Toppage Critic 談話室(BBS) 図書室 リンク Emigrant
荒野の火

 沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火(連載:琉球新報1982.03.15〜1982.05.09)


  山 城 善 光

◆ 目  次 ◆
序 章 灰じんの沖縄に帰る
第一章 言論の自由への闘い
第二章 結社の自由への闘い
第三章 出版の自由への闘い
第四章 知事、議員公選への闘い
第五章 知事、議員公選への闘い[続き]


第四章 知事、議員公選への闘い


 1、自主性確立への道<目標は沖縄の独立>

 私達の民主同盟の中心スローガンに「民主々義体制の確立」すなわち知事、議会議員の公選を掲げて、懇談会、演説会を通じて全住民に訴え、叫び続けて来たが、一体どんなことを訴えたのかの一例を示してみる。幸いにも私が訴えた草稿の骨子を保存しているので、それを写してみる。

自主性確立への道
 1、約束された沖縄の将来
  △米一国に依る信託統治を経て独立国になる−。之が2×2=4の原則。
  △国際情勢の悪化は右原則を変える。即ち2×2=3又は2×2=2。
  △然し沖縄人自体の無自覚の場合は、2×2=0即ち米領として併呑される。
 2、現在沖縄に於ける政治観の二大動向
  △消極観 軍政下だから仕方がない。講和条約まではどうにもならない。(現民政府と夫れに迎合する事に依って利益を受ける連中)
  △積極観 軍政下でも軍の占領政策に触れない限りポッダム宣言に規定する民主化条項は全面的に沖縄にも適用されるべきである。(本民主同盟と在野の知識層)
 3、消極的は沖縄を如何なる状態に陥れたかや
  △民政府に於ては政治の貧困、無政府状態、日暮し政策、誇大妄想計画
  △民間に於いては廃頽気分の醸成、道義の頽廃、弱肉強食思想と階級分化
 4、斯かる段階に於ける知事並びに議会議員選挙の意義
  △自己批判の機会(対内的)消極観の撲滅と積極観の昂揚確立
  △民族の真姿顕示の機会(対外的)民意に依る自主的強力民政府の樹立、議会の英雄的活動。
 5、如何にして強力政府並びに議会を作るか
  △組織を背景として起て 民衆を組織化し、組織の一員として代表を送り、専制化を防ぐ。民政府並びに議会を民衆と直結せしめる。
 6、現段階に於いる組織理論
  △軍政という特殊条件下の沖縄 主権は現在軍政府にある。斯かる段階に於いては如何なる政党と難も最高の目標は主権の回復に置かねばならぬ。
  △民主的な民族統一戦線の結成 積極観に基く極めて幅の広い第一政党か又は類似政党の提携に依る統一戦線結成。
 7、比島独立運動を政治外交面より考察
  △今日、沖縄人は沖縄に来ている比島人を恰も沖縄人よりも劣等民族であるかの如き感を持ち、侮辱しているが果たして然るや否や
  △民族的に宗教的に地域的に複雑なるにもかかわらず民族意識が強かったために遂に独立を達成す
  △如何にして解放されたか 三百年に亘るスペインの統治時代に暴圧搾取にあえぎ、反乱を起こす。○重税の為、○強制労役の為、○宗教的原因の為、○代金不払いの為、○立憲国民たるの権利を要求して、○西人追放の陰謀を起こして、○専政制度逆戻りに抗して、○西人との平等待遇を要求して。
  △米西戦争勃発と米国への譲渡(1889年)
  △アギナルド将軍等の独立を裏切らる米国建国以来の理想たる「被治者の承認に依る統治」に矛盾。それを理論的に肯定せしめる為に「比人は自己で統治する力なき為、米国の文化とキリスト教の恩恵に浴させる義務あり」となした。
  △米国の統治下に独立運動を展開 内部的には独立運動をめぐって対立抗争があったが、1935年コンモンウェルス新政府が出来た時、事が比島の運命にかかわるが故に一切の行がかりを捨てる。ケソン(上院議長)オスメニャ(上院議員)が対内的、対米的、対外的立場より責任を感じ提携す。

 先に私は仲宗根源和先生と私との間に、沖縄の将来の在り方について基本的に違う見方をしていたと述べておいたが、それはどういうことであったかといえば、独立論を掲げている同じ民主同盟の陣営の中で、仲宗根先生は完全に日本との縁を断ち切って、アメリカ民主主義との積極的な連携による沖縄による沖縄の独立論であった。それに対し、私の沖縄の自主性確立を根幹とする独立論は、素晴らしいアメリカ民主々義論に賛同しながらも、そのいうこととやることとの矛盾点を露呈している米対外政策への警戒心が、私の政治行動の基底となっていたという点であった。
 然るが故に右のような私の演舌となり、あえて比島が独立までに歩んだ苦難の道を述べて沖縄人の自覚を促したのであった。私の心の中には、沖縄は最終的に民族自決の鉄則によって沖縄の在り方を決めねばならぬ運命にあるが、沖縄語が近代世界文化の仲間入りをして堂々と互角の闘いを進め得る深さと幅を持ってない欠点があること。
 さらに世界共通語ともいうべき英語文化の一環としての独立論となると、民族の否定になるとの持論を秘めていたので、窮極的には深さも幅もある日本語文化の系列の中に沖縄民族は生きて行かざるを得ないとの結論に達していた。従って耐え抜くことだとしていた。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火42・新報1982.04.26)


