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荒野の火

 沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火(連載:琉球新報1982.03.15〜1982.05.09)


  山 城 善 光

◆ 目  次 ◆
序 章 灰じんの沖縄に帰る
第一章 言論の自由への闘い
第二章 結社の自由への闘い
第三章 出版の自由への闘い
第四章 知事、議員公選への闘い
第五章 知事、議員公選への闘い[続き]


第二章 結社の自由への闘い


 1、信念の人桑江朝幸氏からの手紙<2回目の会合は10人>

 言論の自由を獲得し、確立した「沖縄建設懇談会」の最も中心的な要約である活動母体の設立、即ち全島総立ち上がり運動展開のための組織体確立の件が、直ちに着手せねばならない重要案件となった。そこで私達は1947年の5月21日に、民政府へ要望書を提出した一週間後に第2回目の会合を持った。その記録は別の人の手によってなされていて、判読し難い点、不明な点も多々あるが、私の記憶を織り混ぜて、当時の情況を再現してみる。その前に先ず、現在信念の人、硬骨漢として沖縄市市長という要職を担っている、若い日の桑江朝幸君からの私宛の手紙を収録して当時の青年の気持を覗いてみる。

親愛なる山城氏

 郷土の現状は寸刻たりとも吾々青年の遅滞を許さない。もうなまぬるい手段を弄して画策する時期ではない。すぐ積極攻勢の機をとらえて実行すべき時ではなかろうか。国を憂える士は地に満ちみちている。その熱、その意気、その力を結集して起つべき時が来たのである。この重大なる時期に於いて悪も成し得ず、善も成し得ぬ温順なる紳士よりも、熱と力をもって信じる道に邁進する志士を必要とする。護身のウェーブを被った正体の分らない、いわゆる紳士連中との懇談は、実のところ飽きあきしてきた。然し吾々の欲する革新的沖縄建設への道程なら辛抱して持続することも必要であろう。吾々は先の懇談会に於いて一寸話し合った如く、別個の真の行動団体が必要ではなかろうか。私は思想上の理念は零である。然しながら現在の沖縄の直面していて早急になさねばならないことに対しては一つの信念を持つものである。
 幸いにして貴殿に沖縄人による一国政治と賠償取得をなすに、現在の弱体化せる民政府の革新と民主化を早急になさねばならぬと信ぜられるならば、共に同志を糾合して決起しようではありませんか。幸いにしてその信ずる所を披瀝したいわゆる知名士も相当に居る。それらの人と堅く手を握って驀進する時、吾々は必ず前途に光明を見るであろう。それ等の人と一堂に会し、綱領を設定し、相協力して、真に投ずる人を漏れなく包含し、人民と直接地についた行き方をなし、各部落を行脚して演舌講演又は署名を求める等、直接行動を目指して進むべく企画しようではありませんか。28日の懇談会に於いて御返事を戴きたい。
 桑江 拝
 山城善光 殿

 一、宮里栄輝先生に宜敷し御伝えの程を。
 二、貴殿発言の5月27日の講演会の件是非共実現致し度し、名目は懇談会の趣意徹底、又は同報告にても宜敷く、二人にてでも是非やり度し。出来ましたら25、6日頃迄に御返事戴き度し。

 この手紙が山原喜如嘉にいた私にもたらされて、私はそれ以来彼と血盟の契りを結んだような仲になっていった。
 さて、この手紙にある5月の28日に、石川市の中央ホテルに、懇談会の発起人全員に集まっていただくようにとお願いしてあった。それは懇談会の事後処理報告と、向後の運動方針設定のための会合であった。ところが、どうしたことか、参加者が左記の通りのわずか10名前後の淋しい集まりとなってしまった。
【出席者】仲宗根源和、大宜味朝徳、平良助次郎、伊波久一、山城善光、真栄城守行、桑江朝幸、吉元栄真、大城善英、桃源茂太。
 議事に移る前に、私から沖縄建設懇談会を大成功裡に終了させていただいたことに対し謝意を述べ、民政府に提出した要望書を朗読して、事後承認を求めた。その諒承を得たので引続き議事に移り、真栄城守行先生を座長に推して、「民意を代表する機関設置の具体的方法」について協議した。桑江君の手紙追記の2にある27日の講演会の件は記録にも記憶にもないので立ち消えになったものと思う。
 さて、仲宗根先生がこれまでも民政府の批判を幾度もなされ、既に本稿にも収録してあるが、当日の先生の発言は、当時の沖縄の実体を知る上において欠かすことのできない貴重な資料となっているので、全発言を収録した。

 仲宗根源和氏 民意を代表する機関の設置ということは、全大衆の一致した要望であり、それこそ全沖縄の希望であると思う。現在の実情は軍政府の下に民政府があって、14の部長(一つ空席)があり、諮詢機関の民政議員があり、更に市町村議員もあるので一応形式は揃っているが、それは唯単なる諮詢機関に過ぎない。軍政府は先ずキャンプを建設させて、そこへ官選議員を集めて、15名の委員を選挙せよと指令してきた。当初の選挙は20歳以上で革新的な選挙であったが、それが崩れてしまい、官選村長、官選議員ができてしまった。諮詢委員が居座ろうとする形跡があったので、私は少なくとも半数は他より推薦させるべきだと建言したが却下され、そのまま各委員も部長も居坐った。次に知事の選挙となったが、それも唯単なる官選議員の集まりで選挙されたのであって、民意によるものではなかった。総務部長は軍政府に対し、自治制は未だ早いと報告建言した。それに対し、私は自治制即行論を唱えた。各議員も自治制の施行を早くすべきだとの説に賛同したのであるが、一年後の今日になっても音沙汰もない。

 仲宗根先生の発言は未だ延々と続くが、その歴史的な具体的事実については、先生の高著「沖縄から琉球へ」の117頁の「民主々義は逆転する」の項目に詳しく述べられている。併せて参考にしてもらいたい。

(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火20・新報1982.04.04)


 2、仲宗根先生民政府の実体を解明<沖縄から琉球へ>

 「沖縄から琉球へ」は1952年、即ち先生のこの発言より9カ年後に沖縄タイムス紙上に連載されたのであるから、当時先生が一部の人々に配布されたという「又吉康和氏の時期尚早論を駁して」という印刷物や、平良辰雄氏の「又吉氏の自治尚早論」に対する反対意見書等について、私達は知らされていなかった。従って、私達は貪るようにして先生の民政府批判を聞いた。先生の話は次のように続いた。

