日蓮正宗における信心の筋目を考える


@ 自称正信会に乗っ取られた寺院を奪還して、前住職に「正信」を取り戻させることに成功した宗門のある寺院の御住職様のお言葉を掲載させていただきます。

1番考えなければならないのは信心の筋目です。

唯授一人の御法主上人→御法主上人より任命された住職→住職の指導を伝える講頭

正信会を「創価学会批判を猊下から止められて梯子を外されてかわいそうなところもあるのだが」と思われるのではなく、正信会も創価学会も当初は「唯授一人の猊下を根本」としていたのですが、「唯授一人の御法主上人」を忘れて、というより捨てて、住職に付いたり、池田大作に付いたに過ぎないのです。

52年路線の時、私がご奉公をさせていただいた寺院では、「御法主上人猊下の御指南通りに信心をしていかなければなりません。もし、私(住職)が猊下と違う指導をするのであれば、どんどん注意をしてください。もしそれでも猊下と違う指導をするのであれば、私を捨ててください。」と言っていました。私がいたときで約500世帯の学会員が脱会してこられていましたが、私が住職として、本山の衛坊に入らなければならなくなったとき、丁度、「学会攻撃をしてはならない。学会の善導は宗門から是正をさせていく」と指導があり
大半の活動寺院(正信会)は創価学会から脱会してきた人たちから突き上げられ、また、謗法を責めてどこが悪いと開き直って、指導に従うことができずに擯斥になっていきました。
そのような時であっても、私がお世話になった寺院の法華講員誰一人として、正信会に行った人はいませんでした。ですから私は、御法主上人の御指南に従わない住職であってはならないと自覚して、どこまでも正直に御信徒を善導していると確信しております。
人は、自分に都合の良いものを味方としていきますが、日蓮正宗の信心の世界は、どこまでも御法主上人の御指南に従って信心をしていくところに成仏の道があることを、心肝に染めなければならないと思います。

A 知恵ノート:正信会を離脱して宗門に戻られた御僧侶の心境


「大日蓮」昭和57年8月号に掲載された故清水法瑞師の発言


昭和57年 5月1日号の『継命』紙に、伊芸益道君の寄せた「興尊の御心死(ころ)す悪師」と題する論が掲載されました。

そのなかに「かつて我々の同志三師は、自坊追放の上袈裟衣を取り上げられ、本山塔中を引きずり回された」と書かれておりましたが、これは総本山、宗務院および教学部長を敵とみなしての攻撃的なもので、全く事実に反したものであることは論をまちません。

原規道師、国井等道師、そして私の三名が、いつ自坊を追放されて袈裟・衣を取り上げられ、山内を引きずり回されたというのでしょうか。

自分が直接見たことでないことを、いい加減な推測で論を組み立てた伊芸君に村し、その誤った認識と、非常識な論文構築方法を、まず指摘しておくものであります。         

最近の正信会の謗法行為は目に余るものがあり、我々3名は、そのなかにいてはどうしても本宗の僧道を全うすることができないと考え、自らの意志により、寺院と法衣を総本山にお返しいたし、お詫び申し上げたのであります。

今、我々3名は、正信会を離脱し、真の正信に帰することができまして、これほどの喜びはありません。

日蓮正宗の根本命脈は、本門戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主上人猊下の御指南に信伏随従することであることは、本宗の僧侶であれば白衣小僧でも知っているところであります。その御戒壇様を誹謗し、血脈法水に対して疑義を唱えていた私どもは、白衣小僧の信心よりも劣るといわれても、いたしかたありません。  

しかるに、正信会の謗法行為が明らかになっておる今日に至ってもまだ、自らの迷妄覚(さ)めやらず、信心の根本義を見失っている者が多くあることは、まことに悲しむべきことであります。このことは、のちに正信に目覚め、万歳悔いても、悔いきれるものではありません。