 2、三党の民族戦線演説<人民党の青年層活躍>

 民主同盟に引き続いて誕生した人民党と沖縄社会党も、知事議会議員の公選をその中心スローガンとしてそれぞれ独自の演説会等を展開させていた。社会党の場合は依然として一人一党の奮戦振りが目立っていたが、人民党の場合は全島的に確立されている、うるま新報の支局長達が中核となっていたので、その勢いはたちまち民主同盟を追い抜きつつあった。特に若い青年層の活動が注目された。このような動きを期待し祝福していた民主同盟は、人民党結成4ヵ月後の47年11月26日に、正式に共闘を申し入れた。それに対し次のような公式の返信が届いている。

 1947年11月27日
 沖縄人民党中央委員長 浦崎康華
 沖縄民主同盟事務局長 仲宗根源和殿
 拝啓、益々御奮闘の段大変に存じます。
 陳者 昨11月26日私の不在中、貴党代表者桑江朝幸、上原信雄の両氏の御来訪あり、文書を拝見して各党連合協議会開催の件を知ることが出来ました。何分にも本件決定は常任中央委員会か中央委員会の権限に属しますので、その何れを招集するにも余日がありません。従って12月1日の準備会にはわが党代表は出席困難と思いますから不悪御了知下さい。今少し時日をかして下されば党の機関にかけて正式に党議を以てお答えいたしますが、今回は御趣旨を常任中央委員に伝える暇もないことを遺憾に存じます。
   敬具


 私達の申し入れが確かに急ぎすぎた点もあったが、結成間もない人民党としても未だそのような申し入れを受け容れる体制は出来上ってなかったはずだ。それでも民族的な大同団結を本旨としている私達の民主同盟は、引き続き民族戦線結成を強く推進して行った。その結果暫く客観情勢も熟してきたという点とも結びついて、約一カ年近くの辛抱強い私達の呼びかけに応じて、翌48年の9月ころに具体化への希望の芽が出てきた。もう一度浦崎康華人民党委員長からの書伝を引用してみる。

 拝啓、先日は失礼しました。洵に有意義なお話しを拝聴しわれわれの進むべき途が開かれたような気がします。外的内的諸条件に照しても一年半前からの持論である民主政党の共同戦線結成の情熱は失っていません。いなむしろその必要がますます加重していると思います。その話を人民党越来支部長たる宜保為貞氏にも話しましたところ同氏も賛成せられメンバーの一名に加はることを承諾してくれました。(後略)
 9月30日 浦崎生
 善光兄


 このように両党の友好的な接触は組織的に継続されて行って、遂に49年の5月ころから本格的な共同戦線が結成され、民族的な一大啓蒙運動が展開されるようになった。大宜味朝徳先生の社会党の参加も認めることにして三党の合同民族戦線演説会の形をとって発足したが、実質的には民主同盟、人民党の両党の統一戦線であった。そのころから、暫くうるま新報も民主同盟の動きも紙上に載せるようになった。幸いにも当時の政党活動を報道した記事があるので引用してみる。 

三党の民族戦線演舌会盛況 −1949年5月16日−
 社会、民同、人民三党共同の民族戦線結集演舌会は去る1日から那覇市を皮切りに糸満、石川、名護、本部、今帰仁、大宜味で開催各会場とも聴衆殺到各党三名宛の弁士が民族の生くべき方途を獅子吼各地とも演舌会終わるや直ちに人民大会に移って三党と協力、左記三項の早急実現方を軍に陳情することになった。
 △琉球知事、議会議員を公選し、速かに憲法を制定せよ。
 △1948年度所得税全額免除せよ。
 △自治体確立するまで軍補給物資を増配せよ。

 このような反米運動ともとられる動きがその要因の一つとなって瀬長亀次郎先生はうるま新報社長の椅子を去らざるを得なかった。そして浦崎先生に代わって人民党の2代目委員長になるが、両党は益々連繋を密にして共同戦線を張って行った。その年の11月になって那覇市長と石川市長の改選という思いがけない事態になってしまった。それは民政府の一、二の部長の陰謀によって無法に強行されたものだから、たちまち人民大衆の反発を買い、三党の結束を一段と強行する結果と相成った。そこで三党は12月26日に三党連絡協議会を持ち、この問題を引っ提げて全島的な弾劾演説会を展開させることを決めた。人民党5人、民主同盟8人、社会党2人計15人の代表が集まり、瀬長亀次郎先生を議長にして次の4件を協議した。

