相  模  国  分  寺   跡

相模国分寺跡・相模上の台廃寺・相模海老名村八幡塔跡

2009/04/24追加:
大正13年「相模国分寺志」 より
  
※「相模国分寺志」中山毎吉、矢後駒吉著、大正13年・・・は相模国分寺跡に関するバイブル的文献である。

「相模国分寺志」では、以下の知見を得ることができる。
相模国分寺塔心礎は亡失。
南東の薬師堂跡に「一間四面の礎石配列の中央に礎石を持つ遺構(即ち塔遺構)」の存在があった。・・・・・「上の台廃寺」
南方の(國分寺鎮守である)八幡社跡に「一間四面の礎石配列を持つ遺構(八幡社宝塔)」の存在があった。

相模国分寺遺跡全図:左図拡大図

僧寺は南に 、尼寺は北に前後に並べて置かれた。距離は5町に過ぎぬ。

僧寺の南3町許の小高き位置に八幡の旧跡があり、さらに南に南大門の遺構がある。

境域内にはまた薬師堂の遺跡がある。これは八幡の東方丘陵上にある。
この堂の由来は天平17年聖武天皇の病気快癒のため、諸国諸寺に懺過の法を行わしめ、
翌年諸国に勅し、薬師像7躯を造立・経7巻の写経を命ず。蓋し、この時この堂舎を創り、その像を安置せしめたものがこの薬師堂であろう。


相模国分寺遺跡図:左図拡大図

第1号:24個の礎石(近年5個を失う)が8行5列に置かれる。(金堂跡)
第2号:17個の礎石(近年7個を失う)が4行4列の正方形に並び、中心に心礎があった。(塔跡)
第3号:19個の礎石(近年4個を失う)が8行5列の長方形に並ぶ。(講堂跡)
第4号:近年まで4個方形に存していたと云う。
第5号:1個の小形礎石が存す。
第3号からロ・ハと矩形に断続して地固の痕跡がある。
イ:若干の礎石があったことが古文書で知られる。(宝永10年:国分寺前通の御領地に柱石御座候・・)<中門跡>
ニ・ホ・ヘ・ト:各々地固ないしは石檀の遺物がある。



2021/08/08追加:
○相模原市サイト:昔の相模国分寺跡と昭和 より
 新編相模國風土記稿中の国分寺:風土記稿は天保年中の成立


相模国分寺塔跡・・・・・心礎は亡失

2009/04/24追加:
大正13年「相模国分寺志」 より
七重塔跡:

 相模国分寺七重塔礎石図: 左図拡大図
各間は等間で悉く1丈1尺7寸(天平尺1丈2尺)、一辺は3丈5尺1寸(天平尺3丈6尺)を測る。
礎石:今は僅かに10個を留めるに過ぎぬ。
明治の初年までは17個の礎石を始め、間石まで欠け目なく存在していた。
心礎は径8尺許あった。上面は平坦に削刻し中央に径3尺、高さ1尺5寸許の圓壔が繰出され、その圓壔の上には径56寸深若干の穴が穿たれてあった。
心礎以外の礎石で最大のものは7尺3寸5分×7尺2寸4分に及ぶ。
石檀:明治維新以降次第に破壊され、今日はその基脚の一部を存するにすぎぬ。基壇化粧は自然のままの円石を積み重ねたものにすぎぬ。
 相模国分寺塔跡写真

2010/11/29追加:
「海老名市史1 資料編 原始 古代」海老名市、平成10年 より
 相模国分寺塔跡発掘状況     相模国分寺塔基壇延石:基壇延石と雨落石敷
 相模国分寺基壇南辺地覆石     相模国分寺基壇北辺積石

○相模国分寺塔跡:2005/08/27撮影
現状塔跡は壇上積み基壇が復元され、基壇上には失われた心礎を含む礎石も復元整備される。
 

塔基壇は一辺20.4m・高さ1〜1.35m、塔一辺は約 10.9m。
基壇外装は、当初は壇上積基壇であったが、後に北辺が河原石積(乱石積基壇)で修理されたとされる。基壇のまわりには雨落ちの石敷があった。
心礎及び6個の礎石は失われているも、抜取穴は残存。

