最近訪問した塔婆・ご提供画像(2005/07/22〜2005/11/05)

過去の訪問塔婆履歴

2005/11/05 山城国分寺跡 再訪。山城国分寺跡に1枚写真を追加。
2005/10/30 和泉長慶寺三重塔 新造塔。伝統様式の総檜木造塔と思われます。平成16年落慶。
詳しくは「長慶寺・海会寺跡」を参照ください。
和泉長慶寺多宝塔 再訪。詳しくは「長慶寺・海会寺跡」を参照ください。
和泉海会寺跡 再訪。詳しくは「長慶寺・海会寺跡」を参照ください。
和泉禅興寺跡石碑
廃禅興寺附近地蔵堂
泉佐野市長滝喜多家庭石とも云う。長滝村西番庄屋の家柄に喜多家があるという。
(なお喜多家とは禅興寺附近よりかなり離れているようで、未訪問のため状況は不明。)
「幻の塔を求めて西東」:210×160×80cm、66×13cmの円孔。近くの池の中に逆さになっている。奈良後期。
禅興寺は以下のような伽藍配置と云う。(出典未確認)
境内地:東西一町半 (90間) 、南北二町 (120間) 、周囲は堀を廻らす。
推古17年(609)金麻蘇邇(新羅僧) の創建と云う。重層瓦葺南大門、瓦葺金堂、瓦葺三重塔、瓦葺重層講堂が一直線上に並ぶとされる(金堂・塔の位置が不自然ですが)。寺領は800石(中世の頃?)。僧83名。天正5年(1577)織田信長の紀伊根来寺・雑賀攻めで焼失。
△現状寺跡については明確ではないようです。明福寺境内に「史蹟禅興寺金堂跡」と刻んだ石碑が建っています。明福寺様談によれば、この石碑はさる大学教授の「建てる場所がないので建てさせてください」との依頼で境内に場所を提供したもので、この場所は金堂跡とは関係がないとのことです。昭和61年建立。
△禅興寺金堂本尊「木造阿弥陀如来立像」(高さ1m)は永福寺に秘仏として伝来すると云う。
△附近の地蔵堂(辻堂)には旧禅興寺地蔵尊を祀るという。
日根荘日根野村荒野開拓絵図:宮内庁書領部所蔵:部分図
和泉東野廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同  旧蓮光寺
旧蓮光寺山茶花
「X」氏情報:「教育委員会の談:蓮光寺の旧境内にある。」
蓮光寺は 戦後、宗教法人登録をせず、個人としての道を選択したとのことで、それ以来、法律的には「寺院」ではなく、また宗教活動もしていないとのことです。但し個人の住居とはいえ、今なお本堂建築などを残し、外見は寺院と変りません。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は200×130×30(見える高さ)cm、径83×2cm、径50×11cmの二重円孔を持つ、白鳳期。(手書き資料)
但し、以上の見解は誤りで、一重円孔式で、180×130cm、径80×約2cmの柱座を持ち、径50×11cmの円孔がある、また柱座に放射状の一条の排水溝がある。
蓮光寺は7世紀中〜後期の建立とされる東野廃寺跡にあり、心礎が手水鉢として転用。境内や隣接地からは飛鳥・白鳳時代の瓦を出土という。
図1  図2:2005/10/26「X]氏撮影画像。
また蓮光寺は樹齢推定400年のサザンカ(府指定天然記念物)を有する。
河内誉田八幡宮 詳しくは「摂津・河内・和泉の塔跡」の「河内誉田八幡宮」の項を参照下さい。
 旧護国寺南大門
 石塔残欠
河内野中寺塔跡1
  同    塔跡2
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同    脇柱礎
  同    塔跡3
  同 塔跡発掘写真
  同  塔礎石配置
  同    金堂跡1
  同    金堂跡2
  同   金堂礎石
再訪。
中の太子と呼ばれる。この地は太子や馬子の協力者であった「船史」の本拠地であり、氏寺として伽藍が建立され栄えたとされる。その後南朝の拠点であったため、焼亡・廃寺となる。寛文元年(1661)再興される。
三重塔跡には礎石が13ヶ残存している。塔心礎は円形の心柱孔に三ヶの半円形の支柱孔を穿孔したもので、大和橘寺の塔心礎と酷似している。
「日本の木造塔跡」:心礎は2.8×1.85m、柱穴径71×29cmで、柱穴底の側壁に高12×横18×奥9cmの舎利孔がある。心礎先端に眼のような文様<図6>、その上部の左右に小円が陰刻されている。
昭和60年発掘調査で、東西13.6m・南北12.9m・高さ1.5m「壇上積み基壇」が発掘され、階段は東面(金堂向き)にあると判明した。いわゆる塔と金堂が向き合う野中寺式とも言われている。出土平瓦銘(康戌年正月)から650年には塔が建立されていたことも判明。
 金堂跡:5間四面と思われる。土壇が残り中に礎石が16個(全て枘孔を穿つ)現存している。
現伽藍はきれいに整備され、多くの人の訪問があるようです。
河内名所圖會より:野中寺塔跡(部分図)
山門の左に塔跡・右に金堂跡が描かれています。また礎石も認識されています。
 「飛鳥時代寺院址の研究」:野中寺塔址実測図
河内善正寺西塔心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同    東塔心礎1
  同         2
  同         3
  同         4

