臨床余録
2025年10月19日
熊ども、ゆるせよ

 「熊。おれはてまへを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめへも討たなけあならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。仕方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次は熊なんぞに生れなよ。」

 これは宮沢賢治『なめとこ山の熊』の一節である。もう熊のことばだってわかるやうな豪儀な小十郎だが、まちへ熊の皮と肝(きも)を売りに行くときのみじめな姿と云ったらなかった。ずる賢い荒物屋の旦那に頭をさげやっと2円で買ってもらう。小十郎には養うべき7人の家族がいた。ある日小十郎は木に登っている熊をみつけ撃とうとする。すると熊が「何がほしくておれを殺すんだ」という。毛皮と肝の他何もいらないがそう聞かれると小十郎自身がもう死んでもいいような気になってしまう。小十郎の気持ちのわかる熊は自分ももう死んでもいいんだが2年だけ待ってくれと頼む。そして2年後その熊が小十郎の家の前で死んでいるのが見つかる。
 1月のある朝、小十郎は夏に見つけていた大きな熊を殺しにいく。
 以下さいごに至る文章は何度読んでも悲しく美しい。そのまま載せることにする。


 小十郎は谷に入って来る小さな支流を五つ越えて何べんも何べんも右から左左から右へ水をわたって遡って行った。・・雪はあんまりまばゆくて燃えてゐるくらい小十郎は眼がすっかり紫の眼鏡をかけたやうな気がして登って行った。・・小十郎がその頂上でやすんでゐたときだ。いきなり犬が火のついたやうに咆え出した。小十郎がびっくりしてうしろを見たらあの夏に眼をつけて置いた大きな熊が両足で立ってこっちへかかってきたのだ。
 小十郎は落ちついて足をふんばって鉄砲を構えた。熊は棒のやうな両手をびっこにあげてまっすぐに走ってきた。さすがの小十郎もちょっと顔色を変えた。
 びしゃといふやうに鉄砲の音が小十郎に聞こえた。ところが熊は少しも倒れないで嵐のやうに黒くゆらいでやってきたやうだった。・・小十郎はがあんと頭が鳴ってまはりがいちめんまっ青になった。それから遠くで斯う云ふことばを聞いた。
 「おゝ小十郎おまへを殺すつもりはなかった。」
 もうおれは死んだと小十郎は思った。そしてちらちらちらちら青い星のやうな光がそこらいちめんに見えた。
 「これが死んだしるしだ。死ぬとき見る火だ。熊ども、ゆるせよ。」と小十郎は思った。・・
 とにかくそれから3日目の晩だった。まるで氷の玉のやうな月がそらにかかっていた。雪は青白く明るく水は燐光をあげた。すばるや参(しん)の星が緑や橙(だいだい)にちらちらして呼吸をするやうに見えた。
 その栗の木と白い雪の峰々に囲まれた山の上の平らに黒い大きなものがたくさん環(わ)になって集まって各々黒い影を置き回々(フイフイ)教徒の祈るときのやうにじっと雪にひれふしたままいつまでもいつまでも動かなかった。そしてその雪と月のあかりでみるといちばん高いとこに小十郎の死骸が半分座ったやうになって置かれていた。
 思いなしかその死んで凍えてしまった小十郎の顔はまるで生きているときのやうに冴え冴えして何か笑ってゐるやうにさへ見えたのだ。ほんとうにそれらの大きな黒いものは参の星が天のまん中に来てももっと西へ傾いてもじっと化石したようにうごかなかった。


 いま熊が日本中で人の生活圏にまで出没して人に危害をあたえている。何故か昔旅した知床半島や羅臼峠でみた熊の穏やかな姿を思い出した。

 また昔僕の子どもを連れてよく行った丹沢の熊のことも思った。丹沢で長く自然保護活動をしている中村道也さんは著書『わが家の野性動物記』(1984年大日本図書)のなかで熊に遭遇したときの驚きと恐怖の体験を語っている。何度か会っているうちに恐怖感はうすれていく。丹沢ホームの養魚場の小屋にツキノワグマが入り込みほゞ空の魚油缶をこじあけ頭を突っ込みなめまわしている。そんな熊の姿に哀れと同時にかわいいとさえ感じるほどに道也さんは熊に親近感をもつようになる。それにしてもこのままでは捕獲の対象になってしまうと心配になる。そんな時道也さんの奥様の「クマのことを考えるならば、早く山に帰してあげたほうがいい」という言葉を受けて養魚場の周辺のえさ(死んだ魚やその内臓)をすべて土の中に埋め熊が来てもなにも食べるものがない状態にする。山の中の木の実も乏しいので下りてきたのかもしれないが人間もこわいから人間の前には来てくれるなよと祈るような気持ちだった。その冬の雪が降って二日目からクマの姿は見られなくなった。冬眠に入ったのである。冬の眠りから覚めて、芽吹きの春になったらどこかの深い森の中でもう一度会えるかもしれないと、また会えるのを楽しみに、「元気でいるんだよ。」・・と道也さんは話を終えている。
 昭和59年秋の新聞のインタビュー記事に道也さんは「怖かった。でも何もしない人間を襲うとは思えなかった。動物たちの住む山に、あとから入ったのは、人間だから、動物たちとうまくつきあっていく方法を、我々が考えるべきだ」と語っている。

 毎日のように人が熊に襲われた悲惨なニュースが伝えられる。何か息苦しい。少し違った角度から熊の問題に光をあてられないか。そう思い、今回、なめとこ山と丹沢の熊のことを記してみた。


2025年10月5日
はちみつ文庫

 渡邊醫院の待合室の一角にそこだけ暖かい空気に包まれた絵本のコーナーがあります。「はちみつ文庫」「本の処方せん」と大きく書かれている。これは病を乗り越えようと懸命に今を生きている或る若い女性のアイデアで始められました。
 「この文庫に触れる方が絵本や童話を通して少しでも楽しい気持ちになり、よい時間を過ごしていただけたら嬉しく思います。」と小冊子に説明がある。
 どんな本を読んだらよいか迷うときの参考になるように自分の気持ちに合う本が20冊用意されている。例えば、「毎日生きるのが大変なひと」というポケットのカードを取ると『あすは きっと』という本が推されています。「自分は悪い子かも・・」と思う人には、そのカードを取るとそんな気持ちの時に読むとよい絵本の題名が書いてあります。

 また文庫の横にある「おみくじコーナー」ではおみくじを引くと、ラテン語と日本語で生きることに対して箴言(しんげん)が書かれている。なかなか面白いのでいくつか紹介します。

 Quod nimium est, fugito parvo gaudere memento
  あまりに大きいことを避けなさい 小さいことに喜ぶことを忘れぬように
 Festina lente.
  ゆっくり急げ ―熱意を持ちつつもゆっくりじっくり行きましょう―
 Errare humanum est
  間違うことは人間らしい ―人間だもの・・―
 Pulchre, bene, recte.
  清く、正しく、美しく
 Amicitia sal vitae.
  友情は人生の塩

 僕が引いたおみくじは「Errare humanum est 間違うことは人間らしい ー人間だもの・・―」。気に入ったので歩きながら「エラーレ フマーヌム エスト」と繰り返し呟いたりしています。癒し効果があります。


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