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『安部公房とわたし』を読んで | |||||
山口果林 著<講談社単行本> | |||||
安部公房という作家に関しては、青臭くも微笑ましい個人的な記憶がある。大学の文芸サークルにいた頃、歩いても行ける近くの女子大に通う一歳年上の女性に想いを寄せていた僕が、あるときふと「安部公房なんかいいよね」などと大して読み込んでもいないくせに漏らしたところ、実に嬉しそうに「私も大好きなの」と言われて、後日プレゼントされた『安部公房全作品13』(新潮社)が、今も自室の書棚に収まっている。話をしているうちに僕がそう読んでもいないことを察したのではないかと思うが、そんなこともあって、次の同人誌に掲載する作品を構想する際に安部公房風のものを意識して、大いに呻吟した覚えがある。 普段は有名人のゴシップ的な話にはあまり興味が湧かないのだけれども、そんなところから手に取ってみたところ、本の扉に続く口絵の頁に、フランシスコ・デ・ゴヤの『裸のマハ』さながらに若い女性が全裸でベッドに横たわり微笑んでいるプライヴェート写真が掲載されていて、目を惹いた。若き日の著者を安部公房が撮ったものなのだろうが、このカラー写真の掲載が著者のナルシズムによるものか、対象化によるものなのか確かめたくなって読んでみた。 山口果林という名に記憶はもちろんあるけれども、僕のなかでは、そう強い印象を残している女優ではなかった。だが、主に母親が残してくれていたとの豊富な切り抜き資料や自身の手帳等によって記憶を辿りながら自分自身を語る、著者が言うところの「自分史」(P92)を読み、決してクールではない乾いた対象化の果たされていることがその筆致に窺えるとともに、「ひとつの事象でも、視点が変わればまったく違うものに見えるという経験を、最近、姉と話していてつくづく感じさせられた。私はいつも「お古」を着せられていたと、思っている。姉たちが着ていた服を、母が編み直したり、チロリアンテープなどを加えて再生してくれていた。ところが姉の記憶はまったく違った。「すこし可愛いからって、あなたにはお母さん、いつも新しい服を作っていたわ」 それぞれが、自分の立場から状況を見る。 この「自分史」も、私の記憶を辿る思い出のかけらの寄せ集めに過ぎない」(P92 第三章 女優になるまで)と記していることに大いに感心した。そして、一人の男性との関わりを主に語ることが即ち「自分史」であると実質的に記していることの“静かな迫力”に打たれた。 高校時分に演劇部の部長を務め、演劇の道に進みたくて桐朋学園大学短期大学部演劇科を受験した18歳の娘が短大の後の「専攻科の二年間のうちに研修生として、プロの芝居に携わることが義務づけられていた。…当時、(紀伊國屋)ホールと同じ階にあった会員制クラブでのスタッフ会議にも同席する。その後に、食事に誘われるようになった。 学生たちから絶大なる人気の作家だ。高校時代に『おまえにも罪がある』を観劇して、自分も芝居の道に進みたいと思いはじめた作家である。桐朋学園の授業は毎回刺激的だった。誰が断れようか。」(P22~P23 第一章 安部公房との出会い)となるのは、至極もっともな話だ。その四年生の秋('69年)、22歳のときに「いつも以上に安部公房も緊張していて、口数が少ないドライブだった。想像どおり、御殿場の高速道路わきに建つラブホテル「HOTEL555」に入った。しかし、その日安部公房は行為までには至らなかった」(P25)という形で始まった23歳の年齢差のある関係が、彼の没するまでの23年間('69.11月~'93.1月)続くとは、著者ならずとも思っていなかったに違いない。「未熟な私のどこに、安部公房は引きつけられたのだろう。初めての恋人との別れ(後の俳優 山本亘【P20】)で、激しい恋愛感情の酔いは二、三年で冷めると同期の友人(二年半交際した山本亘【P20】)から教えられていたし、まだ燃え尽きていないとしても、いずれ安部公房の情熱も冷めるのだろうと、冷静に分析する自分もいた。それまで安部公房から得られるものは、貪欲に吸収したい! 自身のキャリアも高めたいというのが、当時の私の思いだった」(P28)というのは偽らざるもののような気がする。 