 
2001/09/12追加:「X氏」ご提供画像及び情報。
東塔心礎石は民家の庭に保存されている。また一回り小さい西塔心礎石は野中寺塔跡の傍らに移されている。」「現地には、特に案内板は ないが、羽曳野市教育委員会には確認済み。」
「西塔心礎は側面や上部を削平し、柱穴等の穿孔はない。この形式は同寺東塔や、中宮寺塔の心礎石と同じ形式で、地下に設置されたものだそうです。」
図1・図2;「X]氏ご提供画像
西塔心礎1、2の背景が野中寺塔跡です。
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薬師寺式伽藍配置を持つ白鳳期寺院があったようです。昭和24年の発掘調査で確認された。両塔とも一辺10mの凝灰岩切石基壇であった。東塔からは大正期舎利容器が出土。戦前は基壇の高まりが確認できたようですが、現状は共同墓地と住宅地であり、掲載すべき写真はありません。が現場の案内板写真(部分)を掲載します。・・図A
2005/10/30現地再訪:
「日本の木造塔跡」:両塔とも地下1,7mより掘り出されたと云う。大正期に掘り出された東塔心礎は附近の山下邸にある。1.55×1.35×57cmのほぼ方形、西塔心礎は筒井邸(現在は野中寺にある)にあり、1.3m×95×95cmのほぼ方形である。なお両塔間の距離はわずか26mであったという。
河内西琳寺心礎1
  同       2
  同       3
再訪。
河内黒山廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
徳楽山古墳石棺
「幻の塔を求めて西東」:心礎の大きさは160×140×55cm、35×6cmの出枘を持つ。
四天王寺大学構内。白鳳後期。とする。
心礎は四天王寺国際仏教大学テニスコート横の徳楽山古墳石棺が設置されている場所に「忘れられて」置かれている。黒山廃寺は美原町下黒山の聖福寺・蓮光寺当りと云う。詳しい伽藍配置は不明。白鳳期(創建)、奈良期、鎌倉期の瓦が出土。南北朝期に火災・廃絶とされる。
「日本の木造塔跡」:心礎の大きさの記載なし、場所は美原町下黒山、心礎は現位置。とする。
以上であるならば近年まで元の寺地に心礎はあったが、恐らく四天王寺国際仏教大学整備の折、今の位置に移されたものと推測される。(事情不明)
河内丹比廃寺塔跡南半分
  同    心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
  同       6
  同       7
  同       8
  同       9
  同 四天柱脇柱礎
  同  四天王柱礎
丹比大寺。心礎、四天礎1、脇柱礎1、(塔土壇?)残存。元位置。
「幻の塔を求めて西東」;心礎大きさは216×155.7×45cm、三段式で、52.7×13.6cmの円孔、13.3×7,5cmの小孔、3×2,4cmの舎利孔を持つ。長径は少し欠損、双塔式の可能性あり、白鳳前期。
「日本の木造塔跡」:心礎の大きさは2.1×1,5m×70cmで、径52×12cmの孔の中央に径16/15×深6cmのやや楕円形の円孔があり、その底に径2×0.9cmの彫り方の雑な小孔がある。この心礎を3段式とする見解もあるが、2段目が蓋受孔とすると蓋受孔では深すぎるし、小孔が舎利孔とすると浅すぎるし彫り方も雑すぎるため3段式心礎と見るのは無理であろう。
丹比氏は氏神として丹比神社、氏寺として徳専寺を建てたが、寺は滅び、心礎のみ残る。出土瓦から白鳳期の創建と推定される。四天王柱礎1、脇柱礎1を残し心礎は原位置と思われる。
現地の様子から判断すると、塔土壇を開いて道路が走り、道路南北に塔土壇が残ると思われます。
2005/10/26
「X}氏ご提供。
河内東野廃寺心礎1
  同        2
「X」氏情報:「教育委員会の談:蓮光寺(廃寺と思われる)の旧境内にある。」
現在旧蓮光寺は大きな本堂や比較的広い境内地を残すようです。また無人ではないようですが、固く門戸が閉じられていて、拝見することは通常は困難なようです。
「幻の塔を求めて西東」:心礎は200×130×30(見える高さ)cm、径83×2cm、径50×11cmの二重円孔を持つ、白鳳期。
蓮光寺は7世紀中〜後期の建立とされる東野廃寺跡にあり、心礎が手水鉢として転用。境内や隣接地からは飛鳥・白鳳時代の瓦を出土。
画像:2005/10/26「X]氏撮影画像。
2005/10/26
1996年撮影
大和尼寺廃寺心礎 「X}氏ご提供。
詳しくは「大和尼寺廃寺」を参照。
2005/10/20 (推定)
山城岡本廃寺心礎残欠1
  同           2
  同           3
  同           4
 
