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カウンセリング・マインド


 最近のことです。教育畑に流布しているようなカウンセリング・マインドを否定して臨床心理士ないし専門職としての技量を磨け!的な一文を目にしました。その趣旨は何となく理解できるものの、やはりこの基本的なマインドを否定する姿勢には疑問を感じたので、私なりに意見をまとめておこうと思います。

 ロジャース流のカウンセリングは、日本の大学の世界では教育学部系を中心として導入されました。そのせいか、どうか分かりませんが、臨床心理学の世界だけでなく、教育の世界でも、カウンセリング・マインドを生かした教育が定着したような気がします。このマインドは、教師の研修でも盛んに教えられますし、教育相談や、生徒指導は、この精神なしにはいまや考えられないほどです。

 では、カウンセリング・マインドとは何か。おそらくこれは和風の概念で、厳密な定義など困難なのかもしれませんが、おそらくロジャース流の傾聴態度を意味しているのだと思います。相手を受容することや、無条件の肯定的関心を向けることや、共感的理解を示すことなどです。

 私なりの言葉で言えば、これは人間的な基本態度の一型であると思います。人間の基本態度には「イエス(肯)」と「ノー(否)」があり、この「イエス」の態度がカウンセリング・マインドに通じるのです。一例として、有名なジョン・レノンとオノ・ヨーコさんの出会いのエピソードがあります。こうです。あるときジョンはヨーコの個展に顔を出しました。部屋の中央に梯子がかけてあって、天井まで登れます。天井には虫めがねが吊るしてあり、そこに書かれた小さな文字を虫眼鏡で覗きこむと、なんと一言「イエス」と書かれていたのです。ジョンはこの作品にとても感銘を受けたようです。

 ノーではなくイエスと書かれた天井、これが私の考えるカウンセリング・マインドです。

 このようなマインドはあくまで教師たちのものであって、われわれは専門職なのだから・・・・といった論理は、臨床心理士-プロフェッショナリズム以外の何物でもないと思います。専門職であることと、カウンセリング・マインドは相互排他的なものではないのです。むしろ、私たちのベースにこのマインドが無いとしたら、こう考えると寒々します。

 この精神だけあれば、心理専門職としての技量は無用なのか、なんていう詰問が飛んできそうです。もちろん私は、そんなことを言っているのではありません。この大切な精神を忘れた人間がどんなに技量を身につけようとしても、それは本末転倒なのだと言いたいわけです。

 反対に問いたい。カウンセリング・マインドは無用なのかと。いやはや、こうなるともう話がかみ合わず、いがみ合いに終わってしまうかもしれませんね。もう退散します。

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