 仲宗根源和氏 議会議員は新規に選挙で選出すべきである。それができなければ、終戦前の従来の議員を再起用すべきである。また部長と議員を兼ねてもよいじゃないかとの意見もあったが、それに対しては絶対反対をした。兼ねてはいけないということに一致したので、軍政府にもそのように答申してある。議員の欠員の補充については、各地区から推薦があったが、委員長が勝手に2、3人入れ替えをした。これからが、沖縄の民主主義は変形し、舵を間違えてしまったのである。さて委員が決っていよいよ発表となったが、その時に議員は、知事の諮問にのみ答えるだけの任務だと発表された。民政府は民意を聞くことを煩さがっていた。月二回定例会を持つことになっているのに、1年間で僅か6回しか持ってない。これはいかに民意を無視しているかを物語る。今日の沖縄の行き詰りは、このような民政府の民意無視にその原因がある。軍公布のままに動く民政府は、既に弱体化し無能化している。民衆はもう民政府への信頼を失い、ついて行かなくなっている。この弱体化した民政府を頼って、沖縄を建設して行くということは絶対にできない。
 前に民政府に反省を促すために、石川で演舌会を持ったことがあるが、軍指令に反するといって注意されたことがある。このような卑怯な責任回避をする民政府では沖縄の建設はできない。今日の沖縄は全く行き詰っている。それを打開するにはみんなが話し合って、大同団結して行くことである。王政を夢みている民政府は、われわれのみならずわれわれの子孫までもひどい目に合わせることになる。明るい沖縄を建設し、幸せな生活を打ちたてて行くために、民意の代表機関を速かに設定すべきである。
 大宜味朝徳氏 この主題は、現下の沖縄問題の全部ではなく一部である。もちろん、それを否定する訳ではない。頭の切り換えのできない現在の議員連中では沖縄はどうにもならない。従って、先ず結論から言ってみると、デモクラシー運動を推進すべく、われわれは一日も早く民主的な同盟を作って、組織的な実践運動に入ることだ。この組織を拠点とする各種機関の設置でなければ行き詰るだろう。沖縄は文化的にも低いと言われているから、それを反駁する意味においても先ず同盟組織を作るべきだ。沖縄の帰属は既に米国の単独管理に決まっている。にもかかわらず、沖縄の上層部は、平和条約締結後にしか沖縄の運命は決まらないとの見識しか持ち合わせてない。それが沖縄の行き詰りの根本原因である。日本政治と米国政治との相違点を把握して、デモクラシーは政党政治だとの認識を確立して、先ず同盟結成運動からやって行くべきだ。
 仲宗根源和氏 今、結社の話が出たが、司法部長に聞いてみたら、ニミッツ布告には結社禁止の法はないとのことだった。言論、結社の自由は当然あると司法部長は判断している。治安警察法に基いて届け出れば結社はできる。
 平良助次郎氏 私達は運動の促進方法として、先ず第一に選挙法を作ること。民主的な選挙法によって代表を選出し、その代表を通じて民意を民政府に通達せしめること。第二には、人権についての啓蒙運動を推進すること。第三は、政治と個人との結びつき、即ち民主的教育の徹底を計ること。以上のことを実践に移す場合は、軍民政府とも連絡してその促進を計ること。早速その実行団体をつくって促進すること。私達のこの会がそれに発展できなければ、別に団体を作ることだ。
 伊波久一氏 沖縄人は一国としての国民的な性格を持っていると思われるが、一体沖縄はいかなる統治形態になるかについて伺いたい。
 山城善光氏 沖縄の運命はカイロ宣言、大西洋憲章によって規定されている。即ち沖縄から日本の勢力は駆逐されてその権力は及ばなくなっている。沖縄の辿る経路としては、国際連合による信託統治、または米国一国による信託統治を経て、将来ある時点になると、沖縄人自体で沖縄の在り方を決めなくちゃならなくなる。今のところ、米国や一国による信託統治の線が強いけれども、国際連合による信託統治が沖縄にとっては望ましい。最終的には民族自決の法則によって沖縄の独立は可能である。今の段階では、飽くまでも沖縄人の沖縄だと言う自主性を守り続けることが重要である。
 真栄城守行氏 沖縄処分について、ある人の話だが、アメリカの管理下における沖縄の独立。アメリカと沖縄人との共同による沖縄の管理。日本へ返す。支那に与える。この四つの方法があると話していた。
 仲宗根源和氏 沖縄は沖縄人による沖縄であって、将来は民主独立国を建設すべきである。

 仲宗根先生の民政府の実体解明から、話題が一転して沖縄の帰属論に発展した。そこで注目すべき点は、地元石川市出身の有力者、伊波久一先生の初参加と、北部の最有力者屋部村出身の吉元栄真先生、並びに後日民主同盟の蔭の功労者となった、石川在住今帰仁村出身の大城善英先生等の初参加であった。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火21・新報1982.04.05)


 3、活動母体の在り方について白熱の論議<「民主同盟」発足で論議>

 沖縄の帰属については、おぼろげながらも全員の意志だが、独立ないしは自主性の確立という方向で統一されたので、次はその方向に向かっての活動母体の在り方に白熱の論議が集中された。その発言者と発言内容は次の通りである。

 伊波久一氏 民族自決によるとなれば、日本との関係が危惧される。沖縄の出発点はそこからではないか。私は石川市民だが、速やかに選挙法を制定して、民意が盛り込めるような、自由な選挙運動ができるようにしてもらいたい。そして、石川市に1日も早く市政委員会のような議会を設置したいと思っている。行政府首脳はもちろん、警察署長も公選にすべきである。このような制度確立によってのみ、あらゆる問題は解決できるものと思う。先ず、各地において政見発表をさせてみて、この人こそは体当たりで山積する沖縄の諸問題を解決してくれると信頼した上で選んで行けばよい。
 桑江朝幸氏 沖縄の独立を目指すとなると、何はさておいても先ず、沖縄の民主化を計らねばならない。そのためには、民主的な教育団体を、選挙になる前に作って、人民を訓練しておかなければならない。特に20歳から25歳位までの、青年層の教育に重点を置いた団体を作って行きたい。
 仲宗根源和氏 私は沖縄の現状を批判したが、ただ単に批判するだけでなく、沖縄を民主化して行く団体が必要だとの意見には賛成である。教育することも実践運動を展開することも必要で賛成である。一つの方法としては、各人が各地に帰り、沖縄建設懇談会の趣意に基づいて、各郡別に支部を設けて本部と連絡をとり、さらに、市町村にも分会のような組織を作るべきだと思う。この運動を進める大きな方法においては皆一致するが、実行する方法としては、次のような方法を提示する。まず、教宣運動の一環として「ハガキ運動」「署名運動」を分会を通じて展開させて、民衆自身による「啓蒙運動」に展開させて行くように仕向けて行く。民政府の密告政治を打破し、世論を尊重する民主政治確立に向かって運動を展開させること。「民政府を批判する者は軍政府を批判する者だ」との迷信を粉砕するために、思っていることは率直に何でも言うとの風潮を作って行きたい。そのためには民主的機関を設置して、皆が同志的な結束をして行くことが必要だ。
 吉元栄真氏 新聞の報道によると、市町村長も「知事の任命による」となっているが、これは時代逆行にも甚だしい。われわれは今こそ組織を確立して、一日も早く各町村に入って行き、実行に移すべきだ。百の議論よりも実行だ。沖縄人ほど情実政治に弱い民族はいない。早く各団体にも呼びかけて参加させるようにすることだ。
 仲宗根源和氏 20歳以上に選挙権を与えて両先島と併行して行くべきである。いきなり下部組織まで選挙制に持って行くと逆効果をきたす危険性があるので、まず民主化への啓蒙運動をやって、その下地をつくった上で選挙に持って行かなければ、また二の舞を踏むおそれがある。
 吉元栄真氏 本運動を推進して行くための組織の形態は「総同盟」の形式をとるように提案する。
【註】この間に組織の名称等について相当論議されたが、速記録に記載されてなくて、いきなり次のような発言となっている。

