立国は公にあらず私なり

「立国は公にあらず私なり」という言葉は、福沢諭吉の「立国は公にあらず私なり。独立の心なき者、国を思うこと深切ならず」から来ている。

おおやけごとだと思われている国の事も、実は一人一人のわたくしごとである。俺がやるんだ、私がやるんだ、という気概のない者が国や東京のことを論じたとしても、説得力もなくただのうわ言に過ぎない。日本人の一人一人が国を自分のこととして捉え、独立の心をもって考えていかなければ国は良くならない。

維新後、我が国は軍事偏重の脱亜入欧政策のもと、貿易商社、軍需産業の発展ということで今日の日本の主要産業の礎を構成するに至りました。戦前と戦後で若干の濃淡はありますが、戦後は家電・自動車を筆頭に内需の拡大と輸出が牽引し、プラザ合意による円高容認まではうまく行ったように思います。問題はその後の展開が冷戦構造の終焉、経済外交の不在(国内経済力との見合いからはほど遠い円高放置によって国内需要の開発を怠り)、今や、スマートフォンと中国をはじめとした新興国への投資・輸出で息をつく情けない状態へと形を変えてしまいました。 その結果は雇用の不安定化と所得格差の拡大をもたらしました。

中長期的に見れば、日本の円高放置は一層の国内中小企業の育成を阻み、技術の伝承を阻害し、流出を促進することになります。このことは国内雇用の不安定化・縮小へとつながり国力の低下に歯止めがかからないこととなります。円高克服の努力は大切ですが、自らの手足を切り落とすのは馬鹿げています。中国、韓国を見習うべきです。

情報化時代には、いたずらに情報・流行を追いかけるのではなく、国家の指導者の見識・確固たる矜持が問われます。いまの日本は、総理を何度代えても、どうしようもない閉塞状況に陥っている。それを根本から立て直すには、岩盤のような旧態依然とした社会構造を根本的に大変革しなければなりません。この国は明治以来、真の市民革命を経験したことがなく、天皇制を隠れ蓑にした、完璧な公の国です、また、公のための天皇制なのです。皇室は宮内庁にとっての人質であり、亀井静香氏が看破した「天皇京都帰京論」は至言であると思います。

どうやって天皇制を壊すことができるのか。今世界を駆けめぐっているチュニジアに端を発したエジプト、リビアの市民革命、facebookやtwitterは革命の為の強力なツールであることは間違いないが、表層的民主主義国家の日本の場合は、主権在民思想が疎かとなっており、行動を伴わない傍観者層の多さが問題です。よく言われる無党派層というのは不健全かつ無責任の最たるものです。

最近、楽天の三木谷さんが、国の規制に関して、ICTを理解しない政策を改変すべく提言を出すと言っています。これは厚労省の行政に関していうと、既存の利権の撤廃を意味していますが、相当の抵抗が予想されます。抵抗勢力は公のみならず、それを利用する民にも根深く存在します。それらを白紙で公正な判断で正していくことは想像を絶するエネルギーを伴います。

菅政権が行おうとしている子供手当法案・所得保障など、弥縫策であって何らの政策たり得ません。解散総選挙は、今の状態ではやむを得ないことと思います。