以下は「徳島鳴門長谷寺」のサイト
、「長谷寺かわら版 百日紅 Vol.44」などより要約。
阿波豊山長谷寺(撫養町木津)に毘沙門堂があり、この堂は三重塔(未完)初重と云い、さらにこの毘沙門堂に三重塔完成模型を安置と云う。
★阿波長谷寺三重塔初重<未完三重塔>
三重塔の略歴については僅かに以下が知られる。
文政7年(1824)住持曇柔、三重宝塔建立願、文政10年(1827)宝塔建立許可。
勧進が開始されるも、難渋しかつ幕末の世情もあり、初重のみ建築されると云う。
※安政三年「宝塔金銀元銀并ニ納方出方扣」(勧進・資金元帳)が残存する。<未見>
安政4年(1857)三重塔初層成る。
※以降工事は進捗せず。資金難に加え、幕末あるいは神仏分離(廃仏)と云う世情の混乱などによる。
※宝塔初重は毘沙門堂に転用(時期・経緯などは不明)。
◇三重塔初重(毘沙門堂)の現況:
平面 :平面方三間(採寸は実施せず。但し印象的には中型の塔の規模と思われる)で、中央間と脇間は等間と思われる。
基礎 :花崗岩(推測)製の精美な切石で基壇状の基礎を築き、その石製基礎上に土台を置き、土台上に柱を建てると思われる。
縁 :切目縁を三方(北・東・南)に廻す。背面(西)には縁は設けない。
軸部 :柱は円柱。地覆長押、切目長押、腰貫、内法長押、頭貫、台輪で結合する。禅宗様木鼻を使用する。
※以上、和様を基本とし、一部禅宗様を採り入れた建築であろう。
斗栱 :出組を用いる、禅宗様の装飾を使用する。
※斗栱は堂内安置の完成模型(下記完成模型塔参照)のような禅宗様三手先ではなく、また木割も若干不釣合いに細いと思われる。
以上から、この斗栱は当初意図した塔建築の仕様ではなく、初重に宝形屋根を架けるための「暫定的な斗栱」とも思われる。
中備 :各間には装飾的な刳抜蟇股を置く。
軒 :二重並行繁垂木とする。また通肘木から一手先丸桁に支輪を上げる。
柱間装置 :正面(東)中央間は桟唐戸・両脇間は火頭窓、南面及び北面中央間は桟坂戸・両脇間は板壁とする。
(西面は未確認(全て板壁か))
屋根 :現状は宝形造・本瓦葺。
階段 :正面(東)に切石の7段の石階を付設する。
さらに旧観音堂・金毘羅権現に至る石階の踊場から、左記石階に続く5段の石階も付設する。
区画 :毘沙門堂三面には(重要な堂塔を区画するのに相応しい)重厚な花崗岩製の石塀(擬宝珠・大型の石板には刳抜あり)を廻らす。
※以上、外観では斗栱を除き、塔建築としての面影は充分に残るものと思われる。
斗栱に関しては、未完である周防松崎天神、出雲千手院、伊勢神戸観音寺の初重、あるいは塔残欠である大和安楽寺以下の初重(但し、多宝塔の初重は除く)に見られるような層塔の斗栱を組上げる段階に至っていなかったと思われる。
★阿波長谷寺三重塔完成模型
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三重塔完成模型:毘沙門堂内に安置
※堂外からの撮影のため、写真は不鮮明です。(失礼を致しました。)
長谷寺三重塔完成模型1
同 2
同 3:左図拡大図
同 4
同 5
同 6
不鮮明ながら、以下が判明する。
初重縁には擬宝珠勾欄を廻す。
各重とも軸部結合材は貫を使用せず、全て長押を使用するも、斗栱は純粋な禅宗様を用いる。
※この点では、毘沙門堂の仕様とこの完成模型の仕様とでは相違する。
また各重とも方三間とする。屋根本瓦葺。
○毘沙門堂本尊 |
★阿波名所図会:文化9年(1812)刊
次の絵図・記事が知られる。
