臨床余録
2026年2月8日
アルカイックスマイル

 超高齢社会となり独り暮らしで亡くなる人が増えている。Aging in placeという標語どおり、住み慣れた場所で生涯を終えるのが理想かもしれないが、なかなかむつかしい。僕が在宅療養支援診療所として開業してから25年が経つ。この間、在宅でお看取りをした方は500名を越える。そのなかで独り暮らしで亡くなった人は63名。そのうち明らかな認知症を持ちながらさいごまで独り暮らしを続けた人は6名だけだった。

 老いの行きつく先として「在宅ひとり死」を提唱している社会学者の上野千鶴子さんは、夫婦世帯もいずれ一人になるが介護保険制度を利用すれば「孤独死」になることはないと述べる。ただ「在宅ひとり死」について認知症の方も可能か、介護の現場で事例検討しているという。

 かかりつけ医として僕が最近お看取りした認知症の方のうちBさんの経過を振り返ってみよう。
 Bさんはマンションに独り暮らしの女性。姪ごさんとともに僕の外来にいらしたのは2018年、84歳のとき。判断力が落ちたという主訴だった。Bさんは大学英文科卒、アメリカ留学を経て定年まで働いたインテリジェンスの高い女性である。最近までは出来ていた銀行の手続きや保険の更新などが出来なくなった。必要のない不動産の契約書を書いてしまう。捨てるべきゴミが判別できず部屋がごたごたしてきた。それでも食事、衣類着脱、入浴、排泄など身のまわり生活動作は問題なかった。

 通院し始めの頃、一日の過ごし方を聞いた。朝起きてごはんの準備、ラジオ体操、ラジオを聞きながら朝ごはん(米300g、納豆、豆腐や野菜入りのみそ汁)テレビで朝ドラ。10時に磯子の老人福祉センタ―に出かける。バスの中で色々な人、特に老人を観察する。11時にセンターの風呂に入る。そのあとマッサージ10分~15分間。帰りのバスで古い町並みを眺める。街川をのぞいてお魚も生きているんだと思う。家に帰って昼食。午後から図書館に行き、色々な新聞を読む。夕方は散歩がてら富士山がよく見える陸橋に佇む。(富士山には2回のぼったという話を繰り返し、話が脱線していく)毎日したこと、見たこと、聞いたことのすべてを日録としてノートに書いており見せてもらう。

 初診から1か月目の外来受診時、彼女の方から「私は延命治療はしません、昨夜のNHKの百歳時代という番組を観て考えました」と話す。僕から胃ろう、人工呼吸、腎透析について説明し改めて問うと「“No thank you”です」と明言、それをACPとして赤字でカルテに記す。

 外来診察の所見からアルツハイマー型認知症と診断できるが確認のために脳MRIをとる。両側海馬の著明な萎縮を認めた。長谷川式簡易スケールで14/30だった。

 認知機能の低下は比較的急速に進むようにみえた。物を置いた場所を忘れ、盗まれたと思い警察を呼ぶ、コンビニで食べものを黙って食べるなどが出てきた。

 この時点のケアで考えたのは、安心して家で食事をとれるようにすること、自分のできないことは信頼している姪に任せ、大事なものは預けておくこと、食事や入浴はデイサービスを利用すること、話し相手や一緒に買物に行くヘルパーさんを頼むこと、体のケアや話し相手として訪問看護師を頼むこと、など。具体的には介護保険サービスの導入である。

 同時に有料老人ホームを姪と一緒に見学に行く。色々と迷ったすえ結局老人ホームではなくさいごまで自分の家で過ごすことを選ぶ。この頃の希望として「子どもに英語を教えたい」「死んだら財産は世話になった大学に寄付したい」と述べている。

 また「先生は、私のことをどう思いますか?」といきなり尋ねられたことがある。「とても正直で誠実な人だと思います」と僕は答えている。

 2020年、月一回の通院を続ける。デイサービスに通い始める。「つらいのは人の助けができないことです」と言う。そして「できたことが体力的、頭脳的にできなくなるのはどうしたらよいでしょうか」と聞く。それに対して、物忘れは年を重ねれば誰にでも出て来るので、自分の出来ることだけをして出来ないこと、あやしいことはヘルパーさんや姪ごさんに任せる(生活の単純化、ルーチン化)ようにアドバイスしている。
 介護サービスを使い独居生活を続けていたが、金銭に対する不安は強く姪や銀行に日に何度も電話している。ラジオを理解できなくなる。「自分はイカレポンチになってしまった、こんなになるとは思わなかった、でも母もそうだったし皆死ななければならないのよね」と述べている。

