臨床余録

2025年3月23日
もう花見はおわりましたか


「もう花見はおわりましたか」

 このように僕に尋ねたのは訪問診療中の男性Aさん。若い頃からの精神の疾患のため5年前から外に出られず引きこもりの生活を続けていた。ある日の訪問時ぽつりとこの言葉を発したあと「すぐに散ってしまうからね」と呟いた。

 往診時ほとんど喋ることのない人の言葉であるだけに記憶に残った。それだけではなく強く印象に残ったのはこの数か月あとAさんが自宅で亡くなったからである。

 大学在学中に周囲からいつも見られているという妄想で発症。仕事もしたが長続きせず闘病生活に入る。薬で症状は大体抑えられていたが、時に色々な声が聞えてきてメチャクチャにされると言うこともあった。また被害的な内容ばかりでなく有名な女優が迎えにくるという夢のような妄想を抱いている時期もあった。
 重度の心不全も患っていて立ちくらみをいつも訴えた。こたつに胡坐をかきテレビの前で新聞をひろげ何かを書いていることもあった。ある日のメモには「見方にすべてがふくまれている」と書かれてあった。
 亡くなる前は、立つことが困難になり、食べられなくなった。病院には絶対に行かないと決めていた。ベッドにもたれ目をつぶり動けない状態が続いた。静かな最期だった。
 Aさんの看取りをして今思うのは、この5年間、月に1回の見守りを主とした往診を重ねてきたが、これでよかったのだろうか、ということである。

 「もう花見は終わりましたか すぐ散ってしまうからね」という言葉は僕という医者に向けて投げかけられたものだ。「花」はいのち。「花」はすぐに散ってしまうのである。よく見てほしいという気持ちがこめられていたのかもしれない。そして「見方にすべてがふくまれている」という言葉。ここにも「見る」という言葉が入っている。見方によって物や事の相貌は全く変わってしまうということだろうか。なかなか深く厳しい言葉だ。

附記1
朝日新聞3月22日の「ひととき」欄に家から出ることができない女性からの投稿が載っている。強い不安やたくさんの音に押し潰され、からだがすくんでどうしても外にでられない。そんな自分の家に精神科訪問看護師が来てくれることになった。唯一社会とつながれる一筋の希望、と記す。僕の患者Aさんは訪問看護師も拒否した。僕が彼にとって社会とのかぼそいつながりになっていたことを願う。

附記2
桜を詠った短歌を2首、Aさんの命を悼みつつ捧げたいと思う。

わが佇つは時のきりぎし今生の桜ぞふぶく身をみそぐまで
ちる花はかずかぎりなしことごとく光をひきて谷にゆくかも

  比較的若くして癌で亡くなった医師で歌人の上田三四二の歌である。ぎりぎりの命のみぎわで桜吹雪をうたう1首目、美しく悲しい浄念の歌ともいうべき2首目。

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