 山城善光氏 論議の結果、全員一致で「民主同盟」という政治結社を創立することになったが、沖縄の政治風土には、政治的な白・黒闘争の感情的な対立が未だに根強く残っているので、同志的な民主同盟の結社とは別に、超党派的な本懇談会の存続も必要だと思う。本懇談会の存続によって、民族的な意志の統一を計らねばならぬ。特に現実問題として、アメリカとの協力関係が最重要課題となっているので、対米関係での民族的意志統一を計る場としての本懇談会の存続は絶対に必要である。
 大城善英氏 民主化運動の展関は早急を要するので、この懇談会はすぐ「同盟協議会」にしたらよいじゃないか。
 平良助次郎氏 懇談会は星非存続させなければならぬ。
 仲宗根源和氏 これまでの論議の中から結論がでた通り、われわれの民主化の構想を直ちに実行に移すべき段階にあり、その機運の濃厚となっている。今日のこの会を閉じたら、直ちに協議会へ切り換えてよい。
【註】またここでも、記録は中断して次の記録となっているので、記録にはないが、休会中に種々懇談の結果次のようになったものと推測される。

 座長 懇談会は協議会として残して行くことに決定し、また、皆一致した意見で「民主同盟」も新しく発足させることに決定する。
 平良助次郎氏 第3回目のこの懇談会を、いつどこでやるかを決定しなければならない。
 桑江朝幸氏 各地より招聘してやったらどうか。
 座長 この件は発起人に任してはどうか。
 大宜味朝徳氏 今ここに出席している発起人に任し、その選定は世話人に任せればよい。
 山城善光氏 皆で世話人は選定してもらいたい。この仕事は片手間でできる仕事ではない。目に見えない出費もかさむし、また、生活問題も絡むので、その補償も考慮せねばならぬ。
 座長 発起人会に任したらどうか(全員賛成)
【註】記録にはないが、発起人達は山城善光、桑江朝幸に一任したので、それからというものは、A・Jキャンプを拠点としてほとんど毎日、桑江君の家に通いつめて、2人で案を練り、仲宗根先生の指導の下に事を運んだ。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火22・新報1982.04.06)


 4、ついにまとまった政治結社案<民主同盟の結成へ>

 さて、第2回懇談会は以上のように真剣な討論を重ね、一応の結論が得られたので、当初の議題の一つであった「食糧対策問題」は棚上げにして、引続き「民主同盟」設立の具体的案件を審議している。その記録は次の通りになっている。

 仲宗根源和氏 沖縄民主化の促進を図るためには、啓蒙運動の主体となる「民主同盟」の機構を整備せねばならぬ。中央に本部を設け、各郡に支部を置き、さらに各村に分会を置いて組織的な活動を展開し、十分に啓蒙をした上で選挙へと持って行くべきである。組織上のことは準備会に任せばよい。
 平良助次郎氏 それでは本日の会を準備委員会に切り換えて、本日出席している全員を準備委員にしたらどうか。
 桃原茂太郎(遅参)治安警察法の言論取締法や、それに関連する法が未だ存立しているかどうかを調べてみる必要がある。事をスムーズに運ぶために、準備委員会はその点を十分に検討せねばならぬ。
 仲宗根源和氏 ニミッツ布告には結社の自由を禁じてない。布告に抵触せぬ限り現法を適用することになっている。
 大宜味朝徳氏 結社は作ってよい。

 以上のような討議の結果、結社が法的にも可能だとの結論に達したので、座長の真栄城守行先生が、「民主同盟」の名称の再検討を提案された。それは、民主同盟の頭に沖縄の2字を加えることだったので、一人の異議もなく満場一致で「沖縄民主同盟」と決定した。引続き事務所の設置、会員獲得の方法、スローガンの必要性等を付論議し、出席者全員が設立準備委員の候補者になることを決定した。そして最後に、結社設立大会の日を6月10日前後とし、石川市で盛大に結党式をあげることを決定して散会した。
 ここで私は故人となった幾人かのこの段階での功労者を偲びながら昔の同志の横顔を描いてみた。特に記録に残しておきたい人は、前記大城善英先生と中山一先生のご両人である。お二人共、仲宗根先生の蔭にかくれてその後ろ盾となった方である。大城先生は南洋帰りの大親分で、石川市に住みつかれた今帰仁村出身の方であった。先生は、私達若い連中をいつも温く迎えて、あのような時世に、食事等を惜しみなく恵んで下さった。後日、同盟の中堅幹部として活躍した大城真一、喜納政業、花城清光の諸君も先生の励誘によるものであった。やがてその徳望は今帰仁村長の地位をかちとられた。
 中山一先生は若いころ、沖縄歌壇で活躍された。文学的な教養を身につけた温厚篤実な人柄であった。一時期に同盟の事務局長の重職を担った方であった。その外にも無数の方々が同盟に馳せ参じて共に闘って下さったが、それらも併せてその都度紹介する予定である。
 そのころ私は組織者として、「次は結社の自由獲得だ!」と秘かに自分自身に言い聞かせて、若夏の大空の下を東奔西走した。瞼を閉じると、未だまばらだったコザ嘉間良あたりのテント小屋や、屋嘉の捕慮収容所や、C・Pが立っていた検問所あたりが鮮やかに浮んでくる。涙の姫百合塔に詣でて、手前の壕を見下ろしたら、鉄かぶとと白骨が未だそのままになっていた。普天間から首里への道中の激戦地の路上に頭蓋骨が放置されていて、車はそれをよけて通って行った。このような戦跡地の中南部をかけ回っている内に、随所で若い世代の力強い声を頼母しい場面にも接した。私は未来を背負う青年の奮起こそ沖縄の運命を打開する力の根源だと思い知らされた。
 ちょうどそのころ、私の郷里喜如嘉でもあたかも私達の呼びかけに呼応するかの如くに、郷土建設に起ち上がっているようであった。既に青年会も結成されて諸般の活動を展開していたが喜如嘉青年会歌を制定することになり、一般から募集していた。私も応募することを心に決めて、そのつもりで、全島を駈け回りながら稿を練っていた。出来上って応募したら、今度も見事に一等当選となり、後日比嘉盛仁牧師の作曲で歌われるようになった。当時、私が沖縄の青年に寄せた期待と愛情がこの歌に見事に集約されていると思うのでここに記してみる。

