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『道頓堀川』['82] 『ラブレター』['81] | |||||
監督 深作欣二 監督 東 陽一 | |||||
拙サイトの“我が女優銘撰”に挙げてあったのを見て、高校時分の映画部の部長がくれた未開封DVDの封を切り、三十七年ぶりに『道頓堀川』['82]を再見した。 当時の僕は二十四歳で、二歳下の妻と結婚したばかりのころ。十九歳の画学生邦彦(真田広之)と二十九歳の小料理屋の女将まち子(松坂慶子)の、初々しくも一途な恋を眩しく観たような覚えがある。松坂慶子は、記憶にあった顔立ちよりも頬がほっそりしていて、ボリューム感を欠いていたが、芸妓あがりの囲われ者らしからぬ臈長けた年増感と、十歳も年が離れているようには思えない若々しく艶やかな恋模様を、ほぼ実年齢に見合ったナチュラルな情感を湛えて演じていて、懐かしさに駆られた。 あの年頃における十歳差というのは、邦彦からすれば自身の歳の半分を占めるのだから、もう紛れもない“大人の女性”なのだが、玄人として世知の辛さを知悉しながら、十九の歳に引かれてからの十年を囲われ者として過ごし、義理もあって、若い男の子と街を歩いたことが一度もないと漏らしていたまち子が、邦彦と連れ立って歩くだけで心を浮き立たせていた姿に彼が心惹かれるのも無理はない。ふと、学生時分に僕がアルバイトをしていた雀荘の女将さんのことを思い出した。 当時、三十路半ばくらいだったのではないかと思われるが、小柄ながら気丈さの窺える美人で、いつも和服姿だった彼女にも“旦那”がいた。愛飲のチェリーを取り出し、火を点ける仕草がちょっとかっこよく見えた覚えがある。その雀荘のことを思い出したのは、本作を観た三年後に上映された『麻雀放浪記』['84]でも真田広之と共演していた加賀まりこ【ビリヤード場のママゆき】を観たからかもしれない。ビリヤード場もまた、学生時分によく通ったものだった。 往年の名手(山崎努)と気鋭の新進ハスラー(佐藤浩市)の物語でもある本作は、今から思えば、どことなく『ハスラー2』['86]にも通じるところがあって、なかなか興味深かった。宮本輝の原作小説は未読だけれども、大滝秀治の演じた玉田は、『ハスラー』['61]のミネソタ・ファッツが元になっているような気がした。 小説の映画化作品としては、先日観たばかりの『青春の蹉跌』['74]同様に本作も、原作者は不満を抱いたらしい。特に仕舞いのつけ方が気に入らなかったようだが、まち子にとっての邦彦を思うと、犬の小太郎と入れ替わるようにして現われ消えていった愛しい存在として収まりのいい仕舞いのつけ方だったような気がする。映画で観る限りでしかないけれども、その結末のほうが、まち子の悲運が際立ち、切ないように思う。 大阪で暮らしたことのない僕に、道頓堀川界隈の風情は馴染みがないけれど、若い頃にはよく足を運んでもいた“昭和の盛り場”に漂う雰囲気というものが、とてもよく出ている作品だったように思う。映画の『麻雀放浪記』を想起したら、本作での着流しの三味線弾き(柄本明)は、そう言えば、女衒の達(加藤健一)だなどと思ったりもした。 その『道頓堀川』を再見して、形容矛盾とも思える“清々しい色香”を放散していた松坂慶子に悩殺されたものだから、女優銘撰もうひとりのケイコの『ラブレター』['81]を無性に観たくなり、三十八年ぶりに再見した。 若い時分の二人では、もともと関根恵子のほうが好みだったということもあるが、久しぶりに観た二十六歳当時の彼女の表情や裸身の余りの美しさにため息が漏れた。思っていた以上に細身で洋装が似合い、顔立ちにふくよかさがあって気品がある。ほとんど女神のような圧倒的な存在感に観惚れてしまった。あいにく画質があまり芳しくなくて、三十八年前にスクリーン観賞した際に、チラリと鏡に映ったアンダーヘアにドキリとしたショットなども些かぼんやりしていて観過ごすくらいだったりしたのだが、却って画質の悪さを補って余りある素材の美しさが印象づけられたような気がする。