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荒野の火

 沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火(連載:琉球新報1982.03.15〜1982.05.09)


  山 城 善 光

◆ 目  次 ◆
序 章 灰じんの沖縄に帰る
第一章 言論の自由への闘い
第二章 結社の自由への闘い
第三章 出版の自由への闘い
第四章 知事、議員公選への闘い
第五章 知事、議員公選への闘い[続き]


第三章 出版の自由への闘い


 1、今度は報道の自由獲得へ<同盟の機関紙発行へ>

 言論の自由を獲得し、結社の自由を確立した民主同盟は、沖縄の民主化運動の前面に立ちふさがっている、今一つの最も重要な障害物の除去作業に入らなければならなくなった。すなわち、正しい報道を任務とする「出版の自由」獲得であった。当時沖縄には報道機関としてはただ一つの新聞「うるま新報」があるだけであった。それは灰燼に帰した沖縄が、微かながらも世界を覗くことのできる、ただ一つの窓口であった。そしてまた、沖縄がどうなっているかを知るための、知識の貯水池でもあった。ところが、そのようなただ一つの新聞が、しかも大衆と共に在らねばならない新聞が、普天間会談のことはもちろん、沖縄建設懇談会が果した歴史的な役割、すなわち言論の自由を確立した事実の報道等は一言半句もなさなかった。さらに前述したような経過を経て誕生し、民族的な総起ち上がり運動として展開された民主同盟の結成事実はもちろん、その活動の片鱗さえにもふれず、一字一句も活字としないという現実にぶっつかり、私たちはもう我慢できなくなった。「よーしッ!次は出版の自由獲得だ!!騰写版!騰写版!桑江君の騰写版だ!!」と桑江君が日本から深い思いをこめて持ち帰ってきた秘蔵の武器を思い出し、ひそかに決意を固めた。早速、私の心中を桑江君に打ちあけたところ、むしろ逆に彼が私を激励するというような形で合意に達した。そのころから同盟の中で頭角をあらわし、若い全情熱を民族解放のために捧げつくしていた上原信雄君が事務局の一負に加わっていた。彼はやがて青年部長となるが、総務部長桑江朝幸、組織部長山城善光、同副部長平良助次郎のこの四人で民主同盟の事務局を背負って、仲宗根局長に応えていた。それで四人は早速「報道の自由」獲得に向かって闘いをすすめることを決め、その具体策として「自由沖縄」と名づけた同盟の機関紙発行に踏み切ることにした。幸いにもその案は局長の快諾を得たので、その発行準備に取りかかることにした。ところがいよいよ具体的な手続きに入る段階になって、平良助次郎君が急遽日本へ引き揚げねばならなくなってしまった。その深い事情は知らなかったが、彼は日本籍の沖縄人で、未だ沖縄籍になってなかったために、引き揚げざるを得なくなっていた。私たちにとって、特に私にとっては大きな痛手となったが、仕方のないことだと見て、私達は彼に日本における連絡員としての立場を与え、引続き同盟の一員としての義務を負わしめた。なぜ私たちが彼に右のような義務を負わしめたかといえば、沖縄人連盟総本部理事長だった永丘智太郎先生から、次のような手紙を受けとっていたからである

拝啓、君の健闘を謝す。
 連盟には僕の在任中仲宗根君(仙三郎のこと)に手を打たし帰還された諸君のため相当な資金(壱千万円は保管されている)があるから皆の協力で軍政府とも了解の上で至急利用方を考究しては如何。僕は連盟を引退し、もっぱら国際問題を研究中ですが来年あたり渡米の機をつくり沖縄に立ち寄り皆様にも会いたい希望をもっています
 源和、栄輝その他の諸君によろしく  永丘


 沖縄人連盟総本部時代初期は伊波普猷先生が会長で、永丘先生は理事長としてさい配を揮っておられた。その下に八幡一郎事務局長、そして私がその次長として協力申し上げていた。私は先生から格別の信頼を頂いていたので、その信頼にこたえて指図通りに諸活動を忠実に実践していた。無口ではあるが、ほとばしるような先生の郷土愛、博識と実践力等の人となりを知りつくしていたし、またその一千万円の件の内容も知っていたので、私はすぐ飛びつき、平良君を日本駐在連絡員とすることを提案し、局長の承認を得たのであった。
 彼は23[1948]年の2月上旬に日本へ引き揚げて行った。従って「出版の自由」獲得への主動力は桑江君と上原君と私の3人になってしまった。それからが3人の涙物語が発生し、今でこそ何の悔いもない思い出となっている、受難絵巻とでもいいたい程だが、3人とも先駆者の苦難の味を存分に味わわされた。桑江君の著書「民族の血は燃えて」の中にも書き記されている通り「仲宗根源和の三羽烏」の称号が出はじめたのはそのころであった。
 平良君の日本への引き揚げは確かに痛手ではあったが、右の永丘先生の手紙はその痛手をカバーして私たちを勇躍せしめた。日本へ引き揚げて行った平良君から、1カ月後に3月17日付の長い長い初信が私あてに届いた。それには私が沖縄へ引き揚げて以降の、沖縄人連盟の動向、特に幹部諸公の対立関係や非行等までが克明に記されていた。それ等の事共は私には手に取るように、あるいは眼のあたりに見るような実感のこもっている情報ばかりだったので、感激せしめられたり、あ然とさせられたりした。特に新聞発行の件については、かなり東奔西走したらしく、兼ねて打ち合わせておいた資金作りの件が大きく取り上げられたとの文面に、私は思わず拳を握り胸を躍らせた。資金作りとはこうである。先の永丘先生からの手紙にもある通り、日本政府から沖縄引揚者に対しての見舞援助金が、一千万円沖縄協会に渡されていた。それは当然沖縄現地に渡すべき金だから、その金を新聞社創立のために活用できるように段取りをしてくれとの任務を平良君に負わせてあったのである。それに対しての明るい条項を具体的に並べた長い文面になっていたので、私たちの夢はますます大きくふくらみ、闘魂は倍加してきたのであった。ところが、結果的にはその件は間もなく不発に終わったので、爾後のことは一切省略し、ただその手紙の一件が私たちを勇気づけた一つの要因であったのと同時に、これから展開して行く要因でもあったということをつけ加えて前に進む。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火30・新報1982.04.14)


 2、苦難と曲折の意外なる展開

 @悪戦苦闘を語る申告書<「自由沖縄」の発刊>
 平良助次郎君からの明るい第一報を握った私たちは、早速党の中央常任委員会の開催の段取りをした。3月27日に、石川市の大城善英氏宅に集まり、機関紙発行の件を正式に決定し、その発行、印刷、編集等の一切の責任は組織部長山城善光とすることにした。私は、東京で沖縄人連盟総本部の機関紙「自由沖縄」の一時期の発行責任者にさせられた経験を持っていたので、在日同胞との関連性を考慮に入れ、ことさらに今回の機関紙名も「自由沖縄」にした。幸いにもその前後の日記帳が残っているので、その中から参考資料となる部分だけを引用してみる。私たちは、中央委員会で決定したら時を移さず直ちに活動を開始している。

 3月29日、上原君と同道、新聞発行について諒解を求めるべく、民政府並に軍政府に赴く。船越情報課長出張にて不在。軍政府にてハウトン情報課長に、大城ツル通訳官を通じて諒解を求む。好意ある回答を得勇気百倍す。一切船越氏と相談するようにとのこと。
 4月5日、新聞発行準備のため胡差行。石川に一泊。
 4月6日、胡差着。午後一時半頃中央病院前にて災難に遭遇。
 4月7日、災難解消。新聞発行の件に付、軍通訳氏もその程度の原稿は差支えなき旨の答えあり、大いに力づく。
 4月8日、民政府に船越情報課長を訪れ、新聞発行に付懇談。主要原稿を見て貰い発行の容認方を希望せし処よく諒解され容認さる。然し13日迄軍政府と打合すから、決定的な回答は今日まで待ってくれとのこと。為に同日まで発行遅延の止むなきに到る。
 4月9日、発行遅延に付一先ず帰郷。
 4月12日、再び発行の為胡差に赴く。一泊。
 4月13日、約束通り桑江、上原両君と同道民政府に赴く。昨日在野の巨頭連十数名が首里に会談、民政府首脳の総退陣問題を続いて懇談したとのビッグニュースに接し、首里の仲宗根宅に探知に赴く。民政府行にて不在。正午前船越氏に会う。ハウトン氏出張中にて未だ軍政府と打ち合せてないとのこと。いつまでも愚図々々して居れないので、民主同盟の運動理念と小生の心境等を披瀝し、即時発行の容認方を求めた処、よく諒解され容認さる。その際出版に関する取締法の案文を提示さる。徹底的に批判して反省を促し、訂正方を注意す。首里会談の情報を提供す。感謝さる。
 4月14日、編集開始。上原君原紙を切る。桑江君紙の用意。残念乍ら初日は印字不明にて失敗に終る。
 4月15日、又やり直し、又失敗。最初6頁の予定だったのを、到底不可能と知り2頁に変更。中央病院の輪転機にやっと文字鮮明化す。午後10時半刷り上る。