 嘉如嘉青年会歌

 1、青垣山よ 真清水よ
   ゆらぐ稲穂よ 潮風よ
   甍も映えて 鳴呼!喜如嘉
   此処ぞうぶすな 我等皆
   亨けし生命の 若草ぞ
 2、空よ明け行け 土よ笑め
   咲けよ梯梧と 百合の花
   知るや純潔 鳴呼!健児
   魁に起たん 我等皆
   大沖縄を 背負う子ぞ
 3、熱き血よ湧け 胸よ鳴れ
   燃えよ炎よ 此の日こそ
   組めよスクラム 鳴呼!郷土
   築かん喜如嘉 理想郷
   いざ起て健児 起て起て健児
  昭和23年2月作


 私がこの歌を敢えて発表するもう一つの大きな理由についてふれてみる。それは、後日高等軍事裁判に付される私を、当時軍情報部で活躍して居られた川平朝申先生が、この歌を盾にして私を助けて下さったという思い出があるからである。ハウトン軍情報部長が川平先生に対し、「山城善光は、共産主義者ではないか」と訊ねたので、川平先生は即座に、「彼は決して共産主義者ではない、この歌を見れば分る」とこの歌を示して私をかばったとの思い出話を聞かされているからである。本稿の「戦後沖縄の報道の自由はいかにして闘い取られたか」の中で、この歌の心が昇華するので、ご参考までにと思い収録した。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火23・新報1982.04.07)


 5、戦後初の政党 沖縄民主同盟の誕生<待望の民主同盟が誕生>

 待望の党結成式は、予定の6月10日には間に合わず、5日間遅れて15日に「沖縄民主同盟」と名乗って、歴史的な呱々の声をあげた。
 結成式の会場は、石川市宮森小学校の教室を拝借して、午前9時半から開かれた。午後は3時ごろから、同じく石川市の大洋小学校々庭で結党記念の大演舌会を持った。当時の政治経済文化の中心地は石川市であったので、会場が石川市となるのは当然であり、参会者も石川市民が主となるのも当然の成行きとならなければならなかった。ところが蓋を開けてみると予期していた通り沖縄全島から、しかもその地方地方の文字通りの有力者達が、多数馳せ参じて下さったので、私達の胸は一段と強く高鳴った。当日の出席者の顔触れを知ることは、本同盟の重さと当時の時世の深さを知ることに繋がるので、繁をいとわずに収録してみる。

【石川市】伊志嶺朝一 久高唯正 糸洲一雄 知念政吉 伊波孝徳 仲程通一 伊波正雄 伊波善定 石川善福 島袋住光 比嘉広徳 島田祐一 仲間良好 比嘉良平 伊波秀幸 安里高一 糸数昌紀 沢岻安永 伊波清英 石川蒲吉 照屋唯善 仲原広俊 新垣芳三 喜友名正謹 喜友名正武 石川真吉 佐次田松助 知念正喜 與久田幸吉 城田元隆 城田元輔 上原助宏 安次富長祐 中間研夫 石川善弘 米次源三 幸地長順 山里昌弘
【恩納村】具志堅太郎 津嘉山朝助
【金武町】当山清英 吉田武登 宜野安雄
【越来】宮城調吉 桑江朝幸
【みなと村】仲里源盛
【首里】漢那朝詮
【名護町】比嘉光雄
【本部町】浦崎直清 喜納政英 大城清栄
【今帰仁村】桃原弘 新垣秀芳 大城真一 松田昇
【屋我地村】金城福一郎
【大宜味村】前田陳秀 山城善正 大城行三 山城貞雄 平良光仁
【東村】新垣善保 宮城林太郎
【具志川村】新城國次
【佐敷村】大城ツル
【久米島】祖根宗春

 以上が早々と来場し、正式に署名入党した最初の党員である。その外に署名はないが、設立準備委員として仲宗根源和、大宜味朝徳、中山一、嘉数昇、大城善英、山城善光等ももちろん出席した。さらに「沖縄建設懇談会」以来、先頭に立って奮闘された平良辰雄、桃原茂太、真栄城守行、與儀喜宜、宮里栄輝の諸先生方はもちろん、真喜志與雄、遠山謙、平良助次郎君等の青年諸君も設立当初の同盟幹部となっていた。
 当日の開会要領の記録は残っていないが、例の如く私が経過報告をなし、仲宗根先生が結党の趣旨を述べられ、桑江君その他の設立準備委員のチームワークによって運営され、結局次のような宣言とスローガンを決定し、さらに暫定本部の役職員を決定した。

宣言
 吾等は沖縄人による沖縄の解放を期し、新沖縄の先駆として行動する者なり。沖縄は日本政府の圧政と侵略主義の為に斯くも惨憺たる運命に遭遇せり。焦土沖縄は沖縄人の沖縄なりとの自覚によってのみ再建さる。吾等茲に沖縄民主同盟を結成し、悲願達成へ奮然と起ち上がり、世界平和に奇輿せん為スローガンを掲げて茲に宣言す。
 右宣言す
 1947年6月15日
 沖縄民主同盟

スローガン
 1、沖縄人の沖縄確立
 2、民主々義体制の確立
 3、内外全沖縄人の連絡提携
 4、講和会議への参加
 5、日本政府による戦災の完全補償
 6、民営事業の促進と重要事業の官営
 7、土地の適正配分 
 8、最低生活の保証
 9、悪性インフレの徹底的防止


 結党創立大会は結党宣言をし、いかにも勇壮ではあったが、実質は卵からかえったばかりの鶏の段階でしかなかったので、全島的な組織構成はこれからということであった。従って、全島的な組織が確立された時点で見直しをなし、本格的な本部役職員を選出するとの前提で、次のような暫定的役職員が推挙され承認された。
 本部暫定役職員
 常任中央委員(出身地別)
 島尻郡=真栄城守行 宮里栄輝 大城清英 真栄城守仁(前川)
 那覇市=高安高俊 又吉祐三郎
 中頭郡=新垣金造 大宜味朝徳 桑江朝幸 伊波久一
 首里市=真栄城玄明
 国頭郡=平良辰雄 仲宗根源和 吉元英真 大城善英 山城善光
 事務局職員
  事務局長 仲宗根源和
  同次長兼調査部長 嘉数昇
  組織部長 山城善光
  総務部長 桑江朝幸
  同 職員 平良助次郎 具志堅興雄

 結党記念の大演舌会は記録に残っている通り、同市の午後大洋初等学校で大々的に開催されたが、残念ながら、その開会要領や出演弁士等の記録がない。私の記憶も薄れていて、黒山をなした聴衆の固りしか思い出せない。しかし、それは容易に想像出来るし、記念演舌会を持ったと記すだけでよいと思い、強いて証言者を探し出さなかった。私が特に附記しておきたいことは、この大演舌会が戦後の沖縄における、本格的演舌会の先駆で初回だとの点である。

(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火24・新報1982.04.08)


