最近訪問した塔婆・ご提供画像(2008/01/31〜2008/05/16)

過去の訪問塔婆履歴

2008/05/16
「X」氏ご提供
播磨金剛寺五重塔1
  同        2
  同        3
2008年4月落慶。総高22m(塔身17m)、一辺2.6m。
金属製、柱鉄骨、屋根・相輪は青銅、垂木・天井はステンレス、総重量役50トン。相輪金箔張、屋根緑青、勾欄朱色と云う。
写真の印象は、金属製であること、また絵図がモデルであることを割り引いても、重厚さに欠ける嫌いがある。また細部(特に斗栱)ももう少し丁重な造作をして欲しいと云う印象です。
(株)平安美術(仏像・仏具製造会社)施工。兵庫県三木市大村
金剛寺は白雉2年(651)法道仙人開基と伝える。天長4年(825)空海が来錫。如意山と号する。
天正の兵乱で焼失、寛文5年(1665)に現本堂建立。
・廃大和内山永久寺密教両部大経感得図」(善無畏金粟王塔下感得図及び龍猛南天塔相承図)
(国宝・保延2年<1136>・藤原宗弘筆・藤田美術館蔵)に描かれた塔をモデルとするという。
 ※両部とは大日経及び金剛頂経を云い、善無畏が北天竺乾陀国金粟王塔の下で、「大日経」を書写し、龍猛(龍樹)が南天竺の鉄塔中の「金剛頂経」を暗唱・書写したと云う伝承を描く。
・なお大和龍蓋寺(岡寺)にも「両部大経感得図屏風」(江戸期、屏風絵)が伝わり、この絵は岡寺三重塔の内部荘厳や軒下の荘厳・琴の参考にされたと云う。
2008/04/28 阿波長谷寺三重塔初重 <未完>阿波長谷寺三重塔初重・完成模型
阿波霊山寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
再訪
阿波熊谷寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15
  同       16
  同       17
再訪

阿波熊谷寺仁王門
山門、貞享4年(1687)建立、桁行9m・梁間5m・高さ13m。和様と唐様とを混用する大型建築で、かつかなりの装飾を施す。

阿波切幡寺天台大塔
(摂津住吉神宮寺大塔)
再訪 : 摂津住吉神宮寺西塔・阿波切幡寺大塔
2008/04/05 武蔵影向寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同   薬師堂

「日本古代地方寺院の成立」;昭和52−55年の発掘調査で、塔基壇は推定12m四方で版築工法を採る。心礎は長さ2m弱、高さ70cmくらいで、上面に二重円孔を穿つ。天台宗影向寺が現存し、金堂跡は現薬師堂の地と推定される。
「日本の木造塔跡」:心礎は1.9×1.5mで、孔と舎利孔が繋がった形であり、孔は径23×12/10cm、舎利孔は径9×8cmで底は丸く加工されている。
古くは橘樹寺または栄興寺と称し、平安期に天台宗となり、江戸期に影向寺と改号したと云う。
寺伝では天平12年(739)聖武天皇御願、行基開基とする。
※発掘調査により、創建年代は奈良時代もしくは白鳳後期であることが判明する。
心礎は「影向石」と呼ばれ、近世には「霊石」とされ、心礎の穴に溜まった水に功徳があるされる。
心礎は円形の心柱孔に三ヶの半円形の支柱孔を穿孔したものとも見える。但し、大和橘寺・河内野中寺の 心礎と比べると格段に粗雑・小規模で比較にはならず、後世の加工とも思われる。
本尊薬師如来坐像三尊(重文・平安後期)などを有する。薬師堂は元禄7年(1694)再建。

川崎
新明国上教
    六角三重小塔1

  同         2
  同         3
  同         4

神奈川県橘樹郡稲田村(川崎市多摩区宿河原)
入母屋造本堂の棟の中央に基壇を造り、その上に建つ。
建立年代・性格・仕様など全く情報なし。但し小型塔と推定される。RCと思われるも不明。
各重1間、初重・2重の中備には組物を置く。
新明国上教とは基本的に教派神道系と思われるも不詳。
何れにしろ、仏塔あるいは正規の塔建築からは逸脱する。