 なお、日記は続くが、それは1000部の内127部は損紙となり、残りの873部の配布先を詳細に記しているのが主で、各支部はもちろん、各市町村、各種団体、各学校、図書館、工作隊関係、主要官庁等に配った事実を判然とさせている。
 私は「三人の涙物語」とか「受難絵巻」とかの修飾語を使ったが、右の日記を通読しただけではその実感は伴わない。4月6日の欄に、胡差着。午後1時半頃中央病院前にて災難に遭遇とあり、さらに今でこそ何の悔いもない思い出となっているとしてあるが、私はこの辺でその災難の具体的事実を克明に記してみなければならなくなった。幸いにも、本件が後日出版法違反事件として、高等軍事裁判に付された際、私が判事に対して事の経緯を詳しく記してある申告書の控えが手許にあるので、それらをそのまま引用して、当時の実情を浮かび上がらさせてみる。上記日誌と重複する箇所も出てくるがご辛抱を願いたい。

申告書
 沖縄民主同盟機関紙「自由沖縄」発行に就いての経過を申告致します
   記
 1、本年3月25日中央常任委員の大城善英氏より私に電話があり(当時居村に居りました)27日の午後5時迄石川市の同市宅に集るようにとの事でしたので27日の同時刻に民主同盟の連絡事務所なる石川市一区五班の同氏宅に左記の面々が集りました。
 中央常任委員兼事務局長 仲宗根源和
 中央常任委員 大城善英
 〃      伊波久一
 〃      又吉佑三郎
 〃      中山 一
 〃兼組織部長 山城善光
 〃兼総務部長 桑江朝幸
 〃兼青年部長 上原信雄


 以上で常任中央委員会を開会し、大城善英氏より同盟の機関紙発行の件について提案あり、大約左の通りの説明がありました。
 沖縄民主同盟は結成以来1年近くになるが、同盟の組織が思わしく伸びず、活動が活発化しないのは機関紙を持ってないからである。民主同盟の目的達成のためには、どうしても機関紙を持たなければならない。
 右の提案に対し、満場一致で承認可決し、その実行方法について打合わせた結果、編集印刷発行の事務扱いを私に一任されたので、私は事務局員の桑江朝幸、上原信雄の両君を協力者として推薦し、一同の承認を得たので、爾后両君の協力の下に準備をすすめました。翌28日午前8時より10時半まで石川市の中央ホテルにて、事務局長仲宗根源和氏を交えて私を中心に桑江朝幸、上原信雄、大城善英、中山一の6人が集まり、編集会議を開きましたが、その内容は次の通りであります。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火31・新報1982.04.15)


 Aとんだ災難MPに連行さる<人民党と間違われる>
 新聞連載の都合上、とんだ災難MPに連行されるとの中見出しをつけておいたが、私の申告書は次の通り続いている。

 巻頭言(発刊の言葉)議会展望 仲宗根源和
 支部便り…大城善英、中山一氏をはじめ、各支部に依頼の事。
 民主同盟の足跡、海外便り、雑報 山城善光、文芸欄、詩歌、収支決算、事務報告 桑江朝幸
 以上のように担当する事を決めました。

 翌29日(金曜日)、私は上原信雄君を同伴し機関紙発行に就いて手続きを為すべく民政府に出頭したところ、情報課長は出張中だと同課員の國吉真哲氏が告げたので、折角大宜味の遠い所から出て来たのだから、軍政府迄行き係官のハウトン氏に諒解を求めねばならんと思い、上原君と同伴し、午後軍政府に行きました。軍政府では経済部の大城ツル女史の通訳でハウトン氏に会ったところ、同氏は快く迎え大約次のような談話を致しました。
 私 「私は民主同盟の組織部長の山城善光であります。彼(上原)は青年部長の上原信雄であります。この度私達民主同盟では機関紙を発行する事を決議し、私がその担任者となりましたのでその許可を受けるべく手続きに民政府へ参りましたら、船越情報課長が出張で不在でしたので、一先ず引返して出直そうかとも思いましたが、國頭の遠い所から出て来て居りますので、この機会に軍政府にも伺って諒解を求めようと思って参りました」
 ハウトン氏 「それは御苦労さんでした。新聞紙発行の事については総て民政府の情報課長の船越さんに一任してあるから同氏とよく相談しなさい」
 右の返事を得ましたのでこれ以上同氏と話す必要はないと思い、面談約数分にして御礼を述べて帰りました。幸いにもそこから国頭行きの車がありましたのでその車に右大城ツル女史も乗り、同女史は新里で下車、私達は一路国頭へ帰りました。
 月を越えて4月6日、桑江朝幸氏宅に上原信雄氏と3人が落ち合って相談の結果、私が民政府へ手続きに行く事になり、午後1時頃胡差中央病院近くの十字路に立って車を拾おうとしました。普天間キャンプからはよく民政府へ車があるので、一先ず普天間キャンプ行きの車を拾おうと思って立っていたらMP(1人)私の前で車を止めました。乗せてもらえるかも知れんと思い「テイクミー、フテンマ」と呼びかけました。すると肯いたので乗ろうとしたら、私の持っていたカバンを指して、開けろと云っているらしかったので、開けたら中身を調べられました。中から平良助次郎君(元民主同盟組織部副部長で日本籍があったため、一身上の都合で2月上旬日本に帰還した男)から航空便で送って来た手紙が出てきたので、切手を指して「ジャパン?」と尋ねた。「そうだ」と答えたら「乗れ」と云った。私は彼が好意を示して普天間キャンプまで便乗させてくれるものと思って乗りました。すると普天間の方向には行かず、右に曲がって嘉手納のMP事務所に連れて行かれました。そこで比嘉という二世通訳に私の氏名、職業、住所、旅行目的等を訊ねられましたので、機関紙発行の手続きのために民政府へ行く途中で、民主同盟の組織部長だと答えました。後で分かったことですが、私が民主同盟を英語でどう訳していいか分からなかったために、通訳が誤って「人民党」と訳したらしく、そのためだったかは知らないが、CICに連絡して、私は待たされました。午後5時頃、隊長始めCICの方と思われる2、3名が立ち会いの上に比嘉通訳の手で取り調べが始められましたが、私はMPに検挙されて取り調べを受けねばならない理由は毛頭ございませんので、私は進んで自分の履歴等について簡単に述べました。日本から引き揚げて来た経緯等を尋ねられた後に交友関係を訊かれたので、先ず仲宗根源和氏だと答えると「どういう関係で?」と追求されました。「彼は私達の事実上の委員長で事務局長だからだ」と答えたら、「君は人民党ではないか」と意外の問いに私は「先から民主同盟だと言ってるんじゃないか」と云ったら、なーんだと云う形になり、そこで取り調べは打ち切りになりました。私は「決して疑わしい者ではなく、カバンに入っているのは機関紙の原稿で、先日もハウトン氏とも会って来てあるし、今日は民政府で船越課長と会い、その原稿を見てもらいに行く処であって、この新聞発行のことは民主同盟の中央委員会で、10日に創刊号を出す事に決定していて多忙だから早く帰宅させてくれ」と頼みますと「君達の仕事を邪魔しようと思って君を引っ張ったのではない。実はこの航空隊から七百萬円の金が盗まれたので、今その犯人を探していた処たまたま君がこの大きなカバンを提げて立っていたから、その嫌疑をうけたのだ」との返事に、私は思わず噴き出し、頭を掻き乍ら、「私がですか? そういう嫌疑なら徹底的に調べて下さい。私は決してそんな男ではないから信用して帰宅させて下さい」と云ってみましたら、「その嫌疑は未だ晴れてないから、今晩はコザ署に泊まってくれ」との事でした。