相模国分寺塔跡発掘基壇
  「相模国分寺創建」海老名市教育委員会、平成14年 より転載。
   (上が南、向かって右が西の写真である。)

明治初頭には心礎が現存したが、その後の消息は茫として知れず。

2021/08/08追加:
○相模原市サイト: 史跡相模国分寺跡の概要 より
 相模国分寺塔跡発掘2:上図とほぼ同一の写真


相模国分寺亡失心礎
 「幻の塔を求めて西東」:
  心礎は円柱座造り出し一重円孔式、大きさは242×212cmで、径90cmの円柱座を造り、中央に径18cmの孔あり。
 「相模國分寺建築論」田邉泰 では(下掲載)
  今は他に運ばれて之を実見する事を得ないのは甚だ遺憾である。実見者なる中村毎吉氏の談に拠れば、
  径約8尺(2.4m)許りで、上面を平に削り、中央部に径3尺(90cm)、高さ1尺5寸(45cm)許り圓壔を繰出し、
  その圓壔の上には径56寸(15-19cm)、深さ若干の穴が穿たれてあったと云うのである。
 「相模国分寺」赤星直忠 では(下掲載)
  心礎は今は無いが中村毎吉氏の幼児の記憶では表面が削平され、中央に径3尺、高さ1尺5寸許の大枘が彫り出され、
  その中央に径5、6寸の穴が穿たれて居り、大枘の上に熊野権現社が奉置してあったと云う。

○相模国分寺復原塔基壇・礎石:2005/08/27撮影

相模国分寺復元塔基壇1
  同           2
  同           3
  同           4:左図拡大図
  同 復元塔礎石1
  同        2
  同        3
  同        4

2006/08/14追加:
○相模国分寺古写真:「柴田常恵写真資料」より
 相模国分寺塔跡1    相模国分寺塔跡2     相模国分寺塔跡3:何れも大正12年10月15日撮影
 相模国分寺金堂跡1  相模国分寺金堂跡2:何れも大正12年10月15日撮影
 ・2008/08/16追加:
   相模国分寺跡:大正9年6月   相模国分寺跡遠望:大正12年10月15日
   相模国分寺金堂跡:大正12年10月15日    相模国分寺講堂跡:大正12年10月15日
2009/09/14追加:
「国分寺址之研究」堀井三友、堀井三友遺著刊行委員会編、昭和31年 より
 相模国分寺塔址21

2021/08/08追加:
○相模原市サイト:昔の相模国分寺跡と昭和 より
 昭和25年頃の塔跡     昭和40年塔跡発掘調査     昭和25年頃の金堂跡
 


相模海老名村八幡塔跡

※「柴田常恵写真資料」に上に掲載の「国分寺塔跡」とは別に、下記の「八幡塔」あるいは「海老名小学校八幡塔」なる写真がある。
 相模 海老名小学校校庭八幡塔礎
 相模海老名村 八幡塔大正12・10・15
  (写真のサイズが小さくはっきりしないが、土壇上にかなりの数の礎石が残存していたものと思われる。
   しかも、礎石はかなりの大型で、中には柱座を造り出したとも思われる礎石もあるように見える。)
 2022/12/29追加:「柴田常恵写真資料」 より
  上記の拡大写真である。
   相模 海老名小学校庭八幡塔礎、礎石
   相模海老名村 八幡塔大正一二、一〇、一五、礎石


 ではこの「八幡塔」とはどのような遺跡なのか。
「八幡塔」とあるので、これは「塔跡」と認識していたことは確かであろう。
しかも、相模国分寺塔跡とははっきりと区別し、「海老名小学校校庭八幡塔」・「八幡塔」と称している。
これは明らかに、「相模国分寺塔」とは別の「塔跡」があったと云うことを示す。

