最近訪問した塔婆・ご提供画像(2006/04/19〜2006/07/15)

過去の訪問塔婆履歴

2006/07/15
「愚禿」様
ご提供画像
但馬妙見三重塔 但馬妙見三重塔:但馬妙見三重塔のページを参照。
陸奥孝勝寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
2003/07/29撮影画像
富貴寺三重塔初重 富貴寺三重塔初重:現法隆寺羅漢堂:富貴寺塔初重のページを参照。2002/07月夕刻撮影画像。
2006/06/17 東大寺東塔跡
東大寺西塔跡
東大寺東塔心礎
東大寺戒壇院多宝塔
古河館七重塔相輪
東大寺東西塔伽藍模型
東大寺天地院跡
東大寺諸伽藍
詳しくは「大和東大寺」の各項を参照ください。
春日東西塔跡
興福寺大乗院跡
興福寺寺中跡など
詳しくは「大和興福寺」の各項を参照ください。
元興寺五重塔跡 詳しくは「大和元興寺」のページを参照ください。
2006/05/15 武蔵妙行寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和35年建立。コンクリート製。施主は信徒の佐々木詩郎・晴子夫妻と記録されていると云う。
一辺4m、総高約13mで大型の印象です。残念ながらコンクリート製の故に風格を欠き、姿も鈍重な印象は否めません。
長徳山と号す。法華宗陣門流。寛永元年(1624)日善上人により江戸赤坂の地に創建。2回の移転の後、寛文5年(1665)四谷に移転、明治42年(1909)現地に移転。
「東海道四谷怪談」(鶴屋南北)のお岩の墓所。田宮伊右衛門・お岩は当寺の檀家であったと伝える。東京都豊島区西巣鴨4−8−28
朝6時過ぎに参拝するも、山門は閉門中、夕刻に再訪。
武蔵西蓮寺篋塔1
  同       2
寂光堂と称する。詳細不詳、武蔵真福寺篋塔と同型と思われる。
朝7時に訪問するも、まだ開門に至らず、門外から撮影。
西蓮寺は本尊木造阿弥陀如来坐像(鎌倉初期)、毘沙門天像(室町期)、熊野三社権現像(熊野神社神体) などを有する。また、11枚の板碑を有する。板碑のうち、建立年代の判明するのは鎌倉期2基、室町期3基といい、最古の弘安9年(1286)板碑は廃満願寺から移設のものと云う。
なお2末寺(廃寺・明治8年満願寺<現志茂3-38-5付近>地蔵院<現志茂4-40-3付近>を合併 すると伝える。また弘安年中頃に当寺は創建されたとされる。
東京都北区志茂4丁目
武蔵清林寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
日本の木造建築の技を次世代に伝える主旨で、四半世紀前に塔建立を発願したようです。モデルは
大和法輪寺(飛鳥様式の木造三重塔)と云う。しかし、四半世紀の時間が経過した現在の進捗状況は、二重目の後半の工程にさしかかっているといった状況と思われます。このままのペースであれば、もう四半世紀の 時間が必要と思われます。
施工主はこのペースでいいのだという考えのようです。「木材の一本一本は、木挽き職人によって手引き鋸で引いております。昨年も数ヶ月間、大鋸(おが)という大きな鋸で木挽きを行ってもらいました。樹齢千五百年の丸太ともなれば1ヶ月も要します。職人さんたちのゆっくりとした仕事ぶりはとてもリズミカルです。まるで悠久の時の流れを楽しんでいるかのようです。」 と。
棟梁西岡常一師の指導ということであったようですが、近年棟梁が交替したようです。
文京区向丘2-35-3、清林寺は浄土宗。
武蔵道場寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
昭和49年(1974)落慶。総欅・素木。田辺泰の設計。小島建設施工。安置仏は香取正彦作の金銅薬師如来像。台座にはスリランカから招来した仏舎利が安置。
一辺4.18m、総高23m余りで、大型塔に属すると思われる。
純和様の端正な塔で昭和戦後の木造塔の代表とも思われる。塔周囲には樹木が茂り、全貌を捉えるには難しい塔です。
曹洞宗。応安5年(1372)石神井城主豊島景村の養子輝時により豊島山道場寺と改号されたと伝える。豊嶋氏代々の菩提寺で あった。文明9年(1477)豊嶋氏は太田道灌に敗れ、諸堂宇は灰燼に帰す。近世初頭に再興されたようです。
現在の本堂は唐招提寺金堂を模すと云う。