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阿波名所圖會・木津上浦:左図拡大図 木津上浦(こつかみうら)
板野郡にあり。むかしは海辺にて勝景の地ときこえし。今なほ入江存す。
木津上山(こつかみやま)の金毘羅権現は、別当長谷寺なり。
毎年十月十日の祭事には、近国より相撲あつまりて、賑ふ事おほかたならず
木津上のうらにとしへてよる浪もおなじ所にかへるなりける 管家
※街道(撫養街道)に面して仁王門があり、仁王門左(東)に「てうこく寺」がある。
「長谷寺」には客殿・庫裏・薬師堂などと思われる堂宇が並ぶ。
仁王門からまっすぐに広い石階の参道があり「かんおん堂」に至る、さらに左(東)に相撲場(土俵)があり、「こんぴら社」に至る。 |
要するに、
豊山長谷寺は木津上浦に伽藍を構え、木津上山及びその山麓を伽藍地とし、観音堂と金毘羅社を主要堂宇とする寺院であったことが知られる。
現長谷寺・金毘羅権現配置図:現在の長谷寺及び長谷寺金毘羅権現の配置概要
★阿波長谷寺略歴
文明12年(1480)船戸左衛門尉次正(細川氏の被官と云う)木津江寺(後に長谷寺)を創建、本尊は大和長谷寺から長谷観音と同木の像を授与されると伝える。
戦国期には三好氏より寺領13貫文を与えられ、末寺7ケ寺と云う。
※「阿州三好記並寺立屋敷割次第」では(時期は不詳ながら)「客殿・庫裏・取次・玄関(唐破風造)・鐘撞堂・護摩堂・下坊主屋敷・奥座敷・土蔵・観音堂・金毘羅堂・御供堂・仁王門・表門・裏門」があり、寺立は南向、屋敷1町7反とする。
その後、戦乱で堂宇は焼失と考えられる。
慶長3年(1598)蜂須賀氏、寺領10石を付与、駅路寺に指定。
慶長6年(1601)撫養城主益田大膳、観音堂・金毘羅権現・本堂などを再建。
※金毘羅権現は慶長6年勧請とされる(社伝)。
寛文11年(1671)本堂(方丈・昭和60年取壊か?)再建。
元禄元年(1688)薬師堂建立。
宝暦4年(1754)金毘羅権現社再建。
安永5年(1776)鐘楼再建。もとは毘沙門堂の東側にあった。現鐘楼はこれを移築と云う。
文正7年(1824)住持曇柔、三重宝塔建立願、文政10年(1827)宝塔建立許可。
安政4年(1857)三重塔初層完成。
明治元年、神仏分離の処置で長谷寺から金毘羅権現が分離、観音堂・仁王門・鐘楼などの建っている土地は、金毘羅神社とされる。
※長谷寺における神仏分離の詳細は不詳(資料未見)ながら、長谷寺金毘羅権現が突如意図的に「金毘羅神社」とされ、強制的に分離させられたものと類推される。但し長谷寺はさすがに廃寺とは出来なかったものと思われる。しかし長谷寺の寺地は仁王門左の屋敷(方丈・玄関・客殿など)に限定され、仁王門から参道周囲および金毘羅権現社一帯が不条理にも「神社」の所有とされる。なお幸いにも、「神社」境内の観音堂・鐘楼・仁王門なども取壊されず、存続する。
明治22年観音堂移転(現観音堂の南・撫養街道に面した位置に移建)。
明治42年鐘楼移転(毘沙門堂の東側にあり)
昭和9年観音堂を現在地に移転する。
昭和61年新本堂落慶、旧本堂(方丈)と薬師堂(大師堂)は解体する。
※仁王門は神社で登記のため、今も神社の所有。(仁王門は元地と思われる位置に現存する。)
阿波長谷寺観音堂1:6間×4間、但し正面及び側面は1間の吹き放ちの間とする。
同 観音堂2:背面(北)の一段上に毘沙門堂がある。
同 推定観音堂跡:中央に青のビニールシートがあり、これは相撲場(土俵)を覆うものと云う。