 1、那覇市長選挙に関する異議申し立ての件
 2、民政府弾劾演舌大会開催の件
 △周辺地区より始め、裁判が近くなってから那覇で開催する。
 △日程は1月10日名護を皮切りに開始し、11日胡屋、12日糸満。
 3、宣伝方法
 糸満町長、本部町長との連絡は瀬長亀次郎とし、名護町長への連絡は上原信雄とする。同時に右の町長等を始め、与那城村長新垣金造、真玉橋景洋の両氏も応援弁士とする。
 △1月5日に民主同盟本部に委員と前記の面々が集って、ポスター作成を始め諸準備を為す。
 4、第二次計画案を左記の通りとする。
 △北部地区=本部、宜野座、今帰仁、辺土名。中部地区=金武湾、北谷、読谷。南部地区=与那原、百名、小禄。都市地区=那覇、石川、首里。
 5、シーツ長官との会見の件
 △12月28日に両党代表をシーツ長官と面談させ、政治的ゆがみを質させる。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火43・新報1982.04.27)


 3、シーツ長官と政党代表の初会談

 @知事、議員の公選について<4群島知事の公選発表>
 民主同盟は早くも結党した47年の12月から、知事並びに議員の公選実現のための署名運動を展開し、その署名簿を添えて陳情書を軍政府に提出してあったが、さらに三党が足並みをそろえてその促進運動を展開し、世論の喚起を図って行ったので、とうとう軍も手をつけざるを得なくなってきた。澎湃(ほうはい)として沸き起こってきた民論を盾にして、途中から抜けて行った社会党にはお構いなく、人民党と民主同盟が固く結んで、シーツ長官に迫って行った。両党は49年12月26日の三党連絡会議で要約されたと思われる左記六項目を一応の質問条項とすることにした。

 一、1500万ドルに及ぶ移入物資について説明されたし(疑問点を附す)
 二、軍工事から入るドル資金は産業生産面の資材輸入に振り向けては如何に
 三、知事議会議員選挙に準備があるというが、準備とは何か準備があるなら政党も協力したいと思うが如何に
 四、諮詢会に政党代表を参加させて貰いたい
 五、土地所有権認定について。認定後は軍の使用している土地、個人対個人関係の土地、公有団体と個人との関係の土地はどうなるか
 六、機関紙発行について。民主々義下においては当然機関紙の発行は許されると思うが、民政府が許可しない理由は何か

 この両党の共同提案はその後、さらに検討されたらしく、結局私の手許にある今一つの資料の通りまとめられたらしい。それは次に出てくる軍の回答と符を合するからである。今一つの資料とは次の通りである。

 一、シーツ政策に対する沖縄全住民の感謝伝達
 二、政党は如何にして軍政府に協力するか
 三、沖縄議会の改善策について。議員の選出は人民の直接選挙によるべきである。然らざる限り、それは民主政治に反すると思うが長官の意見を伺い度い
 四、労働組合の結成を認めて戴きたい
 五、民政府批判を意味するということがいわれているが、沖縄全人民はこぞってそれに反対意見である。民政府側の言っているように、それが軍政府で言い出した事であるにしても、この制度が撤廃されない限り、沖縄の早期復興を可能ならしめる善政はのぞむ事はできないとわれわれは確信している。それに対する長官の意見を伺いたい

 この陳情は見事にシーツ長官の心を揺り動かしたと見えて、意外にも早く話し合いの場が持たれるようになった。すなわち、49年の12月の30日にシーツ長官との会見が実現するようになった。これが文字通り軍政長官と政党代表との最初の公的会見であった。今日、午前9時半から北谷村桑江の軍政本部において、民主同盟の仲宗根源和、山城善光、桑江朝幸と人民党の瀬長亀次郎、上地栄の5人がシーツ長官と会い、先に提出してあった質問書、特に知事の公選問題に力点をおいて一問一答を交わした。一同の着席は図の通りであった。
 政党側の発言は責任者である党首に限られていた。私はこの会談の歴史的意義を見抜いていたので、その正確な記録の採取に全神経を注いだ。通訳を挟んでの採録なので案外楽であった。ほとんど速記できたつもりであったが、何分素人の走り書きにすぎないから、一、二の記録洩れも出て来ているが、全容を尽している。当日の儀礼的なあいさつ等は省略して、その一問一答を整理し列記してみよう。
 シーツ長官は開口一番、北の奄美大島、南の八重山、宮古、それに沖縄本島の4つの民政府の知事の公選は同時に行うと発表した。それを受けて両党首との一問一答は次のように展開された。

 仲宗根 オール沖縄の知事は一体どうなるのか。
 シーツ その件について各民政府で問題化し軍政符段階で結論が出ない場合は、軍政本部で取り上げる。
 仲宗根 今度新しく農林省を創設するとのことだが、それはオール琉球の農林省か。
 シーツ そうだ。軍政府が直接指揮し。軍政府の下に置く。
 瀬長 知事の公選はいつごろ実施するか。
 シーツ 各軍政府長官が発表する。その実施は近い。
 ○○(記録洩れ)議会も公選するか。
 シーツ 日本の選挙法を採り入れる場合は別々になるだろう、仲宗根さんの意見は如何か。
 仲宗根 現在行われている村長、村議の選挙の通り、一週間の間隔をおいて実施すればよい。
 シーツ 日本では一週間位間隔をおいてやっているね。
 仲宗根 その方がよい。
 シーツ 一緒にやるのと別々にやるのとでは如何なる利害得失があるか。
 仲宗根 間をおくと知事は味方だけを出そうとするし、議員を先に選出しておくと、今度は議員も党派心理が動いて、味方の知事を出そうとするようになり、立派な人物が選ばれないという結果になる。
 シーツ 仲宗根さんはアメリカの投票券を見た事があるか。
 仲宗根 ない。
 シーツ これ位(手真似する)写しを持って来るから……(立ち上って離席し、やがて戻って来て着席。投票券を示して話をつづける)合衆国では全部一度にやる。理由は金がないから。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火44・新報1982.04.28)


