自称正信会行足寺幹事赤井虎吉の妄言を破する。


赤井 虎吉 投稿日:2009年1月4日

阿部氏は昭和57年6月28日、富士学林研究科開講式で次のような発言をしております。「私が日達上人より、過去、数度に渡って相伝の甚深の法門を承り、それらの総括として昭和53年4月15日、大奥において、付嘱の義をもって深意を拝承したことは、仏祖三宝のご照覧において、事実であります」 ところで問題の昭和53年4月15日、日達猊下の日程はどうなっていたでしょうか?(この日は日達猊下のお誕生日でした)
午前0時 丑寅勤行
午前6時30分 起床
午前7時 日目上人御講(御影堂)
午前8時 塔中住職より誕生祝を受ける
午前9時30分 妙蓮寺塔中住職と面談(対面所)
午前10時 遠信寺住職と面談(対面所)
午前11時 大石寺東京事務所へ出発
よりによって、このような多忙であわただしい日に、日達猊下が相承されるとはとても考えられないと思うのは私だけでしょうか?この日のどこに、相承するような時間が取れるのか、阿部氏にはぜひ正確にご説明願いたいものですね。


破折

まず、日達上人より日顕上人への御相承は内付であられたのである。
日達上人は妙信講・創価学会問題まっただなかの昭和50年7月5日、御目通りした法華講員に対して
「相手が誰であろうとも、法主としていうべきこと、なすべきことは1つとしてゆるがせにしておらず、宗門の権威は少しも傷つけることなく次に譲るつもりであります。(日達上人全集2-6-424)と御指南されている。
全く予断の許さない中にあっても御身体の御不調もあり不時のことを慮られて本宗の重大事たる血脈の不断のための御用意をされていたのである。
であるから、どのような形で御相承されるかは日達上人がお決めになることであり、全く余人の口を挟むことではない。

日顕上人は
「儀式とは基本的には行われる形があります。しかし○○上人から○○上人の場合はきちんとした儀式の形で行われた、従って、過去においても儀式がなければならなかったし、今後もなければならないのだというように、宗門史全体の中の一部の儀式が行われたところだけを基準にして相承のあり方を云云することは、相承の本質をわきまえない妄見です。」(大日蓮560-27)と明快に示されている。

すなわち御法門の相承においても、場合によっては日常の師弟相対の中で、あるいはまた登山した折など、ある程度の期間に渡り何回かに分けて伝授なさる場合もあるが、たいていの場合は相承を受ける方が既に御法門の深義を把握されており、大事な問題について要点だけを、特にお示しになれば済むのである。
従って多忙で慌しい日に、日達上人が相承をされることはとても考えられないというのは、全くの誤りである。
昭和53年4月15日の御相承は、既に長年に渡って教学部長の重職を務められ、御法門を掌中のものとされていた日顕上人に対し、相伝の甚深の御法門を数度に渡って伝授された上で、それらの総括として、附嘱の義をもって肝要の御法門の御指南をせられたもの、と拝せられるのであり、この日の御相承は軽々しいものでは断じてない。
日顕上人においても、日達上人より後継のことについて、お話をお受けした事は数回以上に及んでおり、ただそれらの中で特に法義の上からの正式な御相承をお受けしたのが昭和53年4月15日であったと仰せられている。
なぜ日達上人より日顕上人への御相承は内付であったのであろうか。
それは宗門は創価学会の52年路線や後の正信会僧侶の学会攻撃檀徒活動により大揺れに揺れた時期であった。従って宗内僧俗のバランスというものも非常に微妙なものがあったのである。このような状況の中での御相承であるが故に、日達上人には諸種の状況を判断され、公表されない形での御相承を遊ばされたと拝されるのである。

昭和53年4月15日の日達上人のスケジュールだが、正信会のあげるスケジュールもいい加減なもので日達上人と日顕上人がお会いになられた時間は優に1時間は存在している。
特にこの日は御講の日であり関係者の記憶も喚起し易い日であった。
当時宗務院の書記であった楠美慈調御尊師が大講堂3階の宗務院の東側端にあった印刷コピー室でコピー中に偶然内事部玄関を眺めていたところ(コピー機が置いてある位置から真正面が内事部玄関)、事務衣に小袈裟をつけられた日顕上人が、内事部玄関にお入りになるところを目撃したのである。
通常宗務院に登院なされる場合には、大講堂の方にある宗務院の入口を使われるが、内事部にお入りになったという事は、後から宗務院の方へお見えになるのだと思っていたところ、その日は宗務院へはお見えにならなかったと証言されている。
日顕上人(当時教学部長)が宗務院ではなく、内事部玄関へ、それも小袈裟を着けてお入りになられたということは、その目的はただ1つしかない、日達上人への御目通りである。
以上、述べてきたことからも、昭和53年4月15日に日達上人から日顕上人へ御相承がなされ、日達上人が日顕上人を後継者となされたことは誠に明らかである。
なお赤井虎吉氏やその師匠である川田乗善氏は日顕上人誹謗に夢中になる余り、大事なことを忘れている。次期御法主上人を選ばれ、御相承されるのは、御当職の大切な職務であられる。御身体の不調を感じておられた日達上人が、万一の場合に対し何の備えもなく御遷化されるという道理はありえない。
もし、日顕上人が御相承を稟けていない、と言うのならば、それは「日達上人は最も大切な職務である次期御法主を選定もされずに御遷化された」と言っているに等しく、これは御先師日達上人に対するどれほど重大な誹謗となるかが分かっているのか。


 自称正信会に BACK  TOPに BACK