『麻雀放浪記』
監督 和田 誠


 ストーリー・テリングとしての面白さは、原作に何歩か譲るが、画面の端正さは、なかなか見事なものである。殊に原作に登場する、あの一種独特の異様な存在感のある連中を画面に再現し得たのは、並々ならぬ力量といえよう。とはいえ、原作の愛読者にとっては、ドサ健が甘過ぎたように思えるし、少し麻雀の打てる者にとっては、坊や哲に裏芸の手ほどきをするオックスのママや哲の牌さばきが余りにも拙く見える。しかし、そういう細かなところが惜しいところとして写るのは、それだけ全体的によく出来ている証拠であろう。

 それにしても、この物語に登場する人物達の魅力の何と妖しいことだろう。彼らの従事していることは、どの人物にしても賞められたものではないものばかりである。浮浪者かその一歩手前、ヒモ、女衒、そして、彼らを繋げているバクチ。彼らは、その互いのネタを狙って凄絶な賭博にのめり込む。一見、そのエネルギーの源泉は欲とも見えるが、実のところはそうではない。彼らは皆、それぞれに欲の塊の人間にしては、余りにも透明な魂を持っている。しかし、それは世間で善人だとか優しいだとか言われるようなものではない。そんなものは、彼らにとって只の甘さに過ぎず、バクチ打ちとしては、最も見くびられるものである。彼らの至った魂の透明さとは、言ってみれば、総ての甘さをそぎ落した、本当に信じられるものは己しかないギリギリ勝負の積み重ねの中で向き合った自分自身を通じて、人間というものの真実を体で知ったことなのである。現実の世界では、バクチ打ちが皆それを知り得ようはずもないが、バクチ打ちの行き着く先の透明感というのは、そういうものではなかろうかと思わせる。

 彼らは勝負には徹底的にこだわるが、金そのものにはそんなに執着していない。大金ないしはどうしても失いたくないものを賭けるのは、それによって勝負の価値を高めたいからである。彼らが非情なまでにその勝負に賭けるのは、欲ゆえにではなく、そういう大勝負の中に身を置く煌きに取り付かれているからに他ならない。そういうバクチ打ちが女衒の達の言うところの "本物" なのである。つまり、大いなるロマンチストである。そのロマンチスト達がアンチ・ロマンのギリギリ大勝負をする。でないと彼らのロマンは得られない・・・。このパラドックスの中にこそ身を焼くような魔力があるのである。非情な世界を描きながら、この物語がロマンを感じさせる所以であろう。




困惑テクスト:これって僕の日誌への評価の証?(苦笑)




推薦テクスト:「虚実日誌」より
https://13374.diarynote.jp/201206182358214794/
by ヤマ

'85. 2.26. あたご劇場



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