しかしながら、その悔いを少しでも軽からしめるために、なぜ私が正信会から離脱したか、なぜ白衣小僧にかえって総本山で修行させていただいたかということについて、私自身の反省も込めて少々、述べさせていただくことにした次第であります。
 私の拙文が、いまだに正信に迷い、正信会が何故に謗法の団体であるのかということが分かっていない方、あるいは分かっていながら、いきがかり上、骨肉の情その他、種種のしがらみによって総本山に帰することに躊躇(ちゅうちょ)している方にとって、その決断のための一助となるならば、もとよりこれに過ぎる喜びはないと思うものであります。                                                   
 正信会に在籍していた当時、私は御法主日顕上人猊下の血脈相承を疑っておりました。

その理由の一つとして、正信会から御法主上人に対して血脈に関する質問状を提出したけれども、それに対する回答が無かったということが挙げられます。

しかし、今、頭を冷やして考えますと、

時の御法主が、“あなたは本当に血脈を承けられたのですか。我々は承けてはいないと思っているのですが、それは真実ですか。真実であるならば、それを証明できるような証拠がありますか”というような無礼な質問に対して、お答えくださるはずがないのであります。

むしろ、その質問状を提出することに何の抵抗も感じなくなっていた我々の信心が、既に白衣小僧よりも劣っていたということがいえましょう。                              
 
ところが我々は、回答が無いことを理由として、世俗の司法機関に対し、世界に冠たる日蓮正宗の、また世法の上にあるべき仏法の最大事である血脈法水の事柄について、その裁断を乞うたのであります。

世間法・出世間法の序列からしても、当然、出世間法のなかで解決しなければならない問題を世間法の範疇(はんちゅう)で論じ合うという手段に出たことは、それだけでも本末顛倒の愚挙といわなければなりません。

しかも、それに加えて、本宗の根本命脈である血脈法水を、正しい信仰を知らない世俗の裁判官にその裁定を委(ゆだ)ねたことは、仏祖三宝尊の御照覧を恐れない暴挙であり、ひいては永遠の未来にわたる本宗宗史の大汚点として、末代まで語られることは必至であると思うのであります。

現在、訴訟に加わっている者は総本山大石寺内事部より登山停止の処分を受けているが、大聖人の大仏法を地に堕とすような愚かな行為を早急に取りやめ、一日も早くその措置の解除を受けて、御戒壇様に懺悔滅罪すべきであると思うものであります。
正信会が創価学会を非難するものの一つに、御本尊を勝手に模刻したということがありましたが、既に御法主上人が“御本尊模刻の件については云々してはならない”と御指南せられておりますので、それについて創価学会を攻撃することは控えるべきであります。
 
さて、その非難の一つには “本宗の御本尊は信仰の根本であって、それを勝手に自分達の手にかけた”ということがあったのであります。

御本尊は、すべて御法主の権能であり、その御指南によるべきであります。

しかしながら、そのように御本尊に関して創価学会を攻撃していた正信会の僧侶のなかから、自らの手で、御法主上人の御指南はもちろんないまま、勝手に手を加えた者が出たのであります。
今は元通りにしているということでありますが、某寺本堂安置の板御本尊の御文字の一部を漆で埋め、消したのであります。あるいは御本尊の周りに外枠を作り、御本尊の中の一部の文字を見えなくしている寺院もあります。                     
このことについて私は昨年の12月4日、正信会の全体会議において「御本尊の一部の文字が正信会に都合が悪いからといって消したり、外枠を作ったりするならば、御安置の寺院名やお認めの日、授与書等が見えなくなるので謗法ではないか」と追求しましたが、センターの回答として「御本尊を荘厳にするということだから、おかしく取らないように」と言われたのであります。

“御宝前を荘厳にする”ということならばともかく、“御本尊を荘戟にする”とは、まことにおかしな言い訳であります。

ともかくも、勝手に御本尊に手をかけるという大謗法を犯し、そのうえで学会の行為を云々するという、その狂乱ぶりは、とても本宗の僧侶であるとはいえないものであると確信するものであります。                      