練馬区石神井台1-16-7
武蔵三宝寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7

平成8年完成。「大毘盧遮那如来法界體性塔」と称する。高野山の初原の大塔の名称が「毘盧遮那法界体性塔」であり、それに因む名称と思われる。要するに初原の高野山根本大塔(大日如来塔)の再現を意図したものと思われます。
一重の一辺は約4間(7.28m)、ニ重目円筒形の径約15尺(4.55m)、総高約10間(18.2m)。一重目勾欄付縁を廻らす。一重目二手先、ニ重目四手先。屋根銅板葺、軒ニ重繁垂木。
一重目は胎蔵界大日如来五仏、普賢・文殊・観世音・弥勒の四菩薩を安置。ニ層目に金剛界大日如来を安置。総工費は約10億円。青木国工務店設計施工。
但し、根本大塔と称するも、建築の様式から見ると「大塔」形式ではなくて、「多宝塔」形式です。大きさは超大型です。塔は木造・伝統様で平成の木造大建築の一つと 数えられるであろう。
三寶寺は応永元年(1394)鎌倉大楽寺の大徳華尊法印の開基で真言密教の道場となると云う。当時の建立場所は下石神井村小仲原といわれる。その後、豊島氏の庇護を受ける。文明9年(1477)豊島氏は太田氏によって滅亡する。豊島氏菩提のため、太田道灌により現在地へ移されたと伝わる。
近世には徳川幕府の保護を受け、真言宗関東11談林(蕨三学院、新井総持寺、中野宝仙寺など)の一つとなる。また当時は寺中6院、末寺59余りを有する。氷川神社などの別当を兼ねる。
練馬区石神井台1-15-6

武蔵泉蔵院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
昭和 56年建立。明和3年(1766)銘(裏面)がある石塔の建っていた塚があった。口伝では経塚と呼ばれていた。この塚の位置に他方塔が建立されたようです。寸法等は不詳ですが、小型塔の部類と思われます。和様を基調にした一部唐様を取り入れた端正な塔です。総檜造り白木・屋根銅板葺き。
当所は大沼田新田といい、享保年中に入植開拓した村であった。新開地のため寺院が無く、当初から寺院建立のための寺領寄進などの準備をしていた。しかし当時は幕府の新寺建立の規制が厳しかった時代でもあった。
寛保3年(1743)名主当麻氏(当麻弥左衛門、当麻伝兵衛など)は青梅今寺の報恩寺住職と諮り、寺中の廃泉蔵院を引寺建立することに合意する。同4年(延享元年)本寺深大寺及び東叡山覚王院の落書を請い、寺社奉行に引寺の願いを提出、同年寺社奉行より免許。同年仮堂建立、宝暦9年(1759)本堂が再建される。開祖は運承法印。天台宗延暦寺派。
なお附近には稲荷神社があり、この社は引寺と同時に青梅今寺から鎮守として泉蔵院に勧請された社という。宝暦3年・弘化5年には稲荷本社より証書を受けるという。
明治元年、(おそらく神仏分離の処置により)村の中央の現在地に遷座し、明治6年には村社に列するという 。どこにでもありそれゆえ恐ろしい典型的な国家神道の歴史があったようです。
小平市大沼町2-673
武蔵円福寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
平成14年建立。木造素木造り(総欅材)、木材表面は例えばウレタン樹脂系の透明保護材で保護されていると思われます。
寸法などは不明ですが、やや小型の塔と思われる。様式は純和様を用いる。均整のとれた姿でおそらく平成の代表的な木造塔建築と評価される時がくると思われる。
寺の経歴は不明ですが、別の宗旨の寺院を曹洞宗の陽岳宗春が新しく開山、あるいは寛永12年頃同じく曹洞宗の陽岳春和が建立したとも云う。弘化5年(1848)の火災で灰燼に帰す。
三重塔北に薬師堂があり、薬師如来、日光月光菩薩及び12神将を祀る。
清瀬市野塩3-5-1
新座市営墓園三重小塔1
  同           2
  同           3
  同           4
  同           5
  同           6
  同           7
平成13年落慶。詳細不詳。小型塔ですが、檜材の木造塔です。一部唐様を交える。容姿は平面に比べ高さが低くまた逓減率も低いようです。相輪もやや短いと思われます。斗栱は2手先でやや物足らない印象です。しかしながら、本格的に造作した塔です。