 A全琉統一選挙は見送り

 一、知事議員の公選について
 瀬長 公選の時期は近いと云ったが、何時頃か。 
 シーツ それは勿論知っているが、今の段階では秘密だ。ここで発表すると不公平となる。仲宗根さんに聞くが日本時代のようにしたらどうか。
 仲宗根 …(記録なし、けれども長官の次の答弁で推察できる)
 シーツ 一度に全部はできない。初めは知事と議員を先にする。だから近く人民が選挙することになる。誰でも立候補できる。自分の考えでは各島30人位でもよい。又幾人でもよいから進んで立候補することを喜ぶが、現在の選挙法で気に入らぬところがあるか。
 瀬長 現在の選挙法は、市町村長、会議員の選挙法であるから当然新しく作るべきだ。
 シーツ 現在の市町村長選挙法を一段高くしただけでよいではないか。
 瀬長 議員数は…(不明、記録洩れ)
 シーツ よく分りました。
 瀬長 各群島夫々の選挙実施を約束されたことは民主主義の一歩前進であるので、喜ぶ者であるが、何故全琉の統一選挙はやらぬか。
 シーツ 金がない。例えば合衆国の金の出所は議会である。議会で通過せねば出来ぬ。あっちにもこっちにも一ぺんに手を出すことはできない。時期が来るまで待って、時期が来たら一ぺんにやる。二カ年かかっても仕方がない。知事にも議員にも金が払えるようになるまでは辛抱して貰いたい。もう一度琉球人の能力を説明したい。皆様によく分って貰い度いことはハカーズ(?)の言葉である。それはみんなが全琉的な仕事に慣れるまでとの意味である。アメリカの人々は選挙という重大な仕事をする前には、経験を積んでから實施する。處が沖縄の現在の場合は金が無いために全琉統一選挙は實施できないのである。皆さんは10月に予算の問題で来た。それ以上のことは云えぬ。

 二、機関紙発行問題について
 知事議員の公選問題については以上の通り二政党党員と微に入り細に亘って一問一答が交わされたが、引続き陳情項目の一つ「機関紙の件」について次の通りの一問一答が交わされた。
 シーツ 機関紙の発行を許せという意味は何か。
 仲宗根 政党が党員と連絡を図るための会報の発行を認めてくれという意味だ。
 シーツ 陳情したことがあるか。
 瀬長 ある、民政府の船越情報課長が新しく雑誌を発行することを許さない。
 シーツ 紙がないからというのなら分るが、その處その理由が分らないから調べてみる。

 三、土地問題について
 次に軍用地問題についての陳情項目に対する答弁で次のように明らかにされた。
 シーツ 布告によって分るでしょう。皆も御承知の通り一つ一つ解決して行かねばならぬ。琉球内に於けるいろいろな問題は一歩一歩前進させて行きたい。各項に分けて指摘された点の返事をする。土地問題に関しての委員(?)はこの部(何部か不明)又、土地問題に関する案も勿論この部で作るだけで決定権はない。ハインズの手を経て更にシーツの手を経るのである。何處の国でも誰が土地を所有しているかが重大な点である。今解決しつつある。@誰のものかA如何なる価値があるかB其の次に(不明、記録洩れ)C土地の価値は琉球全体を通じて研究したい。まだまだ研究せねばならぬD研究して解決したら正式な方法で金を受け取ることが出来るであろう。方法如何に拘わらず、正当と認めた時にシーツ長官が一般に発表する。それは全部研究されつつある。土地の専門家がやっている。

 四、琉球の諮詢会の仕事について
 シーツ 琉球全体に於ける各地区の問題を取り上げる為に出来た。この委員は夫々異った意見を提出するようになっている。選挙が終ったら違った意見が出てくるであろう。

 五、琉球内に入ってくる品物について
 シーツ 色々な品物が琉球に入っている。現在八重山、宮古には製糸工場がない。奄美大島にあるツムギは進歩してない。布地とかの必要品を移入せねばならぬ。琉球人はそれに対し、喜んでいるのではなかろうか。その人が百姓であろうと、職工であろうと喜ぶと思う。その価値については慎重な研究をしつつある。研究の結果は人民に喜んで貰えると思う。値段は経済面の事で分らないが、自分は政治面から研究している。興味を持っているが私の管轄下にはない。それの予算が正当に使用されているかどうかを調査する。合衆国では何事も正しく公開している。 

 六、その他について
 仲宗根 諮詢委員が二つの部を兼ねるということはまずいと思うが如何?
 シーツ 軍政府では何とかせねばならぬと考えている。同意する。恐らく仕事が多くなると思う。 
 ○○(氏名不詳)工務部復興費は財政部を通じて支払わせたらどうか。
 シーツ 琉球は57カ所の役場を持っているので、工務部の仕事は大きい。日本では自治体が力を持つようになっている。こちらではどうなっているか。役場の能力を調べてみて、どの程度に運営出来るかを研究してみる。
 シーツ 各政党は財政問題に関する綱領があるか。
 氏名不詳氏が「ある」と答えるとシーツが是非見せて貰い度いとの言葉で終った。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火45・新報1982.04.29)


