臨床余録
2020年10月25日
言葉ではいえないんです

 10月11日の本ブログで「老いを敬うとは」として書いた独り暮らし高齢女性Mさんを1か月後訪問した。「毎日が地獄です」と述べていた方である。
 「いかがですか」「どんな風に過ごしていますか」といったオープン・クエスチョンからはじめる。どのようにも答えられるようにまず投げかける言葉である。また毎日が地獄と言うのかな、と待っていると、今日は少しぼんやり、少し穏やかな空気の中にいるような表情である。ただ言葉は少ない。食事のこと、デイサービスのこと、体の悩み、息子さんのことなど具体的な話題(クローズド・クエスチョン)につなげていく。
 独り住まいなので、日々の人とのつながりに焦点をあてて尋ねる。するとヘルパーさんのことを言おうとするのだが、何かもどかしそうな様子となる。ためらいながら「ひとりヘルパーさんがいてね、そのひとが来るのが楽しみなの」と少し恥ずかしそうに言う。「どんな人?」と聞いてみる。「わからないです」「何かおいしいものを作ってくれるの?」 「いいえ」 「話をきいてくれるの?」 「そうね」 「やさしいのかな?」 「そうね、やさしいのかもしれない、でも言葉ではいえないの、言葉ではいえないんです、でもね、そのひとと居るととてもいいんです」

 前回訪問時「毎日が地獄のようです」と語っていたMさんが、そのひとが来るのを心待ちにしているという心の変化に僕は驚く。この生きることの絶望を語っていた高齢女性に生きる希望を与えられる人がいるということ。色んな人が毎日来るが、「そのヘルパーさん以外はみな普通の人なの」という。なかにはいやなひともいるという。どうも僕らは普通のひとであるらしい。
 そのひとを僕は想像する。おししいものを作ってくれる、てきぱきと家事をこなしてくれる、といった物質的なことではどうもないようだ。言葉ではいえない、でもなにか生きていることの安らぎのようなものを雰囲気として持っている。 スピリチュアルといってしまってはちがうかもしれない。僕はこころのなかで 考える。シュビングの“母なるもの”Mutterlichkeitを備えている人? 静かな澄んだまなざしの人? 魂にひびくものをもっているひと?・・・・・ちがう・・。わからない・・。先生、言葉ではいえないの・・・・。そんなMさんの声が聞こえる。

 

2020年10月18日
投影的同一視

 独り暮らしのAさん。いわゆるサルコペニア(骨格筋減少、筋力低下)によるフレイル(虚弱)状態で外を歩くのは困難になり訪問診療をしている。リハビリのため長く来てくれて親しいヘルパーさんと屋外歩行をするようになった。先日のこと、横断歩道を渡るとき急いで渡ろうとして少しふらついた。そこで後ろを歩いていたヘルパーさんが肩を支えた。その時、Aさんは自分が歩くのが遅いのでヘルパーさんに押されたと思い、「そんな風に後ろから押さないで!」とどなってしまった。ヘルパーさんは驚き、「私は倒れるといけないので支えようとしたのに、そんな風に言われるのは心外です。」とAさんに言い返した。そのエピソードを訪問時Aさんは笑いながら僕に話してくれた。
 Aさんは足が弱いので横断歩道を青の間に渡れるか不安であった。自分に対して早く歩かないといけないと思っていた。そこでヘルパーさんの差し出された手をサポートではなく「遅いですよ、も少し早く」という意味にとってしまった。
 これは、投影的同一視(projective identification)という心理機制といってよいだろう。分裂した自分の不安の部分(早く歩けず横断歩道を渡れない自分を許せない気持ち)を無意識に他者(この場合はヘルパーさん)に投影するのである。

 亡くなられた歌人の河野裕子さんの歌に、「何という顔をして私を見るものか私はここよ吊り橋ぢゃない」という一首がある。病院受診時、河野さんの乳癌の診断を夫の永田和宏氏と共に聞いたあとの歌である。永田さんは実際はこの歌にあるようなショックを顔に出すということはなく感情を抑え普通に接していたという。河野さんもふたりでいる時は平静を装っていたという。そして河野さんがひとりで車で帰る。その時、はじめて涙があふれてきたと記している。河野さんは癌告知に伴う自分の内面の衝撃によって分裂した自己の一方を夫である永田さんに投影してこの歌を作ったと思われるのである。これも投影的同一視的心理である。

 投影的同一視という言葉はもとは精神分析家メラニー・クラインが乳児の母に対する関係の病理を研究したことから出て来た言葉である。乳児は母親を、はじめはミルクをくれる良い母親とミルクをくれない悪い母親に分けてとらえる(部分対象関係)。そして、ミルクをくれない母親に怒りを向けるが、その状態を維持できず、その怒る自己を母親に投影して投げ入れる(投影的同一視)。その結果母親は乳児の怒りを含んでこわい存在となるのである。(但し、これはひとつの理論であり、すべての赤ちゃんがこの心理的迫害を体験するわけではない)

 耐えがたい不安、苦痛、不快、罪悪感、恥などの体験を引き起こす情動を意識から追い払う心理機制が人には存在する。フロイトが「防衛」と呼んだ。抑圧、否認、分離、取入れ、そして今回紹介した投影などがある。

 

2020年10月11日
老いを敬うとは?