 6、忠告を蹴って実践活動展開<弾圧の手はのびず>

 第二の目標であった「結社の自由」はここに見事に打ち立てられた。政治的な行動をする者は、猫にねらわれたネズミのような運命を辿るぞ、とおどされていた沖縄人にとっては、全く信じられない程の出来事であった。たちまちにして全沖縄のあらゆる階層を動かしてしまった。民主同盟を結成して、引き続き各地で演舌会を持ち、徹底的に民政府批判をしても、一向に弾圧の手が伸びてくる気配もないのだから、雲行きを見ていた人々が、各地で活発にそれぞれの動きを始めてきた。
 私は平良助次郎君と二人でウルマ新報社を訪ね、瀬長亀次郎先生、池宮城秀意先生に会い、是非民主同盟に参加して下さいと頼み込んだけれども、ご賛同が得られなかったのみか、瀬長先生から意外な忠告がはね返ってきた。「今時そんなことをしているとアメリカさんにやられるぞ」と。この言葉が却って私をますます奮起させた。そこで、私の胸に刻まれていた戦前の闘士たちの面影を思い浮かべながら、探し廻り歩き続けた。まず、浦崎康華先生、次に儀保為貞先生、宮城無々先生等々と訪ねた。浦崎先生は当時、今の軍政府のある瑞慶覧の一角、安谷屋部落に居られた。やっと探し当てたのであったが、その家は戦災を免れた瓦葺きだった。部屋には上らず縁側に腰かけて話し合ったが、その時卵からかえったばかりの雛を誤って踏み殺してしまった。それが私の心に深い傷として未だに痛んでいるので絶対に忘れられない。浦崎先生とは基本的な点での意見の一致はみたけれども、ためらって居られた。その理由は知る由もなかったが、後日、民主同盟結成後35日目(7月20日)に誕生した人民党の初代委員長になられたと聞いて、始めてためらって居られた理由が分かった。当時、私は極めて慎重に振舞っているつもりではあったが、向う見ずの暴走野郎といったような印象を与えていたのではないかと思ったりしている。
 ところが、その暴走のような民主同盟の出現が立派な試験台となって、軍民両政府からの弾圧のないことが示されると、大手を振って罷り出たのが人民党だと私はみている。人民党が名乗りをあげると、雲行きがおかしくなっていた大宜味朝徳先生が、今度は民主同盟を抜け出して「沖縄社会党」を結成して、先生独自の道に踏みこまれた(9月10日)。すると今度は、首里を拠点として兼島信栄先生が「琉球社会党」(10月13日)の看板を掲げられた。(後日 10月20日、両社会党は統合され、単に「社会党」と名乗るようになった)
 当時の時世を知るための資料にと、以上の思い出話をつけ加えたが、次に党結成と同時に展開された具体的な党活動を記録してみる。
 結党をおえた民主同盟は石川市を根城に、中央ホテルや大城善英先生宅、仲宗根源和先生の止宿先等で頻繁に事務局会議を持ち、組織の拡大強化案を練った。特に青年部の結集は焦眉の急務となっていたので、まずその結集を計ることから手をつけた。すなわち、7月23日に中央ホテルに左記の面々が参集して、青年の組織化問題を話し合った。
 【大宜味村】山城善光 平良助次郎 【名護】上地成士 東江正男 【恩納村】当山忠盛 当山惣栄 比嘉篤行 松田豊太郎 【本部町】與那嶺信松 【国頭村】上原信雄 【屋部村】長山哲 比嘉吉雄 比嘉吉秀 【今帰仁村】新垣秀芳 喜納政業 渡久地政林 【石川市】又吉裕三郎 中山一 大城善英 仲宗根源和 真玉橋朝英
 以上のメンバーで懇談協議の結果、8月16日に大洋初等学校で「民主主義講座」を開き、引続き「オール沖縄青年弁論大会」を開催することを決めた。民主主義講座の講師には仲宗根源和先生と宮里栄輝先生が推挙された。まず初めに、宮里先生が「民主主義の倫理について」と題して約1時間程講義された。次に、仲宗根先生が「民主的沖縄建設について」との内容の先生独特の政治論を展開し、盛んに共産主義理論に論及して居られた。受講料は2円50銭であった。
 この講習会で、私が不思議に思い、いつかは仲宗根先生にその真意を伺ってみる積りでいたのが、とうとうその解明がなされず仕舞になっている点に触れてみる。それは後年、党を解散せしめねばならなくなった深因が潜んでいるからである。先生は講義の中で、共産主義理論について滔々と述べられたが、その誤謬や不当性を指摘することなく、あたかもそれが民主主義理論の基底だと言わんばかりの運び方をされた。その講演は若い一同に深い感銘を与え、大きな拍手となった。なぜそのような運び方をされたかは今でも分からないが、強いて言えば、物すごい勢いでもって追撃してくる人民党への流れの喰いとめ策であった、としか言えない。しからば、仲宗根先生の本意は奈辺にあったかと言えば、当日プリントして配られた次の要約文の通りであった。

 住ミヨイ沖縄、明ルイ沖縄、楽シイ沖縄、豊カナ沖縄、美シイ沖縄ヲ作ルニハドウスレバヨイカ
 一、沖縄民主同盟ハ沖縄デ最初ニデキタ。
 二、民主同盟ハ沖縄ノスベテノ問題ヲ人民ノ立場ニ立ッテ解決シテイク。
 三、民主同盟ハ支部本部ガ全人民ト一体トナッテ行動スル。
 四、民主同盟ハ従来ノ上意下達ノ古イ考エ方デハナク、人民ノ意志ニ基イテ行動スル。
 五、民主同盟ノ役員ハ選挙デ決メルカラ、コレマデノ政党ノヨウニ悪イコトハデキナイ。
 六、コノヨウナ民主同盟ニ一人デモ多ク入党シテ共ニ沖縄建設ニ邁進スルコト。
 七、以上ノヨウニ民主同盟ハ人民ノ意見ニヨッテ作ラレタ人民自身ノ政党デアル。
 八、明ルイ沖縄ヲ作ルタメニ又子孫達ニ立派ナ社会ヲツクッテアゲルタメニミンナ民主同盟ニ入党シマショウ。

 残念ながら両先生の講義の内容等の記録が残ってなく、私の記憶に頼ったので、物足りなくなっているが、ご容赦を願いたい。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火25・新報1982.04.09)


 7、オール沖縄青年弁論大会<9人の青年が熱弁>

 講座が済むと引続き、兼ねてから桑江君が中心となって企画し、準備を進めてきた「オール沖縄青年弁論大会」が同校の校庭で持たれた。弁士が多く深夜に及んだが、当時よく使用されていたアメリカ製の、軍払い下げ発電機で発電し、点灯して続行した。黒山のように集まった石川市民をはじめ、全島から集まった聴衆の姿が未だ眼底に残り、耳朶には熱弁を揮った山城権助君や真栄城玄祐君達の声が納められている。当日の弁士は次の通りであった。(出場順)
  1、今帰仁代表 喜納政業
  2、本部村代表 山城権助
  3、今帰仁代表 新垣秀芳
  4、羽地村代表 伊波沖秀
  5、越来村代表 青山洋二
  6、国頭村代表 上原信雄
  7、名護町代表 上地茂士
  8、石川市代表 福里恵茂
  9、首里代表 真栄城玄祐