再訪:
「宇治市埋蔵文化財発掘調査概報 第10集」宇治市教育委員会、1987より
従来、岡本瓦窯跡とされていた遺跡を発掘、金堂跡と思われる瓦積基壇を発掘し、「岡本廃寺」と命名。
 岡本廃寺トレンチ図:B2トレンチが金堂跡で南半分は全壊であるが、北半分より土壇及び東より瓦積基壇を発掘、上面は後世の耕作で削平され、礎石跡も検出は出来なかった。
 金堂東部瓦積基壇1  金堂東部瓦積基壇2
B1トレンチ中央下から掘立柱建物跡を発掘。桁行6間、梁間3間(切妻屋根)南北に1間の庇を持つ。講堂跡と推定。
 A2トレンチから、巨石は発掘された。
A2トレンチ図:直系約2mの円形土擴内に花崗岩が埋められていた。<SX200>大きは1.9×1,1mくらいで重量は約3.3トン。このトレンチ部分は約1mほど削平されている所で、耕作土除去の後、すぐに土擴と花崗岩を発見。石は小作土表面には露出していない。
石には鏨の跡が残り、割られた表面は余り風化が認められないため、石は現状より大きな部分が恐らく近世に割られ土擴の中に埋められたものと推定される。旧状を留める部分には明瞭な加工の痕跡は認められない。
 A2トレンチ1(発掘時)  A2トレンチ(石を反転させた状態)
以上の状態から、A2トレンチの遺構は近世のものであるのは明瞭であるが、
1.花崗岩はこの附近には産出しないため、人為的にここまで運搬されたと思われる。
2.金堂西・金堂からの距離などから、発見地点に塔を想定しても無理はない。
3.寺院跡が耕作地となった場合、礎石は割られ、孔に捨てられることはしばしばある。
4.発掘された石はその大きさから考えて、通常の礎石ではなく、心礎と考えるのが自然であろう。
以上のような類推から、この巨石は心礎と推定された。
※恐らく心礎の残欠である可能性は高いと思われますが、後世の削平・開墾などで塔の存在を証明する遺物の発見が無く、また心礎と思われる加工痕跡もなく、心礎と断定することは不能と思われます。
推定心礎残欠実測値:110×180cm高さ130cm(おおよそ)
心礎であるならば、恐らく枘孔などがあったと思われる上面が割られ、土擴に捨てられたものと推測される。
山城平等院多宝塔跡 再訪:「平等院多宝塔跡」を参照。
2005/10/19 山城安楽寿院 再訪:「山城安楽寿院」を参照。
2005/09/25 出雲神門寺心礎推定図
  同    心礎1
  同    心礎2
  同    心礎3
  同    心礎4
  同    心礎5
本堂の東北裏手の庭に心礎がある。現在寺院側では、「世情が物騒である」との理由で見学を謝絶しています。
心礎推定図:下記の心礎寸法、心礎目見などから推定した図で、実測図ではありません。この点ではあくまでイメージ図以上のものではありません。心礎は舞木寺式(環状枘溝式)とされますが、かなり磨耗あるいは破壊されている可能性もあり、現状では彫りは明瞭ではないようです。
心礎1:写真中央の立ち木の奥右手に心礎がある。
心礎2〜5:やや離れた場所から、暗い木立の中を撮影したので、いずれも不明瞭です。
以前行われた発掘調査では版築基壇に上に心礎はあり、原位置を保つとの寺院側の説明です。
「日本の木造塔跡」:
心礎は舞木寺式(環状枘溝式)で、大きさは1.4×1,27m。環状溝外径は78cm。内径は55/53cm、溝巾12cm、深さ3.9cm。心礎及び出土瓦形式から創建は奈良末期と推定される。
開山が宋肇菩薩、二世は伝教大師、三世が弘法大師と伝える。弘法大師がこの神門寺から「いろは四十八文字」を弘めたとも伝え、この仮名文字の御真筆を収蔵すると云う。
本尊阿弥陀如来(行基作)、第38良空上人が法然の専修念仏に帰依。密教より浄土宗に転宗。
なお出雲風土記新造院の一つとも考えられているようです。※出雲風土記新造院
出雲天王平廃寺心礎1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同  四天柱礎?1
  同  四天柱礎?2
非常に精巧な加工の心礎を残す。
「日本の木造塔跡」:昭和44年国道9号線工事中に発見。三段孔式心礎。
心礎は2.0×1,25×0.95mの大きさで、径93(底部径90cm)×6/5cmの円穴があり、底部縁に巾2cmのごく浅い溝がある。円穴中央に一辺20cm高さ1cmの蓋受孔と一辺15cm(底部は一辺12cm)深さ10cmの舎利孔を穿つ。
塔基壇は一辺12m、高さ56/46cm・乱石積基壇。四方に階段の痕跡があった。心礎は基壇面より46cm下にあったというが、判然とはしないようです。出土瓦などから白鳳期のものとされる。
出雲風土記の有河内郷中新造院に比定される。※出雲風土記新造院
心礎場所が塔跡で、西側に建物跡1棟が検出されているようです。
出雲千手院多宝塔(未完) 再訪:詳しくは「出雲千手院」のページを参照ください。
出雲来美廃寺 詳しくは{出雲来美廃寺」のページを参照ください。
伯耆上淀廃寺 再訪:詳しくは「伯耆上淀廃寺」のページを参照ください。
伯耆大寺廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同     鴟尾1
  同        2
  同        3
  同        4
  同     礎石
  同  伽藍配置図
 
