのに夢中になっていた。たちまち我が家は昼夜の別なく、活況を呈するようになった。幸い母が小学校1年を修業していて、片言まじりの標準語が話せたので、初枝も案外早く喜如嘉になじむことができた。
 ところで、昭和20年3月23日から米軍の上陸作戦が始まり、住民は山中に避難し、7月の中旬頃に下山したとのことだが、東京で身内の者の存否を案ずると同時に、村の長老達の上にも思いを馳せるのであった。帰還してみると、沖縄政界の大長老の平良真順翁や生き神様と言われた嵩原久二翁、喜如嘉実業界の先駆者大山茂樹翁等をはじめ、大山岩蔵先生、平良仁一先生、山田親度先生等も皆御健在で、今更ながら「黄金(くがに)まく喜如嘉」の有難さをしみじみと思い知らされた。
 家族共々に疎開するはずだった沖縄刀圭界の大御所金城清松先生が戦雲に災いされた、よね夫人を沖縄に残す身の上となり、終戦直後お会いした時に断腸の思いをして居られたので、その消息を訪ねたら、御健在だとのことを聞き、私は重ねて心の中で万才を叫んだ。
 下山すると、これらの大先輩達を後ろ盾にして、喜如嘉校区は早くも教育活動に取り組み、戦後沖縄教育界に先鞭をつけるが(福地曠昭著「村と戦争」「喜如嘉校創立90周年誌」参照)、私達が帰った12月の初め頃は、私達が通学した思い出の旧校舎が、その活動の拠点となっていた。帰還した直後のある日、私は呼ばれてその旧校舎に行ってみると、校区の大先輩方をはじめ、おおぜいの幹部が集まっていた。
 議題は校歌制定の件であったが、協議の結果歌詞は懸賞募集とし、一般に応募を呼びかけることになった。そこで私も生きて故郷に帰れた感激に浸っていたので、その感激を記録してみたくなり、即座に応募を決意し、その作詩に取りかかった。家造日記に記録されている通り、私は毎日山入りをするが、山道を登りながら、またみんなが寝静まった深夜に、ランプの灯りの下で、何度も何度も書きかえて、ついに快心の歌詞ができ上ったので、学校当局に提出した。審査の結果は全員一致の形で、私の作が1等当選となり、校歌に決定された。
 喜如嘉校の歌詞は次の通りである。

 喜如嘉校歌
  一、狭山脈(はさま)が黎明(あけ)の 空澄みて
    緑山脈(やまなみ) 映えゆけば
    瑞穂稲田に風そよぎ
    そびえて高し 喜如嘉校
  二、苦難に克ちて 拓きたる
    理想が丘の 学舎(まなびや)は
    古き歴史を 秘めて建つ
    希望は新 喜如嘉校
  三、嗚呼光栄を 受継ぎて
    自由と平和の 光浴び
    学びの道に いそしめば
    校旗は靡く 喜如嘉校
  四、いで蛍雪の 若き日を
    共に手を取り 励み合い
    明日は巣立たん 四方の山
    栄光永久に 喜如嘉校
                 −昭和21年12月作

 家造日記は昭和21年12月8日に、私他6人の山大工の山入りにはじまり、明けて22年の2月5日までは明記されているが、約2ヶ月で完成している。その間に協力して下さった部落民の人数は、山大工が延べ51人、木材運搬人夫29人、大工113人、その他雑役など55人、合計248人の数に上った。その内の技術者の大工と山大工以外のほとんど全員がゆい(イーマール)の精神に基く労力奉仕と無条件厚意の奉仕であった。現金は1人わずか1000円しか持ちかえれなかった引揚者の私達夫婦が、このような部落民の奉仕によって見事な住家を持ち得たことは、全く喜如嘉の伝統的な美しい人情の賜物であった。その他に、米、芋、野菜、缶詰、酒等の必需品を毎日の如く親戚知友をはじめ部落民一同が持ちこんで恵んで下さった。
 1月28日の日記は次のようになっている。大工、金城香一外8名(氏名省略)。山大工、金城道吉外5名。人夫・平良長吉外6名。寄贈品、新川より米1升。伊理より米1升、マーサー1升、漬物若干。伊集より米5合。腰間より米1升、野菜少々。山口ナベ姉よりパパヤ11個。西り徳より芋若干。神山姉より酒1升、米1升、芋少々。この一例のように毎日この程度の寄贈があった。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火3・琉球新報1982.3.17)