 話は戻るが車に乗せられて嘉手納の方向に行くので、これはおかしいぞと思い、私は相手の感情を打診しようと思って「イッツ、ベリー、ファイン、トゥデイ」と呼びかけてみたが、何の反応もないので、いよいよ変だぞと思ったので、私はMP事務所に着いて下車すると同時にわざと大声で「サンキューバイバイ」と云って立ち去ろうとしたら「ヘイ、ヘイ、カムヘヤー」と呼びかえされてつかまったのも、この申告書を読み乍ら思い出した。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火32・新報1982.04.16)


 B新聞発行の許可に戸惑う政府<記事読み上げ許可要請>
 この申告書には書いてないが、コザ署の監房の一室にほうりこまれた私はすぐ署長に頼んで、桑江君に連絡をしてもらった。驚いた桑江君はゴザと毛布を持って飛んできた。お陰で寒い思いもせずにゆっくりと休むことができた。私の申告書は次のように続いている。

 右二世の比嘉氏が警察の飯は不味いからといって、そこの食堂で夕食をおごられ、日没頃胡差警察署に連れて行かれました。明けて4月7日午前11時頃、右二世比嘉氏が車で迎えに来ました。嘉手納のMP事務所に連れて行かれました。何か未だ取調べでもあるのかなと思ったら、カバンを持って来て、もう帰宅して良いとの言葉でした。カバンの中味を調べて見ましたら、元の通りで不足なく全部ありましたので安心しました。然し私は今度の事件で私の原稿をCICに見て貰ったのは却っていい機会だったと思い、車で送って貰った途中、右二世の比嘉氏に(相当の権限と見識を持っているように見えたので)「これ位の記事は載せたって大丈夫でしょうな?」と同氏の見解を打診してみましたら「大丈夫だよ」と当然の事だとばかりの返事に接し、私は私の非常識さを笑われたような気がして一人で恥ずかしくなりました。胡差市で下車させて貰い、胡差署に御礼を述べに行き、桑江君にも挨拶してから、午後普天間に赴き、時間が遅くなり、車もないので、キャンプ内の従弟の處に一泊しました。
 翌4月8日午前私は民政府に赴き、正午頃、船越(尚武)情報課長に会い、初対面の挨拶を交わしてから来意を大要次のように述べました。
 私、今度民主同盟では中央委員会の決議に依り機関紙を発行する事になった。その編集、発行、印刷の責任を私が負う事になりました。それで先月の29日に手続きをしにお伺い致しましたら貴方が出張中でご座いましたので、そのまま帰宅しようかと思いましたが、折角大宜味の遠い處から出て来ているから、軍政府までお伺いし、ハウトン氏に会って参りました。軍経済部の大城ツル女史の通訳で新聞発行についての了解を求めました處、ハウトン氏は、よく分りました、新聞発行については民政府の船越情報課長に一任してあるから同氏とよく相談しなさいとの返事でした。それで貴方がOKすれば新聞は出せる訳ですから、改めて許可を受ける必要もなく、印刷して直ちに党員に配布しようかとも思いましたが、然し十分連絡をとってやった方がいいと思いましたので、手続きに参った次第です。船越氏、ハウトン氏がそういったのですか。私、そうです。大城ツル女史がよく知って居られますし、部屋は経済部よりもっと先へ行って左側に折れ、その右側の2番目の部屋でした。
 船越氏、部屋はそこだ。然し私達も開店早々で未だ準備が出来てないし、どうしていいか一寸分らないから12日に私がハウトン氏に会って来ます。ハウトン氏は先島へ出張中で不在ですからそれまで待って下さい。
 私、実は中央委員会で10日に創刊号を出す事に決定しているし、遅延する事は困る。我々の党の活動は御承知の通り陽性で、共産主義運動でも反米運動でもなく、如何にして沖縄を民主化するかという、啓蒙運動を主とした民族運動であるのだから貴方の信用一つで許可して貰いたい。昨日私は偶然の機会からMPに挙げられ、CICの取調べを受け、この原稿も全部調べられて来たのだが、別に何ともないし、帰途車上で二世に、是位の記事は差し支えないだろうなー、と聞いて見たら、大丈夫だ、といっていた位だから一つ許可して貰い度いとお願いし、持参して来た原稿を全部私が読み上げて、同氏もそれを目読し乍ら、聞きつつその内容を検閲して貰った次第です。そこで同氏も納得したものとみえて、鉛筆を取り、発行所や発行人、部数、配布先等について書きとり、やっと発行していいと肯いてくれました。其處で私は帰宅すべく公用バスに乗りましたら、発車間際になって同氏が駆けつけて来て、今官房長に伺ったら未だニミッツ布告が生きているとの言葉だから一寸待って下さい、と発行取止方を命ぜられました。それで私はそれは困る何とかして貰いたいと強くお願いすると、12日にハウトン氏に会って話を決めるからそれまで待って下さい、との事でした。中央委員会で10日発行と決めてあるし、また特別布告第23号に依って行動する事だから、予定通り思い切って発行しようかとも一応は思ってもみましたが、然し一寸した事で民政府や軍政府から非協力的だと誤解される事は却って党にも迷惑をかける事だと思い直して、同氏の命に従い、それでは13日に私がお伺い致します。それまで待ちましょう、とおとなしく同氏と別れました。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火33・新報1982.04.17)


 C強引に許可の言質を握る<会報発行の手続き>
 私はこれまでの長い私の行路のなかで、よく直情径行とか、猪突猛進とかの言葉で批判されてきた。ある時には無謀者呼ばわりをされたこともあった。確かに私自身その点には思い当たることもあり、短兵急な性格を自分自身深く反省せしめられている。ところが、この申告書を読みかえしてみて、よくも辛抱強く頑張ったものだなあーと、わがことながら感心せしめられている。もしあの時私達が、その道を誤り、順序を踏み外していたならば、後日展開する等軍事裁判において、重罪を課されていたことだろう。もちろん、仲宗根局長の指導の下に3人が鉄のチームワークを組んでいたから堪えられたのではあるが、その主役となっていた自分自身をふりかえってみて、思わず今さらながら快哉を叫ばざるを得ない。さて、その自画自賛している申告書を続けてみよう。

