臨床余録
2024年8月11日
トム・キットウッドを読む:第3章
どのようにしてその人らしさが損なわれるのかHow personhood is undermined

 (この章では、認知症の人をケアするに際して避けるべき接し方について述べられる)

 認知症の諸研究から導かれる標準パラダイムからはそれぞれ違った生い立ちと人格と日常生活の中で認知症になった実際に生きている人を理解することはできない。さらに、標準パラダイムは、認知症の人の効果的ケアについて語ることができない。それはアルツハイマー病は治療も助けも希望もないといった考え方にあらわれている。認知症の人の日常に近く身を寄せてどのように暮らしているのかを調べれば、とても異なった全体像を得ることができる。認知症の人がどこまで変わらない人間関係を維持できるか、自分の能力を活かすことができるか、生活の喜びを経験できるか、これらが標準パラダイムではない新しいパラダイムでは重要なポイントとなる。

 82歳の老婦人Mの物語が提示される。休暇旅行中スペインのホテルの朝の食堂で食事を取りにいきテーブルに戻れなくなり、夫をみつけられなくなった。この旅行前から物忘れの症状はあった。彼女は夫や家族に尽くす誠実な人柄だった。夫は実直で有能な人物だった。彼は何が起こっているのかわからず妻の誤りをあからさまに非難し不安を示す彼女を強く叱責するようになった。家から外出して迷子になり警察に保護された。遠方にいた娘の意見をいれ彼女を病院に連れて行いきアルツハイマー病と診断される。真面目な夫は、病気の知識や情報を得て、ケアに努めた。デイサービスに通うようになった。しかし夫が狭心症となり、患者の情緒的障害は悪化し家庭での介護は限界となる。ある日ドライブに誘い本人には何も言わず老人ホームに入所させた。強い精神安定剤を投与され、夫は当分面会に来ないほうがよいとされた。患者はその施設で89歳で亡くなった。これは先進国ではふつうにみられる状況である。彼女は不安のなかで安心と安らぎを必要としていたが夫をはじめ周囲はそれを与えることができなかった。

 認知症の進行状態を記述しようとするなら、社会的要因と対人関係の要因の役割をみることが大切になる。標準パラダイムでは認知症の知的情緒的症状は、脳細胞の障害により直接起こると説明されるだけである。これは「神経病理学イデオロギー」とみなされる。上記の物語のなかで患者は励ましや安心を願ったが実際には非難や怒りを受けた。主婦としての彼女の役割は奪われ、問題行動は共感的に検討されることはなかった。
 このような時主たる介護者に責任を負わせがちだがそれは的外れであり道徳的配慮にも欠ける。我々の文化、経済、社会の歴史の矛盾が背景にある。ヨーロッパ中世から17世紀に経済的利益を生み出した国民国家と共に近代的な社会が現われた。富と貿易を効率的に機能させるために、社会の混乱を取り除く必要があった。多くの施設がつくられ社会のはみ出し者は収容された。精神病者、放浪者、犯罪者などである。高齢化が進むにつれて認知症患者もこの流れに入れられることになる。
 ケアの古い文化の中で認知症患者が「汚い年寄り」としてひどい扱いを受けている事例が提示される。このような例からみて認知症の症状の悪化のすべてが脳の神経病理過程の結果として起こるとは考えられない。社会心理と環境が「人びとを認知症にさせる」ことはあり得るのである。
 患者が行動しようとするのを無視し発言させないようにする、無能力化する、人格を奪うなど「障害の社会モデル」をキットウッドは研究し、これを「悪性の社会心理(malignant social psychology)」と名づけた。「悪性(malignant)」という強い言葉を用いたのは、その人らしさを深く傷つけ、身体の良い状態さえも損なう極めて有害なものを指すためである。但し、悪性という言葉は介護者側に悪意があることを意味しない。介護者の仕事のほとんどは優しさと良心から行われている。悪性は私たちの文化的遺産の一部なのである。

キットウッドは悪性の社会心理として17 の要因をあげている。

①だます(treachery):言う事をきかせるためにだます、ごまかす
②できることをさせない(disempowerment):能力をつかわせない
③子ども扱い(infantilization):親が幼児に対するように扱う
④おびやかす(intimidation):ケアのため脅かしてこわがらせる
⑤レッテルを貼る(labelling):認知症という言葉を使ってケアする
⑥汚名を着せる(stigmatization):病者、落伍者として扱う
⑦急がせる(outpacing):ついていけない速さでケアする
⑧気持を理解しない(invalidation):主観的現実を認めない
⑨仲間はずれ(banishment):心理的に追いやる、排除する
⑩物扱い(objectification):食物を口に流し込んだり、物の様に扱う
⑪無視する(ignoring):そこにいないかのように接する
⑫無理強い(imposition):強引に何かをさせる
⑬放っておく(withholding):本人の願いを聞こうとしない
⑭非難する(accusation):できないことや失敗を責める
⑮中断する(disruption):行為や考えを突然妨げる
⑯からかう(mockery):嘲る、いじめる、恥をかかせる
⑰軽蔑する(disparagement):自尊心を傷つける

 認知症が進行するのは脳病理の変性に加えて上記の悪性の社会心理要因が生活場面ごとに加わることによる。二つの要因が相互に影響しあって病状が悪化していく。それを認知症の弁証法(dialectics of dementia)と呼んでいる。 この章では、かなり否定的な意味で弁証法的過程が考察された。しかし、もう一つの可能性、つまり脳病理の影響を弱め、脳のある程度の構造的再生を促す社会心理に関する考察である。これは次章で語られる。


附記1
 理想的なケアがなされて悪性の社会心理が加わらない状態を仮定するなら認知症は緩徐に進行するもののBPSDなどは見られず静かに老いてゆくことも可能であろう。これは大井玄氏が“純粋痴呆”と呼ぶ状態である。普段診ている僕の患者さんの中にもそれに近い状態の人が何人もいる。。

附記2
 上記の1-17の要素はいかにも悪性であるが、そこまでいかなくても家族やケアスタッフが認知症の人をできないとわかっているのに試したり、リハビリと称して頑張れ頑張れと励ましたりして本人に恥をかかせたりいやな思いをさせているのをみることがある。

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