 4、初めて見る中部戦跡<荒廃する人心>

 大工仕事も順調に運び、いよいよ屋根葺きの段階にきたので、1月10日に私は屋根瓦を拾いに中部に出かけた。その時政治の中心地である石川市や東恩納にも立ち寄り、幾人かの旧知の方々にも出会い、いろいろな事を見聞することができた。幸いにも東恩納の輸送部隊に従妹婿(いとこむこ)の平良光仁君が勤めていたので、トラックを出して貰い、焼き払われて、瓦が一面に散ばってあるという、ある部落跡に連れていって貰った。
 そこは喜如嘉と同じように無傷の隣部落饒波村出身工作隊の拠点となっていて、幾つかの規格住宅があった。偶然にも小学校時代から旧知の間柄であった金城賢栄君にめぐり合った。突然の来訪に驚いた彼は、喜んで焼け跡に案内し、部下を指図して積みこめるだけの瓦を、またたく間に拾い集めてくれた。初めて踏む激戦地の傷跡に身ぶるいをしたが、まるで金鉱でも掘り当てたような胸のときめきを覚えながら、1枚1枚えり分けていった。
 大宜味大工の血と栄誉をうけつぐ饒波村の人々は、逸早く中部に進出して、沖縄建設の先陣を担っているのであった。私は懐しさの余り、すすめられるがままに彼のキャンプに1泊し、互いに生き残った喜びを語り合った。酒杯を傾けながら、中南部の実情、民政府と軍政府の関係、更に沖縄の政治情勢、社会情勢等について、初めて想像もつかない実情を知らされた。
 帰還して以来、沖縄の現実を知り、世界の動きを覗くことができる窓口は、四六判半裁の小さな「ウルマ新報」だけであった。そのウルマ新報の報道にむしろ感謝の念さえ抱いていた私は、平和郷喜如嘉では計り知ることのできない、混乱、頽廃、虚偽の風潮を聞かされて、強いショックを受けた。翌日私は瓦を積んで帰ったが、それからというものは、会う人毎にその地域の実情をほじくり聞いた。その結果、私は次のような事共もトラックに積みこんで帰らなければならなくなった。
 先ず第1に「民政府を批判する者は軍政府を批判する者である」という迷信であった。しかもその迷信は住民の中に根強く浸透していた。その迷信を砕いていえば、「民政府は軍政府と一体であり、而も絶対的な存在であるから、一切の批判は罷りならぬ」ということである。さらに「軍は猫であり住民は鼠である」との狂気じみた迷信であった。それも砕いていってみると「少しでも民政府の政策を批判すると、直ちに軍ににらまれ、捕えられて死刑になるぞ」との恐るべき脅迫の文言となる。
 第2に私の心を痛めたのは「上や役得に、中や闇しゆい、わした下方や 戦果上げら」という俗歌が蔓延していて、まるで泥棒は当然のことだとの風潮が漲っていることであった。そして、女はパンパンとなって米軍に身体を売って得た金で、あでやかに装っているのを恰も誇らしげにしている姿が、一般化しつつあることであった。
 このような姿を見聞した私は、それをどのように理解すべきかに悩んでしまった。かねがね中南部の事情については、断片的に情報としてもたらされ、茶の間の話題にされていたが、これ程までに沖縄の人心が荒廃しているものとは思ってなかった。
 東京にいる時、米軍に占領された沖縄は食糧も潤沢で、世情も安定し、官民が一体となって、復興建設のために槌音を高らかに鳴りひびかせており、民主主義による理想郷沖縄の建設が進みつつあるとの情報をうけていたので、私は楽土沖縄の到来を信じて引揚げてきたのであった。
 私の引揚げに当って沖縄人連盟総本部では、永丘智太郎理事長、八幡一郎事務局長等総本部役職員が、惜別激励の小宴を催して下さったが、その時婦人部長の與儀美登先生が「山城さん!沖縄に帰ったら、沖縄復興のために頑張って下さい」と激励して下さったので、私は「ただ母に会いたい一念で帰るのであって、今さら私などが、死線を越えて生き残った郷土の同胞の前で口が利けるはずはありません」と答えたところ、先生が私の手を強く握りしめて下さったことを忘れることができない。私は文字通りそのような心境で帰ってきたのであるが、以上述べた通りの沖縄の現実を見せつけられ、大きな希望を持ってきたアメリカの民主主義に、はたと困惑してしまった。
 住家もでき上り、身辺の整理も一段落し、初枝もすっかり喜如嘉になじんできたので、私も人並みに食糧確保のための、田畑開墾に励まなければならなくなった。ちょうどその頃、隣村の鏡地部落に、沖縄糖業界の恩人金城信直先生が、その所有する三十町歩程の廃田を氏の出身地喜如嘉の引揚民達に無償で提供されたので、私も一反歩程借りうけて稲作に取り組んだ。毎日4キロの道を歩いて開田に励み、やっと植えつけはしたものの、不毛の地で、骨折り損のくたびれ儲けという結末になってしまった。
 ところがそのお陰で私は初枝を、当時猖獗を極めていたマラリヤからまもることができた。というのは青春時代に共に農民解放のために闘った、昔の血盟の同志大城感一君が、道中の半地部落に生き残っていて、互いに抱き合って再会を喜んだのは、勿論だが、彼が本土から持ち帰ったという秘蔵の注射薬606号3本を私に分け与え「これさえ射っておけば絶対にマラリヤには罹らない」といって、友情の深さを示してくれた。私は早速従弟の金城貞光医師に頼んで、3本共初枝に射ってもらった。後日その効果はてき面に現われて、初枝は完全にマラリヤからまもりおおせたが、私はいずれ本稿で書かねばならないような悲喜劇となって展開した。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火4・琉球新報1982.3.18)


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