伯耆大山を南東に望む位置に立地。
大正7年石製鴟尾(重文)を発見。1966-67年の発掘調査で東面する法起寺式伽藍配置と確認された。白鳳から平安まで存続。 国道にてやや破壊されているが、塔以外に金堂・講堂・廻廊の遺構を検出したようです。
塔基壇は一辺11.9mと推定される。心礎は2.4m×2mの楕円形で、中央に約径1mの柱座を造り出し、その中央に径70cm、深さ30cmの孔を彫り、さらに径16cm、深さ15cmの舎利孔を穿つ。舎利孔には径20cm、厚さ2,5cmの蓋受孔の加工がなされている。なお大孔の周りは荒っぽく欠き取られているがこれは後世の仕業であろうとする。
伯耆大寺廃寺心礎1    同        2 ・・・X氏ご提供画像
石製鴟尾は講堂部分を境内に含む福樹寺に安置されている。(重文)
以前は福樹寺竹薮に放置、赤色安山岩製、基部は45×77cm、高さ100cm。
また鴟尾の周囲には造出柱座を持つ礎石が少なくとも4箇あります。(礎石写真)
なおこの大寺は伯耆安国寺に充てられたと云われる。福樹寺にある宝篋印塔はその遺物とされる。安国寺は戦国期に焼失し、その後米子城下建設で米子寺町に移転したと云う。(現存する。) :「安国寺風土記」
伯耆坂中廃寺心礎1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同     礎石1
  同     礎石2
  同    散乱瓦
伯耆大山を南東に望む高台に立地。大寺廃寺が低地であるのに比べ絶好の位置を占める。
伽藍配置などは不明、出枘式の心礎が現存する。
「日本の木造塔跡」:心礎は出枘式で、1.6×1,4mの大きさを測り、径36×10cmの出枘を持つ。さらに出枘上部に径15×5cmの孔を穿つ。この孔が舎利孔なのかどうかは不明。
出土瓦などから奈良後期の創建とされる。なお側柱礎(径50cmの柱座を持つ)2個を残す。
この塔は紀成盛長者の塔という伝承を残すという。
現地説明板では、平安初期の寺跡と推定、心礎は火成岩製で、原位置から移動している。
また残念ながら、中心附近で2つに割れている。
2005/09/23
「X」氏ご提供
武蔵豪徳寺三重塔1
  同        2
現在も工事中のようですが、ほぼ外観は完成と思われます。初重はシート中で不明。おそらく内装中とも推測されます。予定では落慶は2006年4月のようです。
二層の中備に猫の彫刻があるようです(猫寺という)。
設計施工:杉山工務店。
建築現場の写真(「歴史の足跡」管理人様ご提供)は「明治以降の三重塔」の最終項を参照下さい。
2005/08/29 武蔵喜多院修復前多宝塔
武蔵喜多院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同    鐘楼門
武蔵喜多院東照宮1
  同        2
武蔵無量寿寺中院
寛永16年(1639)再興塔。境内南方の日枝神社と白山神社の中間の「塔の山}(古墳)にあったとされる。明治45年道路工事で本堂と書院を結ぶ廻廊の中間に移転、上層を失う。その姿は竜宮門風の漆喰基壇に下層部分を乗せ、宝形屋根に相隣をつけた姿であった。昭和50年失われた上層を新材で復元し、現位置に多宝塔として修復された。 復元根拠は幕府作事方平内家伝来の木割「匠明」に基ずくと云う。
修復前多宝塔画像:「日本の塔総観・下巻」
奈良期、仙芳仙人の創建と伝えるも伝説の域をでないようです。
天長7年(830)慈覚大師円仁よr創建され、無量寿寺と号する。
元久2年(1205)兵火で炎上、永仁4年(1296)尊海僧正により再興、元三大師を祀る。仏地院(中院)が建立。地蔵院(南院)も建立されたと思われます。
天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で焼失。
慶長4年(1599)天海(慈眼大師)、第27世として入山。<天正16年(1588)とも云う。>
徳川家康は寺域4万8千坪、寺領500石を下す。酒井忠利を奉行に伽藍を造営。無量寿寺仏蔵院北院を喜多院と改称。
元和3年(1617)、家康の久能山から日光山への遷座の途中、喜多院に4日間逗留して供養。
寛永10年(1633)天海が喜多院の一画に東照宮を創建。(仙波東照宮)
寛永15年(1638)川越大火、山門(寛永9年建立)を除き灰燼に帰す。
同年徳川家光は堀田正盛を造営奉行として再建に着手。
寛永17年(1640)喜多院・仙波東照宮再建。
江戸城紅葉山別殿を移築(客殿、書院等)、慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、仙波東照宮、日枝神社などが再興され現存する。(客殿、書院、庫裏、慈眼堂、鐘楼門、山門は重文)
仙波東照宮(本殿、唐門、珠垣、拝殿、弊殿、石鳥居、随身門が重文)
徳川家綱、仙波東照宮に200石を下す。
明治2年、神仏分離の処置で、仙波東照宮が喜多院より分離の処置。
中院:現在も広大な伽藍を有する。正安3年(1301)に関東天台本山となる。かっては無量寿の中心であったようですが、天海入山より喜多院にその地位が移ったようです。 中院は無量寿の南(現在地)に移転させ、跡地に東照宮を造営と云う。南院は現在廃寺。
喜多院東、日枝神社南に仙波山仙芳塚(開山仙芳上人入定地)がある。
またこの西の地は元和8年家康の日光山遷座の途中に大法会が行われた本地瑠璃薬師堂があったという。この薬師堂は明治12年上野寛永寺の再興にあたり本堂として移建・現存する。
(明治12年大慈院跡に喜多院本地堂<寛永15年建立>を移し寛永寺根本中堂とする。>
埼玉青葉園三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
昭和53年(1980)竣工。 総高31m余り。三重塔としては相当な大型です。モデルは若狭明通寺三重塔で、設計は安田昭二氏。総檜の伝統様の塔婆です。彩色。
青葉園は民庵霊園のようです。 塔は「万霊追悼三重塔」と称する。隣接して神明?鳥居・神明造?の神殿も建ち、明治維新後の国家神道の象徴があるのは、その影響が未だにあることの象徴と思われます。
武蔵円乗院多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同   舎利宝塔
  同      本堂
円乗院多宝塔;左画像は円乗院様ご提供。
☆以下は多宝塔に関する円乗院様HPからの要約です。
・昭和56年5月17日落慶。弘法大師1150年御遠忌記念事業を建立。
・1階には十二支守本尊(八仏)、薬師如来、水子地蔵尊、2階は祖師堂と称し、弘法・興教両大師と併せて不動尊・輪蔵(大般若600巻)、3階には観音菩薩をそれぞれ安置。
・今回縁あって、インドより仏陀釋迦牟尼の真骨を頂戴し、塔中央に奉安。
・塔は高さ30m、間口7.5m、高野山、根来寺に次ぐ大塔。
・構造は骨組は鉄骨・鉄筋、造作は木造。京都奥村組施工。
舍利宝塔:文化5年(1808)円乗院十八世法印淨珊代、与野・井原芳章の作という。
総高100.4cm。宝塔は木造、台は黒漆箱の上に反花座と基礎を重ねる。基礎には十二支の浮き彫りはある。また宝塔四隅に四天王像を配す。内部の蓮台は荷葉座、蓮肉、三重に葺いた蓮弁に受け座を設け、五点の仏舎利を安置するという。
略歴:安養山西念寺円乗院と号す。建久年中(1190〜99)畠山重忠が、道場村に創建という。
慶長年中当地に移建、賢明上人を中興とする。慶長19年(1614)、徳川秀忠より、15石の朱印を受く。 真言宗智山派。本尊五大明王。
武蔵西福寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
明和4年(1767)建立。総高 23m。塔は徳川家光長女千代姫(尾張大納言光友室)の発願により建立。その後喪失し、明和4年再興。和様を基本。初重中備の蟇股に十二支の彫刻を置く。
(但し現地説明板では元禄6年建立とし、再興にことには言及がない。)
観音堂には西国・坂東・秩父の観音霊場「百観音」を安置、江戸期には江戸からの日帰りの距離であったと云う。
仁王門は退転(時期不詳)し、仁王像は昭和23年浅草寺に遷座。(現存かどうかは不明)
画像3に石製仁王像が写っていますが、この位置に仁王門があったと推定されます。(未確認)
武蔵長徳寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
昭和44年(1969)「開山塔」として建立。昭和四十年代に今より本堂に近い場所に建てられた後、同じ境内の中ではあるが、現在の位置に移築。木造・素木。 一辺3・5m。残念ながら写真のようにやや細部は簡略化されているようです。
長徳寺は臨済宗建長寺派の大寺です。貞治3年(1364)足利基氏の開基、天正19年中興。
江戸期には寺領40石。
2005/08/28 上野二宮赤城神社塔心礎 詳しくは「二宮赤城神社心礎」のページを参照ください。
上野泉蔵寺多宝塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同   大日如来
昭和36年建立。コンクリート製。 一辺3.24m。銅板桟葺き。組物などは省略されているが、均整のとれた造形をしている。
この多宝塔は開山堂(事情不詳)と称する。塔内には数々の位牌・寝釈迦像・伝教大師像?などが祀られているが、中央には大日如来を安置。
泉蔵寺は開山を念仏僧蓮性上人と伝える。寛永2年(1625)順慶が中興、元禄年中公田村・天台宗乗明院末寺となる。
上野山王廃寺 詳しくは「上野山王廃寺」のページを参照ください。
上野国分寺推定伽藍図
  同  塔跡復元図
  同  復元前塔跡
  同  復元基壇1
  同  復元基壇2
  同  復元基壇3
  同   塔礎石1
  同   塔礎石2
  同     心礎1
  同     心礎2
  同     心礎3
  同  復元金堂基壇
  同   金堂礎石1
  同   金堂礎石2
  同   金堂礎石3
  同   国分寺模型
  同  七重塔模型1
  同  七重塔模型2
  同  七重塔模型3
  同  七重塔復元図