宗門に背反する行為を見るに見かねて、多くの僧侶の方方が正信会に在籍している者に直接会われ、その迷妄を開かしめんとして尽力されているということを聞き及びました。

一時、その籍に在った者として、まことに有り難く、感謝の念でいっぱいであります。
ところで、その方々のお話をうかがいますと、初めは血脈法水に関することと創価学会の社会的不正があるなどということを言い、いうなれば週刊誌等のマスコミなどに操られた言を吐く者が多いということであります。

そして“唯授一人の血脈相承を裁判所に訴えて、それで決着がつくと思っているのか”とか“本当に自分は正しい信心を貫いていると思っているのか”などの核心に触れていくにつれて、だんだんと語気を弱めながら“そういうことはセンターに言ってくれ”とか“自分だけでは訴えを取り下げることができない”等と言う者が多いそうであります。
 
しかし当然のことながら、僧侶としての信心、道念というものは、正信会のセンターの指示によって左右されるべきものであってはなりませんし、また大勢のなかから生まれるものでもありません。すべては自分一人なのであります。

幸いにして私は、センターの指示を待つような愚策を弄さず、また数に勢いを借りるような判断をせずに、真の正信に帰入することができました。

そして今日、御法主上人の御慈悲を頂戴して本行寺に在勤させていただき、正しい信心修行ができることに大きな喜びを感じながら日夜、御奉公に励んでおります。

現在、正信会に在籍する者のなかには“自分一人だけお詫びするのは恰好が悪い”“みんなが訴訟を取り下げるなら自分も取り下げ、宗務院の指示に従う”と思っている人も多くいるということを聞き及びますが、そのようなことは日蓮正宗の僧侶として、まことに悲しむべきことであります。また、そのような者に指導を受ける檀徒が哀れにも思います。

御法主上人は
「たとえ詫びて来ても、宗務院の事務の上ではそれぞれに応じて多少きちんとした対処の必要もあろうかとは思いますが、そのようなことは些細なことであります。

“誤ちと知って改むるに憚ることなかれ”と声を大にして叫びたいのであります」 (当誌四二七号―五三)と、大慈大悲の御指南をあそばされております。

この御指南を深く拝され、真の正信に一日でも早く、一人でも多く帰入されることを心より祈りまして、筆を擱く次第であります。


 清水法瑞師のその後


執筆当時は東京・本行寺に在勤されていましたが、その後北海道倶知安町知法寺住職、宇都宮市誠諦寺住職を歴任されました。

平成20年(2008年)5月に逝去されました。

隠居され闘病されていた時の清水法瑞師の記録

http://megalodon.jp/2013-0310-0727-29/www2.ucatv.ne.jp/~ohnomc/sakura16.html


昭和58年(1983年)5月9日、兵庫県朝来市妙興山要道寺新築移転落慶法要の砌の日蓮正宗第67世法主日顕上人猊下の御言葉


さて、宗門の僧侶のなかに、不心得な者ども(正信会)が相当数おりました。この者達には色色な機会に、まことに噛んで含めるように呼びかけ、謗法の精神を改めるように種々諭してまいりましたけれども、ほとんどの者がくだらない情実や様々な誤った見解に執われてしまっており、今日までそうなっております。
しかしながら、その中で3名(国井等道師=岐阜県高山市経行寺元住職・清水法瑞師=青森専妙寺元住職・原規道師=北海道夕張市興隆寺元住職)が自らの非を改め、それまでの悪に走った者どもとの関連を決然として断ち切って、お山に詫びをしてまいったのが、約1年前であります。

