臨床余録
2026年5月24日
精神医学とAI

 The lancet The art of medicine “Medicine, psychotherapy, and artificial intelligence”を読む。

 医学においてAIや生成AIを使うことは臨床医に重要な問題(利点と限界)を提起する。臨床におけるAIの可能性と落とし穴に光をあてると、臨床医学における人の相互関係の治療的価値の基礎的な性質を再検討する必要がでてくる。そして社会に嵌め込まれた人間の心の自然についての誤った概念についても討議されなくてはならない。

 その誤った概念の一つは医学、とりわけ精神医学にあって、患者が無意識という心の側面をもっていないかのように考える傾向である。しかし、神経科学、社会科学、文学などを考えてみると、みな人間の経験そして精神病理学や心理療法と呼ばれる経験の中心に力動的な無意識の働きが現れる。

 力動という言葉によって、我々は特別な身体構造や大脳の神経学的パターンによって可能になる感情状態が波打つように多様な要因に依存することを意味している。同時に社会や我々の社会的経験が幼児期の発達や人生を通しての瞬間瞬間の経験によって我々の脳や心に影響を与えることも意味している。

 人間の心の概念は、無数の源泉つまり神経科学、文学、哲学、臨床、我々個人の経験、社会と交流する身体化した心などからの、我々の社会が何世紀もの間に獲得した知識に基礎をおいている。これらの異なった分野や観点からみると、人間は心の中で起きるすべてを認識しているわけではないという基礎的事実が明らかになる。これはいわばありふれたことといえる。我々は心の表面下で起きていることについて語る。分裂、抑圧、解離、イナクトメントなど。認識の外にあるものが、ある場合は容易に意識にのぼり、あるものはのぼるのが困難あるいは不可能なこともある。

 精神療法では、情緒的に良好な環境が医師と患者の間に準備されなければならない。この環境の必須の要素はセラピストが人間的な心をもつひとりの他者であることである。

 AIは現在、臨床上重要な非言語的コミュニケーションを拾い出すことはできない。精神医学で最も重要で困難な仕事のひとつは、習慣的行為や硬直したストーリーから患者が距離をとれるように助けることである。しかしAIはこれらのストーリーを有害な仕方で強化してしまうかもしれない。

 臨床医学のすべてにおいて、患者も医師も特殊な人間関係の、広い文化的コンテキストのなかに置かれている。従って、その状況の性質は高度に個人的なものであり、同時に社会的、文化的、政治的、経済的なものとなる。言いかえると、知識、感情、社会生活はほどけないほど絡み合っている。我々は社会的存在である。我々の感情はそのなかで進化してきた。それ故、我々の感情や情緒的表現は他の人々と関連を持ちながら、ケアやケアギビングは必然的にバイオ・サイコ・ソーシャルなもの、つまり人間らしい間主観的なものとなる。chatbotsは臨床医の代わりはできない。しかし、AIは臨床ワークの追加的仕事はできるかもしれない。

 AIは事務的仕事、記録の保持やノートをとること、第3者の支払いの受付など簡単(straightforward)な仕事は可能であり、それによって医師が患者と直に接して治療する時間を与えることが可能になるだろう。さらに、AIは測定すること、増やすこと、などこれまでは出来なかったことを多くの量をこなすことでケアの質をも向上させた。臨床場面のトランスクリプトを分析することで、AIは患者と対話する医師の時間の情報や患者の反応に反映されている医師のコミュニケーションの量と質といった医師患者関係についても情報を出すこともできる。

 つぎの問題は、AIが特に人間との相互作用から部分的に効果を引き出すことによって精神療法などに直接介入したり医学的ケアを強化することができるのかということである。一つの可能性は患者がAIと臨床医の両者と関わるハイブリッドモデルである。例えば認知症ケアに導入されているdigital companionであるが、今後より臨床シナリオに沿ったものが期待される。

 精神医学および精神療法においてAIの使用を考える時、治療者の人間性がキーであるが、AIを持ち込むことの弊害も認めなくてはならない。AIの近接性やパタン認識の利点のバランスをとるために多分多くの異なるアプローチがあるだろうが、それは人間の判断や言語化できない直観をAIが置き換えることのリスクや不利益を伴う。

 我々が描く一つの方法は、患者がchatbotに話しかけあるいは書くことで時間を過ごし、経験ある臨床医が監督するというAI治療である。このアプローチは内容および患者-chatbot相互作用を発展させる方向性をモニターする効率的方法を安全性と倫理基準を確保するために必要とする。治療的に必要な人間の相互交流を作り出すためには患者と人の治療者の直接面談が依然として重要である。さまざまな頻度や時間であっても人と人との面接は精神療法の核である。一方AIの便利性も利用してよいであろう。これは壁に向かってテニスの練習をするのに似ているかもしれない。大量のむつかしい仕事がこうして処理され、練習することで進歩が得られる。しかし、究極にはもう一人の他者(壁ではない実際のテニスの相手)が、本質的な、相互的な要素を作り出すために必要である、同様にAIとの相互作用によってどのようなプロセスが患者のなかにみられるのか管理することも大切である。

