戦後生まれの僕は戦争を知らない。しかし、本当に知らないのだろうか。いや、知らないとは言いきれない。僕は知っている。海軍の軍医であった父を通して。父の戦争(の傷)は僕の記憶(生命記憶)に刻まれている。
あれは、多分3歳頃だったろう。父と一緒に風呂に入ると、胸にある弾痕のケロイド状のふくらみを僕にさわらせた。そして、いきなり湯のなかにぶくぶくと沈んで出てこない。心配した僕が泣きだしそうになるといきなり湯の外に顔を突き出す。父の得意の“死んだまね”だった。また、或る時は言う事を聞かない4歳の僕を夜の窓から放りだした。闇の中わんわん泣きながら家のまわりをぐるぐる走り回った。どうやって助けられたか覚えていない。
父がなぜそんなことをしたのか。わからない。日本軍の捨て石とされたニューギニアに送られ、奇跡的に生き延びた。玉砕を運命づけられていながらそれはかなわなかった。ニューギニアの密林を逃げまどい、栄養失調から片眼の視力を失う。そのとき外科医としての父は死んだ。
帰国後もマラリアの発作で憔悴した父の姿をおぼえている。今思うと、父は身体のみならず、心をも深く病んでいたのだろう。多くの仲間は敵との闘いではなく、飢えで死んでいった。ジャングルのなかウジに食われた戦友の死体をまたいで父は生き延びた。その在り様は戦記『海軍陸戦隊ジャングルに死す』その他に書かれている。「敵よりも日本の陸軍遊兵が怖かった」という記事はニューギニア戦線の残酷さ、怖ろしさを告げる。
先日「戦争の記憶:横浜と軍隊の120年」という展示を横浜都市発展記念館でみた。
幕末の黒船来航から敗戦を経て戦後の復興に到るまで、横浜に展開した軍事施設の写真や絵が詳しい解説とともに展示されている。はじめての情報ばかりであるが、特に太平洋戦争勃発以後の歴史はより身近でありひきつけられた。
1942年ミッドウェー海戦で敗れ、いよいよ本土決戦に備えるため地域の軍事化がすすめられていく。海軍は海上から陸上へ司令部をうつし、たとえば日吉の慶應キャンパス奥に地下壕を整備していく。その施設跡に慶應高校時代の僕は接していたが当時は全く無関心であった。大倉山記念館は海軍の気象部として使用された。
戦後、市内の軍事施設は占領軍の管理下に置かれた。横浜市戦没者慰霊塔が三ッ沢に建てられた。横浜中心部への占領軍の駐留と接収が行われた。冷戦構造下で横浜ノースドックが兵站拠点として整備され、汎用揚陸艇やミサイル追跡艦などが配備される。横浜の軍事施設として海軍施設と陸軍施設が写真や絵とともに詳述されている。
以上、父を通しての個人的戦争の記憶、そして横浜という一都市の戦争の記憶について触れた。
翻って、現在の戦争である。ウクライナ戦争に加えて、アメリカとイスラエルがイランに先制攻撃をしかけ中東に戦争がはじまった。3月22日ワシントンでトランプ大統領と高市首相の日米首脳会談が行われた。そのなか日本の記者からの質問で、イランを攻撃する前に何故同盟国にそのことを知らせなかったのか問われたトランプ氏は「奇襲攻撃については、日本の方がよく知っているだろう。パールハーバー(真珠湾攻撃)の前に日本は教えてくれなかったではないか」とジョークのように答えた。そして「我々は奇襲を成し遂げたおかげで予想以上の成果をあげられた」と続けた。
パールハーバーは、太平洋戦争の口火を切る、日本の最も恥ずべき作戦の代名詞の筈である。従って、この発言はトランプ自身がアメリカのイランへの攻撃は日本の真珠湾攻撃と違わないと言ったに等しいであろう。
日本人ならこれに対して、「日本は、真珠湾を先制攻撃してはじまった先の戦争に対する痛切な反省を通して戦後80年の間、日本国憲法のもと、戦争をせず平和を守り続けてきたのだ」と答えるべきであった。
戦争をはじめたのはアメリカなのである。ところが高市首相は「世界中に平和と繁栄をもたらせるのはドナルドだけ」などと驚くような阿(おもね)りを口にするだけだった。ニューヨークタイムズは「高市がトランプに対して一貫してとってきた愛嬌(チャーム)作戦」と論評し、仏ルモンドは高市がトランプに「お世辞の一種(ごますりgomasuri)を巧みに使ったと報じた。恥ずかしいことではないか。これが高市首相が会談前、日本の国会で述べた「したたか」な外交なのであろうか。
附記
*父は風呂の中で「死んだまね」に驚く僕の姿に、戦友の死に直面した際の自分を、そしてわんわん泣きながら暗闇を走り回る僕の姿に、ニューギニアのジャングルの闇の中逃げ回る自分の姿を、重ね合わせていたのではないか。そんな気がする。そうして、その後苦労しておのれの凄絶な体験を戦記にまとめることを通して、みずからの負った精神の深い傷を徐々に癒していったのではないかと思う。
ニューイングランドジャーナル2026年2月24日パースペクティブ:“Heads or the Tail”を読む。
検査結果の説明を受けるために診察室に娘と共に入ってきたMs.Jは極度にやせていた。彼女はステージ4の肺癌だった。病気の根治は不可能だが治療はできる(not curable but treatable)と話した。治療の目標は可能な限り腫瘍を小さくし長く良く生きること。我々が勧めたのは3週間ごとの免疫療法と化学療法である。
ここで説明を一休みし何か質問があるか尋ねた。
娘が質問した。点滴はどれくらい続けるのか、髪は抜けるのか、など。ついでMsJが予想された、大事な、しかも答えるのは困難な質問をした。
「どれくらい生きられるのでしょうか」