記録では、昭和6年頃国分寺の基壇・礎石は畑の中にあったといい、であるならば、海老名小学校校庭にある遺構は国分寺とは別であろう。
また海老名小学校の沿革の情報が掌握出来ないため、以下推測になるが、現在の海老名小学校がある位置は(国分寺址の南の)国分八幡社跡附近と推測され、大正12年頃も小学校が現在地にあったとすれば、この 「八幡塔」と国分寺塔とは別の「塔跡」 (遺跡)であることになる。
 ※両者の写真は各々異なっている印象である。
要するに、柴田氏は、国分寺塔跡とは別に、海老名小学校校庭・八幡社跡附近に国分寺塔跡とは違う「塔」の遺構・礎石<八幡塔>があるとの認識で、記録したものと思われる。
事実、同じ頃(大正末期)中村毎吉氏はその著書「相模国分寺志」で「八幡宮」に「宝塔の残滓」との言及と礎石配列の記載がなされる。

 では八幡塔とは一体どのような遺跡なのか。
2009/04/24:現段階では、下記に掲載の中山毎吉氏「相模国分寺志」(大正13年)の云う性格の遺跡であろう。
中村氏以降、何れの論文も「相模国分寺志」の引用のレベルであり、中村氏の知見を超えるものは無いと思われる。

  ▼相模國分寺塔南方に海老名村八幡塔跡があり、
  更に国分寺南東の「上の台廃寺(伝薬師堂跡)」にも塔跡とも思われる遺構があった。

2009/04/24追加:
大正13年「相模国分寺志」 より
八幡宮

 八幡宮旧跡礎石配列図: (左図拡大図)
現今小学校校庭に在るものは、本来の位置から南へ32間(58m)、西へ1間(1.8m)許移されたもので、この礎石も数個変更されたものである。方2丈、あるいは云う、八幡宮の宝塔の残礎であると。
八幡宮は往時国分寺の鎮守として勧請せられし処で、この礎石の南に近年まで村社として鎮座ありしが、明治42年に他社と合併の為、字大松原に移って、今彌生神社と称えられている。
 相模国分八幡宮跡:建物は海老名小学校と思われるも、もし校地の大規模造成が行われていないとすれば、かなりの規模の境内であったと思われる。

※以上により、海老名国分八幡宮には宝塔(八幡塔)があり、明治維新後も宝塔の礎石が残ると知れる。
但し、当八幡宮の経歴はほぼ不明、八幡宮宝塔とする根拠・典拠なども全く不明。
※しかも、礎石は60mほど動かされ、忠実に礎石配置が復元されたのかどうかも不明。

2010/11/29追加:
タウンニュース:2010年10月30日号 に以下の注目すべき情報 の掲載がある。
「海老名小学校 11月1日 開校100周年
国分寺跡に隣接する「八幡社」跡地に明治42年11月1日に開校した「尋常高等海老名小学校」は「尋常高等大国小学校」、「尋常啓蒙小学校」、「尋常海老名小学校」、「尋常今泉小学校」の4校が合併する形で誕生した。現在の校舎南側の一角に並ぶ5つの石はその八幡社の層塔礎石だという
 初代校長に中山毎吉が就き開校した当時、村議会議事録によると海老名村の人口は5,107人。4つの仮教場と現在の定時制にあたる実業補修学校をあわせても児童数は687人だったと記録されている。」
 ※以上によれば、八幡社宝塔礎石といわれる礎石5個が現存すると思われる。

2011/06/18追加:2011/05/28「X」氏撮影画像
◆相模海老名村八幡塔礎石
海老名小学校校庭には以下の写真のような礎石と思われるものがある。
 相模海老名村八幡塔礎石1     相模海老名村八幡塔礎石2     相模海老名村八幡塔礎石3     相模海老名村八幡塔礎石4
上の資料によれば、校舎南側には5個の八幡社礎石が残ると云うので、上記写真の比較的大きな石5個が八幡塔礎石であるのであろう。
ただし、写真からは礎石であるとの確証を見出すことはできないが、伝えるように八幡塔礎石が保存されているのであろう。


上の台廃寺(伝薬師堂跡)(塔跡含む)

