★三重塔跡
○「群馬県の地名」:
境内に鎌倉期のものと推定される塔跡と心礎がある。心礎は舎利孔を穿ち、裁石が心礎を取り巻いている。
南東にある無量寿寺境内から、文明18年(1486)大本願頭白上人、大旦那妙昌栄梁、小旦那妙珎によって木造三重塔を造営した旨の石製銘文が発見されたという。
塔跡は本殿東にある。
※筑波山無量寿寺:山号を筑波山と称する。豊山派。隆光と関係があるものと思われる。赤城神社東2〜3丁附近に現存。
天和2年(1682)江戸護持院(護国寺)住職隆光僧正が当寺に隠居転任し再興するという。
○「式内社調査報告 第13巻」:
鎌倉時代の塔心礎が残存。(江戸期の地図には五重塔跡とある。)
2014/09/17追加;
社頭の案内板には以下のように掲示するという。
「当社ハ、第十代崇神天皇ノ皇子『豊城入彦命』『大己貴尊』ヲ始メトシ、数柱ノ神々ヲ祭神トシ、第十一代垂仁天皇、第十二代景行天皇ノ時代ニ創建サレタト伝ヘラレル古社デアル。
特ニ、古代豊城入彦命ヲ始トシタ毛野氏ノ子孫上毛野氏ト深イ縁ノアッタ社トモ伝ヘラレテイル。
平安朝初期ノ第五四代仁明天皇ノ承和六年(829)ニ従五位下ニ叙サレテ官社トナリ、続イテ昇叙ヲ経、第六〇代醍醐天皇ノ延長五年(927)ニ制定サレタ『延喜式』内、上野国十二社中ノ名神大社トサレタ。
第六八代後一條天皇ノ長元々年(1028)頃ノ上野国ノ国司文書中ニ、正一位赤城大明神、上野国神名帳ニハ、上野国二宮赤城大明神ナドノ神位、神階ガ記録サレテイル古名社デアツタ。
第七〇代後冷泉天皇ノ永承四年(1049)ニハ、日本全国ノ諸社中カラ五五社ガ選バレ、神仏習合ノ勅願神社トナリ、当社モソノ一社トシテ、社域内ニ造塔ノ折、心礎(根巻石)内ニ仏舎利(釋迦尊ノ骨片、現存)ガ奉納サレテイタノデアル。
鎌倉時代ニハ征夷大将軍源頼朝ノ崇敬ヲ受ケ、建久五年(1194)当社ナドノ修築ヲ、守護職安達盛長ニ命ジ、二宮太郎浅忠、岡部九内忠成ラガ修築ヲ奉行シタリ、百石ヲ寄進シタト云ウ記録モ見ラレル。
戦国時代ニ小田原城主北條氏政ノ軍勢ニ依ッテ、数多クノ建物ハ打壊サレ、潰滅的被害ヲ受ケ、宝物類モ多ク失ナイ衰微シタ。
天正十八年(1590)北條氏滅亡後、領主トシテ大胡城ヘ入城シタ牧野駿河守忠成、康成父子ヲ始メソノ後厩橋藩主トナツタ酒井氏歴代、江戸時代幕府ノ天領代官藩主松平氏歴代サラニ住民ニ篤ク尊崇サレテキタ。
ソシテ赤城南麓地帯ノ関連神社ノ中心的役割ヲ果シテイタ。」
※永承4年(1049)には「造塔」がなされ、心礎に仏舎利が奉安されたという。また鎌倉期には源頼朝の修築があったといい、この時塔の造替があったのかも知れない。
2005/09/10追加:
※心礎実測図:見える部分を実測。但し概測。
(「礎石」全貌は土中にあり判然としない。)
|
見える範囲の大きさ:70×80cm。
円穴は擂り鉢状、上径46cm・底径約20cm・深さ約19cm。
円穴外周に巾8〜10cmの帯状の凸があり円穴を一周する。
心礎位置の現状はおそらく50cmばかり地表下にある。 |
※塔心礎の現状:
※二宮赤城神社の塔心礎について(疑問):2005/09/10追加
二宮赤城神社に三重塔(もしくは五重塔)があった可能性は、記録が残り、非常に高いと思われるが、
「塔心礎」と称する「遺物」が本当に「塔心礎」かどうかについては疑問がある。
1.心礎が動いていないと仮定すると、現在心礎のある場所が塔跡であるかどうかの確証がない。
(発掘調査の有無・伝承・その他の礎石の存在・その他の塔関連の遺物の有無が全く分からない。)
あるいは、心礎が移動しているとすると、どこから移動してきたのか不明。
2.見える範囲での形状は上記の実測図・写真のとおりであるが、形状は心礎というより手水鉢の形状とも思われる。
円孔に後世の加工がないとすれば、この円孔が柱穴もしくは枘孔であるとは思われない。
3.現状の心礎位置は現在の地表から50cm以上(目測)下にあり、最初期の塔でなければ、位置も不自然と思われる。
4.いずれにしろ、現在の情報だけでは、心礎とするには「大いに」疑問がある。
では心礎でないとすると、この遺物は何なのであろうか、しかしこれは不明とするしか無い。
★略 歴
二宮赤城神社:
現在赤城神社本社とされる三夜沢赤城神社の元宮の可能性が高いと考えられる。
二宮赤城神社の地は古代上毛野の中心地と考えられること、また赤城山の真南に位置し、二宮の地名を負い、元三夜沢・三夜沢赤城神社の御神幸があることもその傍証になる。
神宮寺は玉蔵院(後に大胡へ移転)。
戦国期北条氏により破壊、大胡に入封した牧野氏によって再興される。