私は、数学と科学が好きで医学の道に入った。自然の原理と論理性に惹かれたのである。しかし、過去2年の医学腫瘍学の研修は私に解答ではなくより多くの問いをもたらした。
MsJは長期間生きられる可能性を問うていた。唯一の正確な答は「わからない」である。長期生存は多くの要因に影響される、そのうち2つをあげると、もともとの健康状態、そして癌細胞表面へのPD-L1蛋白の発現の状態である。これらの因子の何が予後に関係するか多くの研究がなされている。しかし、患者が比較的若く、高いPD-L1発現など良好なアウトカムを期待できる場合でも長期生存は保証されず医師は正確な予測をすることは困難なのである。
数字で予測を希望する患者もいるのでデーターベースに頼ることになる。MsJの生命予後は2年以下であろう。しかし、このハードなデータも不完全なのである。まず第一にそれは最近の進歩した治療の結果を反映していないという点。
2番目に、正確ではあっても、データの中央値は変動しやすい。生存中央値2年という意味は患者の半分は2年以内に亡くなり、半分は生存するということ。その半分の患者はその後どれくらい生きるのか。この問いにはカプランマイヤー曲線の助けを借りて答えることになる。
時間が過ぎるにつれてY軸の50%は生存中央値からカーブを描き、あるところで平坦化する。この曲線の部分は“tail”と呼ばれ、生存を続けるサブグループを示す。そのうちの幾人かは治療を中止している。生存中央値8カ月とされた患者で20年生きた者もいる。
歴史的にみると、ステージ4のがん患者で化学療法のみ受けた者はtailは小さく5~10%である。今日では、免疫療法とその他の先進的治療法でステージ4のメラノーマではtailは上昇し50%の患者で10年の生存を認めた。これは転移性固形癌は根治不能という従来の原則に再検討を促している。
残念なことに、肺癌を含め大部分の癌ではtailは50%以下である。腫瘍のタイプに加えてその他腫瘍の変異の負担などが免疫療法への反応、つまりtailの中にいることに関連する。しかし結局は腫瘍専門医も誰が幸運なマイノリイティになるのかわからないのだ。MsJの言葉が真実に近い。科学的な進歩にもかかわらず人の運命は運しだいとういことである。それは一か八か、コインをはじくようなもの、表がでれば死を意味し、その裏がでればtailの中に入る。
正直なところ、私が研修医の間に経験した、専門医師たちの予後をめぐる会話の曖昧さが患者に真実を話すことを回避することにつながった。そして癌に対する私のリアルな感覚はサンプリングバイアスに影響されていると分かる、病棟での研修の対象は重篤な問題を抱えた患者であり多くの場合治療にもかかわらず患者は亡くなった。私は今外来で働いている。ここでは転移性癌の患者定期的な治療でフルに生活できている。殆ど毎日私は、転移性癌の診断後3年、5年、7年のtailにいる患者を診ている。受診はしばしば社会生活上の交流の場となる。最近私は孫をコニーアイランドにサーフィンや泳ぎを教えに連れていくのが楽しみという患者を診た。日焼けが目立ったので彼を軽く叱責した。私の指導医が部屋を出るとき私を振り返り、目をきらきらさせながら言った。「つまりそういうことだね(That is what it is all about)」
そういうわけで腫瘍専門医は大変な仕事を背負っている。一方で患者の時間は限られ死が近いかもしれず、物事の整理が必要であり、大事な人との連絡の優先度を決め、なにが自分に大切かを考えなければならない。しかし他方、治療によく反応するかもしれず5年経っても孫を泳ぎに連れていけるかもしれない。
この状況を生ききる患者はヒーローといってよい。この困難を超人間的優雅さでナビゲートする患者がいる。Maya28歳。ステージ4の卵巣がん。彼女は勇敢にもpodcastで自分の経験を提示した。彼女は癌は大洋(ocean)と似ているという。治療によって、穏やかな時間を得るが、その後波が彼女にぶつかる。彼女は2022年永眠した。
彼女の大洋の比喩は説得力がある、それは堅実で平和的でありながら力強い、波を変えることはできないが、どのようにナビゲートするかを変えることはできる。
我々はMsJやMayaのような患者を腫瘍外来で診る、その不確実性のなかで生きながら、投げられたコインが地におちるのを待つ。より確実な良い治療法を期待する。しかし、今はそのかたわらを漂うしかないのであろう。
附記
*以上が抄訳である。『患者よ、がんとたたかうな』の近藤理論に共鳴していたが、時代は変わりつつあると感じる。
*『がんと生ききる』を書いた落合恵子さんは、小細胞肺癌のエンドステージで発症2年半を過ぎた。このままカプランマイヤーのtailにはいり生き延びてほしい。以下、本のあとがきの一部である。
家にいること。種子蒔きをはじめとしてせっせと庭仕事をすること。蕾を、開花を待ちわびること。その季節に咲く花の、たぶん最後になるであろう一輪を愛でること。好きな時に好きな本を開き、好きな音楽を流すこと。入院前には当然のこととしてやってきたすべての、ひとつひとつが、胸ふるえるほど懐かしく、かけがいのないときを、退院後の私にもたらしてくれた。泣きたくなるほどに。
*カプランマイヤー曲線:時間経過に伴うイベント発生率を分析する生存時間分析の手法。
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