 我々がchatbotに与えたデータは本質的にバイアスがかかっている。我々が与えたものが生成AIから戻ってくる、個人的にあるいは社会として、それらのストーリーは我々が無意識にコミュニケートしたものなのである。そのようにして、苦々しくも、場合によっては危険に満ちて、chatbotとの相互感情あるいはより深いコミュニケーションが仮にあるとしたら、それは本来的に我々のなかにあるものの投射(projection)なのである。新しい世界の経験に励まされても、最も鮮明な迫真的な夢であってもそこには誰もいないのであるから。

附記
*ランセットのThe art of medicine欄は毎回目を通すように努めている。今回のエッセイは敬愛する精神科医であるArthur Kleinmanが筆者の一人だったので読んだのだが、なかなか難解であり十分読み切れていない。大幅に省略し理解できたところのみ意訳した。

*今までこのブログでAIに関係するエッセイは2篇ある。2023年7月9日:「ChatGPTと精神科看護」2023年10月22日:「AIは患者に共感できるか」である。今回これらを読み直してみてこの2つの論考の方が読みやすかった。

*心の悩みのカウンセリングや認知行動療法のレベルならchatbotのほうが経験の浅いセラピストなどより患者に寄り添った対応(寄り添い方のパタンを使うこと)ができるのかもしれない。しかし、この論考で触れているより深い無意識の問題はchatbotには扱えないであろう。chatbotそのものが人の心の認識できる範囲の総体を学習し元にしているが、心には普段は認識できない無意識の広大な領域があるからである。Chatbotに心は無く、共感的に聞こえるパタンを学習し、それを答えているだけともいえよう。


2026年5月7日
反核医師の会

 先日、「医の倫理と戦争」の映画上映会に出席した際、「反核医師の会」への参加を呼びかけられた。迷ったが決断は保留した。何故、「反戦争医師の会」ではなく、反核なのか。唯一の被爆国である日本。広島・長崎の被爆体験を被害者意識でとらえ、反核を訴えるとしたら、その姿勢は先の大戦でアジアの国々への侵略で2千万人の死者をもたらした日本人の加害の記憶を隠してしまいかねない。「被害は記憶され加害は忘れられる」(*)ことが一般的だからである。

 思い出すのは1980年代はじめの文学者による反核声明である。加藤典洋『敗戦後論』によると小田実や中野孝次ら500人以上が署名した。この流れに独り反対したのが吉本隆明だった。抗議の対象がアメリカに片寄っていたこと、当時のポーランド<連帯>の進めるラディカルな社会運動を反核声明は隠す役割を果たしていたこと、目標は米ソ含めたあらゆる核の廃絶でなければならないこと、そして核に反対するなら単独者として行動するべきであること、反核という誰も反対できない絶対正義をかざして誰をも巻き込む集団運動は戦時中の大東亜共栄圏の確立のために日本中がなだれていったのと同じではないか、などが吉本隆明の反核批判の要旨だった。

 また、湾岸戦争時、文学者による「反戦声明」がだされたが、その声明が憲法9条の戦争放棄という文言をもって反戦の根拠としていることを加藤典洋は批判している。「そうかそうか。では平和憲法がなかったら反対しないわけか。」と茶化すような言葉のあと「わたし達に戦争に反対する理由があり、それが、わたし達に戦争に反対させ、また、平和憲法をも保持させる、順序はそうであるはずのところ、それがそうではなかった」と述べている。憲法があるから戦争に反対するのではなく、憲法がなくても戦争には反対するのである。

 以上のような歴史的背景を鑑みた上で「反核医師の会」へ参加することにした。現在、ウクライナやイランでの戦争そして高市内閣の憲法改正への動き、殺傷兵器輸出などを知るにつけ、その切迫した空気に参加を促されたと言えよう。

 「反核医師の会」は、正式には「核戦争防止神奈川県医師の会」。特定の政党や宗派のための活動は行わず、医師のヒューマニズムに基づき、核戦争の防止と核兵器廃絶を目指し世界の恒久平和実現を目的とすると規約にある。神奈川でのこの会に参加する医師は数少ないと聞いた。「反核医師の会」は核戦争のみならずあらゆる戦争に反対する医師の会という意味であることを確認しておこう。「医師のヒューマニズムに基づき」という言葉にこの会の独自性を認めたいと思う。

附記
*『被害は記憶され 加害は忘れられる』渡辺良:朝日新聞「論壇」1992年8月7日


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