史蹟:榛名山東南山麓の扇状地に続く台地に位置する。
南大門・中門・金堂・講堂・北面僧房が一直線に並ぶと推定される。(南大門・金堂・塔は確認済。)
回廊は中門から東西に金堂に取付くと推定。<推定伽藍図>:上野国分寺館パンフ、<国分寺模型>
塔は中門・金堂の(廻廊外)西に建立され、塔の基壇は一辺19.2m、高さは1.2m、塔の一辺は10.8m (柱間は3.6m)という。基壇は榛名山産出の安山岩の壇上積基壇であった。
心礎および塔礎石15個が残されている(四天柱礎・脇柱礎各1が亡失)。<塔跡復元図>
基壇復元前は、塔基壇上に礎石が露出した状態で残されていたようです。<復元前塔跡>
天平感宝元年(749)頃に主要伽藍が完成。長元3年(1030)<上野国交替実録帳>には金堂・講堂は健在だったが、その他の堂宇は既に退転した旨の記載があると云う。14世紀後半には金堂跡も墓地と化す。天明6年(1786)には礎と瓦が残るだけの畑地となる。
塔跡は現在基壇及び礎石も整備され、復元整備されている。<復元基壇><塔礎石>
 上野国分寺塔基壇    同    塔礎石2004/8/5「X」氏撮影
心礎は現存する。<心礎>
「幻の塔を求めて西東」:心礎は一重円孔式、330×166cm、径62cmの円形出枘を穿つ。
写真のように、円形出枘はおそらく削平されたものと思われ、その痕跡のみ見てとれます。
なお心礎の中央にある「充填」(セメント様の詰め物)は<復元前塔跡>写真のように、心礎上にかっては石碑(おそらく上野国分寺跡云々と思われますが、写真不鮮明で判読不能 。)があり、心礎を台石に転用したときに出枘が破壊され、石碑の差込穴が穿たれたものと推測されます。
金堂基壇及び礎石も復元整備されています。詳細は不詳ながら礎石の幾つかは復元礎石と思われます。<復元金堂基壇・礎石>
なお寺跡には「上野国分寺館」が付設:七重塔模型・国分寺模型・出土品などが展示。
七重塔復元図:
上野国分寺館パンフ