武蔵乗蓮寺宝塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同     本堂
  同     大仏

昭和57年落慶。構造はコンクリート、斗栱・垂木・正面扉は木造。木部丹塗り。軸部径約2.5m、総高約7.4m。屋根銅板葺き。東禅寺塔と同型同寸という。翠雲堂の設計施工。 福寿観音の扁額が掲げられているようです。
乗蓮寺は応永年中(1394〜1428)浄土宗了賢無的和尚が下板橋、山中村に草庵を結んだことに起源がある。弧雲山慶学院と号す。室町末期に仲宿に移転。天正19年(1591)徳川家康より10石の朱印地を受ける。
戦後相次ぐ道路拡張で境内は破壊され、昭和46年より赤塚城二ノ丸跡(現在地)に移転した。現山号は赤塚山。東京大仏 (昭和52年)などもあり、その他一種の流行仏としての性格もあると思われます。板橋区赤塚5−28−3

上野寛永寺五重塔 詳しくは「上野寛永寺」のページを参照ください。
谷中天王寺塔跡 詳しくは「谷中天王寺」のページを参照ください。
2006/05/14 武蔵豪徳寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同       15
  同       16
  同      本尊
2006/05/14三重塔落慶。
武蔵宝泉寺宝塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
身舎は御影石製、円形上の上部は八角とし、組物を造る。組物は木製と思われる。但し身舎が石製なのは邪道と思われる。寸法等は不明すすが、印象的には小型塔と思われます。
昭和41年寺院墓地が道路敷地となり、その移転に伴い、無縁供養塔(実態は不明)が建立されるも、風雨による腐朽が進行し、平成7年に恒久的建物として改築された。納骨堂あるいは多宝供養塔と称するようです。六道能化地蔵菩薩を本尊とする。正面の地蔵はおそらく本尊の前立像と思われます。
源秀山と号する。高野山真言宗。都心の中で今なお広大な境内と緑と諸堂宇を有する。御府内88箇所霊場の7番。渋谷区東3丁目8-16
武蔵大聖院篋塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
大聖院内切支丹燈籠
昭和57年建立、主要部は総てコンクリート製と思われます。普照堂と称するようです。寸法・目的など詳細は不詳。印象的には小型塔と思われる。
大聖院は松輝山生運寺と号し、天台宗瀧泉寺(所謂目黒不動のことと思われる)末とする。弘治3年(1557)貞順僧正の開基という。 下目黒村大鳥神社の別当ともいい、今も大鳥神社に隣接する。(写真・塔1の左が大聖院、右が大鳥神社) 寛政10年権大僧都眞性の代に本堂を再建する。本尊願阿弥如来は京都永観堂本尊の模刻と云う。境内にある切支丹燈籠(織部式燈籠)3基は 旧島原藩主松平主殿頭下屋敷 (三田・千代が崎、後の大村伯邸) 林泉中の小祀内にあったもので、大正15年に大聖院に移す。棹石は変形T字のクルスでありキリスト像と思われる像が彫られている。目黒区下目黒3-1-3
※大鳥神社は和泉大鳥大明神を勧請したものと伝える。
武蔵梅窓院篋塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
 同  旧本堂相輪1
 同  旧本堂相輪2
 同    旧本堂1
 同    旧本堂2
身舎は石造。斗栱・垂木などは木製と思われる。身舎、上部とも方形とするも、円形の亀腹がある。平成15年建立。
最勝宝塔と称し、24世住職が、梅窓院縁故の諸霊供養の為に発案。24世住職の戒名が「最勝寶院」であることに由来。地下は納骨堂。
旧本堂相輪:大正14年和洋折衷の梅窓院講堂(無碍光会館)が建立され、上層屋根には相輪が載せられていた。昭和20年の空襲で本堂が焼失、講堂が本堂を兼ねていたが、平成13年老朽により講堂は解体されるも、旧本堂相輪は永く後世に伝えるため、墓区の一画に移設・保存処置が取られている。港区南青山二丁目26-38
旧本堂1:Site Y.M. 建築・都市徘徊 の 梅窓院 より転載
旧本堂2:帝冠様式ネットワーク の 梅窓院旧本堂 より転載
