『パンズ・ラビリンス』をめぐって | |
(TAOさん) (ミノさん) ヤマ(管理人) |
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No.7770より 2008年03月09日 23:33 -------オフェリアの象徴していたもの------- (TAOさん) ヤマさん、こんばんは。『エミリー・ローズ』ですかあ。 ヤマ(管理人) ようこそ、TAOさん。早速にありがとうございます。 (TAOさん) 『パンズ・ラビリンス』のラストから『エミリー・ローズ』とは意表をつかれました。 ヤマ(管理人) そりゃよかった。自分の思い掛けないものを触発されると刺激ありますよね。僕もTAOさんからは、よくいただいているのですが、今回お返しができたなら、とても嬉しいです(にこ)。 (TAOさん) デルトロからはいつも異教的なイメージを受け取っているからか、私にはその発想はまるでなかったので新鮮でしたが、考えてみれば、そうですよねえ。 ヤマ(管理人) 弟の血の代わりに自らの血を以て贖う自己犠牲を聖的に描いているところに、僕は、正統的なカトリック文化の継承を感じたんですよ。ご支持いただき、嬉しいです。 (TAOさん) ええ、考えてみれば、血みどろの犠牲はまさに正統的なカトリック文化ですよね。メル・ギブソンも敬虔なカトリック信者ですし、三島由紀夫も聖セバスチャンを憧憬してましたよ。 ヤマ(管理人) ですよねー。 (TAOさん) かねてからカトリシズムとマゾヒズムには、密接な関係があると思ってます。 ヤマ(管理人) マゾヒズムと裏腹なサディズムもね〜。 (TAOさん) 私の解釈では、オフェリアは民衆の魂の象徴なのです。オフェリアの試練は「魂に課せられた試練」を象徴的に描いたもので、魂が死ななかったから民衆が力を取り戻せたのだと思っているのですが、これをキリスト教にあてはめればたしかに『エミリー・ローズ』ですよね。正統であれ、異端であれ、結論は同じなんだなと思いましたよ(笑)。 ヤマ(管理人) そうですね。「オフェリアは民衆の魂の象徴」とお書きですが、mixi日記にはもっとストレートに「オフェーリアが体験するラビリンスとはファシズムに怯える人々の心の迷宮であり、彼女の孤独な闘いは魂の次元でのゲリラ活動だ。」とお書きですものね。拙日誌に「オフェリアが味わっていた孤立や義父ビダルから与えられている恐怖が、何とも痛切だったことだ。そこには、…フランコ独裁政権の元に孤立し脅えていたスペイン人民の姿が投影されていたような気がする。」と綴ってるのと重なってますよね。 で、TAOさんが「彼女が魂の自由を守り抜くからこそ、現実の世界に希望が見える。」というところが、拙日誌の「オフェリアの勇気と自己犠牲によって救われた、カルメンとビダルの間に生まれた赤ん坊」ということになるわけですが、さればこそ、僕は「彼女の弟なればこそ彼女と同様にスペイン人民そのものが投影されている」と受け止めたわけです。 オフェリアの試練に投影されていたものは、エミリー・ローズの負った試練よりも、我々が感受したようにフランコ政権の圧政という現実的な寓意が込められていたので、より宗教的なのは『エミリー・ローズ』だと思いますが、エミリー・ローズにとって、あの試練がファンタジーではなく現実そのものであったように、オフェリアすなわちスペイン民衆においても、あの試練はファンタジーではなく、現実そのものだったのみならず、物語のなかのオフェリア自身にとっては、やはりファンタジーではなく、現実そのものだったのだろうと思ってます。 最初は、冒頭で既に犠牲になったオフェリアの血まみれの姿が美しく映し出されていたところから、死に臨んで彼女がみた夢としての物語かと思っていたのですが、それにしては彼女の知り得ない重要な場面がたくさん交錯するし、少女のいまわの際の想像として受け止めるよりも、孤立と恐怖に苛まれ居場所のなかった少女が現実に求め、そのなかに生きたファンタジーとして受け止めるほうが、僕にとっては、作品の味わいが豊かになってくるように感じられました。 (TAOさん) 私は「当然、現実でしょー」と思っているので、エミリー・ローズの試練が現実であったように、オフェリアの試練も現実であったというヤマさんのご指摘は、我が意を得たり、です。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 冒頭では、オフェリアの血まみれの姿から、血が引いていってましたから、あれを再生という時間進行のイメージで受け止めるか、巻き戻しという時間逆行のイメージで受け止めるかでも違ってくるとは思います。それで言えば、物語を最後まで観た後なら、再生もあり得るけれども、冒頭ではやはり巻き戻しイメージですよね。となれば、息を引き取る直前に観た想像というところへ逆行するのか、生前のオフェリアの物語が展開されていると受け取るかですが、全ての血がきれいに引いてしまうわけですから、考えてみれば、彼女の知り得ない重要な場面がたくさん交錯する展開を待つまでもなく、僅かな時間の逆行に留まらないと観るべきところだったような気がします。 (TAOさん) オフェリアの現実は、我々がふだん生きている現実とは次元が違う「現実」なんですけど、これを単に夢として俗世間的な整合性をつけてしまうと、この映画の深さや象徴性が薄れてしまうと私は思うのです。 ヤマ(管理人) 全く同感です。血の引き場面を上述のように受け止めれば、文法的にもそうは表現してないということになりますよね。 (TAOさん) エミリー・ローズを引き合いに出していただいたのは、ほんとに目からウロコでしたねえ。 ヤマ(管理人) そりゃあ、よかった(にまにま)。 (TAOさん) 公開時に見逃した映画をヤマさんやケイケイさんのおかげでTVで見られたのも幸いでした。 ヤマ(管理人) ますます、よかった、よかった(笑)。『エミリー・ローズ』って割と黙殺されてましたもんねー。 (ミノさん) 出ましたね! ヤマさんの「たいしたものだ」が・・笑。こんばんわ。 ヤマ(管理人) ようこそ、(タン)ミノ(ワ)さん。いやぁ、映画ってほんっとにイイものですネ(笑)。僕、「たいしたものだ」ってのを常套句にしてますか?(苦笑) 自分では割と気づきにくいんですよね、こういうことって(たは)。 (ミノさん) 私も『パンズ・ラビリンス』そして『エミリー・ローズ』を拝読しました。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (ミノさん) 「エミリー」は未見のまま読んでるんで、ただでさえ難解なヤマさんのレビュー、ますますよみくだすの が大変で・・(笑) ヤマ(管理人) 「ただでさえ難解」とは、これまた、申し訳ありません(苦笑)。筋を追わないし、漢語が多いしってことであって、書いてる内容が高尚なわけではありませんけどね(たは)。ただの不親切です(詫)。 (ミノさん) 読んだけど、きちんと意味はわかっていません。>エミリーのほう ヤマ(管理人) 配慮なしで申し訳ない(詫)。 (ミノさん) でも、「カトリック=血のイメージ」は、私も作品からプンプン感じました。 ヤマ(管理人) ワインを血だという宗教ですもんねー(笑)。 (ミノさん) どのシーンも、宗教画みたいな感じがしてました。絵が端正で、かつ信仰心の強い人の描いた絵・・というイメージ。 ヤマ(管理人) はいな(同感)。 (ミノさん) 例の“それは少女の夢か現か”の件ですが、ヤマさんが「少女のいまわの際の想像として受け止めるよりも、孤立と恐怖に苛まれ居場所のなかった少女が現実に求め、そのなかに生きたファンタジーとして受け止めるほうが、僕にとっては、作品の味わいが豊かになってくるように感じられました。」と書いておられるところですが、私は、人には2種類の現実があって、いわゆる客観的事実と、その人の心の中の現実があると思います。 ヤマ(管理人) 僕もそう思ってます。後者に対して僕は“真実”と言うことが多いんですけどね。 (ミノさん) “心の中の事実現実”はその人にしか見えてないストーリーで、傍からみれば幻想に見えるわけで、今の時代なら病院行きなわけですが、その人の中では現実なわけです。