上野貫前神社 詳しくは「上野貫前神社」のページを参照ください。
武蔵金鑚神社多宝塔1
  同         2
  同         3
  同         4
  同         5
  同         6
  同         7
  同         8
  同         9
  同        10
  同        11
  同        12
天文3年(1534)建立。一辺4m、高さ13,5m。唐様がかなり取り入れられている。
心柱墨書銘:「天文三甲午八月晦日、大檀那阿保弾正全隆」とあるようです。(阿保弾正全隆は阿保郷丹荘の豪族)
嘉永6年(1853)塔修理、神仏分離の処置で大光普照寺第57世広貫の弟子詮量房が復飾改名(児玉大学と称す。)金鑚神社の神主となり、明治22年多宝塔は神社所属となると云う。
別当は大光普照寺(金鑚大師・元三大師:金鑚山と号する)であった。現存する。
聖徳太子創建で、慈覚大師円仁の再興と云う。
鎌倉中期に再興され、近世には川越仙波、下野長沼談所と並び、天台関東三檀林の一つであった。
上野緑野寺相輪橖(トウ)1
  同         2
  同         3
  同         4
 同 道忠禅師供養塔
六所宝塔の一つと伝える。
 安東:上野:宝塔院:在上野国緑野郡(緑野寺)、江戸期の再興塔現存
 安南:豊前:宝塔院:在豊前国宇佐郡(宇佐神宮)→筥崎神宮寺宝塔に変更
 安西:筑前:宝塔院:在筑前国:(竈門山)太宰府市内山、竈門神社下宮に礎石残存という。
 安北:下野;宝塔院:在下野国都賀郡(大慈寺)
 安中:山城:宝塔院:在比叡山西塔院
 安総:近江:宝塔院:在比叡山東塔院
緑野寺相輪橖(トウ):鬼石町浄法寺墓地にある。浄法寺(緑野教寺・般若浄土院)は緑野寺の法灯を継ぐと思われる。
現相輪橖(トウ):寛文12年(1672)再建。高さ5,3m。銅製。周囲18cm。
なお附近に伝緑野寺旧跡と云う寺院跡がある。礎石・古瓦が出土という。
しかしその寺跡は、現浄法寺東500m(神流川=上野・武蔵の国境)の東であり、武蔵国になる。
道忠禅師供養塔:明応5年(1496)建立。禅師は浄法寺(浄土院)の開基と云う。また鑑真の持戒1号といわれ、関東に佛教を弘教したと伝える。
2005/08/27 相模法船寺五重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5

