現代日本の街の風情は袋小路に追いつめられた羊の群れで溢れかえっている。何をするにも無気力・無関心の所にきて、自らの不徳は棚にあげ、原発のメルトスルーがトドメを刺し一億の民が右顧左眄いうところか。70年安保世代は今後の世代に何ができるのか、せめて今後の身の処し方くらいは回顧録風自己総括として残しておくべきあろう。
2010年は大河ドラマの「龍馬伝」が人気を博した。混迷する日本経済・政治的状況を考える娯楽番組としては良くできた番組であったと思う。しかし、どれだけのインパクトを国民に与えたかどうかという点で考えると、所詮は娯楽番組だったのではないだろうか。2011年のオンエア中、江 姫たちの戦国は、更に娯楽性が強まった。
翻って、民主党による政権奪取の結果、日本の将来像は見えてきたのであろうか。日本の再選択は一部の職業政治家のものという時代は過去のものの筈ながら、現実は少しも変わらない現状を我々個人はどれだけ認識しているのであろうか。
毎年のように代わる総理大臣、低迷する経済、放置された円高対策、年金貴族の放置、手つかずの行財政改革、天文学的な公的債務・借金の肥大化、みだれる風俗、若者の失業。この国は多くの問題を抱えている。
現在、この国は60年安保、70年安保を経験した世代が国の運営を任されている。しかし、この世代も、功成り名遂げたとたんに経済・歴史認識がお粗末な時代遅れな人種となり、財務大臣はGDPとGNPの区別がつかず、「TOPIXって何」と真顔で聞く始末だ。グローバル経済下では御神輿に担がれた大臣は不要だ。卓越した見識とリーダーシップで経済をリードできる人材を当てなければ、日本の再復活はおぼつかない。
ロッキード事件で失脚した田中総理のあと、歴代の総理は一体何をしようとしているのか、37年を経た今も全く見えない。この状況は、いったい何なのか。民主主義の名の下に官僚主導の着ぶくれした、身の丈以上の社会福祉国家を予算の裏付け無しに大盤振る舞いしただけではないか。
事業仕分けにしても、全くのパフォーマンスと化し、何も前進がない。
そうこうしているうちに、結局元の木阿弥のバラマキ財政の踏襲で民主党らしさは何も発揮できておらない。口では立派なことを言っても何も成果を出せない。政治が本来の目的を遂行できず、機能不全になったと判断されるなら、組織の解消を促す国民的運動が起きてこなければならないが、それすら個人は決断することができないのだろうか。政治組織のリーダーが自分たちの地位や名誉、既得権益を守るために働き、国民のために働けないのなら、政権を交代させ創造するしかないのは自明の理だが、そのために我々は何をなすべきか、それが国民の責任というものではないだろうか。
いまこそ、民主主義の原点は何か、政府の原点は何か、このことをはっきりと意識した行動改革を求められている。
戦後は65年目に入ったが、司馬遼太郎風の明治80年説、(つまり明治−大正−昭和の20年までを足した)から見れば、日本は大きな変化をもたらしたはずだが、経済成長とともに見せかけの裕福な社会主義国家を達成したに過ぎない。肥大化した社会福祉は、間接的に若者から健全な雇用機会を奪っていないであろうか、公的年金受給者の給付額は大幅に削減する、国家の仕組みを根本から見直し新しいシステムを導入するといったことを考えていかないと、日本の再復興・繁栄ははなはだ疑問だ。
韓国の若者は5人に一人はアメリカに留学して、合理的な思考をものにして国に帰って国家のためには働く。我が国では、大学に入学すると9分9厘以上は卒業していくというおかしなシステムがある。すなわち優・良・可の単位で、仮にすべて可であっても卒業はできる。しかし、アメリカでは可が2科目5単位以上となると即刻退学だ。緩い環境で学んだ学生たちが社会のリーダーとなって国を先導することなどできるものではない。文科省のゆとり教育が招いた弊害を直視した改革が必要である。
いま、韓国に出来て日本人に出来ないあらゆる面での「改革」が問題になっている。日本の大学卒業生が実社会で使えないため、某企業では韓国にまでリクルートに行く時代だ。これは戦後システムの違いによるところの現象が大きい。韓国は大統領制を取り入れたが、日本は立憲君主制をモディファイした。したがって、あらゆる点で、非合理で曖昧なご都合主義が蔓延している。そこの違は大きい。
かつて、森内閣の頃、小田全宏による首相公選制が唱道され、中曽根大勲位、小泉厚生大臣が賛同した首相公選制は、民意の熟成が足らず、官僚組織と宮内庁とを巻き込み自民党・右翼の圧力のもと潰された経緯がある。ただこの種の運動は40代前半の元気の良いときにしか可能性として起きてこない。いま再び首相公選制の動きがあったとしても、過去の経緯から言って、容易なことではない。昔、森氏は「神の国、日本」という表現をされたが、多かれ少なかれ、自由民主党という党は天皇制の陰を隠れ蓑に論理を展開する性向が強く、憲法がそれを担保している実情から当然のことと思っている。しかし、そろそろ国民も天皇制の呪縛から自らの心を解き放す時であろう。
昭和80年説、すなわち昭和80年の15年後には社会変動論的に見て日本は一段上の大統領制として変化せざるををえないであろう。そこに至る15年間に、今、日本の政治に起きている迷走と停滞は確実に日本の成長力を削ぎ、民は枯れ公が富むという明確な矛盾に突き当たることになる。この間に政治家が為さなければならないことは、脱原発や自然エネルギー回帰といった些末なことではない。民主主義とはなにか、根源的な問いを突きつけられている現代なのだ。