 4、正式回答に色めく政界

 @ハインズ副長官の弁明<「希望の陽」の知事公選>
 1949年12月30日は沖縄の政界の空に初めて一陣の涼風が吹きこみ、垂れこめていた暗雲が吹き飛ばされて、希望の陽が荒れ果てた土の上にさしこんだ日である。私にとっても絶対に忘れることの出来ない幾つ目かの日になっている。その日の晩、私は牧志町にあった玉白旅館に意気揚々と乗りこんだ。というのは那覇在住大宜味村出身者で組織する一心会の忘年会が催され、平良辰雄大先輩以下の有志が集まる事になっていたからである。そして、その会場で私はシーツ長官との会談の模様を報告し、近く知事と議員の選挙が施行されるとの情報を発表したら、全員の拍手がこだまのようにはねかえってきたのを忘れ去ることができないからである。
 シーツ長官が私達と最初に会ったのは、沖縄人の気持ちを探り、沖縄施策に資せんがための勉強会みたいなものであったらしく、両党首の意見は直ちに検討され見事に取り入られた。即ち両党で提出した陳情書に対する回答が明けて50年の5月10日に正式になされた。これもまた幸いにも私が速記した記録がそのまま残っているので、原形を崩さずに採録してみる。

 人民党、民主同盟両党と軍政府首脳部との会談内容の共同発表=5月10日人民党瀬長亀次郎、仲里誠吉、上地栄、民主同盟仲宗根源和、山城善光の両党代表五氏は、先にシーツ長官あて提出した当面の時局問題に関する別記5項目の質問の回答を得、かたがた一問一答を為すべくキャンプ桑江の軍政本部にシーツ長官を訪問したが、シーツ長官は多忙の為ハインズ副長官が代わって引見し、種々質疑応答の後、ティルトン司法行政部長より詳細なる説明を聴取した。引き続き懇談を重ねて3時間に及ぶ会見を終えて引きあげた。

 この会談はシーツ長官に対する陳情書の回答の形になっていたので、前回のような一問一答の形式はほとんどなく、途中でただ1回仲宗根委員長が通訳氏の名前を聞き、沖縄人の定義をしただけであった。前回の和気あいあいだった雰囲気とは違って、何だか違和感が漂っていた。それはシーツ長官との会談後、両党はますます結束を固めて、民政府批判のみならず、軍政府批判にまで発展した動きを示していたから、新参のシーツ長官ならぬ古狸のハインズ副長官には相当応えたものだと思っていたから、自然に私達も固くなっていた。冒頭にハインズ副長官が、左記の通り知事議会議員の公選問題にふれ、極めて簡単にシーツ長官の意志を述べた。そして「民政府を批判する者は軍政府を批判する者である」との当時の政界の迷信について、苦しい弁明をした。
 1、質問要項の中に知事と議員の公選問題があるが、それは極めて近い将来実施する事になっている。その他の詳しい事はティルトン氏から聞いてくれ。
 2、(前半記載もれ)今一度申すと役人が行っている方法に対する批判は実のないものである。
 3、(以下ハインズ副長官の発言故、番号だけを記す)民政府役人の各個人の無能力を批判するのは正当である。
 4、然し軍が民に示した政策を民政府が施行する努力を批判する事は軍政府を批判するものと同じ事である。
 5、民政府が軍政府の役人の指示に依って与えられた仕事に対してはその義務として施行せねばならぬ。
 6、その人が実行していることは自分の為ではなく、軍の為にやっている事である。
 7、その政策を実行している時に、それを批判することは軍政府を批評する事になる。
 8、然しその人が政策を実行するに当たって十分に出来ない場合、又は自分の意見を加えてやる時は批判の対象となる。
 9、時に住民の中のある者が、公衆の面前に於いて批判し不満を述べているが、軍政府の役人に相談して批判すべきだ。批判に値する根拠を知らずして批判するという事実が時々見られる。
 10、全琉球人は軍政府が絶えず琉球人の為にしている事を深く信ぜねばならぬ。
 11、軍政府に間違いがあり、それを指摘し説明したら喜ぶ。いつでも訂正する。
 12、そして軍が間違いをしている事は、あたかも沖縄の人が知らずしてやるのと同じように、問題を理解せずしてやるところから来るかも知れない。
 13、言いかえると沖縄人が故意に軍の政策を悪くとっているものとは思わないし、又軍政府も沖縄が悪くなると思っている政策でもない。事実をはき違えることはいけない。
 14、だから各人は事実が何であるかを知らねばならぬ。この会はお互いが理解し合う点で非常に有意義だと思う。政党が真に成功するためには利己心を捨てて、真に全住民の為になるようにする事だ。
 15、皆さんの質問に対する私のこのような答えは皆さんを利したものだと信ずる。
 16、ここにいる者が一つの目的に向かって努力していることを信ずる。
 17、皆は沖縄を代表している指導者として私は軍の代表者として。
 18、お互いにこの琉球をよりよく生活しやすいように努力しているという事、それを望んでいるという事を申しておく。
 以上のようにハインズ副長官の序言があってから質問に移ったが、その前に一同に対し、コーヒーが配られた。
 19、仲宗根(通訳に向かって)失礼ですが、貴方の名前は?
 通訳氏 山中です。
 20、一つ特に申したいのは沖縄人というのは琉球全土にわたる琉球民族だという意味ですのでそのつもりで通訳を頼みます。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火46・新報1982.04.30)