武蔵大楽寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
平成7年落慶。初重一辺2.8m、総高14m(相輪4m・塔身9m・基壇1m)。
木造檜造、端正な和様を用いる。三重は2間。
関東智山派にしては珍しく素木の塔(塔外観は近江西明寺塔婆をモデルとする。)。
屋根銅板葺。基壇一辺5.5m。
大楽寺は真言宗智山派、開山などは不明。法印智法(元文6年1741寂)の中興開山とい云う。本尊大日如来。
武蔵興禅寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同    塔本尊
  同     本堂
昭和62年建立。常陸法円寺多宝塔(758)は同型同寸という。
薬王殿と称し、本尊薬師如来。
横浜市港北区高田町1799
円瀧山と号す、仁寿3年(853)慈覚大師の開山と云う。
元応2年(1320)桃井直常(当時に領主)が再興。
本堂は文化3年(1806)建立。(本堂は改修中)
横浜孝道山二層塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     本仏殿
  同     潅仏会
仏舎利殿と称する。昭和35年落慶(仏舎利は昭和27年比叡山より向える)。
仏舎利殿は初重平面3間の二層塔形式を採る。鉄筋コンクリート製と思われる。(詳細不詳)
塔内には「仏舎利」と叡山ゆかりの「不滅の法燈」を祀るという。
孝道山は昭和11年に岡野正道によって開かれた天台法華宗 (比叡山延暦寺天台宗系)在家教団のようです。
※一般的にこの手の巨大な伽藍を構える「新興教団」は部外者を拒絶する傾向が強いが、この教団は開祖の廟所を除き、開放的です。
推測:比叡山・天台法華系ということを考慮すれば、この二層塔のプランは、平面3間ではあるが、天台多宝塔形式(天台方形大塔)を意識したものとも思われ る。勿論天台方形大塔形式であれば、初重平面方5間であるべきで、この点は「残念」と云うべきであろう。
孝道山二重塔:2006/04/09「X」氏ご提供画像
武蔵
金沢称名寺三重塔跡1
  同    三重塔跡2
  同      景観1
  同      景観2
  同      景観3
  同     仁王門

・奈良西大寺末真言律宗。金沢山と号する。文応元年(1260)開基北条実時は金沢邸内持仏堂を一寺としたのが創建と伝える。(諸説あり)
三重塔の存在が知られる。
称名寺絵図並結界記:元亨3年(1323)当時の伽藍図 、称名寺蔵
  同  三重塔部分図:部分図は2006/07/06追加
2008/02/27追加:「古図にみる日本の建築」より
称名寺絵図並結界記2:元亨3年(1323)、上掲図のカラー・高精細版
 :「埋文よこはま7」より
称名寺伽藍復元図:上記「称名寺絵図並結界図」から復元
上図(「称名寺絵図並結界記」)は称名寺3世が結界作法を行った時に作成されたもので、元亨3年の裏書を持つ。称名寺の盛時を描いたものとされる。
伽藍は楼門があり、その右手は鐘楼、中央には中島を配する池苑があり、池正面に金堂・講堂、その左右に両界堂・僧坊・三重塔・称名寺・新宮・方丈・雲堂・庫院・無常院・浴室・僧庫・地蔵院などの堂宇が配される。しかし 鎌倉幕府の滅亡、金沢北条氏没落の後、衰退する。
「鎌倉巡礼記」(寛永10年・沢庵和尚)には「・・本堂1宇有り、諸堂皆あと計なり、五重の塔も一重残りぬ。・・・」とあり、江戸初期には三重塔は初重のみを残す状態であった 。
三重塔は正応4年(1291)の建立とされる。
塔は室町期には維持されたが、上記のように寛永10年に至るまでには初重のみの状態になり、それもいつしか退転したようです。
現在の称名寺伽藍は全て江戸中後期の再建にかかるもののようです。
・2006/08/14追加:「柴田常恵写真資料」より
 称名寺本堂及ビ塔址(背面ヨリ望ム):大正末期もしくは昭和初頭の撮影か?
※大正末もしくは昭和初頭には本堂背後に中島及び塔跡が現存していたようです。
・近年、三重塔をはじめ寺域全体が発掘調査され、苑池などが復元されている。
「埋文よこはま7」では「三重塔のところでは、表土層のすぐ下がシルト岩盤層になっていて、方形のピット群が発見されました。礎石と思われる遺構も検出されました。」とある。
・三重塔写真はガイド(ボランティア)が示した位置で、「三重塔跡の石碑」がある との情報もあり、この写真の位置には「石碑」はなく、多少位置がずれていることも考えられる。

