ANTONIO FARAO
演奏の切れ(ある意味「毒」とか「灰汁」と言っていいかもしれない)が違うのだ!
あまりに素直なのかもしれない
"ENCORE"
ANTONIO FARAO(p), MARTIN GJAKONOVSKI(b), DEJAN TERZIC(ds)
2004年5月 スタジオ録音 (CAMJAZZ CAMJ 7767-2) 

実はこのレビューを書くにあたって、嘗て掲載したANTONIO FARAOのJAZZ批評 97.のレビューを読み直してみた。な、な、ぬわーんと、今回、このCDを聴いて感じていたことと共通した印象を書いているではないか!
即ち、
『何回となく聴いたが、「これは素晴らしいとも、これは駄作だ」ともいえない。3者の技量の高さ、インスパイアされた演奏など個々の一つ一つは素晴らしいという印象は受けるのだが、全体として、心に残るインパクトに欠ける。演奏のレベルの高さは感じるものの心に残らない演奏なのだ。つまり、余韻がない。だから、「また、あの曲を聴きたくなった」というようなことがない。更に、3者の渾然一体となった躍動感がないのもマイナス要素。』という調子なのだ!ただ、前回のアルバムはドラムスの大御所、DANIEL HUMAILを迎えて流石のFARAOも若干、臆した印象が強い。
このアルバムではそこまでの印象はない。しかし、購入以来2週間以上にわたりジックリと聴いてきたのではあるが、何か掴み所がないというか、心を抉るものがないというか、切れがないというか・・・。結果、強烈な印象が心に刻まれないアルバムになっている。
あえて弁護すると決して悪いアルバムではない!でも、これだけの力量があればもっと凄いアルバムになった・ハズ・と思わずにいられない。特にSTEFANO BOLLANIやDANILO REAを耳にしたリスナーにとってはこのFARAOの演奏では満足がいかないかも知れない。演奏の切れ(ある意味「毒」とか「灰汁」と言っていいかもしれない)が違うのだ!あまりに素直なのかもしれない。

今やジャズ界にあっては、イタリアのピアニストの花盛りという感すらある。STEFANO BOLLANI(JAZZ批評 210.)、 DANILO REA(JAZZ批評 215.)、ANDREA BENEVENTANO(JAZZ批評 168.)、GIOVANNI MIRABASSI(JAZZ批評 164.他)、NICO MORELLI(JAZZ批評 161.)、ENRICO PIERANUNZI(JAZZ批評 141.他)、FARAOの従兄弟にあたるMASSIMO FARAO(JAZZ批評 212.)と数え上げれば枚挙に暇がない。いずれも素晴らしいピアニストばかりで今やヨーロッパの中でもイタリア人ピアニストの活躍は凄まじい限りだ。クラシックに裏づけされた技量と表現力が美しさと躍動感、緊密感を伴って我が耳を襲ってくるのだ。

@"GOSPELLO"
A"ENCORE" 
B"NOW IT'S DIFFERENT!" 
C"I'M LOST" 
どこかで聞いたことのあるような?
D"VERA" 
E"THREE" 
F"DEDE" 
G"A DOUBLE LIFE AND MORE" 
唯一の競作。
H"SYLVIE" 
I"NEWS FROM EUROPE" 
この中では躍動感に溢れる切れのある演奏だ。どの曲にもこういう切れがあれば言うこと無しだが・・・。
J"JAPAN" 
FARAOがイメージした日本とはこういうイメージなのか!

Gの競作を除く全ての曲がFARAOのオリジナル。更に、このCDには全ての曲の譜面が付いている。これは新しい形かもしれない。より一層、掲載曲が身近になるというものだ。   (2005.02.26)



独断的JAZZ批評 254.