 Aティルトン部長の代読回答<米軍が瀬長氏を批判>
 一連番号の21番からは、ハインズ副長官に代ってティルトン行政法務部長が回答書を朗読した。

 21、第2の質問の政党は如何にして軍に協力するかに就いてお答え致します。
 22、皆さんが第1に信ずべきことは、軍政府が沖縄に健全な民主々義を植え付けるという事をよくお分りになる必要があります。
 23、そして民主々義を沖縄或いは琉球に持って来るのが、ゆっくりしているかも知らないが、之は住民全部に行き亘らさせるためである。
 24、正直に申すと住民の状態を絶えずよくしようとしているものには間違いない。
 25、政党というものは、軍政府と同じように正直であるべきだ。
 26、政党というものは国民の有利になるものを(政・経)よりよく進行させるものでなければならぬ。
 27、民主々義に於いては、政府が存在するということの唯一の理由は、国民を有利にするという事である。
 28、私が今いった事は皆も同感だと思う。
 29、であるから琉球の政党は民政府の仕事に障害を来たすようなことをしてはならない。
 30、何故かと申すと、各民政府は軍政府の意図を施行しているからである。
 31、それ故に政党に属する人は、一般国民を指導する前に、軍政府は何を意図しているかを理解せねばならぬ。
 32、若しも各民政府が、軍政府の意図している処を施行していない場合は、皆は意見を述べる事が出来る。
 33、又政党の方が、各民政府の個人に対し、個人的に能力がないというような意見を述べる事は当然出来る。
 34、であるけれども、政党の方ははっきりと軍政府の政策が何であるかと云う事をよく理解した後に先申した事を云うべきである。
 35、今申したことの実例を挙げてみる。
 36、以前に那覇での或る会に於いて、一人の人が人民の批判を受けた。何故なら、その人は政策をよく理解せずに、直接民衆に演舌をしたからである。
 37、それはアメリカの人が歓楽を沖縄の人に與えようとしたことである。
 38、次の理由からして歓楽街を設置したいとした事である。
 39、第一に兵隊と住民との間の親しみを計ること。
 40、第二に沖縄人に金銭的な利益を與えたい為。
 41、第三に兵隊が町村に入る事を防止する為。
 42、第四に兵隊に行く処を與え、沖縄の土産を買える機会を與えたいためである。
 43、その計画の中には少数の歓楽的施設も含んでいる。
 44、それはその様な建物に善良なお嬢様を呼んで一緒に踊る事も含んでいた。
 45、そういうような考えを間違えて公娼と解していた。それは間違いである。公娼制度は心から反対である。
 46、私は心の底から公娼を排撃し、ヤミの女が兵隊に接触することに大反対である。
 47、このような施設が為されたときは法規に依って運営される。
 48、兵隊達が令嬢達を国外に連れ出す事は許されない。
 49、今申した事は軍政府の計画が間違えられたという実例である。
 50、若し疑問があったなら、軍政府へ来て、直接はっきりただし、反対する理由を云うべきであった。
 51、その意見が正しいと思ったら、軍政府はその計画を中止した筈である。
 52、道路上に於いて反対意見を述べることは何の効果もないのみか、軍と民の感情を悪化させるばかりだと思う。
 53、再び申し上げたいことは、真に反対する理由をはっきり云って貰いたい。
 54、通訳が間違っていた為におこなったかも知れないが、軍政府に行けばはっきりする。
 55、今一つ云うと
 56、政党は民政府が軍政府の政策を実行しようとしている時、それに反対することは慎まねばならない。
 57、然し民政府の役人で、個人的に無能力であるとか、仕事をやってないとか、と云う点について批判することは自由だ。
 58、第三の問題に移る。
 59、第三の問題は政党は如何なる希望を持つかとの問題である。
 60、その答えは次の通りである。
 61、軍は勿論政党の存在に反対していない。
 62、民主々義に於いて政党は必要である。
 63、政党は絶えざる努力を以って人民と共に正直に動かねば成功しない。
 64、第一に心がけねばならぬことは、琉球人の大部分が何を欲しているかを研究せねばならぬ。
 65、若しも政党がその研究をしない場合は国民の生活をよくし、欲する物を与えることはできない。
 66、単に党首のみを支持する政党は国民を生かすことは出来ぬ。
 67、党の指導者、党員のみの利益を考えている者は国民を幸福にする事は出来ぬ。
 68、若しこのような政党が沖縄にできたら、国民全体がその政党を弾圧することになる。
 69、人民が政党に対しその党は人民を助ける党ではなく、単に自分達だけの物だと思うようになると、その政党は滅びる。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火47・新報1982.05.01)