梅窓院は寛永20年(1643)の開創で、老中青山幸成の側室が檀越となり、青山氏下屋敷に立地した。往時は寺域は13000坪余と云う。明治維新後、急激な都市化とともに寺観は一変したようですが、現在も都心に3000坪の敷地を有し、新旧の景観が同居しています。浄土宗本派。
武蔵真福寺篋塔1
  同       2
  同       3
寂光堂として、篋塔が建立されている。おそらく近年の建立で、コンクリート製と思われる。寸法その他も不詳ながら、小型の塔と判断される。
真福寺 は瑜伽山と号する。真言宗智山派、等々力満願寺末。本尊大日如来。飯田図書(用賀村の開拓者)の開基、宗円和尚(天正6年<1578>寂)の開山と伝える。
世田谷区用賀 4-14-4、武蔵西蓮寺寂光堂と同型と思われる。
武蔵光徳院五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
平成7年落慶。心柱はステンレスと云う。木造素木、総檜、屋根本瓦葺。高さ約15mの小型塔。伝統様の本格的建築です。 興教大師覚鑁850年遠忌記念事業として住職が塔建立を発願。総工費2億円余りで、室生寺塔を理想としたのであろうとされる。
七星山光徳院息災寺と号する。元々は半蔵門にあったが、江戸城構築に際し、牛込市ヶ谷田町に転じ、さらに牛込柳町に移り、明治43年現地に移転する。観音堂安置の木造千手観世音 菩薩は右大臣菅原道真が筑紫にて自刻した像と伝える。この像は筑紫千手坊にあったが、縁あって中野宝仙寺の14世秀雄法印に預けられる。秀雄法印は中野宝仙寺より、光徳院に転住となり 、この像は光徳院にて護持されるようになったと云う。(寺紋は梅鉢のようです。)真言宗豊山派。
中野区上高田5-18-3
武蔵新井薬師ニ層塔1
  同         2
  同         3
建立年代不詳。昭和48年刊「東京の寺」(保育社カラーブックス)には既に写真の掲載があり、それ以前の建立であることは確かです。多宝塔ではなくて、ニ重塔もしくはニ層堂に相輪を載せた形式です。コンクリート製 、建築としては上等のものではないと思われます。二重塔には薬師霊堂の扁額を掲げる。寺伝との関係があるものと思われます。
薬王寺、梅照院(新井薬師)。本尊は薬師如来と如意輪観音の二佛一体の黄金仏という。元は新田家の守護仏であったが、戦乱の中、所在不明(自ら消える)となる。その後(天正14年・1586)この新井の地の草庵の庭の梅の古木から光を発し、黄金仏が発見されたと云う。この像を安置のため新たに 薬師堂を建立したのが梅照院の始まりとする。
本尊薬師如来は徳川秀忠第五女和子(東福間院)の眼病を治癒したことで知られる。
東京明治寺宝塔1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
身は石造、組物は木造と思われます。納骨堂として建立されたようです。
栄照法尼(尼僧) による開基と云う。明治45年明治天皇崩御。それを機に、剣山などで修行を積んだ栄照尼は観音石像の建立を志し、大正元年、最初の開眼供養を行うという。その後多くの賛同者とその援助により観音石像が開眼され、百観音と称され独特の信仰を集めているようです。大正6年本堂も建立。戦災で焼失するも本堂などは再興されている。真言宗東寺派。中野区沼袋2-28-20
武蔵正覚院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
平成2年建立。鉄筋コンクリート製ですが、木造に似せて精巧に造っているようです。
一辺約5m弱、高さ約15m強、本尊大日如来。本瓦葺き。
真言宗豊山派。長禄年間(1457〜59) 太田道灌が江戸築城の時、この地にあった天満宮の別当として創建したと伝える。西に今も現存する氷川神社は末社・天満宮(北野社)がその起源と いう伝承もあるようです。それ故、山号を天満山と号する。明治の神仏分離で多くの什宝・記録を失う。
練馬区豊玉南2-15-7
なお、山門は開いていますが、見学や写真撮影の入山は拒否する姿勢のようです。
武蔵宝仙寺三重塔模型1 中野区歴史民俗資料館展示模型。
詳しくは「中野塔(宝仙寺三重塔)」のページを参照ください。
武蔵宝仙寺三重塔跡1 再訪
詳しくは「中野塔(宝仙寺三重塔)」のページを参照ください。
武蔵宝仙寺三重塔1 再訪
詳しくは「中野塔(宝仙寺三重塔)」のページを参照ください。