横須賀
聖徳久里浜霊園五重塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
  同           7
  同           8
  同           9
聖徳久里浜霊園と称する霊園の山頂近くに五重塔が建つ。
昭和63年(1988)建立。鉄骨および新建材(GRC・ガラス繊維強化セメント)製。 総高18m。
平賀本土寺・陸奥観音寺・土佐角茂谷五重塔・肥前本福寺と同工法。
モデルは山城海住山寺五重塔と云う。
霊園は浄土真宗東本願寺派聖徳寺管理(事業主体)と云うも、詳細は不明。
2008/04/04 陸奥應物寺跡 陸奥應物寺五重塔
階上五重塔模型 階上町庁舎模型五重塔
陸奥国見山廃寺
陸奥極楽寺二層塔
陸奥国見山廃寺 ・極楽寺二層塔
2008/04/03 青森青龍寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
1996年建立、純和様による木造塔。一辺7.28m(4間)、総高39.3m。棟梁は大室勝四郎、青森産ヒバ材を用い る、工期は1992年から1996年。心柱は5重及び3重で吊る構造と云う。屋根銅板瓦葺。
真言宗。全仏山と号する、昭和大仏。
「X氏」情報:青龍寺(昭和大仏)に問い合わせ;以前は市街地の青森市茶屋町 (昭和23年創建の青森別院)にあったが、境内地が狭かったため郊外の桑原に移転したとのこと。高野山青森別院と称する。
あるいは「昭和大仏」サイトでは、青龍寺は昭和57年創建。本寺は武蔵四ツ谷高野山真言宗真成院、高野山青森別院、青龍寺大阪道場、名古屋道場の拠点がある。
青森青龍寺五重小塔1    同         2:1/30の雛形模型と思われる。
青森青龍寺金堂:8間×8間の大堂、伝統様の木造建築。
青森青龍寺開山堂:平成17年建立。
陸奥法光寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
昭和24年建立。一辺26尺4寸(7.37m)総高3106尺(33m)の木造大型塔。承陽塔と称する。
初重:道元の分骨を安置、2重3重には五百羅漢を安置と云う。
基本的に和様の塔であるが一部唐様を混用する。
心柱は3重で吊り、従って荷重は3重梁に荷(か)け、揺れ防止として初重の梁に「枘を差し込む」構造を採るとされる。
なお以前はこの塔に昇ることが可能であったが、現在は「悪戯」がひどい為、中止しているとのこと。
法光寺は最明寺入道時頼の再興と云う。真偽は不明ながら「出逢坂」「御坊塚」の遺跡を残す。
曹洞宗。名久井岳の山麓にある。
相輪の残欠が放置されている。三重塔の相輪が老朽化し取替が行われ、その折に下に降ろされた旧相輪とも推測されるが、以上は全くの想像で実態は不明。
 法光寺相輪・九輪残欠:心柱に木製で九輪を造り、外側を銅板で覆う構造を持つ。
   同   ・伏鉢請花1     同   ・伏鉢請花2
法光寺三重塔形公衆東司
八戸塩入観音?三層建物 八戸市塩入附近に三層の三重塔様の建物がある。しかしその実態は全く不明。
塩入観音・三層建物1   塩入観音・三層建物2
 国道切通の上に塩入観音像(東)とその西の崖下のビリヤード(店舗)の屋上に三層建物が建つ。
塩入観音・三層建物3:塩入観音から西を撮影。
 塩入観音への階段途中から西に通路と簡単な門があり(施錠されている)、塩入観音と地続きとも思われる。しかし、塩入観音の関係建物かどうかは不明。 中央建物は仏堂風?。
塩入観音・三層建物4   塩入観音・三層建物5
 この建物は仏塔それも簡略な三重塔を意図した建物なのかどうかについても不明。
塔であるとしても、おそらく鉄骨構造の新建材のバラック建築と思われ、特に価値があるものではない。形は六角三層で、相輪に代えて棒を建てる。
 塩入観音:日向義孝なる人物(全く不明)の建立で平成5年建立とある。国家昌平・万民富楽・家内安全・身体健全・交通安全・海衆安穏の願文がある。また日向熊五郎・リエ(全く不明)なる人物によって石燈籠が平成16年に建立されている。
陸奥願栄寺三重小塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
昭和47年建立、特に由来はない、先代住職の建立(現住職?談)とのことで、現住は三重塔には特に関心があるとは思われない。
願栄寺本堂(と思われる)ビル屋上に三重塔がある。ビルは少なくとも5階建であり、その屋上にあるからかなりの高所に建立されている。  ※参考:武蔵応善寺三重塔がやや似た環境にある。
塔自体はビル2階の高さ位と推測されるため、総高は6〜7m位であろうか?、RC製と思われる。
各重方3間、軒は一軒並行垂木、組物は平ニツ斗(というべきか)を用いる。二重三重には勾欄を付設すると思われる。願栄寺は八戸の繁華街にあり、真宗大谷派、法照山と号す。
なお以下のWeb情報がある。:
安藤昌益の檀那寺であった。(「宗旨改組合書上申御帳」による。)
昌益は延享元年〜 2年(1744〜1745)頃、八戸城下十三日町で町医者を開業すると云われる。
明治32年三戸郡八戸願栄寺が全焼、「同寺はかつて焼失せることあり目今は仮本堂なりしも今回は庫裏仏像経巻は勿論百年伝来の宝物家具家財等に至るまで悉皆烏有に帰したる」(「東奥日報」)
2008/04/02 陸奥妙経寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
建造年不明。塔についての詳細も不詳。「蓬迎橖」の扁額を掲げる。
鉄骨製と思われる。細部をほとんど省略した粗悪な塔。基壇は吹き抜けの鉄骨構造とする。
承応元年(1652)弘前本行寺6代日住上人が現在地を拝領、法輪寺を併合し当寺を創建と云う。
法輪寺は浅瀬石城主千徳氏の祈願所として建立と云う。
 ※弘前本行寺は弘前大円寺(最勝院)五重塔の本行寺護国堂の項参照
「X」氏ご提供画像:
陸奥妙経寺三重塔11     同        12
陸奥津軽為信三重塔跡 陸奥津軽為信三重跡
陸奥蔵館大円寺二層塔 弘前大円寺(最勝院)五重塔の蔵館大円寺二層塔
陸奥弘前大円寺五重塔
(陸奥最勝院五重塔)
弘前大円寺(最勝院)五重塔