 Bティルトン部長の代読回答(続)<選挙と同時に犬猿の仲>
 70、私は政党とは琉球全土に於ける琉球全人民を幸福にするものだと信じている。
 71、それは真に民主々義に叶う。
 72、私が先に悪質な政党の話をしたのは、左様な党が出来た場合には、国民が失望落胆するのを防ぐためである。
 73、現在に至るまで左様な政党が沖縄にはないと聞いて喜んでいる。
 74、私は時々国民より、何故政党を軍政府に登録しなければならないかとの質問を受けた。
 75、それは政党を束縛するためではない。
 76、民主々義国家に於いては、各政府が政党を登録するのが慣習となっているからである。
 77、斯くすることによって、公認された真の政党になることができるからである。
 78、第4の質問に答える。
 79、如何にして民政議会を向上せしめるか。
 80、これに対する返答は非常に短いものである。
 81、私も皆と同じ意見を持っている。
 82、然し皆さんは気長く待ってもらわねばならぬ。軍政府が選挙を施行する用意ができてないからである。
 83、何時行われるかは言えないが、軍は絶えず行われるように努力している。
 84、第5の質問の労働組合について答える。
 85、軍政府は組合に反対はしていない。
 86、然しそれに対しても特に申し度いことがある。
 87、民主々義の見地からすると、労働組合と政治とを結びつけることはできない。
 88、労働組合は労働者の利益を計るもので政党の利益を計るものではないからである。
 89、再び言うが、我々は労働組合に反対するものではない。
 90、けれども政府役人のみによって組織されたのは許可できない。
 91、或いは軍の作業員のみによって組織されたのも認めることはできない。
 92、何故ならば、政府は仕事を絶えずしなければならないからである。
 93、軍作業は最も短時日のうちに仕事を完成せしめねばならないからである。
 94、第6の質問に答える。
 95、民政府を批判する者は軍政府を批判する者であるとのことに対し、住民が反対であると言われているが、若し民政府の人がそう言っているのなら、それはやめねばならぬと固く信じている。
 96、第一に申し度いことは全住民が民政府に反対だとは考えられない。
 97、全部が全部反対とは考えられない。
 98、軍政府は住民が真に望んでいるような民政府のできるのを望んでいる。

 以上で全部の回答は終わった。ハインズ副長官が冒頭で「質問要項の中に知事と議員の公選問題があるが、それは極めて近い将来実施することになっている。……」との点が、当時の全沖縄人民大衆の政治的焦点になっていたので、私達は一様に待望の日が近いのに胸を躍らせた。然したとえシーツ長官の積極的な民主化政策を評価していたとしても、なお一抹の不安と疑心を消し去る訳にはいかなかった。そこで両党は益々連繋を密にして、共同戦線を展開し、各地で合同演舌会を従来通り持った。50年5月10日ハインズ長官との会談後54日目に選挙期日を発表したが、両党はその直前まで仲良く手を取り合っていた。選挙の実施と同時に、犬猿もただならぬ仲となり、選挙戦中の仲宗根源和先生と瀬長亀次郎先生の舌戦は全く後味の悪いものとなった。この点についてはあらためて後日ふれることにして、両党がどれくらい仲良く共同戦線を張っていたかを具体的に名護での一例を示して、今日の革新陣営の在り方に1つの示唆を与えてみる。

民主々義擁護大演舌会
 一、1950年1月16日
 二、於 名護町東江小学校
 三、司会 民主同盟青年部長 上原信雄
 四、弁士
  一、民主々義の試験台 沖縄民主同盟 名護支部長 照屋規太郎
  二、異議申立人の立場より 人民党中央委員 福村 栄
  三、民主々義と自由 人民党青年部長 波平徳八
  四、政党はにらまれているか 人民党 上地 栄
  五、石川市の立場より 民主同盟 宮城無々
  六、那覇市の立場より 民主同盟 真玉橋景洋
  七、軍政下に於ける民主々義 人民党委員長 瀬長亀次郎
  八、猿より人間へ 民主同盟委員長 仲宗根源和

 この8人の演舌も私が速記をして保存しているが、日本復帰前夜の前夜ともいうべきあの頃の青年はどのような考え方をしていたか、また当時の最高指導者だともいうべき両党の委員長はどのように大衆に訴えていたかは、頗る興味深いものがひそんでいると思われるので、稿をあらためてその大要を浮かび上がらせてみることにする。
【註】シーツ長官と政党代表の会談内容はうるま新報の1950年1月11日以降5回にわたって軍の立場からかなり詳しく報道され、更にハインズ副長官との会談の模様は簡略に同年の5月11日発行の同紙に掲載されているが、敢えて全容を明らかにしたのは、当時の沖縄の政情を住民の側から生々しく記述する必要があると見たからである。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火48・新報1982.05.02)


 5、両党代表が大衆に訴えた一例<民主主義の実現要求>

 名護町は民主同盟の地盤になっていたので、両党共同大演舌会の準備は照屋規太郎支部長の指図の下に、オール沖縄青年弁論大会に名護町代表として出場した上地成士君等が万般の準備を整えてくれた。当日の情景描写はやめて早速出場弁士八氏の演舌内容の要点を摘記してみよう。