武蔵成願寺ニ重塔1 詳しくは「中野塔(宝仙寺三重塔)」のページを参照ください。
立正校正会一乗宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5

一乗宝塔と称する。2000年建立、庭野日敬顕彰事業の一つとして建立。高さ約10m、塔身の径2.7m、屋根一辺は約5m。屋根・相輪は 青銅製。塔身は石製と思われる。
庭野日敬「舎利」を安置と云う。

2006/05/06 河内龍泉寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同   仁王門
「幻の塔を求めて西東」:心礎は180×130×60cmで、径83×5cmの円穴がある。双塔式の可能性あり、白鳳。
綺麗な正円の柱穴が良く保存されています。心礎は東塔(三重塔)で、南北朝期に焼失したとする。
牛頭山と号する。高野山真言宗。創建は蘇我馬子と伝え、弘法大師の中興という。
南北朝期には龍泉寺城(山頂・楠正成)が築かれ、荒廃する。
近世の寺領は3石。明治維新まで5坊で護持。
古建築として、仁王門(鎌倉中期・重文)が、奇跡的に残存する。材の取替え状況から、おそらく腐朽・倒壊寸前の建築であったと思われます。
河内観心寺 再訪。詳しくは「河内観心寺」のページを参照ください。三重塔初重および小宝塔(法性塔)
河内光瀧寺 詳しくは「河内光瀧寺」のページを参照ください。
河内岩湧寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同       14
  同  岩湧山系
15品湧出品経塚
再訪。
今般は滝畑(光瀧寺)から東に向かう林道を使用。徒歩約登り1時間時半、降り45分に位置にあります。
岩湧山系:岩湧山そのものではありませんが、岩湧山よりかなり離れたところに張り出す尾根の一つで「巌湧く」の山容に相応しいものです。 おそらく山系の北の遍笠山の北西・一徳防山の北西尾根の見晴岩と思われます。
15品湧出品経塚:岩湧寺のすぐ北側尾根をやや下ったところにある。
河内岩湧寺はこちら
河内金剛寺多宝塔1
  同        2
  同      楼門
再訪。訪問時、17時前でしたが、閉門(16:30分か?)のため見学できず。
2006/04/29 播磨金剛山廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同 礎石?日吉神社
  同 礎石?龍隆境内
龍隆寺本堂側面
  同   心礎見取図
心礎は鐘楼基壇(石垣)北側直下にある。心礎の存在の故に心礎の面積だけはブッシュ化から免れている。
「日本の木造塔跡」:1.6×1.5m、径42×4cmの孔を穿つ。
「幻の塔を求めて西東」:160×150cm、孔の径45.5×13cm。※但し孔の深さ13cmは誤植、勘違いの類と思われる。
ほぼ土中にあり、上面のみ観察が可能。上面はかなり荒れている印象で、元来は平滑であったが、おそらく後世に破壊をうけているとも思われる。円孔に五輪塔が載せられているが、五輪塔を取除く(合掌)と、端正な正円の孔が残されています。但し一部底部には凹みがあります。また廻りの3方には長方形の切石が置かれています。
心礎は原位置を保つとされる。鐘楼附近の全貌の掌握は困難になりつつありますが、鐘楼正面にある大石は礎石と思われ、塔の礎石の一部の可能性はあると思われます。
北側の日吉神社境内、龍隆寺境内には礎石と思われる石を残す。
心礎見取図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
※近所の人々の聞き取り:「(おそらく住職の奥様)が5年ほど前になくなられて、無住。近隣の寺院(寺院名は失念)が代務住職を務めるも、放置」のようです。「地域で保持するには財政的また人的にも困難と思われる。」しかしこの件は日吉神社(この 地区のこの神社はたまたま国家神道的要素が強いようです。)は神主が常駐している訳ではないが護持されている。また先々週はたまたま新生「たつの市」の市議会議員選挙中で、おそらく地区からの立候補者がいたものと見えて、平日日中にも関わらず、自治会会館?にテント張りで、揃いの法被で、候補者がいた訳でもないのに数十名が集い、盛り上がっているパワーを目撃しているので釈然とはしません。戦後60年を経過しての光景です。