そしてその人達は、自らの道念において、既に住職の資格、すなわち日蓮正宗の教師の資格があったにもかかわらず、袈裟・衣の一切を私のもとに返上してまいりましたので、私は一時それを預かったのであります。
その3名は、総本山には毎年の3月に得度した白衣だけの小僧がおりますが、それと同じように白衣小僧から始めて、あの総本山の冬の寒い中を小僧と一緒の姿で修行してまいりました。

これは当然といえば当然でありますけれども、自分の過ちを根本的に改め、今までのあらゆる悪縁を断ち切り、初めから出直していくという気持ちになってやることは、やはり相当に難しい意味もあります。要するにこれは道念の問題でございます。
こういうことを申し上げるのも、本日、当寺の住職として任命をいたしました国井等道房が、その3人の中の1人であるからであります。

等道房は一時、過去において宗門が色々に乱れたときにその間違った方向に走ったことはありましたけれども、ただいま申し上げたようなかたちにおいて、御戒壇様にきちんとお詫びを申し上げ、まことに清廉にして堅実な、御本尊から御嘉賞あそばされるところの日蓮正宗の清浄な僧侶として今日まで、総本山からさらに末寺に移っても、やはり所化同様の立場で一生懸命に勤めてまいりました。

その姿がまことにまじめで、しっかり御奉公する精神のあることを私も見抜きまして、本日、この寺の住職として任命した次第であります。


昭和63年9月29日 北海道新ひだか町大法山護念寺新築移転落慶法要の砌の日蓮正宗第67世法主日顕上人猊下の御言葉


護念寺初代住職故坂本彰道御尊師について

彰道房はこのお寺が昭和44年に出来て以来ずっと当寺の住職として務めてこられまして、皆様が既によくその人柄は御承知と思いますが、まことに道念が厚くまじめな人であります。
過般来、色々と宗門のなかにおいて様々な問題が起こりました時に、色々と議論がかまびすしく、その中で色々な人のあらぬ言葉に耳を貸して自分の行く道を見失った、本当に気の毒な僧侶も多数おりましたが、そのなかにおいて彰道房は深く沈思黙考したと思いますが、結局のところけっしてこのようなところ(正信会)に行くべきではないということをある日信念を固めて総本山のほうにその決意を言ってまいりました。
それからというものは特にそういう者どもと袂を分かって、大聖人様の正法正義を正しく守り貫いていくという方向に向かって精進をしてまいりまして、それがまた御仏意に冥じて本日のこの慶事になったと思うのであります。


知恵ノートB:元正信会議長水谷秀旭氏の擯斥処分はなぜ他の正信会僧侶と違い遅くなったのか?


水谷秀旭氏ほか1名の擯斥処分(昭和59年2月27日)


院1037号
宗内一般
昭和59年2月28日
日蓮正宗宗務院
今般、昭和59年2月27日付をもって元仏世寺住職水谷秀旭、元仏恵寺住職稲葉海道の2名の者を擯斥処分に付しました。
これら2名の者は、御法主日顕上人猊下の血脈を否定し、本宗の教義および信仰の根幹たる金口嫡々唯授一人血脈相承に反する重大な異説を唱え、また、管長猊下に対する誹毀讒謗に及んだため擯斥処分に付された正信会と称する輩と接触して活動を共にし、彼ら謗法者集団の邪義・邪説を容認する行動をとってきました。このため、宗務院は、これは2名の者に対し、すみやかに本宗本来の信仰に立ち還り、御法主上人猊下の御指南に従い奉るよう訓戒するとともに、正信会と称する輩の主張の非なることを深く自覚し、反省懺悔して、今後彼らとの関係を一切断ち、再び行動を共にしない旨を書面で提出するように命じましたが、正当な理由なくしてこの命令に従わなかったため、昭和59年1月31日をもって住職罷免処分に付しました。
しかるに、これら2名の者は、この処分を無視して、住職交替に伴う事務引継、寺院の明渡しを拒否し、後任住職の赴任を妨害したため、宗規第249条1号の規定により今回の処分となったものであります。
よって、これらの者は本宗僧侶たる身分を喪失しておりますので、宗務院としては引続き速かに各寺の明渡しを求める方針であります。
宗内各位には、上記処置について御理解せられ、御法主上人猊下のもとに、一致団結して広宣流布大願達成のために邁進せられんことを望みます。
以上