 4月13日、船越課長との約束に随い、私は桑江朝幸、上原信雄の両君を同伴して、午前10時半ごろ民政府に出頭し、3人で船越課長に会い、先ず私から先日の事について御礼を述べ、桑江、上原の両君を紹介してから次のような話を致しました。(桑江君は用事にて中座)
 私、船越さん貴方は情報課長ですから、早速大きな情報をザックバランに提供致しましょう。今朝聞いたばかりですが、昨日首里で在野の巨頭、平良辰雄、桃原茂太、仲宗根源和等を始め、首里市長や那覇市長其の他の大物級が十数名集まって、民政府首脳の総退陣を迫る案を中心に懇談したらしいですよ。といって書き写して持って来た檄文を提示しました。実はその日の朝早く、桑江君の家へ、上原君と一緒に行って、そこから真直ぐ民政府へ行こうと思っていたのですが、桑江君から首里会談があったとかの話を耳にしたので、予定を変更して首里の仲宗根源和氏にその経過を聞きに行きました。
 帰途公営バスの中で大宜味朝徳氏(社会党々首)照屋寛範氏(宣教師)と一緒になり、両氏からも会談の内容を聞き、更に大宜味氏が持っていた檄文の案を写したのを持って居りましたので、その檄文の案を船越氏に示した次第です。これは会報の特種だから載せるということもその時に同氏に断っておきました。その次に約束した新聞発行の件に就いて、どうなりましたかと訊ねましたら、未だハウトン氏に会ってないとの返事に私は、10日発行の予定が遅れたのだから、どうしても15日には出せるようにしなければ党に対して申し訳が立たん。是非貴方の肝一つで許可して貰いたい。ハウトン氏も貴方に一任していると云っているのですからと申しますと、
 船越氏、今私達は新聞紙発行について全般的な法規を起案しているから、是が認められたら、それに依って一律に取り扱って行きたいと思っている。
 と云われて私に同氏の起案になる「新聞紙等発行に関する法規案」を見せました。私はそれを一瞥して、それが非民主的な案文でしたので、即座にそれを批判し、注意致しました処で、同氏は
 私達としては根據とすべき法が無い為に困っている。今の処ニミッツ布告と旧日本法に依據するより外に手がないとの返事に、私はすかさず
 ニミッツ布告と云うのは戦時中の布告と聞いている。然るに既に終戦後3カ年になろうとしていて、あの当時とは政治的にも経済的にも社会的にも其の他総べてに於いて事情が違って来ている。既に特別布告23号も出ているのだからニミッツ布告を楯に取る必要はない。又未だ日本の旧法が生きていると云う事になると、戦前の天皇が沖縄では未だ生きているということになるが、こんな馬鹿なことは常識でも分かることではないか。何故貴方達は沖縄独自の立場から新しい法律を作ってそれに依って、仕事を運んで行かないのか。
 と同氏の再考を促しました。情報課で起案しているのは、一般的な新聞に適用するものであり、私達のは既に特別布告第23号で認められている政党としての当然の活動の中に入るべき会報であるのだから、別にそんなにむつかしく考える必要はなかろうとの意味の言葉を私と上原君の2人が交互に申し上げましたので、漸く同氏も承諾と、それでは機関紙としてなら出して見なさい、とはっきり答え、当日も筆を執り、一々記入して次のような手続きをして下さった次第です。
 船越氏 発行所はどこか? 
 私 首里市寒川町民主同盟本部
 船越氏 発行印刷兼編集人は?
 私 私です。発行部数は6頁で3000部の予定です。
 船越氏 配布先は?
 私 民主同盟員、各支部を始め関係団体、市町村役場、公共団体へも配布しようと思っています。
 船越氏 購読料は?
 私 6頁で大体3円乃至5円の予定ですが未だ決定して居りません。これは正式に党議で決定されるのですが、大体党員には党費も算入する心算で高く、一般には安く、或いは無料で配布したいと思っています。
 以上で正式に私達の新聞(会報)発行に就いての手続きを済ませ、最後に私は紙や原紙インキ等の配給方をお願いし、なお第三種郵便物の許可についてもよろしくお願いしますと申し上げたら、正式に全般的な新聞紙法が確立された暁には考慮し、配給するようにしようとの返事を得て喜んで帰途につきました。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火34・新報1982.04.18)


 D遂に誕生させた「自由沖縄」紙<第1号で知事公選を主張>
 やっと機関紙としてなら発行してよい、との口頭による許可を闘い取ることのできた私と上原君の2人は、まるで鬼の首でも打ち取ったような勝利感に浸りながら、拠点の普天間キャンプへと急いだ。発行の予定日より5日間も遅れているので、寸時の猶予も許されない。拠点に着くや否や直ちに印刷発行の準備に取りかかった。引き続き申告を引用してみよう。

 同日の帰途、普天間キャンプに立ち寄り、間もなく原紙は民政府から配給されるものと思い、同キャンプの文化部に行き、山田氏(座喜味)に会って原紙の立替え方を願ったら、同氏も快く8枚貸してくれました。更にデリー・オキナワン社に行き事情を述べ、巻取紙の残りを3束貰ってきました。今日午後より桑江氏宅に於いて直ちに編集印刷に取りかかりました。上原君が原紙を切ったがアメリカ物で、騰写版が日本製なのでなじまず、更に上原君が全くの素人のために旨くいかなかった。翌14日に一面を刷り上げて見たが文字が判然と出ず、失敗に帰し、更に翌15日に切り直して刷って見たが、矢張り出ないので困り抜いた揚句中央病院に行き、試験的に同院の輪転機で刷らせたら暫く読める程度に出てきたのでほっとし、創刊号は仕方なく予定を変更して、1000部に縮め、中央病院の厚意によって刷り上げることができました。翌16日刷り上がった機関紙1000部中、損紙が120部余り出来、結局870部近くを桑江、上原と私の3人が分担して配布することに致しまして別れました。その後私は会報の反響に留意していましたが、文字が小さくて読めないとの一般の声に、是非刷り直さねばならぬと思って居りましたので、4月26日に民政府に行き、上原君をして情報課長に約1000部刷ったからと了解を求めさせました。(同日私は上原君と2人で情報課長に会い、次号の打合せを致しましたが、会談後バスに乗ってから思い出したので上原君を使いました)申し述べ遅れましたが、船越氏が明らかに許可した証拠には新聞(会報)発行後、上原君が船越氏に会った際、上原君に、とうとう出ましたねー、よかったですなー、と御祝いの言葉を述べていたとのことです。私もその後船越氏から何のお叱りも受けて居りません。
 4月26日(前記)私は次号の原稿を取り揃えて船越氏の検閲を受けるべく出頭しましたが、その際同氏は、今度からは私の方で英訳するのは手が足りないから、貴方の方で原稿全部を英訳してから検閲を受けるようにしなさい、との依頼がありましたので、私は、我々の仲間には適当な翻訳者がなく又金もないので一々翻訳して出すとなると事実上会報は出せなくなるから、そこを一つ大目にみて貰いたい、と頼みましたら、是非英訳して出して貰いたい、との切なる頼みに私達も飽くまでも連絡を密にしておかなければいけないと思っていましたので、同氏の依頼通り次号は英訳して出す事にし、目下翻訳者に頼んである次第です。
 5月5日は石川市石川ホテルで中央委員会を開催し、党大会の件を始め、機関紙の件についても協議しましたが、その結果ただ単に「会報」とすることにし、購読料は2頁に付2円(民政府から紙の配給があるまでの当分の間)ということに決定致しました。
 以上の申告に依って明らかでありますように「自由沖縄」紙の発刊は特別布告第23号に依り保証された政党の機関紙として発行したものであります。その手続きに於いても正当なる経路を経て居り、資材其の他の入手に就いても何等不正な事は御座いません。その態度に於いても沖縄最大の政党としての自覚の下に正々堂々と発行しているのであります。
 1948年5月17日
   山城善光


 この申告書は是から展開する悲喜劇の結果としてなされたものだから、本来なら後廻しにすべきであったが、新聞発行までの経過が整然と記録されていて、しかも申告書という厳然たる真実に留意したがために、敢えて全文を引用したのである。ところが右の申告書を読んだだけでは、なぜ私達を弾圧し、等軍事裁判にかけねばならなかったのかという点の理解はむつかしい。この申告書の通りなら、たとえ民主主義の国柄でなくても弾圧しようとしても出来るものではない。その理由は、私が申告書の中で殊更に触れなかった平良助次郎氏よりの第一報にあったのである。すなわち「内外全沖縄人の連絡提携へ」という特集に原因があった。ここに「自由沖縄」の写真を載せて各位のご参考に供し、この項を終ることにする。

 「自由沖縄」第1号の主な記事は、見出しだけ拾うと次のようになっている。
 第1面 「会報発刊のことば」。「断じて闘ひとれ、知事、民政議員の公選!党員の奮起を促す」(選挙促進請願運動の)「請願書」。「民政府首脳部総退陣、今や必至の情勢か?注目すべき首里会談」「檄(案)」。「話の種」「第2回党大会5月下旬に開催」
 第2面 「内外全沖縄人の連絡提携へ」「残存廿萬と推定される 在日同胞の動向 平良助次郎氏よりの第一報」(1頁全部を平良氏よりの第一報で埋めている)。小見出しを拾うと「日本は物がハンラン、沖縄復興に使ふ工夫を」「送金送品の自由獲得へ、一大運動を展開せよ」「本同盟の行き方に、在日同胞も賛同」「デマに迷ふな、通信は自由だ」「国際問題研究の大家 永丘智太郎氏、独立共和国に賛成」とある。
 なお、第1号は2種類発行されていて、最初刷ったものは字が大きく、知事、議員の公選の請願書も載っていなければ、平良助次郎氏の第一報も大部分が割愛されている。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火35・新報1982.04.19)