同 推定観音堂参道:古いものかどうかは不明ながら、参道から斜めに分岐して観音堂跡に至る。
長谷寺金毘羅権現本社 同 拝殿
同 観音堂参道:仁王門から観音堂に至る石階(参道)、大きさあるいは造りの精度などから見て、かっての信仰の篤さが偲ばれる。
同 仁王門1:今も金毘羅神社所有と云う。平成元年修理完工。
同 仁王門2:仁王像は無く(仁王像は観音堂安置と云う)、両脇間は板張りとして隠蔽する。
同 本堂:RC造、昭和61年落慶本堂。
同 玄関:寛文11年建立の方丈(旧本堂)は解体されるも、玄関は残されたものと思われる。
○参考:木津の地名考
徳島県立図書館:「郷土研究発表会紀要第34号」の<6.「郡頭」と「木津」>などを要約
、以下のように述べられる。
現鳴門市撫養町木津は、平安中期に「こつかみの浦」と呼ばれる。
※「後拾遺和歌集」の藤原基房、長元2年(1029)作、「こつかみの浦に年経てよる波も、同じ所に帰るなりけり」
現在、鳴門市には、通称名として、「木津神(こつがみ)橋」・「木津神地区」・「木津神小学校」などが用いられる。
では、「こつかみの浦」の「こつ」の原義は何であろうか。おそらく原義は「川津」であろう。すなわち、「カハ(かわ)ツ」→「コホ(こう)ツ」→「コツ」の変化である。
では、この地は何故「こつかみの浦」と呼ばれたのであろうか。
「阿波名所図絵」(文化8年1811)では「木津上の浦」と記載する。
「板野郡誌」では、撫養町南浜の字「馬目木(うまめぎ)」付近一帯を「木津神浦」と通称すると解説する。
ここでの地名「馬目木」の由来は、当地にある市杵島姫神社境内の巨岩に根をおろした神木「ウマメガシ」にあると推察される。またこの地古老は、往時、この付近が潮入り川の岸辺であり、この岩に波がうち寄せていたと伝承する。
即ち、撫養町木津は、古代、南海道の最大難所である「阿波の門(と)」(鳴門海峡)への発着点であった。
木津山の急崖が水辺にせまる港口で、ただ一ケ所突出した岩礁に市杵島姫神は鎮座し、この神は航海安全の神として祭祀されたのであろう。要するに、この神は、木津を舟出しあるいは着船した旅人・船乗の神であった。
以上から、「こつかみの浦」の原義は、海上の守神、市杵島姫神の奉祭に由来するものなのであろう。
したがって、その訓みは、当初から「こつ神(ガミ)の浦」であると推定され、その原義は、「川津の神のいます聖水域」といったものであろう。
平安時代の歌枕「こつがみの浦」は、鎌倉初期に、地名「紀津(きつ(づ))」と変化する。
※初見:「南海流浪記」(紀伊高野山道範)建長元年(1249)の記事
「同九日、引田ヲ立チ、阿波ノ大坂ヲ越エテ紀津ニ至ル、路六里。即日酉ノ始メ、舟ニ乗リ、牟野口ニ渡リ、福良ニツク、海路四里。」
「こつがみの浦」から「紀津(きつ(づ))」への変化は、おそらく、「木津(こつ)」と表記したのを「木津(きつ(づ))」と訓んだためと思われる。
古代から中世を通じて、川津の「木津」は、本土畿内への要港であり続けた。
しかし近世初頭には、沖積地帯の発達にともない木津川が変化し、文字どおり「川津」である木津よりも、「海津」である撫養町岡崎が本土畿内への要港となっていった。
天正19年(1591)蜂須賀氏は木津に置いていた水師「岡崎十人衆」を、撫養町岡崎に移転したことがこれを象徴する。
2008/05/04作成:2008/05/04更新:ホームページ、日本の塔婆
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