参考資料)正信会関係者の破門


昭和55年(1980年)9月30日 5名

昭和56年(1981年)2月9日 1名

昭和57年(1982年)2月5日 11名

同4月5日 26名

同8月21日 42名

同9月16日 40名

同9月24日 54名(無任所教師)

同10月15日 2名(隠居者)

昭和58年(1983年)7月15日 1名(韓国籍で韓国にいたため処分が有効にならず、諸手続が済んだため処分したもの)


参考資料:


 1年半近くも遅れたのはなぜでしょうか?


水谷秀旭氏の反論(継命昭和59年3月15日号)


昭和53年(1978年)春から墓苑用地の取得について裁判中で、昭和58年(1983年)10月に仏世寺全面勝訴の判決が出た。その間日達上人個人から裁判資金の応援はあったが、宗務院からは調査も応援も一切ない状況だった。
管長裁判の原告には名前を連ねていなかったので擯斥は免れていた水谷氏は11月に宗務院に勝訴を報告したところ、

宗務院より12月10日付で@なぜ正信会との関係を続け、行動を共にしているのか?A血脈相承に関する正信会の見解についてどう考えるか?B今後とも正信会との関係を継続するか?の3点について回答を求めてきた。
数回に渡る書面での応酬のあと
昭和59年(1984年)1月12日に宗務院より訓戒が発せられ、「正信会と称する輩の主張の非なることを深く自覚し、反省懺悔して、今後彼らとの関係を一切断ち、再び行動を共にしない旨を書面で提出せよ」と迫ってきた。
それに対して水谷氏は「血脈相承を否定したことはない」と返答したところ、1月31日付で住職罷免宣告書が届いた。
そして2月12日仏世寺では抗議集会が開かれた。
2月14日午前7時に後任住職と称する能勢宝道師(当時大津市法乗寺住職・のち創価学会について日蓮正宗を離脱)や学会弁護士らが仏世寺を訪れ、寺院の明渡と事務引継を求めたが、
水谷氏は「正当な理由がない、本山と法論対決の意思がある」と拒絶し、それを能勢師に通告した。
そうしたところ2月27日付で擯斥処分に付された。


結論


水谷氏がすぐに擯斥されなかったのは

@ 墓苑裁判が起こっていて水谷氏は管長訴訟にまで手を割けずに名前を連ねなかった。

また墓苑裁判の当事者である水谷氏と宗門が争ったならば、裁判の結果がどうなるか分からないので宗門側も水谷氏が管長裁判に名前を連ねなかった以上、手を出せなかった。

A しかし宗門は大津市内に法乗寺を建立するなどしていずれ処分することは決定していた。
また、水谷氏も継命昭和59年2月1日号で仏世寺が紹介されるなど正信会活動はやめていなかった。

墓苑裁判の結論が出たので宗門は水谷氏の処分に踏み切った。


ある法華講員より


これは水谷氏が自分で書いているではありませんか。
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宗務院より12月10日付で@なぜ正信会との関係を続け、行動を共にしているのか?A血脈相承に関する正信会の見解についてどう考えるか?B今後とも正信会との関係を継続するか?の3点について回答を求めてきた。
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要するに【血脈を否定していません】というのであれば、宗務院の言うとおり、正信会から離れたらよかったということです。離れなかったということは謗法の輩と同居しているということでありますよね。
学会員が私はニセ本尊を拝んでおりません、と言っても、創価に同居している以上血脈を否定しているということであり、それと同じではないでしょうか?
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たかぼんより


