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トップページ >> カウンセリング論 >> 精神分析の抵抗分析について

精神分析学の抵抗分析について




 精神分析では、クライエントの転移や抵抗の操作が中心となってくるのですが、今回は抵抗とその分析について解説します。私自身は抵抗分析はもちろん精神分析に対して批判的なスタンスをとっていますので、そのような視点からの解説であることをまず明言しておきます。

 いまは精神分析内部も多様化しており、比較精神分析のような学問も成立するのかもしれません。私がここで言う精神分析の抵抗分析というのは、フロイトからヴィルヘルム・ライヒの性格分析までをさすと思って下さい。だいたい1920年代から1930年代くらいまでです。しかし、現代の精神分析でも、基本的な姿勢はあまり変わっていないと思いますので、大きな問題はないでしょう。

 では、フロイトからライヒに至る古典的な精神分析の抵抗、ライヒ以降の重要人物ヘルムート・カイザーとシャピロの抵抗分析、そして、フロイトを離反したオット―・ランクの抵抗について解説します。


1.精神分析における抵抗

 精神分析における基本的な営みは、クライエントが自由連想し、カウンセラーがそれに対して内容解釈を投与するというものでしょう。それによって、クライエントが無意識を意識化し、洞察が進むことによって症状行為などが消失するという治療機序が想定されているのです。

 しかし、このような自由連想と内容解釈によっては改善が見られなかったり、それ以前のところにとどまってしまうクライエントのことが問題となってきました。これが「抵抗」レジスタンスと呼ばれる現象です。抵抗とは、無意識を意識化する精神分析のプロセスを妨げるクライエントの振る舞いのことといってもよいでしょう。いいかえると、自由連想せよという約束事もそうですが、カウンセラーとクライエントの双方が合意に至った基本規則に抵触するような振る舞いが、ほとんどすべて抵抗として取り扱われるわけです。カウンセリングに遅刻するとか、料金の支払いが滞るとか、その他もろもろです。私としては、もうここで精神分析にはついていけません。わりとよく知られているグリーンソンの『精神分析の技法と実践1』では、抵抗について解説する第二章の冒頭で、いきなり「沈黙」が抵抗として取り扱われています。日本人には全く合いませんね、これ。

 さて、こうした抵抗を解決するために編み出されたのが、抵抗分析という技法です。フロイトの周辺では、特にライヒが力を入れて取り組んでいました。クライエントの抵抗を取り上げて操作するのですが、ライヒの場合は、性格の鎧とか筋肉の鎧によって抵抗が引き起こされているわけでして、それを取り除く作業が進められたのです。そうです、クライエントの抵抗は、分析家にとって、あくまで取り除かれるべきものであったのです。精神分析にとって邪魔であったのですね。

 転移解釈もそうですが、この抵抗分析も、本当に権威的な営みですね。クライエントではなく、カウンセラーが中心になっているのです。こうした精神分析の権威主義、父性主義に疑問を呈して離反していった人たちは少なくありません。特にライヒは、ときとしてカーッとなり、クライエントに対して大きな声を張り上げることもあったようです。権威的というよりも、暴力的な種子を懐胎しているような気もするのです、この抵抗分析は。

 いずれにせよ、古典的な精神分析では、覆いを取ろうとする働きかけに抗うようなクライエントの意志の発現はすべて、権威のある分析家への抵抗と見なされたのです。このときばかりは分析家の中立性など吹っ飛ぶわけです。ウルフマンが言っていたと思いますが、フロイドにはクライエントの意志など眼中になかったようなのです。オットー・ランクの証言ですが、当時の分析家たちは、精神分析理論に抗うようなクライエントのあらゆることに対して、抵抗というレッテルを貼っていたのだそうです。


2.カイザー=シャピロにおける抵抗

 ライヒの弟子に、ヘルムート・カイザーというレイアナリストがいました。この人はもうすでに忘れ去られているのですが、精神分析技法の発展を語るときに忘れてはならない臨床家です。こちらに粗訳した彼の「技法問題」をアップしておきましたので、ぜひお読みください。