おまけに『道頓堀川』の松坂慶子と同じく、昭和の時代の女性の言葉遣いにある、ついぞ甘ったれていない甘さとでもいうのか、今の時代の若い女性からは失われているような気がしてならない可愛らしい口調が懐かしくも愛おしく、少々動揺してしまった。 だからこそ、彼女の演じる加納有子から「底抜けに優しくて底無しに残酷」と評されていた都志にいちゃんこと詩人の小田都志春(中村嘉葎雄)の、有子をウサギと呼んで愛玩していたいい気さ加減というか、ろくでもなさに、当時は随分と苛立ったことを思い出した。 だが、この歳になって観直すと、『道頓堀川』の邦彦が十歳年上の大人の女性から得ていた甘美さへの手放しの陶酔とは違って、娘ほどに歳の離れた愛人を持ち、詩の言葉で虜にして性感開発も果たした甘美な自負に対して、五十三歳の小田が手放しの陶酔を得ることはなく、常に彼女を失うことへの不安と焦燥に駆られている心中が透けて見え、醜態でしかない浮気詮議や、女の内腿に己が名を墨入れする暴虐を重ねる哀れが少し気の毒にも思えた。きちんと生活費の工面は欠かさないようにしつつも、不眠に悩まされるほどの寂寥感を彼女に与えていたのは、ひたすら奔放な身勝手さだけではなく、実のところ、彼女を持て余している部分があっての逃避のような気もした。 眠れぬ夜々に睡眠薬の助けを借りた経験が僕自身に一度もないからか、有子と村井(仲谷昇)の不眠エピソードが印象深かったが、村井に遺された“夜のブランコ癖”と違って、有子に遺された内腿のラブレターは、あまりにもタチが悪いように思えて仕方がなかった。行き場なく同じ場所で揺れ続けるブランコで終えていた本作を観ながら、モデルとなった金子光晴も、愛人の大川内令子の内腿に「みつ」と実際に刻んでいたのだろうかと思った。 また、小田に贈った父の形見の懐中時計を遺族から返却されて、大木の根元に埋めて地面に耳を当てた有子の目が、まさにウサギのようなつぶらな瞳になっていて感銘を受けた。ある種のルーズさを崩れた感じではなく体現していた有子には、『安部公房とわたし』を著した山口果林と違って、明らかに愛人気質と呼べるようなものが窺えたが、小田と出会う前の溌剌としたダンスを見せていた彼女に、元々備わっていたから愛人になったのか、愛人生活を重ねるなかで培われたものなのか、一概に言えない気がして感慨深かった。 都志春と有子が洗いっこをする行水場面は、『祭りの準備』['75]での精神を病んだ妹タマミ(桂木梨江)の身体を兄の利広(原田芳雄)が洗う場面と並び立つ二大行水場面だと思うが、その醸し出しているものの違いの大きさもまた、実に鮮やかだったように思う。 それにしても、カミーユ・クローデルを精神病院送りにしたロダンといい、金子光晴といい、全く男たちには困ったものだとつくづく思う。そして、『道頓堀川』を観て『麻雀放浪記』を想起していたところで本作を観たら、本作にも加賀まりこが出演していて、今度はまさに麻雀を打っていて意表を衝かれた。 手元になぜか二つあったからと未開封DVDをプレゼントしてくれた友人によれば、いま『道頓堀川』は二千円くらいで入手できるけれども、ブルーレイの『ラブレター』は二万円くらい掛かるのだそうだ。十倍の価格差には驚いたが、然もあらんと思えるほどに本作の関根恵子は実に素晴らしいと改めて思う三十八年ぶりの再見だった。 *『ラブレター』 参照テクスト:ケイケイさん(「ケイケイの映画日記」)との談義編集採録 推薦テクスト:「やっぱり映画がえいがねぇ!」より https://www.facebook.com/groups/826339410798977/posts/2036479856451587/ | |||||
by ヤマ '19. 8. 3. DVD観賞 '19. 8. 3. WOWOW-CINEMA録画('12.8.15.) | |||||
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