管長裁判に名前を連ねなくても岩瀬正山(元正蓮寺住職)のように処分された者もいるが、擯斥にならなかったことを奇貨として最後まで天秤にかけ続けて、最後に宗門側から勧告されるに及んで彼は正信会を選んだのだろうと思う。また檀徒も完全に正信会であり、突き上げもあってもう引くに引けないということもあったと思う。
もし宗門から勧告された時点で正信会から手を引いていたら「今更何だ!」と言われるだろう


 その後


水谷氏は正信会議長に就任したり、草津市内に新寺を建立するなど正信会の中心的な人物となっています。


最後に


日蓮正宗寺院である諸法山仏世寺(滋賀県大津市竜が丘12-4)は現在水谷秀旭が不法占拠・居住しています。
水谷秀旭は日蓮正宗の僧侶ではなく、仏世寺の住職でもありません。

仏世寺の住職は草津市の啓道寺の御住職様が兼務しています。


知恵ノートC:正信会の元議長・副議長が驚愕の爆弾発言「じつは日顕上人への相承はあった」


過日法華講員有志が正信会新旧幹部を訪ねた際、かつて正信会の正・副議長を務めた、渡辺広済・佐々木秀明の両氏から、次のような爆弾発言が飛び出した!


 元堅持院住職渡辺広済氏の発言


「日達上人が、次はあの人(日顕上人)に譲(ゆず)ろうと思っていたことは間違いない。」

「私も佐々木(秀明)も、日達上人から『次は阿部(日顕上人)でいこうと思っているんだ』ということを聞いている。(日達上人が日顕上人を六十七世として選定されていたことは)間違いない。」