弘前「藤陣」三重塔模型
  同    五重塔模型

三重塔模型:陸奥津軽為信三重跡の当該項目
五重塔模型:弘前大円寺(最勝院)五重塔の当該項目
陸奥弘前の社寺 弘前大円寺(最勝院)五重塔のその他の社寺の項
 弘前法立寺仏舎利塔、弘前本行寺護国堂、弘前長勝寺霊屋・三門・本堂・庫裏、
 弘前藤先寺、弘前八幡宮、弘前東照権現、弘前熊野権現(熊野奥照神社)
三匝堂(栄螺堂)
 長勝寺蘭庭院栄螺堂
陸奥蓮華寺宝塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
2004年建立、永代供養塔と称する。おそらくRC製と思われる。
但し、身舎外壁は御影石を貼る、組物・軒は木造、屋根銅板葺。身舎の径約2.6m(実測)。
永仁2年(1294)日持上人、海外布教のため、北海道へ渡る途中に善知鳥村(現青森市)に至るも、悪天候のため、足止めとなり、ここに庵を結ぶ 。(以上が蓮華寺の前身とされるが、真偽は不明とも云う。)
 ※宝塔右横の石碑は「日持上人之碑」。
なお青森での日持上人の足跡は法嶺院(黒石市)、法峠寺(黒石市)、蓮華寺(青森市)を経て津軽半島外ヶ浜石崎(現在の平舘村元宇田)に到着し、ここから蝦夷に渡り、函館石崎町から中国に渡ったとされる。
近世の蓮華寺は慶安3年京都妙顕寺心玄院日住上人の開基とし、寛文4年に西1丁(現在地)に移転、貞享4年では14石余の寺禄と1町8反余の境内を有したと云う。 廣布山と号する。
青森市本町1−5−12
2008/04/01 夢の家北原五重塔 夢の家北原五重塔・同雛形
夢の家北原五重塔雛形
(出羽日吉八幡宮三重塔)
八橋山王権現三重塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
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  同        10
  同        11
  同        12
  同        13
  同        14
  同        15
  同        16
八橋山王権現三重塔扁額
八橋山王権現社殿
  同     本殿1
  同     本殿2
  同     拝殿1
  同     拝殿2
廃寿量院山門(随身門)
宝永4年(1707)頃、豪商青木平兵衛が父の菩提のために建立と云う。 嘉永7年(1854)改築。
一辺方9尺(2.72m)・九輪の先端までの高さ6丈5尺(19.5m)。和様と唐様が混在する。
屋根銅板葺。ニ重東に春日・西に住吉・南に加茂・北に鹿島の各大明神の扁額を掲げる。
三重塔14写真(南東角)で見るように、北西部も含め軒下がかなり破損している状態です。

 諸古伝では、平安期、安倍宗任(安倍頼時の息、頼時は源義家に討たれる)が比叡山で修行し、日枝山王と石清水八幡宮を勧請し、日吉山延命寺(あるいは十禅寺 あるいは山王権現)を建立したのに始まると伝える。 但し、詳細は不詳。
元亨2年(1322)笹岡(今の外旭川)に遷座。
その後、鎌倉期または室町期(応永2年1395)に上新城五十丁に遷り、さらに天正17年(1589)安東実季により飯島に遷り、社領209石余が寄進される。
元和元年(1615)佐竹義宣の久保田の町割りにより八橋の狐森(今の寺内油田)に遷される。
寛永19年(1942)雄物川氾濫で流失、寛文2年(1662)現在地(八橋本町)に再び遷座、明和年中(1764-)大火により焼失し、安永7年(1778)再建する。
明治の神仏分離では、塔初重内部の仏像仏具を取り払い、塔に四つの大明神の扁額を掲げて、偽装し破壊を免れるという。
明治14年平田篤胤(平田神社)が祀られ、後弥高神社となり、明治30年日吉八幡神社と称する。