 3、首里会談と軍の厳戒態勢<民政府首脳の退陣>

 私達民主同盟の組織的活動と直接には結びついてなかったが、その時機に発生した首里会談と軍の厳戒態勢について触れざるを得なくなった。その片貌はこれまで記述した私の申告書からも伺えるが、この事件は当時広く世間に流布されていたので今少し詳しく記してみよう。
 民政府首脳部の総退陣、今や必至の情勢?=注目すべき首里会談=。このような見出しをつけて、私は自由沖縄創刊号で報道している。全文をここに転載して当時の沖縄の政治情勢をふりかえってみよう。

 無為無能なる現民政府首脳部の総退陣は、心ある全沖縄人の要望であり、既に客観情勢も熟し切っているのにもかかわらず、逆に表面は益々硬化しているが、今や民政府自体内から現主脳部の総退陣なくしては、沖縄の復興、民主化はあり得ないとの叫びが発せられ、その総退陣を迫る火の手があげられてきた。即ち首里地方裁判所長山田政功氏(この運動展開のためこの程辞職)工務部の池宮城克賢氏等が世話人となり、去る12日午後4時半より約2時間に亘って、在野の巨頭平良辰雄、仲宗根源和、当間重剛、桃原茂太氏等を始め水産連合会長の呉我、上地正副会長、仲本那覇市長、兼島首里市長、島尻郡からは宮城兼城村長、金城三和村長、中頭郡からは渡嘉敷中城村長、国頭郡からは岸本名護町長等が参集。その他各界から照屋寛範、富山徳潤、西平守模氏等が首里ホテルに参集し、種々懇談協議の上左記檄文の案を審議決定し、午後6時半散会した。【註】当間重剛、岸本清、渡嘉敷真睦は当日多忙のため不参なるも主旨に賛同の趣きなり。

   檄(案)
 沖縄は今や重大転換期に際会している。即ち民族が更生発展するか又は奴隷民族として亡びて行くかは、一に指導者の復興達成への大信念と旺盛なる実践力に懸っている。然るに今や民衆の生活は塗炭のドンソコにもがき、生活の不安は既に希望を失わしめている。見よ世相の混乱と民衆の悲惨なる喘ぎを!!最早民政府は民衆と全く遊離した。即ち知事の低調極まる貧困政策に民衆は最早信頼と期待希望を失い、根本的革新を要望している。ここに我等同志は現状を黙視放任するに忍びず、53万民衆の福祉と雄渾なる民族更生への復興の大業を積極的且つ果敢に展開するため、一日も速かに知事以下首脳部の退陣を期し、復興政治を果敢に断行し得る新指導者の進出を念願する以外何物もない。新指導者!それは熱烈なる民族愛の持主であり、復興達成への信念を堅持して民衆を奮起せしめ得る人でなければならぬ。然して先ず軍政に対する責務と協力を完遂せしめ、住民の生活を安定ならしめ、前途に光明を興え得る者でなければならぬ。そのためには積極的強力外交を展開して軍政府は勿論、国務省をも動かし得る実践高邁なる逸材でなければならぬ。再言す、沖縄の復興は知事以下首脳部の退陣により、革新民政府の樹立断行に繋がるものと確信す。親愛なる指導者各位!民族の一大危機に当り御奮起あらんことを。

 この首里会談の企画者は当時松岡工務部長の配下にいた池宮城克賢氏で、それに仲宗根氏も画策していたものと見られていたが、明らかに民主同盟によって闘い取られた、言論、結社の自由のもたらした一つの成果であった。そのころから沖縄の反民政府的な動きが競うような形で表面化して来た。このような動きに対して、民政府はもち論、特に軍政府も極端に神経をとがらせるようになった。恰も時を同じくして、首里で、密輸入された日本映画が上映されたらしい。(場所、責任者不明)娯楽機関皆無という時代であったので、忽ち黒山をなす大観衆が集まったらしい。ところがその映画の進行中に日の丸の旗が高々と掲げられるシーンが出たので、観衆が一斉に指笛を吹き鳴らし、歓声を上げて万歳万歳を叫んだとのことである。首里会談の動きや、この映画の夕の情勢等をキャッチした軍は、周章狼狽して、直ちに軍を非常召集し、厳戒態勢に入ったとのことであった。志喜屋知事の身辺を軍隊が取り巻いて警護に当ったので、当の知事は何事ならんと不思議に思い、その理由を軍に聞いてみたら、沖縄は今暴動勃発の寸前にあるから、身辺護衛のために軍を派遣しているのだ、との返事に知事は破顔一笑し、沖縄人は暴動を起こすような民族ではないから心配するな、といって護衛を解くように申し入れたということであった。この話は私は宮城友信氏から聞いたように覚えているが、当時の世相を語る一つの実話で、広く流布されていた。
【【註】昭和54年6月7日、仲宗根源和先生未亡人操女史と共に前琉球政府主席松岡政保先生宅を訪ね、約4時間に亘って当時の思い出話や源和先生の人柄等について歓談したがたまたま話がはずんで、右の暴動勃発寸前の話に及んだところ、松岡先生もそれは事実だったと証言された。
 軍が暴動勃発寸前の沖縄と誤認したあの情勢下で、偶然のいたずらとでもいうべき、MPによる私の逮捕がきっかけとなって、自由沖縄紙に掲載予定の全原稿が、CICの眼に全部曝されてしまった。その内容は沖縄の領有化を企図している軍政府と、それに迎合している民政府にとっては容易ならぬものとなっていたので、軍も徹底的弾圧を意図していたものと私はみている。ところがこれまで詳述して来た通り、その手続きにおいて一点の非の打ちどころもないので、その取扱いに戸惑っていたものと思っている。これから展開して行く高等軍事裁判等とにらみ合わせて考察する時、軍は網を張って待ち構えていたのだとしか考えられない。日の丸掲揚に歓声とは到底考えられない時期だ。アメリカの悪政の深さを示すもので日本復帰運動の根源はこれだ。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火36・新報1982.04.20)