 これらの青年は文字通り憂国の志士たちで、仲宗根先生と宮里先生の講義を聞いて、胸を踊らせた直後だけに、みんな一様に瞳を輝せて熱弁を揮い、一気に沖縄の暗雲を吹き飛ばした。
 この9人の弁士は、将来文字通り沖縄を背負って活躍するようになるが、その中の数人について、簡単に彼等が民主沖縄建設に貢献している姿を紹介してみる。
 まず今帰仁代表の喜納政業君は、民主同盟解散時まで私たちと共に青年部の指導者として東奔再走したが、その愛郷の情熱は村民の認めるところとなり、居村の村会議員に推されて村政に参与した。革新思想に目覚めた彼は人民党に入党し、1958年に同党公認候補として立法院議員に立候補して当選した。私も社大党から立候補してやっと当選することができたので、所属する党は違っていたが、革新陣営の仲間として共闘してきた。彼は純粋な農民代表として農村問題に取り組んでいた。政界を引退して長くなるが、現在でも彼は依然として居村の指導的存在であり、広く大衆から慕われながら生業にいそしんでいる。
 次に、本部村代表の山城権助君は、仲宗根先生の郷党の配下として、また、同盟青年部の一員としてよく啓蒙運動に参加してくれた。そのころから、彼は特色ある能弁を大いに発揮していたが、後日、ラジオタレントとして活躍するようになり、広く県民からも親しまれた。
 越来村代表の青山洋二君は、民主同盟の誕生以前から形に添う影のように、桑江君に寄り添って協力していた。彼も民主同盟青年部の中心幹部として活躍したが、特に文才に恵まれた彼は、桑江君と共に騰写版を活用して、文芸活動を通じて啓蒙運動に挺身した。あの時世でのそのような動きができたということは特筆に値いする。現在彼は沖縄市における文化活動の中心的人物として奮闘しているが、宜なるかなである。
 国頭村代表の上原信雄君は、最後に紹介することにし、7番目に登壇した名護町代表の上地茂士君と最後に登壇した首里代表の真栄城玄祐君のことから先に記してみる。上地君は名護町役所に勤めていたように記憶しているが、多忙な公職にありながら、しかも足が不自由であるにもかかわらず、その足に鞭打って、名護町の民主同盟支部の設立強化に尽瘁した。今は故人となった照屋規太郎先生と共に、懇談会や演説会の度毎に熱弁を揮って大衆を啓発していた。
 首里代表の真栄城玄祐君の父玄明先生は、後日、民主同盟の幹部の一人として啓蒙運動に参加されたが、彼は父よりも早く民主同盟に参加し、オール沖縄青年弁論大会の最終弁士として熱弁を揮い、青年の意気を高らかに示した。そのころから沖縄タイムス社に勤めていたかは知らないが、彼もまた弁舌のみならず文才に長けていて、大いにタイムス紙上に筆陣を張っていた。現在同社の最高幹部の一人として活躍している。
 最後に、国頭村代表の上原信雄君について、述べさせて頂く。彼は本島最北端の奥部落出身だが、14歳のころに満蒙開拓少年義勇隊員として満州に渡った。同地で応召し、特命を帯びて南方に赴く途中、宮古島で終戦となり本島に引揚げてきた。米軍に日本兵と間違えられて捕まり、那覇刑務所にぶちこまれるが、沖縄人だと分かり、釈放された。そのころ、私達の民族運動の動きを知り、私の家を訪ねて来ていろいろと沖縄問題をきいていた。その内に、肝胆相照らす仲となり、ついに血盟の同志となった。彼は23歳の時に25歳だといって、村会議員に立候補して当選し、沖縄最年少の村会議員となった。民主同盟と人民党が共同戦線を張って闘い取った知事並に議会議員の選挙でありながら、いざ選挙となったら、犬猿もただならぬ仲と相成った両党の姿、特に仲宗根委員長の一変した態度、即ち人民党攻撃に堪えられなくなったらしく、離党して本土に渡った。本土に渡って共産党に入党したとの情報もあったが、間もなく日本を後にして中国に亡命した。亡命して30年近く何の音沙汰もなかったが、数年前無事生還して来て、時の新聞紙上を賑わした。その時、昔の同志約20人程が集まって歓迎の一席を持ったが、現在文字通り日本における中国通の第一人者となっている。「日本中国留学生・研修生援護会」の代表者として日中友好のために東奔西走している。先般、「感謝表敬徳田球一先生郷党訪中団」が中国共産党中央委員会の正式決議による歓迎を受けることができたのも、専ら同君の努力の賜であった。
 ともすれば、前途に希望を失い、横道に走ろうとする当時の青年に奮起躍動への道を示し青年の自主的組織活動の先鞭をつけたことは否定できない厳然たる事実であった。長いこと歴史の裏側に埋れさせていた私たちの怠慢を詫びる意味において、代表的な数人を語ることを通じて、当時の青年部一同と讃える。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火26・新報1982.04.10)