播磨奥村廃寺両塔心礎
  同    西塔心礎1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同    東塔心礎1
  同          2
  同          3
  同          4
  同          5
  同   伽藍配置図
  同   東西心礎図
  同   発掘概要図
▲数次の発掘調査で、約150m四方の寺域を持つこと、中心に金堂があり、その東西に2塔を有すること、金堂北に講堂がある珍しい伽藍配置であることが判明。すなわち東塔・金堂・西塔は東西に一直線に並ぶ。東西両塔は10 m四方の方形土壇らしく、両塔の心礎も発見された。7世紀末〜8世紀末の瓦が出土。▲
発見された心礎は現在、龍野市歴史文化資料館に屋外展示されている。
「X」氏情報:案内板は立つものの、遺構は完全に畑地の下に埋没しているようです。
「幻の塔を求めて西東」:187×105×71cm、径30×24cmの円孔。おそらく東塔の寸法と思われますが、長径187cmは137cmの誤植もしくは勘違いと思われる。
同著の手書き「塔心礎の追加表」:
東塔心礎:137×105×71cm、径30×24cmと11.5(径?)の2重円孔式とする。
西塔心礎:200×150×85cm、径20×19/20cmの円孔を持つ。
心礎は心礎としては比較的丁寧に加工した切石(特に東塔心礎)に枘孔を穿った華麗な心礎です。
東塔心礎が2重式とは見えないが、西塔心礎は底の脇に舎利孔とも思われる孔があるとは思われる。なお上記寸法の大きさは妥当と思われるが、円孔の寸法については東西逆と思われる。
伽藍配置図、東西心礎図、発掘概要図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
播磨小神廃寺土壇1
  同        2
  同        3
  同        4
  同      礎石
▲築山とよばれる土壇が塔基壇と考えられる。その東の小祠に円柱座を持つ礎石2個が遺存する。詳細は不明。瓦から7世紀前半の創建の可能性もある。9世紀まで存続したと思われる。▲
「X」氏情報:畑地の中に塔跡と推定される築山基壇が残存。
附近を耕作中の年輩の方の談:「あの中には入れないですよ。(南東は民家で、後の2面は廃材等で囲ってある)あの持主は築山ではないと云っている。持主が石垣を積み瓦礫を積んで造ったものと主張している。」しかし「あの土壇は自分の子供の頃からあのような形をしていた記憶がある。・・・」「所有者は近所に住んでいます。」(多分この築山の南に接する居宅と思われます。)
真偽の程は不明ですが、持主の主張は目的やその膨大な体積の土砂等を思えば、不自然とも思われます。但し、石垣は見た目は古いものとは思われません。
礎石の残存や瓦の出土から寺院址であることは間違いないと思われますが、土壇が塔跡かどうかまた持主の主張のとおりなのかは発掘調査を待つしかないと思われる。
播磨中垣内廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同     心礎図
▲恩徳寺境内と重複している。心礎が境内に残されている。未調査のため詳細は不明。▲
「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは1.42×1.06m×94cm、径64×14cmの孔を彫る。
「幻の塔を求めて西東」:144×107×95cm、径91/93×2cmと径59/61×17.4cmの2段式心礎(柱座の彫り窪みが存在する)の見解を採るようです。
※確かに、柱座の彫り窪みが良く見れば、観察できるようです。
但し、小型の心礎であり、心礎に品格があるとすれば、やや品格を欠く印象があります。
現状、心礎は五重石塔の台石となり、やや円孔の観察には不便です。
恩徳寺は養老6年(723)は揖保郡出身の得道上人の開基と伝える。嘉吉元年(1441)赤松満祐滅亡の時兵火に罹り焼亡する。貞享元年(1684)森清雲当寺を再興し西山浄土宗となる。
本堂裏にも礎石を残すというが、現在庫裏が取壊し中で未見。
心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
播磨中井廃寺心礎露盤1
  同           2