 4、自由沖縄紙をバラ撒き検挙さる<浦崎氏が貴重な証言>

 雨が降ろうが風が吹こうが、日夜を分かたず、遠い大宜味から中南部に出かけて組織活動に専念していた私は、過労のために身体が衰弱し、とうとうマラリアに襲われてしまった。高熱で唸っていると初枝(筆者の妻)が毎日のようにマラリアで死んで行く疎開民の葬儀を連想したのであろう。真っ青になって私以上に震え上がってしまった。幸いにも友人から貰ったキニーネの秘薬は全部初枝に注射してあったので、初枝は無事息災ということになり、私は震え上がりながら、よかったよかったと一人で肯いて堪えていた。やっと病状もおさまり、静養を続けていると、4月の末ごろ、すなわちMPに捕ってから20日くらい後、新聞をバラ撒いてから15日程経過した時点で、私は突然軍の保安部に召喚された。知念警察署に引っ張られ、一週間後に放免されるが、その後再び挙げられて、軍のスキューズ保安部長と激しく渡り合ったことは後述するように詳しく覚えているが、居村の喜如嘉からどのような形で出頭したかは全然覚えてない。ところが54年の5月末ごろに、親友の元警察学校長の浦崎直二氏を入院先の琉生病院に見舞ったら、話がはずんで昔の思い出話となり、私にとっては誠に貴重な次のような証言にありつけたのである。
 当時、浦崎氏は塩屋警部補派出所管内に勤めていて、数年間喜如嘉駐在所詰めをしていた。5月初めころに知念署から2人の刑事が来て、山城善光を逮捕してくるようにとの命令を受けて来たから協力してくれ、と言って来たらしい。私と浦崎氏とはこれまで後述するような奇縁で兄弟付き合いをしていたので、私に手錠をはめて連行することは忍びなくなり、山城善光は逃げかくれするような男ではないから、私に任せてください、私が責任を持って知念署に連れて参ります、と言い切って2人は帰ってもらい、そして私の家を訪ねて知念行きを同意させたとのこと。当時の知念署の署長は新垣徳助氏で、私もよくその温顔は覚えているが、捜査係長が誰だったかは全く覚えてなかった。その係長はN氏だったということを知らされ、思い当たることなどが浮かんできた。親ヶ原の知念署に2人は談笑しながら普通のお客さんのようにして入って行ったら、浦崎氏はN係長にさんざんおこられたとのこと。手錠をはめて連れて来いと命令してあるのに、なぜお前は手錠をはめずに進行して来たか? と叱られたのを思い出し、病床で瞳を輝かせて語ってくれた。
 浦崎氏は私たち夫婦が日本から引き揚げて来た昭和21年の暮れか翌年の正月ごろかに国頭村奥部落の駐在所から喜如嘉の駐在所に転勤になった。転勤して来るとまずやらなければならない仕事は戸口調査である。新任の挨拶と初対面の挨拶を交わしてから、住民台帳を広げ私たち夫婦の戸籍を確認した。すると急にダメを押すように家内に向かって、奥さん!生年月日は何年何月何日ですか? と問いただした。大正12年2月25日です、と答えると奇縁ですな!私の家内も大正12年2月25日ですよ。奥さんは栃木県ですね、私の家内は兵庫県ですよ、一つよろしくお願いしますよ。このような偶然の一致が奇縁となって、爾後兄弟同様のつき合いを続けてきている。浦崎氏が私に手錠をはめ得なかった心中を察して、33年を経過している昨今、私は改めて涙ぐみ、今は亡き同氏のごめい福を祈っている。
 浦崎氏に旨くしてやられたといえばそれまでのことだが、私は全く予期しない拘留という破目に陥ってしまった。それでも私は当時、浦崎氏にしてやられたというような感情は微塵も持ってなかった。私が拘留となったのはもちろん「自由沖縄」紙をバラ撒いた点で、その内容が民政府攻撃に終始しているのが原因だということも十分承知していたけれども、アメリカの民主々義の本質に照らして、絶対に違法扱いされるような内容ではなく、極めて自然で順当な合法出版物だとの確信を持っていたので、私の心中は微動もしなかった。
 全く予期しない拘留で約一週間程豚箱にぶち込まれたが、その明け暮れについては今はほとんど思い出せないし、また記録も残ってない。ところが忘れようとしても忘れられない思い出が2つある。1つは新垣徳助署長の温顔で、徴塵もいかめしい警察官のイメージがなく、まるで住民接待係のような印象を受けていたこと。今1つは当時民政府の要職を占めて居られた、同郷大宣味村根路銘部落出身の宮城仁四郎先輩でご夫婦の心尽くしであった。その心尽くしとは一体何であったかといえば、それは、ちょっと普通の人には出来ない勇気のいる連日の差し入れであった。ただでさえ物資欠乏の時節柄に、よくも私の分まで確保されて、ご飯を差し入れて下さったことであった。勇気のいることとは何であるかといえば、当時の民政府は又吉副知事の専制といっても過言でない姿で、民政府全職員が盲従の形で動かされていた。その専制ぶりを真っ正面から批判するのみならず、総退陣を打ち出して追っている私たち民主同盟の運動の実体を知っていながら、奥様をして毎日食べ物を差し入れさせていたという点である。
 1週間程の拘留中別に取り調べという程のこともなかったように記憶しているが、訳の分からないままにその時は帰宅を許された。その時の情況、帰宅の経路等も今は思い出せないが、帰宅したらまたすぐマラリアが再発して、熱に唸されていたのをよく覚えている。その時のマラリアは比較的軽かったので、2日程で震えが止まった。やっと起き上がれるようになったら、またしても軍保安部に召喚された。その時も記憶にはないが、手錠をはめられずに知念署経由軍保安部に行った。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火37・新報1982.04.21)


 5、スキューズ軍保安部長との対決<許可証≠ナ大激論>

 さて、知念署に着いたその日であったか、翌日であったか、また知念署の一室でであったか、軍保安部一室でのであったかは忘れているが、とうとう私はスキューズ保安部長との対面という場面を迎えた。あえて対面というのは、私は当時取り調べを受けねばならない理由は何一つないと信じていたからである。初対面のスキューズ氏は、およそ日本のいかめしい警察官のイメージとは正反対で、まるで友人のようににこにこと相好を崩し、通訳官を介して話しかけてきた。ところがいきなり私の意表をついて次のような発言で襲いかかって来て、火花を散らす舌戦の場を展開せしめてしまった。

 スキューズ氏 君は自由沖縄という新聞を無許可で発行し配布しているが、それは法律違反である……。
 山城 私は軍民両政府の許可を受けた上で発行しているから合法出版である。
 スキューズ氏 それなら許可証を見せろ。
 山城 許可証はないがちゃんと手続きをとってある。嘘だと思うなら軍の係官のハウトン氏と民政府報道課長の船越氏に聞いてみなさい。
 スキューズ氏 許可証を持っているか、持っていないかが問題なのだ。
 山城 そうか、それでは聞くが、私は沖縄マッカーサー司令部の管轄だと聞いているが、一体誰の管轄下になっているか。
 スキューズ氏 勿論マッカーサーの管轄だ。
 山城 それでは更に聞くが、同じマッカーサーの管轄下でも日本々土と沖縄とは法の適用が全然違うという事だね?
 スキューズ氏 それはどういう意味だ?
 山城 日本には出版の自由は保証されているが、沖縄には出版の自由は与えられていないという事だ。
 スキューズ氏 そうではない。問題にしているのは君が許可証を持っているか、持ってないかとの一点だけである。
 山城 そんなら云う。僕は日本で沖縄連盟の機関紙「自由沖縄」の責任者として、ちゃんと許可を受けて発行していたが、その時許可証というものはなかった。許可をしたら、許可証を発行すべきだといい乍ら、その許可証を発行しなかった、ハウトン氏と船越氏が悪いのではないか。
 スキューズ氏 君が勝手にそう思うのは君の自由だ。君は許可証を持っていない事実を確認したから、来たる?日(その日より4、5日後の日になっていた)に裁判にかけるから…。
 山城 とんでもない。ハウトンと船越を裁判にかけるというのなら分かるが、そんなでたらめなことが…。
 スキューズ氏 君がそう思うなら法廷でそう述べればよいではないか。
 山城 ほんとに裁判にかける心算か?
 スキューズ氏 そうだ。
 山城 それでは裁判を延期してくれ。
 スキューズ氏 何故だ?
 山城 問題にならない問題を取り上げて裁判にかけるという事は、民主々義の名において許せない重大問題だからだ。その心算で準備するからその時間が要る。
 スキューズ氏 何日位延期すればよいか。
 山城 それは君の返事によって決まる。その準備とは弁護士を動員することだ。沖縄人連盟時代に私と交友のあった新門尋牛栄という人が、マッカーサ司令部の顧問弁護士をしている沖縄二世を呼び寄せるし、更に米国本土にも沖縄出身の弁護士が沢山いるから、それらの弁護士も動員しなければならない…。
 スキューズ氏 そんなことをしていたら3年もかかる……。
 山城 3年かかるなら3年待てばよい。私は大体相手の度胆を抜き、沖縄人に対する蔑視観も幾らか見直させ得たと思ったので、これ以上の猪突は慎んで静かに次に出てくる言葉を待った。
 スキューズ氏 それはできないよ。
 山城 出来ないという理由は3カ年もの長時間を要するから出来ないという意味か、それとも法的手続き上出来ないという意味か。
 スキューズ氏 法的に出来ないのだ。
 山城 それでは仕方がない。一カ月間だけ待ってくれ。
 スキューズ氏 何故だ。
 山城 沖縄にいる弁護士を総動員せざるを得なくなったし、先に一週間も君等に拘留されて栄養失調になり、マラリアで身体も衰弱しているから、その回復と連絡や準備に最小一カ月はかかるからだ。
 スキューズ氏 よろしい。一カ月待って来る6月10日(?)に裁判にかける。その日に軍裁判所に出てこい。

 こんな激しいやりとりをしたけれどもスキューズ氏は去るに当たって私に手を差しのべにこにことほほえみかけていた。日本時代に8回も検挙された経歴を持っている私は、このスキューズ氏との一問一答を通じて、アメリカ民主主義に潜んでいる明朗性を、欺瞞性よりもむしろ大きく学びとることができた。右の一問一答の用語はすべて通訳氏を通じてなされているので、一言一句正確にその通りだとは云い切れないが、発言の順序と内容は、あれ以来私の脳裡の思い出張に刻みこまれたままであるのを再現したままである。
 私はアメリカ民主主義の欺瞞性という言葉を使ったが、以上の問答を通読しても分かる通り、私が逮捕されたのは私が許可証を持っていなかったからだとの云い方は全く嘘で、自由沖縄紙の内容そのものが民政府の忌避に触れ、沖縄の領有化をねらう軍政府の行き方とは相容れぬ姿となっていたからであった。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火38・新報1982.04.22)