 8、全島的に展開された民主化運動<全島的に懇談会>

 オール沖縄青年弁論大会で気勢をあげた民主同盟事務局は、それらの弁士並びに全受講者の協力を得て、懇談会形式による全島的な民主化運動を展開することになった。ここで特に断っておかなければならないことは、民主同盟とせずに民主同盟事務局としてあることである。それは既に記した通り、民主同盟結成当初は委員長を置かず、事務局長を設定して、組織途上における党務を総括させていた。全島的組織網が確立した時点に、党の本格的な組織機構を現出せしめる企画になっていた。つまり仲宗根先生が飽くまでも民主的な方法を実践していくとの信念によるものであった。一般にはよく当初からの仲宗根委員長といわれているが、仲宗根先生が委員長を引き受けたのはずっと後である。当初の結社届も確かに組織部長名になっているはずだ。仲宗根先生の偉大さを示す一面であるが、後にその点に触れてみたい。
 さて、オール沖縄青年弁論大会の直後、すなわち昭和22年8月の下旬ころから、具体的な民主化運動を展開させるが、まず手始めに北部地区から実施することになった。正確な日時と会場名、講師名、懇談順序などは記入もれとなっているが、各地区とも出席者の出身部落名、職業名と氏名年齢は大体自筆で記入されたのが残っている。私の記憶にも、出席者はそれぞれの部落の代表的な人物であったと刻まれている。
 第1番目に開催された村が屋部村であった。今は故人となった元沖縄自民党幹事長の吉元栄真先生が地元呼びかけ人であった。受付順の出席者は次の通りとなっている。
 岸本嘉昌 吉元栄久 岸本森元 川満泰良 宮城兼清 比嘉幸順 真喜志康和 東江新得 比嘉吉雄 我如古喜吉 比嘉興二 岸本盛久 山本幸信 岸本幸久 比嘉安信 比嘉吉秀 比嘉嘉光 宜保豊信 山本厚信 比嘉安? 吉元栄之 原國政禮 吉元栄真 岸本幸盛 呉屋永昌 岸本憲 山口悦之 大城保和 以上28名。
 引き続き、その翌日は仲宗根事務局長の出身地で開催したが、局長の出身地であるだけに特に力を入れたらしく、参会者も一番多かったという記憶は未だ生きているが、余りに多かったために受け付け不能になったのではないかと思われる。局長の親威の仲宗根源栄、仲宗根善光先輩等を初め、各部落の有志が詰めかけていた。閉会後小宴が催され、一行が歓待を受けたが、その時吉元先生が真っ裸になって、いつでもどこまでもくっついて来る太郎君を一生懸命に扇いで居られたのが忘れられないし、また、その時に語られた先生の笑い話が、その懇談会の記念碑のように未だ私の心の中に建っている。先を急ぐので割合するが、聞きたいと思う人には話してもよい。
 第3番目はすぐ隣の今帰仁村であった。同村はもちろん、大城善英先生の肝入りで、大城真一、喜納政業君等がその組織に取り組んだ。仲宗根部落を中心として、近郷の有力者が結集していた。海を隔てた古宇利島代表も参加していた。参会者の氏名は次の通りである。
 長田盛徳 花城清光 仲里新宝 運天政光 田港朝春 比嘉亀吉 荻堂盛福 西銘生吉 前田孝善 荻堂直康 外間宏宗 仲里正吉 松本吉郎 伊波興福 仲本幸一郎 金城寛一 仲里一徳 西平守正  大城健一 砂野真吉 渡慶次賀秀 平良武太郎 嘉陽宗従 石嶺善太郎 松田幸福 新垣秀芳 山城金長 大城静雄 西平守蔵 安里政安 大城真一 以上31名。
 羽地村での懇談会の情景は全く思い出せない。出席者の顔触れからみると、オール沖縄青年弁論大会で熱弁を振るった仲尾次部落出身の伊波沖秀が中心となって働きかけたものと推察できる。また、出席者の中には私の中学時代の同級生の真喜屋俊夫君も名前を並べているので、同君も私の呼びかけに応じて起ち上がったものと思われる。当時、私はよく川上部落の彼の家を訪ねた。早速氏名を並べてみよう。神山本慎、松田精吉、伊波沖秀、金城作一、伊豆味辰次郎、喜納豊一、平良辰雄、朝武士獅子雄、松田俊雄、真喜屋俊夫(新島)、金城信光、平良政盛、喜納源徳 以上13名。
 さて、人名ばかりを並べていると肩が凝って来たので、息ぬきのためにこのあたりで、民主化運動中に今帰仁で拾った笑話を披露してみる。懇談会が終わると席を改めて、乗りこんで来た一行の慰労会となるのが通例であったが、今帰仁でも例の如くあるところで和やかに催された。およそ15名の地元代表と、私たちの一行5人くらいが席に着いて、まず自己紹介から始まった。次々と出身部落名と職業と氏名を自己紹介して行ったのであるが、大城真一氏の順番となったので、氏が元気よく立ち上がって一礼をし、「私は越地部落の出身で大城真一と申します。職業は漁業であります」と言い終わると同時に地元の諸君がはっはっと笑いころげてしまった。みんなの笑い声につられて、私も笑ってはみたものの、その意味が分からずに頭をかしげていたら、多分花城清光氏だったと思うが側から私をつついて「ちんぶく(釣竿の竹)持っちゃーだよ」と解説してくれたので、私も遅ればせながら今度は本物の笑い声を上げてしまった。大城氏はユーモアに満ち溢れた方だが、なかなかの硬骨漢で、徹底した社会主義思想の持ち主である。金銭に縁のない人柄であるが超然といつもにこにこと笑顔を絶やさない。氏は若いころ本土で思想的に開眼し、労働運動にも携わった経験があり、サイパン島では上里春生とも交遊があった。氏は民主同盟の初期から最後まで私とともに東奔西走した。大雨の日にびしょ濡れになって、玉城村の奥武島に2人で行ったことがあるが、最近は老境に入って、一人で病身を癒している。氏を訪ねたら、奥武島行のことを忘れずに、その思い出を語ってくれた。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火27・新報1982.04.11)


