正信会とは


正信会とは、日蓮正宗の方針に従わない僧侶たちが、宗門の正しい信仰から離反していき、形成している集団である。
正信会の発端は、昭和52年の創価学会謗法問題である。
創価学会の謗法が明らかになるにしたがって、各地で学会を脱会する信徒が相次ぎ、寺院はこれを直属信徒(檀徒)として受け入れた。
こうした状況のなか、時の法主であった第66世日達上人は、学会の過ちを改めさせ、僧俗和合して広宣流布に前進するよう教導された。
昭和53年6月、宗門は学会に対し、34カ条にわたる教義上の誤りを指摘して回答を求めた。
学会はその回答として、同月30日の聖教新聞紙上に教義上の基本問題についてと題する記事を掲載した。
しかしそれは学会員に徹底されず、新たに発覚した「御本尊摸刻事件」等によって、学会の謗法行為がさらに明らかになった。
窮地に追い込まれた創価学会3代会長池田大作は、同年11月7日、総本山において「創価学会創立48周年代表幹部会」(お詫び登山)を開催し、謝罪の意を表明した。
その経過のなかで昭和54年4月24日、池田はこれまでに起こった問題の責任をとらざるを得ない状況に追い込まれ、法華講総講頭及び創価学会会長の職を辞し、今後、創価学会は二度と教義上の誤りを犯さないことを宗門に誓った。
これに対して日達上人は、昭和54年5月3日、創価学会第40回本部総会の砌、「今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護して頂きたいのであります。そのうえで自主的な指導と運営で伸び伸びと御活躍を願いたいのであります」(聖教新聞昭和54年5月4日付)と述べられ、創価学会問題を収束された。
そして宗門僧侶に対しては、「学会にいまだに間違ったことがあるならば、宗務院、内事部(大石寺)のどちらにでも言ってきて下されば、それを向こうに注意して改めさせていくつもりでおります。
ですから皆様が相変わらず今年の5月3日以前のような態度であっては、宗門としてはまことに困るのであります」(大日蓮401−60)と御指南され、創価学会についての問題は、宗務院・内事部レベルで解決していくという方針を打ち出された。
それとともに宗務院は、御講における創価学会攻撃や、「檀徒作り」を禁止し、違反する者は処分も辞さない旨の通達を出した。

昭和54年7月22日、日達上人が遷化され、日顕上人が第67世の法主として登座された。
日顕上人は、日達上人の示された僧俗和合・協調の基本路線を継承してその徹底を図られた。
しかし一部の僧侶らは、日顕上人の指南及び宗務院の命令に反して創価学会攻撃を続け、ついには日顕上人や宗務院を批判するようになった。
日顕上人は一年有余にわたり、指南に従うよう説得をされたが、彼らは一向に反省することはなかった。
そして昭和55年7月4日、一部僧侶等は自称「正信会」を結成し、正信覚醒運動と称して学会批判を続け、同年8月24日の第5回檀徒大会の開催を企画した。
これに対し宗務院は、主催者に大会の中止命令、及び宗内僧俗に対して大会への参加を禁止する旨を再三にわたり通達したが、正信会は、一切を無視し大会を強行した。
そこで宗務院はやむを得ず、宗制宗規に則り、大会主催者・出席者・関与者をその情状に応じて懲戒処分に付した。
正信会は、この懲戒処分への対抗手段として昭和55年12月13日、突如日顕上人に対して、血脈相承に疑義があるとの質問状を提出し、続いて昭和56年1月21日、静岡地裁に対し、「日顕上人への血脈相承はなかった」との理由を作り上げて、管長地位不存在の確認並びに職務執行停止を求めて提訴した。
これに対し宗門は、血脈相承の否定は信仰の根幹に関わることであるから、この裁判を起こした正信会僧侶を順次、宗制宗規に則って擯斥(ひんせき)処分に付した。
これによって正信会僧侶は、まったく日蓮正宗と無関係となった。
しかし一部の日蓮正宗寺院は、現在でも正信会の者たちによって不法に占拠されている。


目次 

1 正信会の登記簿

2 日蓮正宗における信心の筋目とは?

3 自称正信会に不法占拠された寺院

4 自称正信会が開設した寺院についての考察

5 ニセ日蓮正宗寺院に御注意下さい

6 正信会からの不法占拠寺院の返還

7 北海道天塩町能忍寺の帰伏を祈る。

8 知恵袋から正信会を破折

9 正信会不法占拠寺院の登記簿

10 正信会寺院の登記簿

11 正信会分裂 - 排除された檀徒の叫び

12 正信会脱会体験談
 

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2 行足寺檀徒赤井虎吉氏との対論について。

3 たかぼんと赤井虎吉との@nifty地域ガイドでの激闘


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