 カイザーはライヒの性格分析を深く理解していました。そして、新たな考えを打ち出しました。こういうことです。ライヒは抵抗分析が終了したなら、やはり自由連想と内容解釈に戻る必要があるとしていたのですが、カイザーは抵抗分析に終始して自由連想と内容解釈を放棄してしまったのです。結果として、ライヒにも非難され、フェニケルからは、そのやり方はもう精神分析ではないと酷評されたのです。

 精神分析から自由連想という基本規則をなくしたのが、カイザーの防衛分析と呼ばれる手法です。ライヒの方法を徹底したのですね。しかし、カイザーはこの防衛分析すら捨てて、最後には人間性心理学の領域に踏み込んで行きました。ただひたすらクライエントとともにあるという、プレゼンスのカウンセリングに至ったのです。

 カイザーの防衛分析の手法を引き継いで洗練させたのが、デイヴィッド・シャピロです。カイザーもそうでしたが、シャピロの場合も基本規則を放棄するわけですから、もうそこには抵抗という概念は存在していません。取り除くべき厄介なもの、という認識が消えたわけです。

 ではシャピロは何をするのか。私なりに表現するとこうなります。彼は、クライエントの振る舞いを、カウンセラーの視点から映し出すのです。精神分析のような解釈は投与しません。しかし、それはクライエントの内的な体験を中心におくロジャース的な共感的理解とは対照的で、あくまでクライエントにとっての外的な視点、カウンセラー側のパースペクティヴが生かされるのです。身体、表情、声といった、クライエントの言動のHowに注目するのです。

 ロジャーズもシャピロもクライエントの自己覚知を重視しますが、シャピロが言うには、ロジャースはクライエントがみずから自覚し得る意識の層に着目しています。しかしシャピロは、他者の視点の援助を得て初めて自覚できるものに着目します。内的な視点と外的な視点という違いがあるわけです。シャピロは最新作の「Craig Piers Ed. (2011)Personality and Psychopathology- Critical Dialogues with David Shapiro. Springer」のなかで、自分のアプローチは、いわゆる共感的理解とは相いれないと述べています。



3.オット―・ランクにおける抵抗

 フロイトから離反していったオット―・ランクの場合です。やはり彼も抵抗という概念は捨て去っています。

 ランクはいわゆる抵抗のことを、カウンター・ウィルと呼んでいます。彼はフロイトの決定論やマリオネット理論に「抵抗」しましたから、人間の意志を重視していたのです。この対抗-意志はネガティヴな形態で現われているわけですが、唾棄すべき厄介なものではなくて、育んで大切にすべきものとされています。つまり、ランクはこれを操作するのではなくて、「受容」するのです。本当に、カール・ロジャースと似ていますね。

 幼子のネガティヴィズムもそうですが、この、いやいやは、人間としての依存-独立と深くかかわっています。受容することで、ネガティヴがポジティヴに変化するのです。おそらく精神分析陣営からは、そんなロマン主義みたいなやり方でどうするのかと非難されるかもしれませんね。ちなみに、クライエントから見たランクは、優しい眼差しで見守る母親のようであったそうです。



4.おわりに

 抵抗という概念と現象は、精神分析という視点から作られたものにすぎません。構成主義や社会構成主義ではありませんが、あくまで精神分析が構築したものなのです。シャピロやランクにしてみると、抵抗などどうでもよいわけです。

 抵抗分析にはやはり権威的な臭いがついて回ります。抵抗を共感的に取り上げるという表現をする精神分析よりの臨床家がいるようですが、それは言葉のあやにすぎないような気がします。そうなると、もはや精神分析ではなく、ランク的なアプローチになるのです。抵抗分析は、共感とあい入れるのでしょうか。コフート以降、精神分析にも共感が持ち込まれて、ますます混とんとしているのかもしれませんね。

 世界的に、精神分析はますます衰退の一途をたどっています。私が惹かれている人間性心理学もそうかもしれません。残念。エビデンスに裏打ちされた認知行動療法の世界制覇が着々と進行しつつある今日、私たちはどこに行けばよいのだろうか。


ではまた書きます。


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