「私は、御相承に関して正信会が起こした裁判の原告には名を連ねていない。私としては、御相承を信じたい気持ちは山ほどある。」

「(住職罷免〈ひめん〉・擯斥処分の直接原因となった)第五回檀徒大会の開催も、私と佐々木は大反対だった。

(日顕上人が)『やめろ』と言われているのだから、やめればいいじゃないかと。

ところが、丸岡文乗・山口法興らが、『やらなければだめだ』と強硬に主張した。

罷免になったあと、『見てみろ、お前らがやれやれと言うのでやったら、クビになったじゃないか』と彼らに言ってやった。」

「正信会の若い連中は、阿部さん(日顕上人)に対してずいぶん失礼なことを言った。

『あなたは承(う)けていないじゃないか』と。

そんなことを言われれば怒るのは当然で、それでいて、『瞬間湯沸かし器が怒った』の、何のかんのと言う。

それがバカらしくなったこともあって、私は議長を辞めた。」


 元小田原教会主管佐々木秀明氏の発言


「(正信会では日興上人を唯一の僧宝としているが)私はそうは思わない。

日興上人と御歴代を区別する考え方はおかしい。」

「私は、日達上人が阿部さん(日顕上人)に『後を頼む』と言ったと思う。だとしたら、相承(があった)ということだろう。」

「お側で聞いたわけではないが、(日達上人が)千葉の在家の前で『この次はこの阿部(日顕上人)にさせるんだ』とおっしゃったことだってあった。」

「『頼むぞ』と言ったのだから相承だと、皆なそう思っていたのに、自分たちの都合が悪くなったら、皆な変わった。創価学会も正信会も。」

「(相承を認めていながら)裁判を起こしたことは自語相違になるだろう。私は最後まで、あれは却下になると思っていた。」

「(管長の地位不存在の裁判は)時の流れだった。

私としては、やればやったでしょうがないという考えだった。私自身はする気はなかった。

ただ、上に立つ者として、名前を連ねることはしょうがないという考えだった。」

「正信会の上に立つ者として、私は(事態を収束させようとする)日達上人の言われたとおりに行なおうとした。

院達に従い、板本尊模刻のことを言うのも止めた。

しかし、鬼の首を取ったような気でいる下の者は聞かない。

そこのところでずいぶん苦労した。

下の者にはその気持ちは分からないだろう。」

「(日達上人が学会攻撃の鉾〈ほこ〉を収めようとされた)それを継いだのは阿部さん(日顕上人)だと思う。

(日達上人の)お心のままにやっているのではないか。

私は、下の連中との間に立って苦労をした。」

「そもそもこの運動(学会破折運動)は(宗門と正信会が)一つになってやるべきだ。

もったいない話だ。

ケンカする問題ではない。」

「阿部さん(日顕上人)が『お前たち悪かったな、大石寺に帰ってきてくれ』と言えば、(私は)すぐに帰る。」

「(日達上人から日顕上人への相承があったと認めたことを)他で話してもらっても構(かま)わない。」 


 佐々木秀明氏には日顕上人を否定する資格などありません。


佐々木秀明氏は日達上人が遷化されたときは大分県別府市の寿福寺の住職でしたが
自分が否定した日顕上人の辞令で小田原教会に赴任しました。
否定した法主の辞令で赴任した寺を不法占拠するのはおかしいと考えます。

また宗教法人法上の適法な宗派離脱も認められていません。


 大日蓮第473号・昭和60年7月号における昭和60年6月8日宗務院渉外部の発表(14頁)


この裁判では他の裁判と同じように、佐々木秀明は、当初御法主上人猊下(日顕上人)の血脈を否定し、管長でないから処分権限がないなどという主張をしておりましたが、

自らの小田原教会主管の就任自体が日顕上人猊下の御任命によるものであることを指摘され、法廷でも、佐々木本人の尋問の際にその点を追及されて、
「任命当時は管長だったがその後管長ではなくなった」などと全く支離滅裂な言い訳をせざるを得なくなるに及び、この主張を撤回しております。

ことほどさように、自称正信会の輩の主張が、ためにするものにほかならないことが、はからずも明確になったわけであります。


 正信会に存在意義などない!


二人とも、御先師日達上人から御当代日顕上人への相承について「じつはあった」「それは、皆もそう思っていた」と証言したのである。

だとすれば、正信会という存在は、いったい何なのか!?

血脈相承を否定して会派を構えていたものが、じつは「血脈はあった。

自分たちの都合が悪くなったから、ないことにしてしまった」というのだから、これは正信会という会派そのものの存在が根底から崩れた、というべきだろう。

しかも、事は宗旨の根本に関わる重大問題であり、成仏・不成仏を決する一大事である。

正信会の僧俗が、後生の大事を守る信心を一分でも残しているなら、速やかに日蓮正宗大石寺に帰伏すべきである。

また、すでに正信会が「座して死を待つ」の末期的状況に陥っていることは疑う余地がないが、我々は、それを傍観していてはいけない。

むしろ積極的に折伏をなして、「保身」に余念のない正信会僧侶の下から、一般信徒を、真の「正信」に導こうではないか。


D 自称正信会行足寺幹事赤井虎吉氏


平成21年1月10日
自分が行足寺の信徒となって一番良かった事は「人の温かみ、同志を大切にする事の大切さ」を川田ご住職にも総代さんにも講頭さんにも他の信徒の方々にも教えられました。正信会は宗門にも学会にも弾圧され続け、日興門流として富士の法灯を再びともすために、苦労されてこられた方々がたくさんいます。ボクシングトレーナーのエディ・タウンゼントは教え子に「苦しい時に本当の友達がわかりますよ」と言いました。小生が今で言うリストラに逢いかかった時、大慈院の総代さんも他の檀家さんも「ご祈念しなさい」の一言で終わりでした。でも正信会・行足寺のみなさんは、小生の悔しさ・やりきれなさを全部受け止めてくれました。歓喜はなくとも、正信会・行足寺の講中は信仰上の生涯なくしてはならない仲間だと思っています。