 2021年、発熱、下痢、かぜ、あるいは転倒して動けなくなり救急搬送されることが多くなる。それでも在宅独り生活は続ける。

 2022年以後、新聞や本は読めなくなり、冬でも夏服でいたり、30秒前のことを忘れる。デイサービスでない日に出かけてしまう。下肢の浮腫、歩行時の息切れなど心不全の症状が出てくる。

 2023年、尿失禁が目立つようになる。介護サービスの受け入れ良好。

 2024年、歩行困難で食事介助となる。姪の顔がわからなくなる。ヘルパーは日に3回入るようになる。車椅子で来院時、医師の顔は覚えており挨拶。「そのうち往診に行きます」というと微笑を浮かべ「お願いします」と丁寧に返答する。

 初回往診時ベッド上座位。「私は何もできない、言われたことをするだけです」と穏やかに言う。ケアスタッフとの関係良好であり、何もできずわからなくなる自分の状態を自覚しているようにみえる。

 2025年、嚥下困難が目立ち始め食事摂取量減、やせ目立ち、エンシュアを補給。ベッド上寝たきり状態となり介護用褥瘡防止ベッドが入る。食事介助、排便や皮膚のケアなど介護や看護が主となる。月1回の往診時、ベッドに臥床し体は不動のまま(両手を胸にのせ両足はまっすぐに伸ばし顔は真上に向け)いつも穏やかな微笑を浮かべていた。「先生久しぶりですね」と言ったあと小声で意味が聞き取れない言葉が続く。ただ、苦痛を訴える言葉や表情は全く見せず、常にまなじりや口元に静かな微笑をたたえていた。何か楽しい夢でも見ているかのような表情であった。僕が近所の散歩で出会う野地蔵さんの表情のようでもあった。あるいは、いわゆるアルカイックスマイルといってもいい微笑であった。
 2026年、年始より活気なく嘔吐一回、以後食事を摂らなくなった。ヘルパーが水を一口二口介助すると右手を挙げて「もういらない」というジェスチャーで応えた。ご親族に連絡、「本人は延命を希望していなかったので自然な形でみてほしい」という意向。その2日後ケアスタッフの見守るなか永眠された。僕がさいごの診察(お看取り)に訪問した時にはあの和やかな頬笑みは消え、深く透明な湖のような表情に変わっていた。

附記
*この方は独り暮らしで典型的な認知症の経過を辿りながら在宅で亡くなった。あるいは在宅でさいごまで生きたというべきか。ローマ人なら「死んだ」と言わずに「生き終えた」というのかもしれない。

*それを可能にしたのは何だろうか。毎日図書館に行き新聞を読んだり一日の記録を細かく書いたりする知的で勤勉な習慣があったからだろうか。「先生は私をどう思いますか」などと問う姿勢、自分を外側から見ようとする謙虚な姿勢のためだろうか。あるいはだんだん分からなくなる自分を「イカレポンチ」と呼ぶことのできるユーモアに満ちたしなやかな精神のせいだろうか。終始一貫、叔母である患者をサポートした親族の存在であろうか。丁寧にやさしくそして適切に介護したケアスタッフのせいだろうか。そのすべてが認知症の進行を穏やかに受け入れる方向に作用したのであろうか。

*いずれにしても、僕らがいや応もなしに老い、認知機能が落ちていくとき、どういう生活の仕方をしたらよいのかのヒントが散りばめられているように思う。そして、独り暮らしで認知症になってもさいごまで在宅で暮らせるのだ、ということを教えてくれる。Bさん、そしてご親族に感謝したい。

*Bさんはアルツハイマー型認知症の典型例と思われるが、抗認知症薬は投与せず、またいわゆるBPSDも目立たず精神科薬を出すこともなかった。これも認知症を患いながら「在宅ひとり死」を可能にした要因かもしれない。


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