「相模国分寺創建」、海老名市教育委員会、海老名市温故館発行、平成14年 に「上の台廃寺(伝薬師堂跡)」の記事がある。
 相模国分寺跡南東150mの丘陵上にあった。現状は開発によって破壊。
 礎石配置は相模国分寺塔跡と同一で、規模もほぼ同等であることから、大伽藍があったと想定される。
 瓦は国分寺・国分尼寺と共通している。
(記事要約)
  ※以上によれば、相模国分寺塔とほぼ同一の規模で、しかも出土瓦を同じくする堂宇もしくは塔があったと思われる。
  ※但し、この遺跡は既に宅地開発で消滅したと云う。
  ※上の台廃寺は国分寺跡の南東約150m(現国分寺の裏手にあたる丘陵地)にある。現在は少量の瓦が残るのみ。
  1963年の調査などから、相模国分寺の塔跡と同じような礎石跡があったことが判明、
  「海老名市史1 資料編 原始 古代」(p.663)では
  この廃寺は、元慶2年(878)地震・火災による相模國分僧寺が再建されたものとも考えられるとする。

あるいは
下に掲載の「相模國分寺建築論」田邉泰([建築雑誌 Vol.45, No.547」昭和6年 所収)では
「八幡宮址の東北方に近い丘陵地に薬師堂跡がある。ここも現在では三間の礎石の配置丈けが残って、瓦石に蔽われている。恐らく経蔵跡に擬すべきものであろう。」 と云う。
さらに
これも下に掲載の「相模国分寺」赤星直忠(国分寺の研究 上巻」角田文衛編、考古学研究会、昭和13年 所収)では
「僧寺址の東の山頂に布目瓦の多数散布する地がある。瓦石に蔽われた3間3面(約3丈6尺ある)をなしている。恐らく経蔵に擬すべきものと言われる。之れと並んで西辺に偏って瓦片堆積の一区画がある。礎石はないが鐘楼跡かと云われる。金堂址はこの2個のこの2個の建物を左右に具えて中央に南面して建ち、正面に中門を構えていたものと考えられるが、金堂中門ともに礎石の存するものはない。此処を薬師堂跡と伝える。」とある。
 ※以上の三者は同じ遺跡と思われる。
 ※伝薬師堂跡と伝えるおそらく相模国分寺と関係した大きな伽藍があり、近年まで塔跡とも経蔵跡とも推測される3間の平面方形の礎石建物跡があり、十分は調査もなされないまま消滅したということであろう。
 ※この遺構は柴田氏記録の「八幡塔」あるいは「海老名小学校八幡塔」とは別の遺構で、その東の丘上にあった。

2009/04/24追加:
大正13年「相模国分寺志」中山毎吉氏ほか より
 ※現段階では、中村氏以降の何れの論文(「海老名市史1」を除く)もこの「相模国分寺志」の引用のレベルであり、中村氏の知見を超えるものは無いと思われる。
薬師院

相模薬師院礎石配列図:(左図拡大図)
丘陵上に存在する薬師院旧跡中の、東辺に偏って残れる礎石の配列図である。
瓦石に覆われ、未だ詳細に丈量を遂げたものではないが、約3丈6尺(天平尺3丈7尺)四面をなす。この礎石はその配列から考えて経蔵(輪転蔵)に擬すべきものと思われる。之れと並んで西辺に偏って瓦片堆積の一区画がある。礎石は悉く散逸して推考に苦しむが、おそらくは鐘楼跡ではあろうか。経蔵・鐘楼相対立するは伽藍の常軌である。
 ※中央間14.6強:約4,5m、脇間10.7強:約3.3m、3丈6尺1寸:約10.5m