現本殿は寛政9年(1797)・拝殿は安永7年(1778)の建築で、両殿は相の間で繋がる権現造。なお社殿内には本居宣長像が祀られたと云う。
随神門は廃寿量院(明治3年廃寺)の山門で、現在地に移築される。
寿量院:徳川家霊廟(位牌を祀る・天台宗)で、山王権現の南にあった。延亨3年(1746)久保田藩五代佐竹義峯が創建、日吉八幡神社の南にあった箱岡天満宮を現在地(菅原神社・日吉八幡神社の北西すぐ ・未見)に遷す。明治4年、天満宮社殿焼失、明治6年、廃寿量院の御霊屋を社殿として移築する。
 なお、以下の情報がある。(何れも未見)
秋田街道(風俗)絵巻:八橋山王や寿量院などが描かれていると云う。
八橋寿量院図:(付箋)秋田大病院トナリシ八橋寿量院ノ図
八橋村寿量院址東照大権現神廟拓本
寿量院附近測量図(安政6年1859)
 日吉八幡神社境内図(江戸中期)
図1 図2:「X」氏ご提供画像
出羽大龍寺二層塔1
  同        2
  同        3
  同   一層内陣
  同   二層梵鐘
建築時期不詳、秋田県男鹿市船川字鳥屋場34
二層塔は竜王殿(本堂)と称する。解脱飛龍大龍王、海蔵常安大亀を祀る。二階は鐘楼とする。
初重方3間上重方1間の形式でRC製と思われる。建築的には粗略。
永禄年中(1558〜70)密教寺院として創建と伝える。
天正5年(1577)男鹿女川の安倍基季が、台巌俊鏡を招き、曹洞宗に改宗開山、安倍氏の菩提所とする。その後、安東愛季が安倍基季を滅ぼし、大龍寺を女川から脇本城附近に移し、安東氏の祈願所とする。昭和7年、現在地(旧澤木家の別荘)に移転。
2008/03/31 陸奥多賀城廃寺心礎1
  同       心礎2
  同       心礎3
  同       心礎4
  同       心礎5
  同     塔礎石1
  同     塔礎石2
  同  塔復元基壇1
  同  塔復元基壇2
  同     金堂跡1
  同     金堂跡2
  同     金堂跡3
  同     講堂跡
  同   伽藍配置図
多賀城は、奈良期に陸奥国府及び鎮守府として造営、それ以後中世まで国府として機能する。
多賀城廃寺は、多賀城跡の東南約1kmに位置する低い丘陵上(字高崎)に立地する。
昭和37、38年発掘調査。
門と講堂は廻廊で結ばれ、その中は東に塔、西に金堂(5間4間)が配置され、対面する伽藍配置と判明。この伽藍配置は大宰府観世音寺との類似性が指摘される。
多賀城廃寺塔模型(東北歴史資料館)
陸奥多賀城廃寺塔跡:「仏教考古学講座 第2巻 寺院」石田茂作館宗監修 雄山閣 1984年より
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、大きさは181×121cm、径59.4×29.7cmの円孔を彫る。白鳳
2006/08/13追加:「柴田常恵写真資料」より
大正もしくは昭和初頭撮影か?
  高崎東寺跡塔臺心礎  高崎東寺臺礎石ノ南半  高崎東寺臺礎石ノ北半
「日本の木造塔跡」:塔跡は高さ1mの土壇上に、高さ1.36m・一辺11余の壇上積基壇(延石・葛石なし)を造る。心礎・四天柱礎・脇柱礎が完存する。
心礎は1.7×1,2mで、径64/59cm×12/9cmの円穴を彫る。塔一辺は6.23m。中央間と脇間は等間隔とする。
陸奥東園寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同     塔本尊
昭和52年(1977)建立。鉄筋コンクリート製。高さ16m。シンガポール華厳精舎釈廣義師より贈られた仏舎利を安置する為に建立される。 三重塔ではあるが、建築としては粗悪。
東園寺は延宝年中(1673-)頃、蛮渓東廣禅師によって中興と伝える。また近世初頭の曹源によって伽藍が整備されると云う。
慶応3年、塩釜大火により伽藍焼失、法連寺(明治維新で廃寺)護摩堂を受譲、本堂兼庫裏となす。
その後、伽藍を順次復興する。臨済宗妙心寺派。
陸奥龍宝寺多宝塔 陸奥大崎八幡別当龍宝寺
 ※附:仙台東照宮
陸奥輪王寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同  仏舎利塔1
  同  仏舎利塔2
  同    仁王門
昭和56年(1981)建立。鉄筋コンクリート製。 開山五百回大遠忌を記念して建立。総高22.6m。
基本的には和様の意匠ながら、組物は出組を用いる。軒は二重繁垂木。
金剛宝山と号する。曹洞宗。
嘉吉元年(1441)蘭庭明玉禅尼(伊達九代政宗室)の御願により、伊達11代持宗が梁川に創建する。その後輪王寺は、伊達氏の居城変遷とともに六遷し、現在地には伊達17代正宗の時・慶長7年(1602)に遷る。
伊達氏の居城は、梁川・西山・米沢・会津・岩出山・仙台と変遷し、輪王寺も伊達氏と共に移転を繰り返す。
明治九年、野火に類焼し、仁王門(八脚門・元禄4年1691)のみを残して、灰燼に帰す。
仏舎利塔については概要も不明。
「N」氏ご提供画像:
 陸奥輪王寺三重塔
陸奥孝勝寺五重塔 陸奥孝勝寺
陸奥国分寺跡及び多宝塔 陸奥国分寺
2008/03/21 尾張岩屋寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     経蔵
昭和48年(1973)建立。RC製。細部は省略。その他は不詳。
寺伝では霊亀元年(715年)元正天皇勅願、行基によって創建と伝える。大同3年(808)弘法大師来山。
文化年間(1804〜18)豪潮により再興、尾張徳川家の祈願所となり、12坊を有する。
昭和24年天台宗から独立、尾張高野山宗を称する。
尾張正法寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和50年建立。RC製。多宝塔形式の外観を持つ本堂と推測される。その他詳細は不詳。
天台宗。大悲山と号する。近年諸堂が焼失したが、ほぼ再建されたようです。天福元年(1233)天台僧徹円阿闇梨の創建で、鎌倉期の武将鎌田兵衛正清念持仏であった毘沙門天(本尊)を祀るという。寺地は鎌田氏の館跡と伝える。
尾張法通寺二層塔1
  同        2
  同        3
  同        4
建立年代不明、下重は漆喰塗り、上重は1間で組物は雲形肘木を用いる、木造塔と思われる。
高い石積基壇に建ち、一辺は不明ながら、小型塔。納骨堂の機能を持つとの説あり。
浄土真宗大谷派。
尾張法海寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同   仁王門
  同  境内・本堂
  同   吉祥院
  同   大乗院
  同   常光院
・「幻の塔を求めて西東」:2重円孔式、139×84×42cm、径73×2/3cmと4.5×7.5cmの孔がある。損傷しているのを復元すると、大きさは165×160cm、白鳳期。
・「日本の木造塔跡」:大きさは1・3m×90cm×42cm、環状排水溝を持つ。溝の外側径は72cm。内側径は64cmで、巾4/3.3cm深さ約3cmの環状溝を持つ。この環状溝の内に径45cm深さ9cmの円孔がある。要するに甚目寺式心礎から舞木廃寺心礎へ移行する心礎形式と解釈するのが一番妥当性があるであろう。
 ※心礎は原位置より移動のため、塔跡は究め難い。なお寺本とはこの地の通称と云う。
・2008/08/30追加:柴田常恵写真資料:大正末期から昭和初期の撮影
 尾張寺本廃寺心礎
・2007/12/14追加:
「奈良朝以前寺院址の研究」たなかしげひさ、白川書院, 1978.8 より
 尾張法海寺心礎実測図:心礎形式は甚目寺式心礎から舞木廃寺心礎への移行形式であろうとする。この見解は「日本の木造塔跡」の見解へ引継がれる。
・法海寺は天台宗薬王山と号す。新羅国明信王の太子道行上人を開祖、靭尊和尚を開山と伝える。出土瓦では白鳳・奈良・平安期のものが出土と云う。現在は本堂(平成5年改築)、庚申堂、十王堂(慶長12年・1607建立)、弥陀堂、鐘楼堂、愛染堂、仁王門(寛文6年・1666建立)などと、 一山12坊と云われた内の大乗院、吉祥院、常光院を残す。
2008/03/13 摂津住吉神宮寺 訪問写真掲載並びに住吉神宮寺・阿波切幡寺関係記事大幅追加。
摂津住吉神宮寺・阿波切幡寺
河内渋川廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.7m×98cm×83cm(一部欠損あり)、上に径94cmの薄い柱座を造り出し、その中央に径54−51cm深さ15cmの孔があり、さらにその中央を少し外れて径9cm深さ3.7cmの 小孔(舎利孔)を穿孔する。
※心礎は現在地元渋川植松の旧家(林八一郎氏邸)にある。
JR八尾駅北側の線路沿西300mくらいに渋川天神社がある。この神社の南西の地は、白鳳時代に渋川寺のあったところとされ、昭和10年ごろ龍華操車場開設工事のとき、多数の単弁八葉や忍冬唐草紋の瓦及び塔心礎が出土したという。現在この神社に以上の主旨を標した顕彰石板が建てられています。当然 現状地上には、寺跡を偲ぶものは何もありません。
 河内渋川廃寺址碑
 河内渋川廃寺跡:渋川天神社から南西 (渋川廃寺があったとされる方面)を撮影。
2005/10/29追加:「佛教考古學論攷4」より
 河内寶積寺心礎
2008/02/16
「X」氏ご提供
(東小平中山廃寺)