 6、戦後沖縄の初の高等軍事裁判<軍事裁判に向け奔走>

 桑江君も私と同様に、あるいは私以上に軍保安部に拘束され、取り調べを受けたものと思われるが、軍保安部は無謀にもとうとう2人を高等軍事裁判にかけることを決定した。そして本格的に証拠固めに乗り出して来た。スキューズ部長との問答後、私は居村の喜如嘉に帰ったら、時を移さず私は家宅捜索を受けたが、何一つ、私に不利になるような証拠品を挙げることができずに帰って行った。僅かに私がデリーオキナワン社から貰って来た、新聞紙巻紙の壱巻と支給証明を没収したのみであったが、その没収を強固に拒否したら、軍の命令だと言って強引に持って行った。仕方なく私は必ず受領証を貰って来るように申し入れておいたら、後日次のように2通の領収証と受領証を持って来た。

受領証
 一、デリーオキワンの紙の係の兵隊より貰った巻取紙の支給証明書1通
 右は軍政府保安部ラーセン検事の命に依り小職に於て受領せしことを証す
 5月14日
 警察部警察課 新里警部
 山城善光殿

領収証
 一、新聞紙巻紙 壱巻
 右ハ証拠品トシテ領置ノ必要アルニ付キ當署ニ領置シマス 依テ領収証差上ゲマス
 西暦1948年5月16日
 塩屋警察署長
 山城善光殿


 この2通は今でも保存しているが、このように軍は民政府の警察部を通じて裁判に臨む態勢を整えつつあった。一方、この事件に対し民主同盟の仲宗根事務局長以下の中央委員の諸氏が、どのように対処していたかについては全く記録も記憶も残っていない。もちろん諸氏もそれなりに心配し、種々配慮したものとは思われるが、それ以来軍に対しては極めて消極的になってきていることを裏付ける資料が出てきている。それは6月5日に開かれた中央委員会の議事録に次のように記されている。

 協議事項
1、帰還者の壱阡萬円に就いて
 新聞との関係で誤解される恐れがなきにしもあらずであるから、その関係をはっきりとさせること。印刷機との壱阡萬円との関係もはっきりさせること。
2、新聞の名称と同盟との関係について
 ○壱阡萬円と民主同盟とは何の関係もないということを平良助次郎君に確認するように証言するよう通信を為し、その控えを取っておくこと。
 ○自由沖縄紙は次号からは単なる会報と為し、党大会において党名と関連するような名称に変更すること。

 この決議事項は明らかに新聞発行の責任を負わされた私達への不信表明であり、私達、特に私の責任を追求したものであった。しかし私達3人はその決定を余り気にせずに事件に対応して行った。結局責任上、桑江君と上原君と私の3人がその処理に当たらなければならなくなった。3人が集まってどのように話し合って行ったかの記録も記憶もないが、3人はそれ以来ますます強く結びつき、民主同盟の対米基本姿勢を崩すことなく、果敢に闘って行った。
 特に桑江君はその頃からアメリカの沖縄占領政策、すなわち土地収奪政策に対する民族的な怒りの火を燃して、その闘いの先頭に立つ準備をすすめつつあった。一方、上原君はそのころから仲宗根事務局長に対する不信の念を抱き始めたのではないかと思っている。私はもちろん、党の組織者としての立場から冷静に党全体の動きを見守っていた。
 私達の検挙でこのように民主同盟の中央委員会は逃げ腰としか思えない態度に変わって来たが、私はスキューズに啖呵を切った手前、党内事情がどうであれ、否でも応でも軍と闘う態勢を整えねばならなくなっていた。そこでまた、3人は高等軍事裁判に向けての準備に奔走した。幸いにも富山徳潤弁護士は旧知の間柄であったので、即座に私達の弁護を引き受けて下さった。山田政功先生が民政府を退いて野に下り、民政府の革新を叫んで居られる同憂の士であったので、これも訳なく承諾して貰えた。さらに幸運なことには、軍政府に勤めて居られた知念朝功氏が官選弁護人に就任されたばかりであったのを知って、頼みこんだところ、同氏も一も二もなく快諾され、これで一応の弁護陣容は整った。
 いよいよ裁判の日である。しかも沖縄における第1回高等軍事裁判だということも知らされていた。表現はおかしいようだけれども3人は小躍りして親ヶ原の軍政府高等軍事裁判法廷に向った。確か午前10時の開廷だったと思うが、高等軍事裁判といういかめしいイメージとは似ても似つかない実に粗末な法廷であった。日本時代の法廷を身を以って体験してきている私には全く意外で、かえって気分が楽になった。裁判長の名前はデビュースといっていた。そのデビュース判事は所定の席にしかも極く粗末な小さいテーブル1つ置いただけの席に着席していた。起訴人はラーセンという検事で、坐る座席がなかったのか立ちつくしていた。裁判長に向って左側に証人席があって、そこには既にハウトン部長と船越情報課長、大城ツル通訳官の3人が顔を揃えて待機していた。3人の弁護士は被告人の桑江君と私の右側に並んで腰かけに腰を下ろしていた。そして私と桑江君の被告人は裁判長の真正面腰かけにかけさせられた。傍聴人はただ1人上原信雄君だけで、民主同盟の幹部は1人も顔を見せなかった。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火39・新報1982.04.23)


 7、展開された法廷論戦<懲役1月の判決>

 裁判長が開廷を宣して、形式的な人定尋問を済ますと先ずラーセン検事が起訴事実を述べた。それが通訳氏の口を経て私達の耳に飛びこんでくる。それが終わると今度は証人に対する裁判長の取り調べである。最初にハウトン部長が証人台に立たされた。その問答の重要な部分を覚えているので繰り拡げて見よう。

 裁判長 証人は被告山城善光と会ったことがあるか。
 証人 自分は仕事上沢山の新聞記者と会っているので、山城にも会ったかどうかよく覚えてない。
 裁判長 山城善光に新聞の発行を許可したか。
 証人 許可した覚えはない。 
 たったこれだけで証言は終わり、次は通訳官の大城ツル女史が証人台に立たされた。
 裁判長 証人は山城善光を知っているか。 
 証人 知っている。
 裁判長 どうして知っているか。
 証人 3月29日、軍政府に私を訪ねて来て、新聞発行の件でハウトン部長に会いたいから、通訳してくれと頼まれたので知っている。
 裁判長 ハウトン氏に紹介して会わせたか。
 証人 はい紹介して、新聞発行の許可をお願いしたら、ハウトン氏はこのような用語を使って許可しました。……。

 証人は英語で許可した時の用語を述べたが、英語力のない私には通じなかったが、それが有力なる証言となっているようであった。その時点までは私は大城ツルという女性はどういう人であるかについてはほとんど知らなかったが、実に勇気のある正義派の女性だという事を眼前で見極めた。私は女史が後日沖縄の婦連会長になられた時、心の底から納得し喜んだ1人であった。あの時代に同じ屋根の下での上司で、しかも絶対的な存在である軍部に向かって、堂々と真実の証言をなされたことは、ともすればおじけ勝ちになる私に大きな叱咤の鞭となった。引き続き船越情報課長が証人台に立たされた。その一問一答は忘れているが、船越氏が、新聞発行の件は許可してない、と証言したので、私は立ち上がって自席から反駁の言葉を投げつけようとしたら、3人の弁護士が同時に私を睨みつけて両手でまたは目くばせして制止した。納まらない感情を圧えて、言いかけた言葉を呑みこんで坐ったら、ラーセン検事が皮肉な笑みを浮かべ、顔をゆがめていた。後で分かった事だが、アメリカの法では被告人が証人に対して発言したら、それからは検事も被告人に対して反対尋問が出来るとの事。それで3人の弁護士が作戦上私を制止したとの事であった。船越氏の証言で情況は一変して私達に不利となった。判事の眼が鋭く光ったかと思ったら検事の眼が細めになって和んだ。船越氏の証言が終わると今度は3弁護士の船越氏に対する反対尋問となった。知念、山田の両弁護士が理路整然たる弁論を展開された後に続いて富山弁護士が反対尋問に立たれた。忘れようとしても忘れられないその反対尋問を記してみよう。