 9、一段落した北部の民主化運動<挙村一致の大宜味>

 地域懇談会による民主化運動は、屋部村を起点として本部半島を廻って羽地村に移り、いよいよ北山原の大宜味村と国頭村に乗り込むことになった。大宜味村は私の居村であり、伝統的に革新的な色彩を帯びている土地柄でもあり、また、いわゆる大宜味大工のほとんどが、中南部に出ていた関係で、よく中央部の動きを知っていた。既述の通りA・J工作隊の中核をなしていた喜如嘉出身者は、この運動の当初からの協力者であったので、展開された民主同盟の民主化運動にはほとんどの村民が深い関心を示していた。従って、懇談会も最も組織的に動員され、文字通り挙村一致の催しとなった。上方は田嘉里部落から、下方は津波部落まで、計16の区長を中心とする部落代表と、4つの学校教員代表、幹部級役場吏員の全員、特に6名の婦人代表まで参加して、盛大且つ真剣に催された。会場は、戦後新築して間もない喜如嘉校の茅葺き校舎であったと思う。講師には仲宗根先生と宮里栄輝先生、それに喜如嘉婿の吉元栄真先生も参加されたはずだ。時折宮里先生はあの時の思い出を語られる。さらに、そのころから民主同盟に参加された久場長文先生も沖縄の文化史に就いて講演された。喜如嘉校は、久場先生がかつて教鞭をとられた懐しい学校であった。それは余談だが、私が5歳のころ、よく「クブ先生!クブ先生」と先生に呼びかけていたのを覚えているが、縁は異なもの不思議なもので、昭和25年ごろ、民主化運動の一環として那覇牧志町の一角、希望ガ丘の荒蕪地を拓り開いて街作りをなし劇場珊瑚座を建て、桜通り団(現在の桜坂)を結成した時の団長が久場先生で私が副団長であった。
 懇談会の段取りは私の義兄の神山敦三氏と私の同級生で民主同盟の大宜味村支部長となった玉城美五郎君の二人がしてくれた。当日の出席者は左の通りである。
 照屋忠現、宮城倉栄、平良忠蔵、宮城正行、前田陳秀、宮城調彦、金城宗三、根路銘安盛、知念保一、照屋林三、宮里金一郎、與那城満正、金城徳勝、宮城真太郎、辺土名朝保、金城甚栄、真喜志康信、大山茂一、金城保三、神山敦三、宮城保四郎、大山喜秀、金城善昌、前田朝幸、金城徳正、前田喜典、金城富彦、金城仲建、山城米春、前田貞四郎、宮城ノブ、新里トヨ、金城芳子、浜元栄吉、金城トミ子、平良マサ子、宮城調正、宮城調光、宮城嘉助、仲間忠貞、比嘉森助、島袋清水、山城宗喜、玉城美五郎以下44名。
 最後に北の果て国頭村となった。今でこそ一周道路も出来、簡単に安田、安波も通り抜けられるが、あのころは安田、安波は陸の孤島と同じであった。従って、安田、安波からの出席者はいないが、当日の出席者名簿を見て私は今更ながら涙がこみ上げてくるのを覚える。というのは辺士名を中心とする西海岸の代表はほとんどの部落から出席しているからである。それは、上原信雄君の情熱と山城順善、山田義福、大城感一氏、山川一貫氏等諸先輩の積極的な協力によるものだったと推察している。国頭村も出席者は文字通り村を担って立つ平良吉盛村長以下村の指導者達であった。その氏名は次の通りである。
 平良吉盛、大城真太郎、山田義福、山城堂立、金城新昌、平良宏、知花清正、金城真光、大城親昌、慶田喜三、仲嶺真幸、山之端立健、上原信雄、平良徳雄、金城賢一、大城蒲茂、平安基勝、大城感一、枝川徳太郎、金城新五郎、比嘉哲泰、大田栄f、宮城清賢、親川弘、外間伊光、山城順善、神山敦三(大宜味)以上37名。
 なお、本懇談会は名護町においても確実に実施されているが、その記録がないので省略した。私たちは照屋規太郎医師の住宅を拠点として、北部の民主化運動を展開した。上原君と私は中南部の行き帰りには必ず立ち寄って、近況報告をし、その都度奥様のご配慮による食事を頂戴して元気百倍したのであった。
 以上のような形式で、中南部の同志たちも積極的に懇談会活動に取り組んでいた。そのころからは仲宗根局長に引き連れられて、桑江君、上原君と私の3人は影が形に添うようにして随行した。桑江君の拠点コザ市はもちろん、普天間首里那覇等で精力的に懇談会を催したのは間違いないが、残念ながらその記録が残ってないので割愛せざるを得ない。
 私は、随時随所で活躍した同志の思い出話を挿入して来ているが、ここでは今は故人となっている私の無二の親友である玉城美五郎君のことについて触れざるを得ない。彼は私と小学校の同級生で、中学は彼は一中、私は二中と別々になったが、中学在学中もまるで同じ学校の級友のようなつき合いをしてきた。中学卒業後の「大宜味村政革新同盟」の時も、共にスクラムを組んだし、また、20年を経過して結成された民主同盟にも真っ先に参加し、大宜味村支部長として協力してくれた。特に民主同盟が真和志に事務所を建設した時にはその基金募集をして、落成させてくれた。一昨年彼が病気で入院していることも知らずにいたら、突然、訃報に接し、飛んで行って見たら、正しくあの世の人となっていたので、私はやりきれない気持ちに襲われ、ついに暴言ともとれる言葉を吐いてしまった。
 「美五郎!君は自分勝手に死んでしまったな―。何で死ぬのなら死ぬといわなかったのか…。ああ!しかしもう仕方がない。美五郎!淋しがらずにいなさい。その内に僕も行くからね…」
 平良辰雄先生が知事に立候補された際、後述することになっているような事情で、私は松岡政保先生の陣党の一員となり、居村大宜味で文字通り孤立するが、立法院議員選に立候補している私の事務所に人目をしのんで、深夜私を慰問してくれたただ一人の大宜味村の有志であった彼の友情が、とうとう右のような暴言を吐かせたのであった。


御 通 知
 左記ノ通り中央委員会並に懇親会ヲ開催致シマスカラ是非御出席下サイ
   記
 一、中央委員会
  日時 12月10日午前9時
  場所 於石川市中央ホテル
 出席 委員並ニ支部長、出席不可ノ場合ハ必ズ代理者2名以上派遣ノコト。
協議事項
  A.選挙促進署名運動展開ノ件
   B.其ノ他支部提出事項
 一、懇親会
  日時 12月10日午後5時
  場所 於石川市7区9班(は通り)伊波久一氏宅
  会費 30円
 【註】本年度最終ノ会合ニ付委員会、懇親会共是非御出席下サイ。尚前日中ニ石川市マデ出テ居ラレ度シ。
 1947年12月3日
 沖縄民主同盟事務局長 仲宗根源和殿

請願書事務局案(御検討下さい)
請願書(宛沖縄軍政長官ヘイドン準将)
 終戦後二年有余月ノ間民主々義ヲ標榜スル聯合國軍ノ軍政下に有リ乍ラ、当沖縄ノミ依然トシテ旧日本ノ封建的官僚的制度行政ヲ殆ンドソノママ施行シ続ケテ居リマス為ニ私達住民ハ暗澹タル気持ニ閉ザサレテ居リマシタガ、去ル8月ニ近ク沖縄ニモ選挙ヲ施行スル旨ノ報道ニ接シテマシテ、私達ハ欣喜雀躍、今度コソ心カラ聯合軍ニ協力出来、新沖縄建設ニモ積極的ニ邁進出来ルモノト思イ、希望ニ燃エ久シ振リニ沖縄人本来ノ明朗サヲ取リ戻シ得マシタ。然ルニ1947年モ将ニ暮レヨウトシテイマスニモカカワラズ、選挙ノ告示サエモナク私達ハ再ビ失望落謄セシメラレテ了イ、一体何時迄斯カル状態ニ呻吟セネバナラナイカト悲憤シ、且ツ希望ヲ失イツツアリマス。茲ニ於イテ私達住民ニ希望ヲ持タシテ心カラ聯合国ニ協力シ、新沖縄ノ建設ニ奮起邁進セシメル為ニ先ズ私達ガ切望スル知事、市町村長ノ公選、各階級議会議員ノ選挙ヲ一日モ早ク実施シテ下サルヨウ別紙署名人一同連署シテ請願致シマス


 中央委員会は予定通り石川市の中央ホテルで開かれ、各地から参集した中央委員で会場を埋め尽した情景を思い出すことができるが、その記録が残ってないので詳述できないが、もちろん提案事項の請願書は満場一致で承認された。引き続き催された懇親会も和気藹々裡に運んだらしく、中央ホテルに引掲げた一同が、表座敷はもちろん、二つの裏座敷までも占領してゴロ寝をしたのが記憶に残っている。酒に酔って上機嫌になった名物男の巌さんが、中国語でしゃべってみんなの安眠を妨害したので、たまりかねた上原信夫君が、中国語で怒鳴ったら、神妙にもすぐ黙ってしまった、という思い出のほほえましい一駒もあった。
 翌日から全中央委員が署名運動を展開し、後日それを取りまとめて軍政府に提出している。その具体的な記録はないけれども、後述する第4章「戦後の沖縄の知事議員の公選はいかにして闘い取られたか」の中に、軍はその請願書を受け取ったことを裏づけている。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火29・新報1982.04.13)


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