  同           3
  同           4
  同      心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同      露盤1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同      礎石
 同 礎石・心礎・露盤
▲村落内民家の庭に心礎が残っている。観音堂にも円柱座を持つ礎石1個が遺存する。出土瓦から7世紀末〜9世紀に存在したと推測。▲
「日本の木造塔跡」:山村氏邸に心礎はある。1.5×1.24×1mで径32×20cmの孔を穿つ。
「幻の塔を求めて西東」:185×130×100cm、円柱孔は31×21cm。
心礎及び石製露盤は観音堂菱隣の中井氏邸にある。心礎は以前は観音堂前にあったという。中井氏の談では今の位置のやや東(門の西)にあったという。
露盤は上面を北向き(鑑賞可能な方向)にして、立ててある。
露盤実測値:一辺145cm、周辺の厚さ25cm、中心の孔は径37cm、厚さ32cm、中心孔の周囲には幅約6cm高さ1cm弱の「出」を造る。
礎石:中井観音堂にある。
礎石・心礎・露盤:「古代寺院よりみた播磨」より転載
播磨西脇廃寺遠望
  同     心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同    心礎図
▲心礎を残す。▲
「日本の木造塔跡」:「菅原正則氏所有の田の中にある。元は田の中央にあったが耕作の邪魔なので田の西北の隅に移すという。心礎は1.5×1,27m、表面は削平、中央に径19×10cmの孔がある。
「幻の塔を求めて西東」:125×115cm、径18×11cmの円孔を持つ。
心礎が忘れられた状態もしくは邪魔者状態で放置されているだけで、詳細は不詳と思われます。
西脇廃寺遠望:東南から撮影、写真中央が心礎、心礎手前の田の中が塔の建立場所であろう。
心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
播磨辻井廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同    心礎図
▲塔心礎のみを残す。寺域は方200mを想定。▲
△・・最近まで土壇があったが今や全く滅んだ。・・△
今宿(辻井)廃寺跡(「古代聚落の形成と発展過程」から加工・転載)・・・左が西塔址。
昭和9年頃には土壇および四天柱礎など10個の礎石があったと云う。現在は耕作地の中に、心礎のみ残る。その字名は西藤の本(塔の本)と称すると云う。
「兵庫県史 考古資料編」:心礎は原位置を保つ、創建は奈良後期で平安末期まで存続したと推定。金堂跡は不明、塔北西に講堂跡と推定される礎石建物跡を検出。
「日本の木造塔跡」;2,2×1.6×1mの大きさで、長径の1/3辺りにやや深い切込がある。切込を外した上面の中央付近に径40×12/10cmの円孔があり、さらに中央に径12×3.3cmの半球状の舎利孔がある。(※今回実見していません。)また孔から長さ約60cmの一条の排水溝と思われる溝が走る。
「幻の塔を求めて西東」:253×182×100cm、円柱孔は径41×12/10cm。舎利孔の存在の記載はない。
「昭和十年頃までは六間四方の草地であった。里道を農道に広げる時、草地の土を利用するため掘り起こした際発見された。」
なお、廃寺の礎石数個が「名古山」に移設されて現存するようです。
心礎図:「古代寺院よりみた播磨」より転載
2006/04/19
 
播磨室明神社多宝塔跡 詳しくは「播磨室明神社多宝塔」のページを参照ください。
金剛山廃寺心礎
  :「X」氏ご提供
播磨龍隆寺山門前
播磨龍隆寺全望
龍隆寺鐘楼附近
金剛山廃寺推定礎石
金剛山廃寺跡
龍隆寺道標
旧丸亀藩高札場跡
金剛山廃寺心礎は龍隆寺鐘楼附近にあるというも、現地を訪問すると、意外にも龍隆寺は無住で、ここ数年は全くの放置状態と思われ、境内特に鐘楼附近はブッシュが繁茂し、容易に様子が掌握できない状況でした。従って残念ながら、心礎は発見できませんでした。
「X」氏情報では、2001年時点では境内は荒れていたが僧侶が信者と共に法要を行っていたとのことです。(いつから無住なのかは不明)2001年以降、おそらく地区の人も檀信徒の人も誰も顧みなくなったと思われ、境内及び堂宇は荒れるに任せる状態のようです。
