臨床余録
2023年8月23日
相手をたたえて自分たちも終わろう

 慶應高校が夏の甲子園を制した。そのスマートな戦いぶり、圧倒的な応援は目をみはるものがあった。自由な髪型、自主的な考える野球、楽しむ野球を訴えた点は確かに新しい。厳しいばかりの高校野球に新風をもたらしたようである。

 「負ける覚悟をちゃんとしておこう。始まるというのは終わる。いつ終わっても残念な行いやふるまいはしたくないから、一発で負けたとき泣いて悲しくなるのはやめて、相手をちゃんとたたえて、相手をたたえられて自分たちも終わるような準備をしよう」

 これは宮城大会の初戦の前に仙台育英の須江航監督が選手たちを前に話した言葉である。並みの監督ではないと思わせるものがある。慶應の“thinking baseball”の森林貴彦監督も悪くないが、何かが違う。試合後、慶應の丸田選手や大村選手がヒーローインタヴューを受けている時、仙台育英の選手たちは涙をみせながらもずっと拍手を送っていたという。光景を想像すると胸が熱くなる。

「完敗です。でも今まで以上の最高のゲーム、ベストゲームです」

 敗戦後に語られたこの須江監督の言葉も深い。相手が慶應でよかったという。慶應に負けてよかったというのだ。

 ところで勝敗を分けるビッグイニングとなった5回表の慶應の攻撃の一場面が浮かぶ。慶應が平凡な外野フライを打ち上げる。育英のレフトとセンターが走ってボールをキャッチしようとしたとき奇妙なことがおきた。二人の動きが止まりボールは二人の間にポトリと落ちたのだ。慶應の打者が打つと必ず地鳴りのような大音響が球場を包む。そのために外野手の掛け合う声が消されてしまいボールをとれなかったのではないかとアナウンサーは語る。そのエラーをみてさらに大歓声のボリュームがあがった。そのとき僕は歓喜とは相容れない何とも居心地の悪い感情に襲われた。何か恥ずかしくなった。

 このような圧倒的な数の力をたのんでの慶應の応援に耐え、さいごまで力を尽くした育英ナインこそほんとうの勝者とよぶべきではないのだろうか。

2023年8月6日
看取りを考える

 『これからの「お看取り」を考える本』(名郷直樹)を読んだ。名郷氏は〈EBM〉の先駆的提唱者として知られてきた。この本は彼が在宅医として多くの死と出会う経験のなかで書かれた。全体を読み通してよく書かれた本だと思う。今ある概念の説明ではなく彼独自の言葉によって書かれている。

 まず1章。「お看取り」と「看取り」の使い分け。
 看取りの辞書的な定義を振り返り、死に至るまでの看病のプロセスが看取りであり、医者が死亡を確認し、死亡診断書を作成することが「お看取り」であるとする。看取りの現状は、医者が死亡宣告し「お看取り」することがすべてで、看取りの本来の意味である終末期患者の介護・ケアという意味は退いている。従って「死」というものも死亡診断される時点での「お看取り」の死に限定され、プロセスとしての死というものは背景に退くことになる。
 次に、訪問診療の拡大と「看取り」の不在というタイトルで、在宅での「看取り」の際の医師の役割が、死ぬまでのプロセスにおける医療提供と、最期の死亡確認に限定され、「看取り」ではなく「お看取り」のみが施行される。この点で湧く疑問はこの本では「かかりつけ医」という言葉が一度も出てこないことである。かかりつけ医がいれば「お看取り」ではなく「看取り」に関わることはできると思うのだが。

 2章は「死における希望と絶望」というタイトル。
 「生の希望」「生の絶望」「死の希望」「死の絶望」という言葉の使い方、特に死の希望、死の絶望とは何か、詳しい説明なしに使われている。僕にとっては読みにくい章だった。

 3章はACP、「人生会議」と看取り。
 人生会議は意思決定ではなく看取りのプロセスである、とされる。その通りだと思う。しかし、ここでも役割を発揮するべきかかりつけ医がでてこない。かかりつけ医は医療だけでなく介護・ケアについても患者や家族その他多職種と話し合い看取りに貢献できる。それが病院医との違いである。そのことが語られないのが不思議である。

 4章は死に希望や幸福を届ける看取り支援。
 医療モデルから生活モデルへ。包括ケアと多職種連携。看取りに向けての多職種それぞれの役割が詳述されている。この章はこの本の中心といってもよいかもしれない。 医療は成功したが看取りは失敗ということがある。介護ケアを受ける罪悪感。ちゃんとしないと寝たきりになるよという呪いの言葉。下り坂に厳しい社会でのやさしい看取りの実現へ。「人間の尊厳は、介護・ケアによって保たれる。介護職の役割は人間の尊厳を保つことにある。」全く同感である。

 5章は看取り事例集。
 7事例それぞれが次のポイントに沿って提示される。患者概要・看取りと死のプロセス・死亡時の状況・希望と絶望の転換点・人生会議・地域包括ケア、多職種連携の視点から。

 6章 死をことほぐ 関係性としての死 安楽寝たきり
 年をとれば皆寝たきりになる、寝たきりに罪悪感を持つ必要はない。「寝たきりになっていいんですよ、私たちがケアしますよ」といえる社会をつくらなければならない。
 ことほぐは「寿ぐ」、あるいは「言祝ぐ」でお祝いや喜びの言葉を述べるときに使う。例えば、「長寿をことほぐ」などという使い方をする。ここでは「死」とはミスマッチの言葉なのに「ことほぐ」をあえて使っている。しかし、これこそが著者の一番言いたいところなのであろう。医療がどれほど進歩し健康長寿が達成されようとも死は確実にやってくる。それを遠ざけるのではなくごく自然なこととして受け入れられる成熟した社会が望まれる。その意味であえて「死をことほぐ」としたのであろう。

 僕が認知症や在宅診療の話をするとき、必ず出すスライドに「ヤコブレフの図」がある。ひとはおぎゃーと生まれて成長し、学び、働き、やがて老い、寝たきりになり亡くなるというひとの一生がひとつの図として描かれている。ひとはみな死ぬという簡明な事実が示されている。特別のことではない。普通の生活の果てに死はある。あるいは生活の中にあるといってもよい。従ってわざわざそれを「ことほぐ」とまで言わなくてもよいのではないか。僕の好みの言い方では、モンテーニュを借りて言うなら、「ひとは死ぬのではない、生き終えるのだ」。その生き終えた「生涯」をことほぐと言うのが自然ではないか。

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