陸 奥 津 軽 為 信 三 重 塔 跡

陸奥津軽為信三重塔跡(陸奥本町塔の前塔跡)・弘前「藤陣」三重塔模型

津軽為信三重塔跡付近から見る津軽岩木山:左図拡大図

陸奥津軽為信三重塔跡(陸奥本町塔の前塔跡):南津軽郡平賀町本町

2008/03/07、2008/03/20、2008/04/16更新:
平賀駅西の本町「塔の前」と通称されるところに、三重塔土壇と礎石が残存する。
(この附近には大日堂が あったと云われ、礎石が散在していたが、尾上町蓮乗院に運ばれ、堂跡も削平されたと云う。但し礎石2個は蓮乗院から返還され、平賀町文化センターに保存とも云う。)
この塔は津軽為信が息女・富の供養のため建立したと伝える。
慶長4年(1599)津軽為信(1550〜1607)、息女・富に左馬之助建広(鎌倉の浪人)を婿に迎え、慶長6年大光寺城(所領1万石)に配置する。
慶長8年(1603)富姫病没。
慶長10年、津軽為信、富姫供養のため三重塔を建立。
寛永7年(1630)<寛永10年の説もある)三重塔、雷火により焼失と云う。(※焼失した痕跡がないと云う説もある。)
その後、本町村船水伴右衛門が祠堂を建立、薬師如来を祀る。さらに、近年まで、川原家建立の祠があった。
平成15年、「富姫四百遠忌供養」石碑が地元関係者によって、建立される。
 本町は北方の大光寺城の城下として形成されたと考えられ、ここには大光寺城の「押え」として寺院(大日堂あるいは薬師堂ともいわれる)があったとされる。なおこの地は天和4年の絵図では「長36間横42間」の丘陵であったと 云う。
以上が、津軽為信三重塔(陸奥本町塔の前塔跡)の概要である。

津軽為信三重塔跡

津軽為信三重塔土壇1;左図拡大図:南東から撮影
  同      土壇2:北から撮影
  同     塔礎石1:南西から撮影
  同     塔礎石2:北西から撮影
  同     塔礎石3:北東から撮影
  同     塔礎石4:北脇柱礎石
  同     塔礎石5:西脇柱礎石
  同     塔礎石6:北東隅礎石
  同     塔礎石7:左は東脇柱礎石、右の碑の前の礎石は四天柱礎石
  同     塔礎石8:碑の前中央は四天柱礎石、東から撮影

●津軽為信三重塔跡礎石概要図(平面)

四天柱礎石2個(2個は不明)及び脇柱12個(北東隅は少し動く)が土壇上に残存する。
礎石はすべて表面を粗く平面化した自然石を使用する。
※「富姫四百遠忌供養」碑の東に1個の礎石と思われる石が立てて置かれ、この石は1個の四天柱礎石の可能性があると思われる。

心礎は、心礎位置に「富姫四百遠忌供養」碑の建立のため不明なるも、おそらく心礎は存在しなかったものと思われる。
※「富姫四百遠忌供養」碑の建立にあたっては、土壇したとか遺跡に関係ない場所に建立すべきで、このことは配慮を欠いた工事であったであろう。

塔中央間は約2m、両脇間は約1.6m(芯芯間)を測る。(実測)
これによれば、塔一辺は凡そ6m強の大型の平面を持つ三重塔と推測される。

  図は目測で書いたもので、あくまで概要図です。

弘前「藤陣」三重塔模型

Web情報(http://blog.goo.ne.jp/tom33aa/m/200609)として以下がある。
「弘前に日本料理店「藤陣」がある。
玄関脇に大円寺(最勝院)五重塔模型、宴会場の床の間に「三重塔」模型、玄関正面に大円寺山門の模型がある。
さらに、以下の藤先寺住職の談があると云う。
「『平賀大光寺にあった時には三重塔があった。後に、この三重塔が大円寺に移され、その上に2層を加えて五重塔に改築された。(解体修理で、その形跡は確認された。)』」
 (※地元<本町か大光寺なのかは不明>にも、類似の言い伝えがあると云う。)
  ※大円寺(最勝院)五重塔を参照

弘前「藤陣」の五重塔・三重塔・大円寺山門模型は「豊山」作と云う。
五重塔模型は昭和57年5月の完成と思われ、号「豊山」(成田豊太郎氏)はこの時齢70と思われる。
三重塔・大円寺山門模型もこの前後の完成と推測される。

上記の「三重塔」模型は「藤先寺三重塔」もしくは津軽為信三重塔を意識したものとも思われる。
しかし藤先寺住職談の内容についての真偽は定かではない。

弘前「藤陣」三重塔模型:「豊山」作

弘前「藤陣」三重塔模型1
  同           2
  同           3:左図拡大図
  同           4
  同           5
  同           6

「豊山」氏は「藤陣」の親戚筋で、今(2008年)は他界している。
また「豊山」氏は宮大工ではなくて、趣味でこれ等を作成した。
弘前「藤陣」三重塔模型のモデルが何であったかは承知していない。
(以上「藤陣」女将の談)

組物については唐様の印象が濃厚に残る模型であろう。
 

 陸奥藤先寺略歴:曹洞宗
天正元年(1573)藤崎村にて創建。「曹洞宗諸寺院縁起志」
あるいは、開基は大浦(津軽)為則(為信は娘・戌姫の婿)の息五郎(法名空春藤公)・六郎 (法名達叟先公)兄弟とし、寺号は両人の法名から1字を採る。「長勝寺並寺院開山世代調」
五郎・六郎は藤崎城主・戌姫の弟であり、両人は水死と云う。
慶長年中(1696-)藤先寺は大光寺村(平賀)に移転、津軽為信30石を寄進する。
慶長8年、冨姫(津軽為信娘・大光寺城主津軽建広の室)が没すると、当寺を位牌所とし、さらに7石を寄進する。「曹洞宗諸寺院縁起志」
慶長17年、大光寺より弘前(西茂森町禅林街)に移転する。(藤崎から弘前に移ったという史料もある。)
大光寺城:11世紀初期〜17世紀初頭の長期間にわたって城郭として存続した。戦国期は南部氏の家臣が入り、天正3年(1575)津軽氏によって落城、以降津軽氏が支配する。
慶長15年(1610)大光寺城は破壊、石材建材等は弘前城築城に転用される。
  参考:弘前西茂森藤先寺

 以上のように、津軽為信三重塔(陸奥本町塔の前塔跡)は南津軽郡本町に所在し、藤先寺は南津軽郡大光寺に所在した。
つまり両者は近くではあるが、その所在地(村)は明らかに同一ではない。
即ち、津軽為信三重塔とは別に藤先寺三重塔があり、近世初頭にはこの地附近に2塔が並び立っていた可能性はあるが、2塔があったかどうかは良く分からない。
1塔しか存在しなかったとすれば、津軽為信三重塔と伝承 (あったとい云うところの)藤先寺三重塔はどのような関係なのか。
津軽為信三重塔及び藤先寺は津軽為信・同娘の冨と密接な関係があり、津軽為信三重塔は藤先寺 の管理であったことも考えられ、もしそうであれば、津軽為信三重塔と伝承藤先寺三重塔は同一の塔として語られる必然があったとも思われる。
あるいは津軽為信三重塔は藤先寺三重塔として認識されていた可能性は大いにあると思われる。


2008/04/16作成:2008/04/16更新:ホームページ日本の塔婆