※礎石配列から云えば、塔跡の可能性が高いが、礎石の大きさ特に心礎の形状・大きさの論述が無く、不明とするしかない。また、亡失の経緯なども不明。

2010/11/29追加:
「海老名市史1 資料編 原始 古代」海老名市、平成10年
上の台廃寺:
僧寺跡から南東約150m地点の丘陵にある。
ここは「薬師堂跡」「薬師院跡」といわれたところであるが、現在はすべて宅地化し、遺跡は消滅する。
昭和38年県立厚木高校歴史研究部と飯田孝が礎石位置や瓦溜の測量を実施する。
その結果は心礎を中心に方1間(4.7m)、入側3間(11.2m)の礎石列があり、入間の中央間は4.8m、両脇間は3.2mというものであった。これは上記の中村毎吉の相模薬師院礎石配列図を追認するものであった。
残念ながら、礎石の大きさは記録がないので、即断はできないが、遺構の規模は国分寺塔跡と同じであり、塔跡とも思われる。
この遺構から西へ約36mの所に瓦溜があった。
また県道吉岡海老名線の所にはかって礎石が露出していた。
ではこの廃寺跡の性格は、出土瓦などから見て、僧寺焼失後、新にここに薬師三尊を安置したという推測も出来る。
 上の台廃寺跡推定地
 上の台廃寺礎石
       1950年代撮影、手前の中央に礎石と思われる遺物が写る、この礎石が推定塔遺構の礎石中の1個と思われるも、不明。
2010/11/29追加:その他の情報
ここには古代から焼失することなく存続した薬師堂と呼ばれる建物があったと伝承する。聖武天皇の宸筆との伝承があった、
そして、聖武天皇宸筆と伝える「金光明四天王護国之寺」扁額などの寺宝があったと云う。後に薬師堂は在の国分寺がある場所に移築され、現在の国分寺の基とあるも、明治43年薬師堂は焼失する。


2009/04/24追加:
大正13年「相模国分寺志」 より
金堂跡:
 金堂跡礎石復原図:7間×4間の規模を持つ、法量は図面に表示の通り。
礎石は自然石で大きさの長は5尺6寸〜4尺、幅は4尺7寸〜3尺9寸を図る。
石檀(基壇)化粧は「余等が前年発掘によって発見した石檀んぼ残部は、総て1尺数寸大の円石を使って、其の稍々平垣なる面を表にして畳み上げている許り」であった。
 相模国分寺金堂跡
講堂跡:
 講堂礎石復原図:7×4間の建築。

2008/08/27追加:
「相模國分寺建築論」田邉泰([建築雑誌 Vol.45, No.547」昭和6年 所収)より
 

◆相模国分寺附近図:
 この図は下に掲載の「相模国分寺」赤星直忠からの転載、
 相模国分寺附近地図の部分図

「現在海老名村役場の西に接して国分僧寺の礎石が畑の中に点々として存在している」
 ※海老名村役場(現海老名市温故館のある場所と思われる、
 町制施行後も、昭和40年までこの場所が役場であったという。

「僧寺の南方に八幡の旧址があり、この附近から南北に一直線に切通して国分寺の参道が設けられ、・・・とにかく・・この参道に南大門が存在したことは明らかに推定される、・・・ ・・現在龍峯寺の南に接する所に布目瓦の破片が散布されている所があるが、恐らくこれが南大門跡に擬するべき所であろう。現今龍峯寺の境内に礎石と思われる石が数個存在しているのも、大凡この遺跡の礎石を移したものと推定される。」
「八幡宮は往昔国分寺鎮護の為勧請せられたもので、現在の礎石は何れもその位置が変更されている・・近年まで村社として鎮座、・・明治42年他の社と合併、彌生神社(字大松原)と称せられている・・・」
 ※明治42年、いずれも海老名村の国分・八幡社、
 上今泉・比良神社、柏ヶ谷・第六天社、聖地・大綱神社の4社を
 合祀し、彌生神社が創建された。
 ※瑞雲山龍峰寺は昭和3年現在地に移転、
 旧地は現在の海老名中学校の場所にあった。

「八幡宮址の東北方に近い丘陵地に薬師堂跡がある。ここも現在では三間の礎石の配置丈けが残って、瓦石に蔽われている。恐らく経蔵跡に擬すべきものであろう。」
 
※相模国分寺は平安期には次第に衰微し、平安末期には上の台(現在の国分南26、27番、25番付近)に移転、
 さらに江戸期には現在の国分寺の地に移転と思われる。
「この薬師堂の境内に鐘楼には正応5年銘の國分尼寺の古鐘が一口あるが、その銘に依って知らるる如く、この薬師堂は國分尼寺に充てられたことも明らかに推定される。」