 9月21日は敬老の日。普段は考えることもないが、自分が70歳を越え老人の域に入ると、さて敬老の日とは何だろうと思う。

 僕の患者さんのひとり、90代の独り暮らしの女性は認知症の夫を施設に入れ、介護の負担は減った。しかし、往診にいくと「毎日が地獄です」とうつろな表情でつぶやく。足腰が弱くなり今まで行けていたトイレは腰の痛みをがまんしながら昼間だけやっと歩いて行く。ときどき転ぶようになる。眼がかすむようになり耳も遠くなる。デイサービスも坐っているのがきつく、半日で帰ってくる。夫と同じように施設入所を検討している。訪問看護やヘルパーさんのサービスをふやす交渉もしているが、果たしてそれで彼女の“地獄”は解消するのだろうか。僕は考えこんでしまう。「そうだねー、たいへんだねー」と一緒にため息をついている自分をふりかえる。これは彼女の問題(problem)、というより僕を含めた老いの課題(issue)というべきなのだろう。

 アメリカの作家メイ・サートンは『今かくあれども』のなかで老人ホームに入れられた経験を記している。「しばらくして、私は眠った。雨は屋根をたたきつけている。ここ当分は感じることも考えることもシャットアウトして、完全に受身になろう。瞬間から瞬間へ、時間から時間へと。感情も思考も危険すぎる。泣くのが怖かった。」しかし、彼女はそこでのあまりに非人間的な扱いに対して憤然として心の叫びをあげるようになる。老境における人間の尊厳とはなにか、文明社会における姥捨て山としてのホームを老人の眼で直視する。この本を読むと僕の患者さんが望んでいる「施設」は「地獄」ではないにしても、ほんとうに心安らぐ場所といえるのか心配になる。これはみんなの考える課題でもあるだろう。

 敬老の日とは、若者も壮年も初老も含めて社会が、老いのリアルをできるだけ共有し、自分たちの課題として老いというものを考える日のことだと思う。

 

2020年10月4日
110歳のあおげばとうとし

 その日も昼まではいつも通りの食事を摂っていた。明らかな変調は夕方、食事を用意しても全く食べようとせず。それだけでなく息が荒いようだと、Tさんの息子さんから診療所に連絡があり、すぐ往診した。目は閉じられており、呼びかけても反応なし、呼吸数は30回/分、発熱はない。血圧は90、脈は弱く、酸素濃度は測れなかった。のどがすこしごろごろしているので、側臥位にし、体位性ドレナージを図ったところ、口角から唾液がすこし流れ、呼吸は楽になったようにみえた。このまま少し落ち着いてくれれば・・・と様子を見ていた。しかし、のどは静かになったが、あまりに静かではないか。いよいよその時が来たのだ。さいごまで見守ることにした。明らかに呼吸は静かというより弱く緩徐になっている。脈はふれるのが困難である。繰り返し診察し回復の兆しのないことを確認した。僕はTさんからすこし遠ざかり、息子さんと心配そうにみている3人のひ孫(女の子)にいよいよお別れの時が近いことを告げ、そばに来て話しかけたり、手を握ったりしてもよいとささやいた。そのうち呼吸はさらに遅くしゃくりあげるような、いわゆる下顎呼吸となった。苦しそうにみえるけれど、すでに昏睡状態であり痛みや苦しさは感じないことを話した。おばあちゃん、ありがとう、とひとりが話しかける。あとの子は静かに涙を拭っている。呼吸が止まったあと、しばらく右の親指だけが小さなけいれんをくりかえしているのを僕はみつめていた。何かを訴えているかのようなその動きが止まるのを確認しご臨終を告げた。110歳8か月の生涯であった。
  Tさんの訪問診療は7年前からである。殆どベッド上で会話は十分できなかったけれど、いくつか印象的なことがある。おおかたのことは忘れても小学校の先生の名前を覚えていること、「仰げばとうとし」をよく口ずさんでいたこと。老耄(ろうもう)による変化といえばそれまでだが、薄く目を開きベッド上で動かないTさんは、僕にはお地蔵さんのような静かで穏やかな雰囲気と表情に思えた。ベッドの上で両側の下肢を空中にあげてもらうと、はい、もういいですよ、というまでいつまでもあげたままの姿勢を保ち、僕らを驚かせた。寝たきりのお年寄りにみられることの多い、手足の屈曲拘縮はさいごまで殆どみられず、数ケ月前から右上肢が少しかたくなってきただけだった。食事は流動食のエンシュアリキド少量とプリンやお粥などで1日の水分摂取量が300ccと少なかった。それにもかかわらず水分不足の徴候はなかった。これは超高齢者を介護する際の学びのひとつになった。ご家族の心のこもった介護もあり訪問をはじめてから誤嚥や褥創など起こしやすい合併症はさいごまで一度もなく、平和であったといえる。明治、大正、昭和、平成、令和と五つの時代を生き抜いた女性である。

 

 

 

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