破折
* たかぼんより
日蓮大聖人は「如説修行抄」に、所詮仏法(しょせんぶっぽう)を修行(しゅぎょう)せんには人(ひと)の言(ことば)を用(もち)ふべからず、只仰(ただあお)いで仏(ほとけ)の金言(きんげん)をま(守)ぼるべきなり(御書671頁)
と仰せ遊ばされています。
日蓮正宗を破門に処され、宗教法人清涼院という日蓮正宗と無縁な1宗1派を立ち上げた川田乗善の教説と日蓮大聖人とどちらを取るべきかと尋ねられたならば日蓮大聖人に従うべきで、川田乗善に従うべきではありません。

(付録)
大白法 平成19年10月1日付
元妙静寺檀徒、現大津市法乗寺信徒の体験
自称正信会発足以来、最高裁の判決、学会の組織破門、御法主上人猊下の御座替りなど大きな節目もありましたが、復帰が叶うような話もなく、今思うと、正信会の一方的な話を聞くのみでした。いつしか二十六年余りの歳月が流れる中、折伏と登山ができていないのが、気がかりでした。
いつまでも総本山に登山できなければ感激も生まれない。感激がなければ折伏もできないし、法統相続も思うに任せないから衰退の時がくる。
今の正信会は、三十年前の遺産を食いつぶしているのではないか。このままでは先行きが暗い。
私は家業も順調で、今では三人の子供にそれぞれ孫が出来、八人の孫のうち、長男夫婦とその三人の子と家内と共に七人で、大病もせず元気で暮らしています。入信以来四十年余り、恵まれた人生と思っていますが、人の世に明日は何が起こるか判りません。まして老人の私には、成仏という大願があります。
永の歳月、行動を共にしてきた住職夫婦や講員の皆さんとお別れするのは辛いことですが、信心に私情は禁物と心に決めました。
赤井氏においても依法不依人の理を知って勇気を出して帰伏することをお祈りいたします。

* でこりんより
赤井さんの歓喜が湧かなくても仲間が大切だから正信会と言うのはセンセーが地獄に行くなら自分も行くという発想と同じだと思うのですが

* Radioさんより
自他ともに成仏は願えない。仏教で成仏願わないならまず、無理に信仰に関わらず趣味のサークルで仲間とすごす方がまだましというものです。
信仰の、教義に嘘があり、その嘘を本当だと信じさせ信じる心で起きる一時の現世利益にとらわれ、また信じてしまう。
でも、嘘から始まった、利益はまやかし。根本の教えの嘘が人を苦しめる結果に。
麻薬より怖いですよ。
誤った信仰は。

* ayapanayapan1810さんからの知恵袋での質問
正信会員はなぜ信仰に歓喜が湧かないのですか?
赤井虎吉という人が歓喜が湧かないが仲間が大切なので正信会というのが悲壮感が漂っているのを感じました。

たかぼんより
御法主上人猊下の御指南と末寺の御住職様の指導に従って日々修行し、大石寺にお登山して戒壇の大御本尊様を拝んで歓喜が湧いてくるのが当日蓮正宗の信心であります。
歓喜が湧くと折伏したくなり、折伏するために唱題いたします。
赤井さんは信心の筋目を無視してたまたま行足寺の住職であった川田乗善氏に付いているのにすぎません。
唯授一人の御法主上人→御法主上人より任命された住職→住職の指導を伝える講頭
これが日蓮正宗の信心の筋目です。
人は、自分に都合の良いものを味方としていきますが、日蓮正宗の信心の世界は、どこまでも御法主上人の御指南に従って信心をしていくところに成仏の道があるのであります。日蓮大聖人の御金言に「法に依って人に依らざれ」とあります。
また謗法の者は「悪友」であり、正法を信受する人こそ「善友」であると教えられています。
従って赤井氏の間違った信心姿勢では信心に歓喜も湧きませんし成仏には至りません。
1日も早く大法謗集団正信会を脱会して正しい信心に付くべきです。回答日時:2009/7/27 06:34:30

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1028717080


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