 照屋規太郎 シーツ長官の赴任早々の挨拶の中に、米国は沖縄を砲撃し破壊したから、今度は建設の義務があると言った。けれどもこれまで沖縄人は米軍にだまされてばかりであるのでシーツの発言を注視したい。沖縄50万の民主化問題は民主々義アメリカにとっても重要問題で、世界もまた注視している。若し沖縄自体が自覚せずにそのままで行くとしたら、沖縄は奴隷民族になる。自分は医者であるが何故政治運動をせざるを得ないかと言えば、奴隷民族の医者にはなりたくないからだ。
 福村栄 沖縄の政治を民政府の一部の者共が勝手にあやつっていて、今度の那覇市長問題も全く民意を無視したやり方である。そこで私達は人民の世論の結集体である政党をバックにして異議申し立てをし、正しい政治を築き上げようとしているのである。
 波平徳八 沖縄の民主主義はイモの入っている今のカマボコのようなものでイモボコ民主主義である。日本では広く会議を興しだが、沖縄では狭く会議を興しである。リンカーンのは人民による人民の政治だが、沖縄では個人による個人の政治となっている。守礼の邦は奴隷の邦になっている。沖縄は鼠の世界でその鼠が自由でなければならないのに猫の自由の世界となっている。アメリカは資本主義の国、ソビエトは共産主義の国だが、沖縄はいづれの道を選ぶべきが大きな宿題だ。
 上地栄 人民党と民主同盟の両党に対し、巷間デマを飛ばしているが、それは戦前の政党と同じように見ているからである。戦前の政党は選挙になると金をバラまき、当選すると日本に行き沖縄とは無縁のものになっていた。今の政党は誰からも金をもらわず自分たちで集めて、自分たちを守っているのである。政党が演舌会をやるとあれは誰からかにらまれているとデマを飛ばして脅迫しているが、決してにらまれるようなことはない。それは政党と人民との結びつきを恐れて水をさす一部の策謀である。殊更に占領下だからといっているが、民主主義に立脚している限り怖がる必要はない。青年は続々と両党に入党してあらゆる運動の先頭に立つべきだ。
 宮城無々 昨年の11月に行われた那覇市と石垣市の市長選挙問題は沖縄全住民の問題である。民政府の二、三の役人の陰謀で法を無視して勝手に行われたから、沖縄人の自活能力に関連する重大問題となった。市町村制にも違法だとの明文があるので異議申し立てをした。
 真玉橋景洋 糸満市長はやめさせられないのに、那覇市長は何故やめさせられたかと、同氏は法律の条文を引用して那覇市長を罷免の不合理性を衝き、徹底的に糾弾する。
 瀬長亀次郎 民主同盟と人民党は、自治体を守れ、民主主義を守れと合同演舌会を持って訴えて来た。先般両党代表はシーツ長官やセーファー民政官と会って沖縄の諸問題について懇談したが、民政府を批判する者は軍政府を批判する者であると言われていることはウソである事がはっきりした。民衆の批判をおそれる者は公僕ではない。批判あってこそ明るい政治が築かれるのである。沖縄の政治経済の特殊事情と軍政下にある事実を認めた上で次の2点に留意せねばならぬ。即ち軍政下だから仕方がないという奴隷根性と歴史的発展方向を知らない景気のよい空騒ぎの独立論である。
 現在政党員は一千人から一万人程度だが、青年がその先頭に立って全住民を民族解放の旗の下に結集せしめて、アメリカに諸要求を突きつけたならば沖縄は必ず楽になる。国際情勢は琉球の解放を間近にしている。台湾は放棄しても琉球列島、日本、比島は米民主主義が擁護する線になっている。
 仲宗根源和(那覇市と石川市の市長選挙に関する真玉橋氏と宮城氏の演舌を長時間にわたって補足説明し、民政府を徹底的に弾劾した後に次のように演題の主旨を述べた)。見ざる、聞かざる、言わざるを建前としている人間共の政治こそは封建政治である。今人民はそのように慣れさせられているがそれを全部取り払って、見る、聞く、言うの全部を政治面に具現しなければならない。民政府を批判する者は軍政府を批判する者であるとの迷信も打ち払われた。もうなまけている場合ではない。民主主義は三猿主義であってはならない。この際みんな政党に入って結束しなければならない。私たちの声に飽き足らなければ、別に自分たちで政党を作って人民の声を代表すればよい。そのようにしてこそ明るい政治は生まれるのである。民主主義の国に政党の国のない国はない。新しい世紀と歩調を合わせて沖縄民族も立ち上がらなければならぬ。

 このなかで注目すべき点は瀬長亀次郎先生の民主同盟批判というよりも友党としての厚意とも受け取られる、景気よい空騒ぎの独立論への一針である。と同時に最後の国際情勢と沖縄の在り方に触れた点だ。私の記憶でも人民党はあの当時確たる沖縄の在り方を未だ示していなかった。

 以上で「第4章戦後沖縄の知事議員の公選は如何にして闘い取られたか」は終わります。しかし、本稿が日本復帰10周年記念特集となっているので、さらに第5章を追加して、その後復帰までの政治展開を私なりに覗いてみることに致します。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火49・新報1982.05.03)


このページのトップに戻る

「荒野の火」目次のページに戻る

modoru