臨床余録
2020年9月20日
ドリーミングフォーワド(医学部端艇部誌『赤艇』のために)

ひとすじの 川のながれをみると なにか熱いものが 胸を せりあがる

思いだすのは 医学部で 一心不乱に ボートを漕いでいたころの じぶんやなかま
ながくつらい合宿 レースまえの 緊張と レモンの味 やぶれたレース ローイングアウト
できなかった おのれの弱さに向きあう 自嘲のにがい味

開業後 在宅医療に 24時間 365日 全力を かたむけた そしてある日 患者の家の
扉のまえで うごけなくなった バーンアウト だった

無力を恥じたが 全力漕は 無理 と思い知る

水面をキャッチした オールが 水のなかを つよく美しくうごく 
じぶんがそのうごきそのものになる そして じぶんは いなくなる 
じぶんのいない 艇が 水のうえを つきすすむ そのイメージを 頭にきざむ

患者の苦しみに向かう 臨床も そうなのではないか 医者は黒子(くろこ) 
いるかいないか わからないほどがよい それで患者が 幸福でさえあれば

いまもかわらず 24時間 365日 横浜の下町で 人びとの 
生老病死(しょうろうびょうし)と向き合う ドリーミングフォーワド 夢みるように 前へ

 

2020年9月13日
白い病

 カレル・チャペック著『白い病』(岩波文庫)を読んだ。久しぶりに読む興奮ともいうべき感情を味わった。

 まさに今世界に向けて戦争を起こそうとしている国に恐るべき疫病が広がりはじめる。皮膚に白い斑点が生じ、あっという間にからだは腐食し死に至る。貧しい人しか診ない町医者ガレーン博士がこの病気の特効薬を発見する。貧しい人たちはガレーンにかかり治っていく。彼は戦争遂行者である枢密顧問官、そして最高責任者である元帥に呼ばれ施療を指示されるが、断る。貧しい人たち以外は診ないのである。ただし、今始めようとしている戦争を世界に呼びかけてやめるなら特効薬を与えてもよいという条件を突きつける。そんなことはできるわけがないと元帥は国家権力でおしつぶそうとするがガレーンは負けない。

 この老いた一介の町医者と一国の最高権力者である元帥との迫力のあるやりとりが面白い。現在の世界状況と照らしあわせてリアルなのだ。たとえば、アメリカのトランプ大統領と小柄なドクターファウチの新型コロナをめぐる対峙を思いおこさせる。

 あるいは、今世界中が苦しんでいる新型コロナ感染の特効薬をどこかの国の町医者が発見し、世界の大国の指導者に向けて、すべての核兵器を廃絶するなら、コロナの特効薬の作り方を教えると宣言したらどうなるだろう。そんな夢想に僕を誘う刺激的な一冊だ。

 物語のさいご、戦争をやめさせようとするガレーンは「元帥万歳!」を叫ぶ群衆によって殺される。悲劇である。だがこの終末は現在の世界の状況を暗示してはいないだろうか。

 

2020年9月6日
肩の荷がおりるということ

「やっとあずけることになりました」

そう切り出されて僕は

「そうですか。それでは少しばかり肩の荷がおりますね」

と答えた。

そして

その方は言った。

「肩の荷がおりるなんていうことではないんです」

そして

沈黙。

この沈黙の意味を考えている。

やっとあずけることにしました、ではなくて、やっとあずけることになりました、である。あずけることにした、とあずけることになってしまった、との違い。じぶんの勝手でそう決めたのではなく、やむを得ない事情からそうならざるを得なかった。そこには無念の感情が含まれている。介護の大変さは当たり前、介護は自分の生きることそのものでもある。その介護を手放す無念さがあなたにわかるのか・・・こうした思いがむくむくと湧き上がるときひとは沈黙を余儀なくされるのではないのだろうか。

自分の妻を、いよいよ施設にあずけなければならない。そのプロセスの苦しみ、悲しみを想像することなく、反射的ともいってよい軽さで言葉を発した僕自身を恥じる。こういう言葉を発した自分に対する不信感で落ち込んだ。その言葉を撤回したかった。介護が全面的に必要となるにしても、自分の妻がどうして肩の荷であり得ようか・・・。

 

 

 

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