 富山弁護士 証人は新聞発行の許可はしなかったと証言しているが、党の機関紙としてなら発行してよいと言ったのではないか。
 証人 党の機関紙としてならよいと言いました。

 さあ、軍にとっては大変な事になってしまった。たちまち情況は再び逆転した。今度は検事の眼が異様に光り、判事は顔をうつむけてしまったのでその眼は見られなくなった。富山弁護士の質問が終わったので後は求刑と判決を待つだけとなった。顔を上げたデビュース栽判長はラーセン検事に対し、求刑するよう求めた。立ち上がったラーセン検事は懲役6月か又は罰金壱萬円を求刑すると宣告した。
 すると意外なる求刑に困惑したらしく、デビュース裁判長は直ちに10分間の休憩を宣して別室に引き揚げてしまった。間もなく再開されて判決の瞬間を待つことになった。裁判長はおもむろに
 懲役1月又は罰金壱阡円を判決す
 と宣告し、異議があるならその場で申し述べるようにとの事だったので、桑江君と2人は即座に控訴することに決め、申し立てようとしたら、3人の弁護士に圧えられて、そのまま引き取らされてしまった。3人の弁護士の言い分では、控訴すればもっと重い刑を科されるから、この際は我慢することだと説得された。今考えてみると、当時は全く無茶苦茶な時世であったのだから、軽い罰金刑で済まされたのも3弁護士の作戦のお陰であったのである。
 その後間もなくすると村会議員の選挙が実施されるが、2人共おのおのの居村で立候補し、見事に当選したが、気になるのはこの罰金刑と当選との関係であった。そこで2人は十分に連絡を取り合って、それぞれ居村有志の連署を求めて、無罪を主張する陳情書を軍あてに提出してみた。その要点は次の通りであった。
 一、民主同盟は反米団体、共産主義でもなく、沖縄の民主化を計ってその独立を目指している政党であるが、私達がニミッツ布告を理解してなかった為に法に問われ罰金刑か又は懲役刑を言い渡された。
 二、その判決は妥当だと納得しているが、罰金を納めると公民権を失い、折角の議員も失格せねばならないし、又懲役に服すると現在の法律では公民権は失わずに済むが、議員は失格することになるので公民権喪失も同然となる。
 三、私達二人は全く悪意はありませんので、その点を汲み取って公民権は確保して頂くようにお願いする。
 右のような趣旨の陳情書を9月10日付で軍に提出したが、何の返事もないまま2人は議員活動を続行して行った。デビュース氏が後日、あれは無罪だよともらしたという言葉を聞いて、私達の前科は消えている事を知った。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火40・新報1982.04.24)


 8、本項の総括と追補<「自由沖縄」1号で廃刊>

 手元にある資料を駆使して、出版の自由獲得の闘いを記してみたが、未だ心残りのする資料が幾つかある。その中から、不発に終わったとはいえ、当時の沖縄の先輩達の郷土愛を示す格好な資料が残っているので、本項を総括するに当たっての追補とする。
 それは1949年3月10日付の永丘智太郎先生から私宛に送られてきた書簡である。後日人民党陣営の幹部として民主同盟の私達と共同戦線を張ってともどもに闘って行く上地栄君に托して送られた次の書簡である。


【前略】小生の構想は國際沖縄協会を設立し、日本、布哇、北米及び南米等に支部をおきひろく沖縄人の総力を結集して講和会議に善処しては如何かと思っています。沖縄の民主化、経済復興(海外進出を含む)等の諸問題は、講和会議を待たず早急に手を打たねばならぬと思います。それには米国は勿論世界の世論に訴えねばならぬこともあろう。また国際情勢と睨み合わせて「沖縄将来の在り方」を研究することは一番大事なわれわれにとって致命的な問題だと考えています。小生の帰省には諸君の同意が得られてかかる機関の設立可能な見透しを必要とします。出来るだけ民間人のみで設立し民政府関係の専門家には調査を委嘱する程度にしたいが人材の関係で止むを得ない場合、民政府要人も仲間入りさせることにしたいものです。
 諸君が中心となり(特に山城君の実践力に期待をかける)小生の帰省を待たず設立が願えれば尚更結構です。日本支部の結成は小生が引受けします。小生の帰省は単に本部との連絡の意味においてなされるであろう。「沖縄の将来の在り方」は終戦後日夜小生の念頭を去ったことのない問題です。そのため小生は日本民主化運動にも関與を避けてひたすら思索をつづけて来ました。諸君と会って討議をつくしたい願望の切なるものがあります。では多々不尽。

社団法人 國際沖縄協会設立の趣意案
 沖縄の歴史的存在は「孤島苦」の一語に尽きるであろう。しかしわれわれは爾今沖縄を断じて世界の文運から孤島的存在たらしめてはならない。
 由来、独自の文化財に乏しいわが沖縄であるから、世界の進歩から立遅れないためには何としても日本及び米国、其他世界の文化的恩典に浴する必要がある。
 更に海洋民族たるわれわれ沖縄人は、その生活権を確保するためには、日本のみならず中国並に東南アジア諸邦とも経済的に密接なる関係を持続し来っていることは、周知の史実である。かかる伝統は将来も継続され発展せしめねばならないことは当然である。
 かの米国の保護領たるプル・トリコに於ける経済復興の緊急最大案件は、その人口問題の解決にありと言われているが、わが沖縄に於いても正しく然りである。沖縄経済の復興即ち沖縄人の生活権の確保は、その過剰人口の海外への移動以外にはあり得ない。
 而して沖縄人が世界にむかって進出せんがためには、先ず世界人としての教養を身につけることこそが先決条件となる。
 ここにわれわれは曽て、米国のYMCAが中心となり、当時日米間に論議された移民制限問題を主題としてホノルルに開かれた太平洋関係諸国の民間国際会議を契機として設立された太平洋問題調査会(IPR)の偉大なる業績に示唆を得て、将来同調査会とも緊密なる関係団体たらしめんことを期しつつ国際沖縄協会を設立せんとするものである。尚又、同調査会の性格として、特定の政策や主義主張を提唱若くは宣伝しない建前を持っているが、国際沖縄協会に於ても同じ建前が保持されるであろうことを特に強調する。沖縄を世界の文運から孤島的存在であらしめてはならない。これが國際沖縄協会の「レーゾン・デートル」である。


 荒れ果てた沖縄の山野と人心は、40年間私の心の奥底に微かに消え残っていった青春時代の血涙の火を呼び戻した。山原の火は未だ消えずに残っていた。火は蘇る!と心の中で叫び、闘争に依って解放へ!と再び純潔の闘いに飛びこんで荒野の火となったのであった。言論の自由、結社の自由を闘い取り、ついに解放への3番目の関門であった出版の自由の扉も開けられた。もっとも産声を上げた自由沖縄紙であったが、討死して、一号で命は尽きている。私はたとえ一号新聞で終わったとしても、その果した意義に思いを致す時、心は和むのである。
 先日、私は新聞発行に関する貴重な事実を知ったので、この機会に補足しておかねばならなくなった。私は今まで沖縄タイムス紙は私達の自由沖縄紙の発行よりも2ヶ月程遅れて許可になり、発行しているので、その発行許可願いも私達の許可が先鞭となってなされたものとばかり思いこんでいたが、先に述べた松岡政保先生との会談の日に初めて、その誕生までの経緯を知らされ、当時の民政府の一部頑迷政治屋共の陰謀にあらためて歯を喰いしばった。簡単に触れてみると、同紙は座安盛徳先生が、私達より2カ年も早い昭和21年4月19日に許可申請を出したらしいが、一部長の意志でそのまま1年以上も机の中にしまいこまれてあったらしい。が、偶然にも私達が自由沖縄を印刷に取りかかった昭和23年3月15日に、松岡先生が介在して直接軍に発行許可を申請したら、約1カ月後の6月28日に許可になって、7月1日に騰写版印刷で第1号を発刊したとの事である。軍から許可になった日偶然安謝の道路上で座安先生に会った松岡先生が、許可になった旨を告げると、座安先生はすぐそこから駆け足で引返されたという。多分その吉報を同志たちに知らせるためだったろうと、松岡先生は注釈して往時を懐かしく思い出しておられた。
(沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火41・新報1982.04.25)


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