医者は患者を診るのが仕事である。よくなってその後受診することもなくそのままの人もいれば、長く療養し場合によるとお看取りまで続く人もある。医者には患者さんの人生の軌跡を見届ける、いわば目撃証人(eyewitness)となる役割もあるのではないか。
北澤三次郎さんのことを記しておきたい。
僕と同年齢の能面師である。奥様とふたり暮らし。彼との出会いは平成12年10月、横浜労災病院からの紹介状を持ち来院された。平成2年12月41歳で脳梗塞を発症し、右片麻痺と失語症をきたした。入院、リハビリを経てひとまず病状が安定し、奥様の仕事場が当院に近いということで平成12年10月渡邊醫院を受診された。
言語の理解と発語ともに障害される重度失語症の状態だった。右片麻痺も重く上肢は廃用、歩行には短下肢装具を必要とした。右手が動かないということは能面師としては致命的なことである。定期的に通院、脳梗塞再発予防の診察と投薬を行った。また右手の機能を失っても左手だけでなお能面制作を続けているという彼の生き様に興味があった。
毎回、診察のあと「今どんな面(おもて)をつくっているのですか」と聞いた。「いまはデッサン」とか「般若」「童子」「よりまさ」「若い女」「うるしぬり」「中将」とか名詞だけの返答をいただけた。それぞれに数ヶ月はかかるようだった。日常生活上の言葉に比べて能面関係の語彙は比較的保たれているようだった。ある時は「べしみ」という表情豊かな完成したばかりの面を持ってきてくれた。その見事さに僕は目をみはった。これが左手一本で作った面なのだろうか。また中将の面に眉毛をつけてみたり、にかわを魚の浮袋の「にべ」から採ってみたり積極的に新しい試みをしていると付き添いの妻が教えてくれた。『左手一本になり従来の能面のしきたりにとらわれず解放されたようでおおらかになったようです。外界とつながらないので自分の内界が動いている感じ』と彼女は言う。その後別の日に見せていただいた少年の面は深い静謐さを秘めた素晴らしいものだった。もしかすると左手一本の彼の作品には以前にはなかった微妙な精神性が加わっているのではないかと僕は想像した。
平成24年、彼は妻と共同で『面打』(めんうち)という本を出版した。
この本によれば、彼の父親も能面師、父を師として10歳から能面に向き合ってきた。「面を打つのに一番大事なのはそれに取り組む心構えです。」と述べる。掘りやすくした檜(ひのき)の角材は「物」であって木の魂はあらわれにくい。大きな木から切り出していけば木と対話ができる。「病を得て長い年月が流れ、…左手を両手のように駆使しながら、全く新しい面を打っています。」
このように書かれていた北澤三次郎さんは令和5年4月21日心不全で永眠された。能面師ではなく面打と呼ばれることを好んだ北澤さん。自分の言いたい言葉が出ないときのつらそうな表情が思い浮かぶ。
「面を打つことしかできない、でも好きだから」とつっかえながら言うときのはにかむような表情も浮かぶ。どこかあの少年の面(おもて)の清澄な面差しに似ているように思った。
附記1
北澤さんは1984年(35歳時)に『能面入門』(平凡社)という本を共著で出版している。その中、「面を打つまえに」という小タイトルで次のように書いている。“「面(おもて)を打つ」という言い方には、面の姿を木の中から打ち出すという、精神的な響きがある。ただ彫るのとは違うのである。…心が素材を借りて面を表現することなのである。…面が心に映らなければ、素材にも面は見えてこない。つまり、打とうとする面の姿が心を占めて、それが素材に映るような心の働きが、面を打つということなのである。”
附記2
当欄で患者さんについて書く際は、その個人のプライバシーを尊重して名前や内容に多少の改変を加えるのが常であるが、今回は北澤三次郎という著名な人であり敢えて実名のままとした。彼の生涯への敬意をこめて僕なりの追悼記事(obituary)であるといってもよいだろう。
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