武蔵中山廃寺心礎
 同    復元塔跡
 同    発掘塔跡
 同    塔跡実測図
:児玉町大字東小平字中山から出土、本庄市児玉総合運動公園に復元。
 ※復元塔跡は武蔵成身院の西すぐ、武蔵成身院百体観音堂(三匝堂)の北東すぐにあるようです。
平成15年の児玉町総合運動公園造成工事の先行発掘調査で判明する。
塔跡では塔土壇および原位置を保つ心礎・四天柱礎石3個、脇柱礎石4個が発掘される。
初重1辺は3m。柱間は等間と思われる。心礎は一段式、大きさは115×105cm、上面に径25×深さ15cmの円孔を穿つ。(寸法は「X」氏による)
出土瓦から奈良期後期の創建と推定される。
なおこの塔跡は出土地から若干移動させて復元されているようです。
その他金堂(仏堂)跡・講堂跡などが検出されたようですが詳細は不詳。
写真:発掘塔跡、塔跡実測図あ現地説明板から転載
2008/02/28 大和本薬師寺 再訪、本薬師寺東塔心礎写真撮影目的
大和本薬師寺
大和和田廃寺塔土壇11
  同       土壇12
  同       土壇13
  同       土壇14
  同    土壇・礎石
再訪、
土壇11・12の背景の山は畝傍山
礎石は土壇上面には3個露出、礎石かどうか不明ですが北側土壇立ち上り面に1個の礎石様の石がある。
橿原考古研展示礎石1
  同         2
  同         3
橿原考古学研究所付属博物館に礎石4個の展示がある。内1個は心礎様礎石(礎石1と2)で、あとの3個はかなり破損している礎石もあるが、いずれも柱座を造り出す礎石(礎石3)である。
これらの礎石についての橿原考古学研究所説明:
出所は不明(研究所は何度か移転したこともあり、寄贈された礎石なのか発掘して展示している礎石なのかは今では全て不明、当然出所・由来なども不明、但し、形式上白鳳期の礎石と推定される。)
・心礎様礎石(礎石1および2):大きさは100×70cm、経25×深さ10cmの円錐形の孔がある。
表面は明らかに削平されといる。しかしその大きさ(古代寺院の心礎としては小さすぎるであろう)や孔の形状(円孔ではなく、円錐形に近い)や表面の削平や孔の穿孔が後世の ものである可能性もあり、心礎である可能性は非常に少ないであろうと思われる。また研究所説明のように心礎であることは勿論、礎石である確証もない。
2008/02/10
「X」氏ご提供
尾張光円寺三重塔1
  同        2
平成19年建立、規模は不詳、伝統様の正規の木造建築と思われる。
本尊;阿弥陀如来
中川区富田町万場、臥龍山と号す。元は天台宗、医王山瑠璃光院薬師寺と号するも、嘉禄元年(1225)一向宗(現大谷派)に転宗すると云う。
2008/02/05 備中栢寺廃寺五重石塔
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同     心礎4
  同     心礎5
  同   復元塔跡
  同   復元塔跡2
  同    塔礎石1
  同    塔礎石2
  同    塔礎石3
  同    塔礎石4
  同  門満寺山門
  同   復元塔跡3
  同  復元塔跡図
  同 塔基壇地覆石
       :(北東部)
 