その「私のどこに」というのは、おそらく「初期の安部公房との付き合いの中心には、私の安部公房への全幅の信頼と、包み込んでくれる安部公房に、精一杯応えたいという強い思いがあった気がする」(P93)と綴っているような部分だったろうと、著者が安部公房に出会った時分の彼の歳をひとまわり上回る年齢に今ある僕は、強く思った。 それから五年ほど経って28歳になると「自分の中に安部公房が定着しはじめるのを感じた。女優と作家・演出家の関係以上に、男と女の部分が強くなってきた。安部公房の家庭が気になりだす」(P59~P60 第二章 女優と作家)というのもいかにもな話で、ラブホテルでの逢瀬が決して嫌ではなく、むしろ浮き立っていたであろう時分からの変化として「ラブホテル街の中に建つホテルだった。自分の立場をいやが上にも強調されているようで私は嫌悪感を覚える」(P65)ようになる。その頃から二十年近くに及ぶ安部公房の妻との確執には相当なものがあったようだが、本書では一端を覗かせはしているものの、あまり詳細には触れられていない。「第四章 安部公房との暮らし」のなかに安部真知の名はほとんど出てこなかった気がするが、「葬儀のときには、報道陣は調布の家に貼りついているはず。箱根の家の荷物を片付けてこようと思う。安部真知に私の使ったものを切り刻まれるようなことだけはされたくない」(P207 第五章 癌告知、そして)と記すくらいには厳しい確執があったようだ。 それだけに、安部公房の死の八か月後の月命日を選んで亡くなったらしい「安部真知の死を知って気持ち(生きる希望を失うほどの喪失感)に変化が起き始めた。もう一度、逃げずに大学を卒業して演劇を目指していたころにリセットしなおそうと、考え始める。映画や芝居を見に行きたいと思いだす」(P219)との記述に、安部真知への強い対抗心を観た思いがした。安部公房の死後、自殺の手引書(鶴見済『完全自殺マニュアル』)が愛読書になっていた(P216)にもかかわらず、安部真知に後れを取った以上、自ずと真逆の道を選択する情動が湧いて来ずにはいられなかったのだろう。確執と葛藤の濃密さの程が窺えるような気がした。 寡聞にしていささか驚いたのは、安部公房が名付け親の芸名を得た23歳の山口静江(P27)が、NHK朝ドラ『繭子ひとり』のヒロインに決まったすぐ後に、密かに安部公房との間の子供を中絶していた(P38)との記述だった。 期間的にも内実としてもこれだけ濃密な関係を持っていたのなら、エピローグに「透明人間にされた自分の人生を再確認できれば、違う最終章を作れるかもしれないという淡い期待もあ」(P241)って本書を上梓せずにいられなかったのも解るような気がする。エピローグには、本書を発行した「二〇一三年は、安部公房没後二十年にあたる」(P241)として執筆されたように記されているが、実のところは、二〇一一年に娘の安部ねりが著した『安部公房伝』(新潮社)において、山口果林の存在について全く触れられていなかったことが動機のようだ。確かに「そこには私の存在はすっかり消されていた」(P210)、「安部公房と私との生活は全く無視され、私は世間から透明人間にされてしまった」(P216)、「安部公房の人生から消された「山口果林」」(P223 第六章 没後の生活)、「消された私」(P225)と頻出し、敢えて二〇一一年以前に遡って繰り返されているところが、却って安部ねりの著作の上梓を強く意識していると感じさせるような気がした。相当に凄まじく濃密な確執と葛藤だ。それだけにエピローグの末尾にて「飾らず、率直にと、肝に銘じて綴りました」と結んであるとおりの筆致を全うしていたことに感心した。そして、そのキャラクターに、僕の知人女性をついつい重ねながら読まずにいられなかったところが、何とも切なかった。ちょうど著者と似たような年頃だから、余計にそう感じたのかもしれない。 そして、「だれにも邪魔されない秘密の空間。部屋では、ほとんど裸にガウンで過ごす。この部屋から『箱男』の『開幕五分前』など後半のエピソードが生まれた」(P42)、「『箱男』を冷静に読むことは難しい。いつもギリギリの瀬戸際のような、逢瀬の記憶の断片と小説が重なってしまうのだ。私へのラブレターだと言った安部公房の言葉は、冗談ばかりとも思えなかった」(P54)と記している『箱男』を再読してみたくなった。 | |||||
by ヤマ '16. 3.25. 講談社 | |||||
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