平成5年(1994)完工、総高6.8m。、総檜本瓦葺きの本格建築です。横浜日吉天野工務店施工。総工費約7500万円。
文永11年(1274)日蓮上人鎌倉より身延入山の途中、酒匂川増水でこの地に留まる。この地の地蔵菩薩化身が地蔵堂に宿を提供、堂守は上人に帰依し、翌日船を出し、上人は渡岸する。
これに因み法孫朗慶上人が一宇を建立し、済度山法船寺と号すると云う。
なお酒匂には法船寺の外に法秀寺、法善寺、本典寺、妙蓮寺等の日蓮宗寺院が多くあるようです(事情は不詳)。

相模国分寺跡 詳しくは「相模国分寺跡」のページを参照ください。
相模泉龍寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
昭和63年(1988)。高さ15m、木造白木。純和様。
中和山と号し、曹洞宗。天正14年(1586)雪天透瑞の開山。鶴見総持寺→川崎円福寺末。末寺 に無量山西光寺、延名山常念寺、瑠璃山東光寺、常楽寺、南鶏山円法寺がある。
関東大震災で被災、その後復興。
相模香林寺五重塔1
  同        2

昭和62年(1987)落慶。鉄筋コンクリートで外観木造。純唐様。総高30.3m、屋根高20.7m、相輪9.6m。
地元の土地長者が寄進。 宅地分譲で区画整理事業を数回実施し、土地権者のうちの30人が昔からの共有地の売却代金を充当し、香林寺に寄進。建造費は10億円。
株式会社天野工務店<創業天保五年(1834)>施工。
臨済宗建長寺派南嶺山と号す。
訪問時は夕刻で、しかも俄かに暗雲が空を覆い、遠望で断念、そのため写真は遠望のみ。

2005/08/23
「X」氏情報
出雲来美廃寺塔跡 詳しくは出雲来美廃寺のページを参照ください。
伯耆上淀廃寺 詳しくは伯耆上淀廃寺のページを参照ください。
2005/07/23 信濃光前寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
  同        9
  同       10
  同       11
  同       12
  同       13
  同  三重塔本尊
  同  弁財天堂1
  同  弁財天堂2
  同  弁財天堂厨子
  同     本堂1
  同     本堂2
  同     三門

文化5年(1808)再建。一辺3.3m、高さ17m。本尊五智如来。
棟梁は諏訪立川和四郎、四郎治と伝える。
元の塔婆は応永年中(1394-1427)の建立で享和3年(1803)焼失と云う。

光前寺:創建は貞観2年(860)本聖上人の開山と伝える。天台宗。宝積山と号す。本尊不動明王。
江戸期は朱印60石を受ける。
弁財天堂:重文・室町期。方一間入母屋造。厨子も室町期のものとされる。本尊弁財天・十五童子は明応9年(1500)七条大倉法眼の作とされる。
本堂:嘉永4年(1851)再建。
三門:嘉永元年(1848)再建。