(賀夜廃寺、加夜廃寺、南溝手廃寺)
「幻の塔を求めて西東」:賀陽山門満寺、大きさは220×220cm。
2007/04/25追加:「吉備の古代寺院」から
 栢寺廃寺心礎実測図
五重石塔の下に移動した心礎があり、その周囲に礎石がある。
心礎は2段式で、舎利孔は長方形の形を呈する。
現在心礎表面を観察することは不可ですが、上図によれば、径50cm内外の深さ25cm程度のやや上面に比べて底径の小さい円孔とその底に長方形の舎利孔を穿つようです。
2007/04/25追加:「岡山の宗教」から
 備中門満寺:通称「加夜寺」と呼ばれる、浄土宗、境内に巨大な礎石が散在、附近に賀陽氏の館跡があり、また寺伝で加夜寺と云う。現在無住で荒廃が著しい。
2007/04/25追加:「岡山の遺跡めぐり」から
 南から見た門満寺:現在荒廃の激しい加陽山門満寺を望む。
 門 満 寺 礎 石:荒れた境内には円形造り出しのある4個の礎石が五層の石塔を囲む、周囲および寺の裏には多くの瓦片が見られる。
2008/02/18追加:
「岡山県史 第18巻 考古資料」昭和61年より
昭和52・53年に発掘調査、塔の位置と規模が判明する。塔跡は削平を受けるも、堀込地業と地覆石が残存し、基壇化粧・階段位置などは不明ながら、塔の規模は一辺43尺(12.9m)と判明する。但し金堂・講堂などの遺構は不明。
基壇中央には3.5×4.8mの心礎抜取穴があった。台座となる心礎の大きさは2.3×2.4×高さ2.4m強を測る。
礎石は全て動かされていて、塔心礎及び四天柱礎石と推定される礎石は塔基壇西にある。
近年塔基壇の復元がなされ、四天柱礎石及び南東及び南西隅の礎石は境内に残存していた礎石が充当され、残余の礎石は複製され復元が図られる。
出土瓦から白鳳期の寺院とされ、この地は賀夜郡に属し、また字が「栢寺元」と称するため、吉備の古代豪族賀夜の氏寺であろうと推定される。
後世、この寺跡には浄土宗門満寺が建立され、近年まで本堂・開山堂・鐘楼などが存在したが、無住となりそれらは取壊され、現在は山門といくつかの石碑・石造五重塔・塔心礎なみが残る。
 栢寺廃寺塔基壇発掘図