「礎石:塔跡に於ける心礎は最も興味のあるものであるが、今は他に運ばれて之を実見する事を得ないのは甚だ遺憾である。
実見者なる中村毎吉氏の談に拠れば、径約8尺(2.4m)許りで、上面を平に削り、中央部に径3尺(90cm)、高さ1尺5寸(45cm)許り圓壔を繰出し 、その圓壔の上には径56寸(15-19cm)、深さ若干の穴が穿たれてあったと云うのである。」
「現存する礎石の数量は大体次の如くである。
「金堂址:17個(19個欠)、塔婆址:10個(7個欠)、講堂跡:15個(21個欠)、中門址:2個(欠数は不明)」
「遺跡の復元:
金堂は7間四面の礎石配置をとり、礎石そのものは上面平らな自然石である。
 金堂跡礎石:昭和初頭
塔婆は方3間で、各間は(珍しく)等間である。柱間は11.76尺(唐尺=天平尺12尺)、一辺は35.28尺(唐尺36尺)を測る。かなりの大規模な平面を持つ。
 塔婆址・金堂址実測図:田邉泰作図
 相模国分寺復原図
講堂は金堂と同様規模で7間四面、金堂と同規模とは珍しい。現状講堂跡中央部を畑道が南北に通過しその部分は基壇が切り取られ、他の部分は桑畑である。」
 (参考)
・「新編相模国風土記稿」(天保12年・1841)には相模国分寺遺跡の絵図がある。
・中山毎吉:国分村出身、尋常高等海老名小学校長、相模国分寺址の調査及び保全に尽力する。
著作として「相模国分寺志」(矢後駒吉共著・大正13年)がある。大正10年「温故館」の前身施設を尋常高等海老名小学校校庭に建立する。
・大正10年、相模国分寺跡国指定史跡となる。

2008/08/27追加:
「相模国分寺」赤星直忠(国分寺の研究 上巻」角田文衛編、考古学研究会、昭和13年 所収)

「塔址・・・には今10個の礎石が存するに過ぎぬが明治初年までは心礎共17個の礎石、12個の間石、基壇の石垣まで完全に保存されていたが、その後次第に破壊され・・・ 今の姿に至る。基壇の名残も存し・・・本来はその側面に石垣が築かれていたもので、今はその一部を残し、1尺4,5寸大の自然石の平な部分を面として積まれている。基壇は玉石を平に並べた層があり、更に一段低く同様の層があるから・・・二段になっていたものと推定される。」
「心礎は今は無いが中村毎吉氏の幼児の記憶では表面が削平され、中央に径3尺、高さ1尺5寸許の大枘が彫り出され、その中央に径5、6寸の穴が穿たれて居り、大枘の上に熊野権現社が奉置してあったと云う。各礎石の間隔は悉く1丈1尺7寸、田邊氏に依ると7 尺6寸である。
全体の大きさは3丈5尺1寸である。」
「塔址と金堂址を連ねる線に対して、講堂址から360尺を隔てて御領畑と云う所があり、以前には4個の礎石があったと伝えられている。此処が中門址(※南大門址の誤りであろう)と推定されている。」
 相模国分寺遺跡図
「僧寺址の東の山頂に布目瓦の多数散布する地がある。瓦石に蔽われた3間3面(約3丈6尺ある)をなしている。恐らく経蔵に擬すべきものと言われる。之れと並んで西辺に偏って瓦片堆積の一区画がある。礎石はないが鐘楼跡かと云われる。金堂址はこの2個のこの2個の建物を左右に具えて中央に南面して建ち、正面に中門を構えていたものと考えられるが、金堂中門ともに礎石の存するものはない。
此処を薬師堂跡と伝える。」
 相模国分寺附近地図:八幡社跡附近が海老名小学校と思われる。温故館は村役場の場所にある。(上に掲載)

相模国分寺水煙断片:2005/08/27撮影:
 

金銅製・鍍金。1×60cm。平成4年(1992)の発掘調査で発掘。
 相模国分寺水煙断片1
   同          2:左図拡大図
   ※海老名市温故館展示

2021/08/08追加:
○相模原市サイト: 史跡相模国分寺跡の概要 より
 金銅製水煙片出土状況     金銅製水煙片修復


相模国分寺金堂発掘調査報告(2005/08/27撮影:現地説明会)

