The lancet March 29 2025 perspective欄 The art of medicineを読む。タイトルは Negative capability: a moral imperative in adolescent medicine. 筆者はAnoushka Sinha
数か月前、私は英国ロンドン、ハムステッドのキーツハウスを訪ねた。ジョンキーツ(1795‐1821)は医者になるため初めの5年間の修行を終えロンドンのガイズホスピタルの医学研修生となった。そして25歳、結核で死ぬ。悲劇的に短い生涯に彼はイギリス文学の混沌と矛盾の中に不動の光を与えた。その力を彼は兄弟への手紙の中で“Negative Capability”と表現した。それは「苛立って事実や理由を求めようとすることなく、不確かさ、不可解さ、疑惑の中に留まることができる状態」である。訪問中私は彼の詩稿の隣にある医学ノートをみることができた。恐らく彼の死への近接性が習慣的な感覚としての不安(uneasiness)になじみやすくしていたであろう。愛する友人への手紙に「誰かの病や死がいつも私の時間を奪い純粋な幸福を何日も味わうことができないでいる」と書いている。確かに、芸術的なインスピレーションと身体的なエクスピレーションの相互作用は彼のリアリティと偶然性への洞察をもたらしたであろう。
キーツは詩人になるために医学を捨てる。The Fall of Hyperionで逆説的に描いたhumanist: すべてのものの医者としての詩人になるためである。この言葉は200年後の思春期医学の医師である私の経験にも共鳴する。「私はもや(mist)のなかにいる。」そうキーツは友人John Reynoldsに書く。思春期は薄もやの季節である。私が診ている患者は自律と依存、力と弱さ、疑惑と可能性の間で揺れている。彼らは見られること、聞かれることを望む。自分たちの固有の経験を大事にし、しかし同時に自分を守るガードレールやガイダンスも必要としている。これらの対立する緊張を維持することは彼らをケアする複雑さを受け入れることを促す。これを受け入れるということ、つまりNegative Capabilityは、私にとっては単に哲学的な理想ではなくて医学におけるモラル上必須のもの(moral imperative in medicine)と信ずる。
以上が初めの5分の1ほどの拙訳。やや長いいエッセイなので何回かに分けて訳出する。
以下、附記とする。
附記
*ネガティブケイパビィリィティ(negative capability)という言葉はまださほどなじみはないかもしれない。Capabilityは能力、negativeは否定的という意味だから「否定的な力」「消極的能力」といった訳になるかもしれないがそのままネガティブケイパビィリィティとするのがよいだろう。簡単にいうと「不確かさの中に居られる能力」である。
*医学の臨床はポジティブな確実性を求める。しかし、実際は不確かさの中の仕事であるといってもよい。機械ではない人の身体や心を対象に診断し治療をする。薬の効果にしても何ひとつ完全に確かなことなどないではないか。どうか効いてほしいと祈るような気持ちで処方箋をだしている不確かな自分がいる。
*超高齢化社会となり慢性疾患の患者を診ることも多くなった。この先どういうことになるのか確かなことはわからないという思いで日々医者も患者も悩む。いわばちゅうぶらりんの状態に耐えることになる。これもネティブケイパビィリィティのひとつである。
*精神の病は検査や画像で診断できるわけではない。正解のない曖昧な領域である。いわばもやの中にいる。ひきこもりに近い状態の人もいる。その先のみえない宙づり状態に耐えること、思春期に限らず必要なのはネガティブケイパビィリィティなのである。
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