なお天台宗慈照院(二之宮町1811・・・二宮の南方)本尊十一面観音(鎌倉後期・秘仏?)は二之宮の本地仏と云う。
慈照院は中島山と号す。江戸中期以降無量寿寺が無住になり、赤城神社の別当になるという。
昭和34年、二宮赤城神社前の一角、鐘楼の東から観音堂と共に移されたという。
※二宮赤城神社の現状:2005/08/28撮影:
□二宮赤城神社境内図:社地には濠と土塁を廻らす。おそらく中世の社地の遺構と考えられる。
仏教的な遺構については以下が現存する。
□鐘 楼:元は舞台附近にあったと云う。(おそらく神仏分離で移転させられた可能性が高い。)
倒壊の惧れがあると思われ、鉄骨で補強されているのが現状である。
※2014/09/17追加;「神社仏閣史跡巡り」>「二宮赤城神社」に掲載される鐘楼写真では鐘楼は修復されたことが分かる。
上記ページの二宮赤城大明神鐘楼
□梵 鐘:銘には元和9年(1623)とあり、本地仏(地蔵菩薩・虚空蔵菩薩・千手観音)や寄進した村々の名前、
「赤城山神宮寺」などと刻むと云う。径72×高さ170vmを測る。
□宝 塔:南北朝期のものと推定される。この地方に広く分布し赤城塔と呼ばれる。
□社務所前堂宇:社務所前面の堂宇で、社殿に改装されてはいるが、明らかに仏堂を改装したものと思われる。
※現在は神輿舎であるが、明治の神仏分離以前は十二天を祀るという。
なお三夜沢赤城神社との間には御神幸が今でも行われていると云う。(その折には鐘楼の鐘が撞かれるという。)
宇通遺跡(宇通寺院跡):
三夜沢赤城神社には社地移転の伝承がある。
元地は元三夜沢と呼び、三夜沢赤城神社の東方(粕川左岸中之沢の地と云う)に位置する。
昭和41年元三夜沢伝承地の北の宇通遺跡で、平安後期の仏殿・社殿跡と思われる礎石群が発見された。
この宇通遺跡が三夜沢赤城神社の元社地と推定される。
確認された建物跡:5×4間の堂、方3間の塔もしくは堂、八角円堂、方3間の割拝殿?、4×3間の神殿?など数十棟と云う。
またこれ等の遺構は火災を受けているとされる。
2005/08/26追加:「群馬県史 通史編2」より
○宇通遺跡(宇通寺院跡):
昭和40年に山火事がり、その焼け跡から偶然に発見された。
宇通遺跡配置図:「群馬県史 通史編2」
現在礎石建物16棟、掘立柱建物1棟、竪穴住居50棟程が確認されたいる。
一番上段に6棟の建物が配置され、5×4間の大型建物【I棟】、八角円堂【G棟】などを含むが、造りなどから雑舎的な建物と判断される。
中段には4×3間の複合的な構造の【F棟】と3×3間の【C棟】、【D棟】が配置される。
下段には3×3間(桁行10尺−13尺−10尺、梁間9尺−9尺−9尺)の大型堂【A棟】、4×4間の小型堂【B棟】などがある。
【D棟】については、桁行10尺−10尺−10尺、梁間10尺−10尺−10尺の正方形の堂跡であるが、中の4個の礎石の柱通りが悪く、塔建築ではなくて、内部を広く採る方形造であろう。
出土遺物(塑像片・神像・経軸片などの出土状況からj【A棟】が中心堂宇であり、次いで【I棟】、【F棟】などが主要堂宇であろう。
出土瓦・堆積層土などから総合判断して、この寺院跡は10世紀中葉から11世紀前半まで存続した遺跡と判断される。
また割拝殿とも考えられる【B棟】については、拝殿とする積極的根拠はないと思われる。
この寺院はおそらく天台系の密教山岳寺院跡という性格であろうと思われる。
★参考:三夜沢赤城神社:
近世では赤城大明神、中世では三夜沢大明神などと称する。
上記のように、社地は二宮赤城神社→宇通遺跡→三夜沢と移転したものともされる。
中世には三夜沢赤城神社が発展する。
貞治6年(1367)、御宮葺替・・
至徳3年(1388)、御造立宝堂共三所成就
応永13年(1408)、東西両宮へ千躰仏寄進、同30年、当社本地仏像を出す発願当佐貫庄妻塚村浄土寺宥尊
嘉吉2年(1442)、西宮御輿、脇立仏二体安置、享徳元年(1452)、両宮御正体奉納
享徳2年、神光寺(西宮神宮寺)堂造立成就。
※三所:赤城神社祭神については支離滅裂で了解不能ですが、
本地は千手観音・虚空蔵菩薩(西宮に祀る)と後に地蔵菩薩(東宮に祀る)が加えられ三所と称する。
江戸期には59石の社領を得る。
西宮神宮寺は神光寺(天台宗新里村新川善昌寺末・西宮神主真隅田家北に位置)
東宮神宮寺は龍赤寺(善昌寺末・寛永11年寛永寺末・東宮神主奈良原家北に位置)と伝える。但し度々住職を欠いたと云う。
明治2年、神光寺龍赤寺廃寺に相成る。
2006年以前作成:2014/09/17更新:ホームページ、日本の塔婆
|