信濃照光寺二層塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
昭和9年建立。蚕霊供養塔と称する。平面6尺7寸(2m)、総高37寸(11.2m)、基壇・高さ5尺(1.52m)。屋根銅板葺き。組物三手先。棟梁:大隈流<株>石田組4代石田房茂。小型塔です。
真言宗智山派。
神仏分離資料によると、平野村(岡谷市)照光寺に
下宮神宮寺仁王門及び下宮神宮寺千手堂本尊観世尊が明治初年に遷されている。
藝術新潮1973.3には下宮神宮寺本尊大日如来(岡谷市照光蔵)坐像の写真掲載があります。おそらく三重塔本尊(推定)と思われます。
照光寺本尊は胎蔵界大日如来坐像。以下の什宝を有する。
木造金剛界大日如来坐像:諏訪下社三重塔本尊、胎内銘「七条仏所大蔵卿雲桂十代目也康作、明応3年(1494)」と云う。
木造仁王立像(2躯):諏訪下社仁王門像、高さ216cm、室町期。
厨子入千手観音立像(木造)・不動明王立像(木造)・多聞天立像(木造)はいずれも諏訪下社より遷されたと云う。平安期〜鎌倉期とされる。
 下社三重塔本尊:胎蔵界大日如来、藝術新潮「廃仏毀釈の行方」、1973.3所収、照光寺蔵
下社移建仁王門跡:薬師堂(観音堂と通称する。本尊は秘仏薬師如来で、脇本尊として千手観音を祀る)前に諏訪下社仁王門が移建されたと思われます。しかし残念ながら現在は退転し、 仁王門礎石(推定)が残る。
 照光寺薬師堂:正面が薬師堂、その石段上に諏訪下社仁王門が移建されたと推定される。
 薬師堂前仁王門跡・礎石:推定、薬師堂前石段上に残る推定し諏訪下社仁王門跡。
諏訪上宮神宮寺 詳細は「諏訪社神宮寺」のページ「上社神宮寺」の項を参照ください。
諏訪下宮神宮寺 詳細は「諏訪社神宮寺」のページ「下社神宮寺」の項を参照ください。
2005/07/22 三河寿泉寺三重塔1
  同        2
  同        3
  同        4
  同        5
  同        6
  同        7
  同        8
平成15年落慶。木造本瓦葺きの、基本的に和様を用いる正規の塔建築です。欅を用いる。
全体的なプロポーションは江戸後期様の印象です。本尊は薬師三尊。
豊橋市瓦町。臨済宗のようです。寺暦については不詳ですが以下の情報があるようです。
延宝8年(1680)、渥美郡大津村(現豊橋市老津町)桂昌寺が河原町に移転、元禄6年(1693)寿千寺(寿泉寺)と改号したとされる。「河原町村開発覚」(延享元年(1744)頃成立と推定):河原町:瓦町
「・・・桂昌寺領12石余・・・」:「旧高旧領取調帳」(明治元年)
「寺領三十五石禅宗関山派開基天暁禅師本寺京都妙心寺長松山太平寺,御朱印二十二石余内十七石寺領右同宗本寺同村太平寺天香山桂昌寺,寺領五石訣呑江山祥雲庵一石,金福山大雲庵一石熊野山安養寺二石医王山多門院六斗聖谷山慈洞庵四斗右太平寺末」:「三河国二葉松」(天明4年)
三河寿泉寺三重塔1   同      2   同      32003/11/16「X」氏ご提供
三河寿泉寺三重塔1   同      2   同      32004/2/8「X」氏ご提供
三河医王寺心礎1
  同       2
  同       3
  同       4
  同       5
「幻の塔を求めて西東」:出枘式、203×130×50cmで、59×8/12cmの柱座(と思われる)を造り、出枘は欠損という。
「三河国宝飯郡誌」(明治24年、早川彦右衛門著):「当寺ノ縁起ニ曰ク、文武天皇御悩ノ節陰陽師奏問シ奉ルハ、三河国勝岳山ニ仙人アリ。・・・・仙人ノ加持力ニテ御悩御平癒シ給フ。・・御悦アリテ伽藍ヲ建立、薬師如来ヲ安置シ、天牛山医王寺ト号スベシト。則チ大宝年中ノコト也。其ノ後延暦年中伽藍悉ク焼失セシリ。然ルニ霊場ナレバトテ、桓武天皇御再建、弘法大師作仏開眼ノ本尊を安置ス。其ノ後、白河院御造営。又長寛年中焼失ノ後、堂宇ヲ建立。・・・」
現医王寺は、天文17年(1548)豊川松鷲山花井寺二世東厳文菊和尚により開山されたという。境内から奈良期の布目瓦が出土したとされる。
「佛教考古學論攷 四 佛塔編」:三河医王寺心礎・・・ この当時は立てて置かれていたようです。
実測値:大きさはほぼ前出のとおりで、柱座径は約50cm。出枘の痕跡は現状では確認不能。 (安山岩のような石質のため随分とし磯はあれている。)心礎の凸はその大きさから柱座というより、枘とすべきとも思われる。
世界心道教三重塔1
  同        2
この八角三重塔は親様祖霊殿と称する。昭和62年落慶。鉄筋コンクリート製のようです。
但し、心道教は佛教とは関係なく、所謂教派神道の一派から 戦中から戦後にかけて分立したようです。主祭神は天地月日御親水火風之大神とする。(昭和13年、月読之命・国狭土之命が教祖に天下り、天啓者となるという。)従って、厳密には仏塔とは無縁のものと思われます。
三河鳳来寺三重塔跡 詳しくは「三河鳳来寺」のページを参照ください。

過去の訪問塔婆履歴