このままであれば、堂宇は腐朽し、危険と判断され取り払われるか、自然倒壊が目前と思われます。願わくは、山中の廃寺ならばいざ知らず、地区の中の寺院ですので、地区の「集会所」などの形で地区全体で護持するなどの方策が望まれます。
金剛山廃寺心礎:「X」氏ご提供:2001年撮影画像
播磨龍隆寺山門前:無住、法道仙人開基と云う。
播磨龍隆寺全望:無住、左より山門・本堂・鐘楼、境内一面はブッシュ化しています。
龍隆寺鐘楼附近:ブッシュは特に鐘楼・山門附近に繁茂している。
金剛山廃寺推定礎石:鐘楼前石段下に廃寺礎石tぽ思われる石がある。
金剛山廃寺跡:龍隆寺西に写真の木標が建ち、堂宇跡と思われる地点は空地となっている。
龍隆寺道標:集落内にある道標で、開基法道大仙・中興盤珪国師とあり、播磨の古代大寺がほぼ法道開基と伝承される一例で、換言すれば、龍隆寺も古代からの法灯を継ぐ寺院と伝承されるようです。元禄期に国師とあるように禅宗として中興されたようです。
旧丸亀藩高札場跡:この地は江戸前期以降丸亀藩領であった。万治元年(1658)龍野6万石京極高和が讃岐丸亀に転封になる。この時西讃岐(丸亀)では約5万石の石高のため、揖保郡1万石を飛び地とした(「新室津紀行」)ということに由来する 。
播磨斑鳩寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
 同 江戸初期境内図
室町永緑8年(1565)建立。基本的に和様で構成され、中世の典型的な和様塔婆と思われる。
一辺4.64m、高さ24.85m。
法隆寺の別院とされる。天文10年(1545)の兵火により焼失、その後赤松氏により再建。この再興伽藍中、三重塔のみが現在に伝わる。その他伽藍は近世の再建になる。
播磨名所巡覧圖會:巻之2より:記事:「三層塔(釈迦仏舎利、輪柱に納む)」
斑鳩寺全図(部分図)・・・現存塔婆です。
塔頭8坊有(仏飼院、法性院、円光院、双樹院、理教院、常智院、松龍院、円受院)

江戸初期境内図では坊舎として、実相院、仏飼院、円光院、双樹院、宝勝院、等覚坊、理教坊、松之坊、東円坊、青林坊、円寿坊、不動院、普門院、西之坊の存在が知られるようです。

播磨下太田廃寺塔跡1
  同         2
  同         3
  同      心礎1
  同      心礎2
  同      心礎3
  同      心礎4
  同      礎石
  同      薬師堂
再訪
播磨善楽寺東門
  同 本堂前空地
  同   実相院
  同 円珠院庭園
 同 平清盛供養塔
 同 明石入道の碑
播磨名所巡覧圖會より:巻之2:善楽寺(号、法写山。西の惣門<明石巌社であろう>より南へ三丁ばかり)
記事の要約:「開基法道仙人。本尊地蔵菩薩(東叡山末、天台宗・・)
恵心の作の地蔵は、今、寺中実相院にあり。保元元年、平清盛諸堂寺院を再建。
養和2年、寺僧等、清盛の為に五輪の石塔を建立して供養。境内に明石入道の碑あり。」
播磨善楽寺三重塔:おそらく三重塔があったと思われますが、細目は全く分かりません。

大化年中、法道仙人の開基と伝える。播磨の古代大寺はほぼ法道仙人開創とされる。
天喜元年(1053)住職源泉は第31代天台座主となる。
また善楽寺は源氏物語「明石の上」の父「明石入道」の館跡であったと伝承される。
元永2年(1119)堂塔を焼失。
保元元年(1156)播磨守平清盛が再興する。寺域は方1km、17ヶ院を数えるという。
養和2年(1182)善楽寺忠快法印(清盛の弟教盛子息)が清盛の冥福を祈り五輪塔を建立。高さ3.36m、花崗岩製、鎌倉期の作。
天文8年伽藍焼失、文禄年中に再興。近世には明石藩主の庇護を受ける。5代藩主松平忠国「明石入道の碑」を建立。
昭和20年7月明石空襲で灰燼に帰す。昭和63年現在の伽藍が復興する。
現在は戒光院が本寺、塔頭実相院・円珠院が附属する。
※三重塔の細目については全く情報なし。しかし、現在昭和再興といえども、堂宇の配置はほぼ、上述の「播磨名所巡覧圖會播磨善楽寺三重塔」を彷彿とさせ、三重塔があったであろう本堂前前庭はそのまま残されています。「善楽寺本堂前空地」の写真の中央辺りに三重塔があったものと推測されます。

過去の訪問塔婆履歴