発掘調査結果によると、中心部伽藍は巨大なものと判明。
金堂は回廊内東・塔は回廊内西にあり、回廊(もしくは築地塀)は講堂に取付く。(法隆寺式配置)

 □相模国分寺伽藍発掘図:2005年8月発掘調査説明会資料
 □相模国分寺伽藍配置図:「相模国分寺創建」海老名市教育委員会、平成14年

金堂礎石は36個中16個が現存。今般の発掘調査で礎石は元位置を保つと確認。
金堂は桁行7間(36.6m)×梁間4間(16.8m)と確定した。
金堂基壇は版築され、基壇外装は葺き石状(地平面に地覆石を置き、そこから基壇上まで斜めに葺き石を置く。)基壇と判明。
基壇は47.5×30.4mとされる。(従来は41.2×24mとされ、葺き石は雨落ち溝とも解釈されたのであろう。)

金堂跡は今般初めて本格的に調査される。
  □相模国分寺金堂発掘図: 下図拡大図:2005年8月発掘調査説明会資料
 

相模国分寺金堂跡遠望
  同        1:手前礎石はS14・S9
  同        2:手前礎石はS14・S9
  同   金堂礎石1:S14
  同   金堂礎石2:S9
  同   金堂礎石3:S9
  同   金堂礎石4:S6
  同   金堂礎石5:S11・S15
  同   金堂基壇1:T9
  同   金堂基壇2:T9
  同   金堂基壇 3
  同   金堂基壇 4
  同   金堂基壇 5
  同   金堂基壇 6

講堂跡:12個の礎石が残存すると云う。7間(34・7m)×4間(14.4m)の規模。
僧坊跡:講堂北方から発掘。
推定経蔵・鐘楼:基壇を発掘。
回廊は東西160m、南北120m。

2009/04/24追加:
◎相模国分寺沿革
弘仁10年(816)火災焼失(「類聚国史」)、元慶3年(879)地震・火災で焼失。
この後の再興は現地ではなく、上の台廃寺(伝薬師堂)に再興された可能性があるとの説もある。
建久5年(1194)源頼朝により国分寺修造。
その後、中世末には国分寺堂塔は戦乱の影響などで、全く絶えたものとされる。
しかし、丘陵上にあった薬師堂一宇のみ残り、これを現在国分寺の地に移し、辛うじて再興される。
正徳年間(1716)住僧堯智本堂を再建し、本堂・薬師堂・経蔵・山門・庫裡等が並ぶも、幕末頃本堂・経蔵・山門等廃絶する。
 正徳年中国分寺伽藍図:本堂8間四方、薬師堂・庫裏と歩廊で結ぶ。(「相模国分寺志」 より)
明治43年民家の火災により薬師堂が類焼、同年薬師堂跡に仮本堂が再建される。
 国分寺薬師堂図:5×5間、桁行4丈・梁間4丈、方形茅葺、薬師堂草創時の建築と伝える。(「相模国分寺志」 より)
昭和29年客殿出火、昭和46年本堂・客殿再建、昭和51年鐘楼再建、平成6年本堂造替。

2010/11/29追加:
「海老名市史1 資料編 原始 古代」海老名市、平成10年:
天保12年(1841)の「新編相模国風土記稿」には僧寺址の俯瞰図があり、礎石が描かれる。
明治36年永井健之輔が礎石を本格調査、塔阯で13個、金堂阯で18個を確認する。
大正期には中山毎吉が礎石配置や大きさを詳細に調査する。
 相模国分寺伽藍復元図

2021/08/08追加:
○海老名市温故館展示 より
 相模国分寺復元模型1     相模国分寺復元模型2
○相模原市サイト: 史跡相模国分寺跡の概要 より
 相模国分寺復元絵図


相模国分寺塔模型

塔は、七重で高さ約65mとの推定で作成される。
相模国分寺塔模型(スケール1/3)が海老名駅前の公園にモニュメントとして建てられる。
模型そのものは正規の塔建築ではない。平成4年竣工・海老名観光協会設置。
2005/08/27撮影:
 相模国分寺塔模型1     相模国分塔模型2     相模国分寺塔模型3
 


2006年以前作成:2022/12/29更新:ホームページ日本の塔婆