心礎の円孔・舎利孔以外に長方形の穴が彫られているがこれは台石に転用した時などの加工であろう。
復元塔跡図:近年塔跡はこの図のように復元され、復元礎石を含め19個の礎石が置かれる。

備前吉備津彦神社 備前吉備津彦神社
備前蓮昌寺塔の山 備前蓮昌寺
2008/02/01 備前曹源寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同      三門
  同      仏殿
再訪
一辺3.98m。組物には和様と禅宗様が混在する。
曹源寺は元禄11年(1698)2代藩主池田綱政が祖父信輝と父光政の菩提と自らの冥福のため創建。
臨済宗妙心寺派。参道より総門・三門・仏殿を一直線に配す。仏殿右に鐘楼・左に鼓楼、鼓楼奥に経蔵、経蔵背後に開山塔(開山堂)がある。さらに仏殿右に方丈、方丈奥に池泉回遊式庭園がある。仏殿の奥は岡山藩主池田家墓所とする。墓所向かって左奥の丘陵中腹に三重塔がある。三重塔への道は荒れ、塔 周囲には厳重な柵がある。
本堂:安永9年(1780)焼失、現文政7年(1824)再興。桁行7間、梁間6間、重層、入母屋造、本瓦葺の大建築。
三門:五間三戸の楼門、入母屋造、本瓦葺、創建時の建物とされる。
往時はおそらく宗教政策上と思われるが、浄土宗清光院、日蓮宗大光院(現存)、臨済宗長泉院、天台宗玉泉院(現存)、真言宗光明院の塔頭を配する。
備前大光院 大覚大僧正開基寺院
備前禅光寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同    仁王門1
  同    仁王門2
  同 (安住院)本堂
  同 (安住院)伽藍
  同     普門院
再訪
一辺5.68m、高さ19m。(あるいは総高20mとも云う)
本尊:金剛界大日如来座像。
修理棟札のより以下修復:文化10年(1843)、明治15年、明治39年、大正15年、昭和36年。
現在解体修理中、平成22年完工予定。
本堂:慶長6年(1601)新造(棟札)。当初建立場所は現在地の南方数十mと云う。(現在は古観音堂<小宇>が建立されている歴代墓所のある附近と云う。)寛政12年(1800)現在地 (寺中安住院)に移築。桁行6間、梁間5間、入母屋造、本瓦葺。
仁王門:康生2年(1456)建立(仁王堂造営奉加控帳)。延宝4年(1676)修理大改造(棟札)。
三間一戸の楼門、入母屋造、本瓦葺。
 ※多宝塔写真は解体修理中写真
備前蓮昌寺 備前蓮昌寺を参照
2008/01/31 備中明王院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同     仁王門
  同      本堂
再訪。
多宝塔設計:近藤豊工学博士、施工:金剛組。
この地は六条院と称する。これは平忠盛が、この地を白河法皇縁の六条院に寄進(後に長講堂領、八条院領へと繫がる)したことに由来する。
明王院は最澄が入唐の帰路立ち寄り、慈覚大師が開山したと伝える。
寛文(1666)池田光政、岡山藩の寺院淘汰を断行。(日蓮宗379ヶ寺中348ヶ寺、真言宗401ヶ寺中183ヶ寺、天台宗148ヶ寺中102ヶ寺などを棄却、不受不施派の弾圧と儒教思想による藩政の実現などがその根底にあったとされる。)しかしながら、上野寛永寺末備前金山寺は幕府に光政を提訴、上野寛永寺門跡の政治力もあり、幕府は天台宗備前棄却寺院35ヶ寺は金山寺、備中棄却19ヶ寺は明王院に返還するように命ずる。
延宝4年(1676)に東叡山輪王寺(寛永寺門跡)の末寺となる。
本堂、大仙堂(地蔵堂)・・写真8の相輪のある堂、不動堂など多くの堂宇が建立される。
備中遍照院三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同      相輪
  同      本堂
再訪。
三重塔周囲の工事用塀は塔修理用ではなく、本堂新築工事中の塔防御用と思われる。(本堂新築工事はほぼ完工)
備中
北斗山宝積院妙見宮
妙見菩薩・妙見信仰

過去の訪問塔婆履歴