『パンズ・ラビリンス』では、オフェリアの心の中の現実と、客観的現実を平行して描いているように感じました。 ヤマ(管理人) 僕もそのように受け止めています。 (ミノさん) 他の人には見えなくても、自分にはそれが見えたのだ、というのが、個人個人の心の中の真実だということなのでしょうか。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。でもって、そこんとこで『エミリー・ローズ』に繋がってくるわけです。 (ミノさん) “スペイン人民魂=オフェリア”というのは、やはり背景から類推して感じ取る感じで、私はダイレクトには感じませんでした。そこまで歴史的教養が深くないのです(笑)。 ヤマ(管理人) 僕だって、受験科目としてのっていう程度のことであって、「教養」レベルにはありませんって(苦笑)。 (ミノさん) 「ある大変な状況下で闘った女の子の物語」的見方を最後までしていたような・・・。 ヤマ(管理人) だって、それが基本線なんですもん。 (ミノさん) だから、ヤマさんTAOさんみたいな肉付けしていただいてありがたいです。 ヤマ(管理人) こちらこそ、そのように書き込み、教えていただけると、とても嬉しいですよ。ありがとうございました。 (TAOさん) いえいえ、ミノさん。ヤマさんとちがって私には歴史的教養はゼロですよ〜。ひたすら直観勝負です!(笑) ヤマ(管理人) 僕も基本的にそうなんですが、その後、反芻するもんだから、加えて、綴る際には能書きみたいに説明くどいから、直感色が後退しちゃうみたいですけどね(苦笑)。 -------スペイン“皇室”としてのオフェリア一家------- (TAOさん) で、私の直観によると、オフェリアの一家は、いわばスペインの皇室なんです。 ヤマ(管理人) ほほぅ。オフェリアは民衆の魂ともおっしゃってましたから、民衆の魂は皇室にあり、ということなんですか(驚)。 (TAOさん) いや、皇室という比喩は今、思いついたんですが。でもほら、あの金色に輝く王宮に迎えられたオフェリアと両親の姿はロイヤルファミリーっぽいでしょ? ヤマ(管理人) 確かにそうでしたね。でも、少女の心の目に映り訪れた現実世界としてのイマジネーションですから、古今東西(かどうかは知りませんが)お姫さま好きの少女なれば、やはり“姫”とならなくては話にならないわけで、それでロイヤルファミリーなんであって、王族か庶民かというところでの意味づけは、僕は、あまり感じませんでした。作り手としてもイメージ的には、正統なお伽話のような怖さと幻想性を現出させたかったから、ということなんじゃないでしょうかねー。 (TAOさん) 私は、学生時代までは、戦後民主主義の教育のおかげで皇室なんてべつに要らないのでは、本人たちも大変だし、税金の無駄、なんて思っていたんですが、社会人になって浩宮の結婚あたりから、皇室と日本の民衆の気分って深い部分でつながってるような気がし始めたんです。 ヤマ(管理人) なるほどねー。 (TAOさん) 日本全体に社会不安が立ちこめると、ここぞというタイミングで起こるご成婚やご誕生でパーッと空気が変わるというのを何回か体験し、最近では雅子妃のご病気なども、なんだか日本の女性全体の悩みを背負われているような気がして。だから、今さらながら天皇や皇室を日本の”象徴”であると認識したアメリカって凄いなと思うんですよ。 ヤマ(管理人) 浩宮ご成婚とか雅子妃を巡る宮内庁の大奥もどきの確執とか愛子ご誕生は、とりわけTVとか女性週刊誌とかの女性が愛好するメディアでは、まさにフィーバーと呼ぶに足るだけの取り上げ方ですものねー。あの女性たちのロイヤルファミリー好きって、どこから来るのだろうと思ってましたが、幼時からお姫さま願望ってのをジェンダーとして植え付けられているからなんですな。先般『ドッグヴィル』の拙日誌に参照テクストとして読書感想文を添えた「中村うさぎの『私という病』」を読んだときも思いましたが、“お姫様な私”への囚われって凄いですよね〜。 (TAOさん) だからディズニーが儲かるわけですねー(笑)。 ヤマ(管理人) 確かに(笑)。 (TAOさん) 昔の女の子が「お嫁さんになりたい」と言っていたのと同じく、社会(直接的には母親)による刷り込みではないかとも思うのですが。 ヤマ(管理人) 同感です。『母たちの村』の拙日誌にも綴りましたが、女性に対して過酷なのは、大概、男よりも同性のほうですよね(笑)。 (TAOさん) 私なんか、母から逆刷り込みをやられたせいか、お嫁さん願望もなかったし、お姫様もあんまりないような気がします。 ヤマ(管理人) そして、TAOおやぢとなったって?(笑) 僕ら男は、王様とか王子様って自分とは縁なく感じてるものだと思うのですが、女性は、むしろ反対で、願望を投影できるロイヤルファミリーを求めているわけですよね。そして、自分にとっての“王様”“王子様”もね。 (TAOさん) ヤマさんはなさそうですね(笑)。 ヤマ(管理人) でしょ(あは)。 (TAOさん) でも巷にはけっこうおりますよ、オレ様な人たち。貴種流離譚が好きなのは、女性よりむしろ男性のほうだし、… ヤマ(管理人) え〜! そうかなぁ… (TAOさん) 時代劇では将軍家のご落胤が活躍するでしょう? ヤマ(管理人) そりゃまぁ、そういうの、確かに幾つもありはしますが、かといって、それが主流です?? (TAOさん) あと、先祖を調べて、世が世ならお殿様と悦に入ってるオジサマたちも少なくないですよー。 ヤマ(管理人) あー、これは絶対に男のほうが多そうですね。家制度の名残りですよねー。 でも、これらについてはTVの影響度が、かなりあるように思います。『男たちの大和/YAMATO』の拙日誌で紹介してある坂東眞砂子の寄稿に書いてあることは、かねてより僕も思っていたことなんですが、歴史好きは、男に多い気はしますよね。 ところで、現行憲法において天皇が“国民の象徴”とされているのは、アメリカが、日本の民衆の魂の象徴として捉えていたからというより、占領施策を円滑に進めるうえで、軍部・財閥・大地主は解体しつつも、敗戦側のエスタブリッシュメントを転覆させるのではなく、うまく活用するための取引として、天皇制の存続を認めるうえで、『太陽』の拙日誌にも綴ったように、国民に保証されている基本的人権すら奪われた“象徴”として一切の実体権力のみならず、基本的人権さえも奪ったうえでの天皇制の存続を図ったのだろうと僕は思ってます。いかにもアメリカ的なプラグマティズムに基づいた占領政策であり、現実主義なのですが、取引としてアメリカが選択した時点での想像を遙かに越える形での効果を上げていて、かの国が取った現実主義が後の日米関係を保証してますよね。敗戦国の権力階層の大半を駆逐せずに飼い慣らすことで、自国民よりもアメリカに対して忠誠心を働かせる日本政府を得ましたもの。それが、日本のエスタブリッシュメントを守ってやった成果なんですが、占領政策当時は、そこまで見通したうえでのことではなかったと思います。 (TAOさん) で、天皇や皇室が日本の象徴であるのと同じように、オフェリアの一家もスペインの民衆の魂を象徴してるんじゃないかなと思うわけです。 ヤマ(管理人) 面白い考察ですね。スペイン、日本に限らず、英国王室だって、アメリカ大統領だって、そういう観方をすることはできるのかもしれませんね。ナショナリティということからすれば、どこの国だって社会的要請としてそういったものを求める部分があるのでしょう。それを社会文化として醸成していくうえで大きな役割を負っているのが“教育とメディア”という社会的装置だと思うのですが、ロイヤルファミリー物語に最も反応するのが女性たちであるところが、個人的には、とても興味深いです。 (TAOさん) まずおとうさんが死に、おかあさんは民衆の敵に身を委ね、もはやこれまでというときに、オフェリアが文字どおり死守したんだなと。 ヤマ(管理人) TAOさんによれば、おとうさんもおかあさんも弟も民衆の魂であり、かつロイヤルファミリーっていうことですよね。 (TAOさん) ところで、ヤマさん気づいてなかったんですね、「たいしたものだ」に(笑)。 ヤマ(管理人) あらま、TAOさんも気づいておいでましたか(苦笑)。 -------死と再生の物語としての『パンズ・ラビリンス』------- (TAOさん) ところでヤマさん、血が引いていく場面は、私は“浄化”ととらえていたのですが、今、カトリシズムとの関係で思い起こせば、まさに“再生”ですね。 ヤマ(管理人) TAOさん好みでしょ、死と再生の物語ってのは。僕としては、TAOさんが当初そうは御覧になってなかったとしたら、むしろそのほうが意外なくらいですよ(笑)。 (TAOさん) 私は長い間「血みどろ→再生のイメージ」を実感として持てませんでしたが、メル・ギブソンの『パッション』でやっと体感できました。 ヤマ(管理人) あれは、『パンズ・ラビリンス』以上に“たいした”作品ですよね〜。拙日誌に「たいしたものだ」とは出てこないですが(笑)。 (TAOさん) 2時間以上も血みどろの姿を見せられたあと、ほんの一瞬、再生した美しいからだが映るんですが、それが眩しくて鮮烈で。ああ、このためのスプラッタだったんだと心の底から納得できました。 ヤマ(管理人) そこのところについては、僕も「必然性以上の作品的核心」と拙日誌に綴っていますが、視覚効果って大きいですよねー。 (TAOさん) 私のように感覚的な人間には、映画って本当にありがたいです。 ヤマ(管理人) だから、僕も長らく映画を観続けているんでしょうねぇ。 (ミノさん) ああそうか、あの「血がひく」シーンって、“浄化”とも“再生”ともとれますね。私は、最初見た時は、やはり物語がさかのぼっていくイメージでしたが、こうもカソリック色が濃いと、やはり再生イメージなんでしょうね。 確かにオフェリアが迎えられる王国は、ロイヤルファミリーですね。無垢なる者のために血を流した者のみが魂の王国に迎えられる、高貴な者である・・みたいな、ひじょーに、カソリック的イメージを持って見てました。 ヤマ(管理人) 僕もそっちのほうが強かったですね、民衆の魂としてのロイヤルファミリーというのよりは。 -------王室皇室と国民、姉と弟の血のつながりの暗示する社会構造------- (ミノさん) 私も王室皇室は血の部分で国民とつながっていることは否めないと思うので、そのへんTAOさんにすごく共感です。 ヤマ(管理人) ナショナリティというのは、そういう物語として構成するのが、常道と言えば、常道ですからねー。 (ミノさん) ただ、日本人である私には、人民という言葉があってないもののような気もするんですよね。民衆とか、人民って日本に似合わないでしょう?(笑) スペインには似合いますけどね。 ヤマ(管理人) いや、日本にだって一揆の歴史はありますし、日本人にないのではなく、戦後の日米タッグの治世が強力に効いているということではありませんかね? アメリカの求めるままに格差創出社会への“改革成長”を露骨に邁進したことで、ほころびが目立ち始めましたが、ブッシュ政権も先がなくなったので、見事に節操なく方向転換して国民をなだめる政策をばらまき的に打って時間稼ぎをしつつ、次のアメリカ政権の動向を探っている感じですよね(とほ)。 (ミノさん) おっ待ってました。ヤマさん節。 ヤマ(管理人) 吟じて唸ってますかね?(笑) (ミノさん) 『パンズ・ラビリンス』では、お母さんが敵に身を委ねることによって、敵とも血でつながるんですよね。そしてその弟をオフェリアが血を流して守る。 ヤマ(管理人) これって、戦後の日本とアメリカの関係そっくりですよね(苦笑)。我ら戦後生まれの世代は、まさしくオフェリアの弟のようなものです。『フォレスト・ガンプ』が日本でヒットしたとき、どうして、あんなドメスティックなアメリカ映画が日本で当たるのかと、ちょっと気持ちが悪かったことを思い出しました(あは)。 違うのは、我々には姉オフェリアがいないってことですね。 (ミノさん) それって深刻やないですか(笑)。我々は、皆ヴィダル将軍に育てられてしまった弟クン・・そう見えるヤマさんの感性がスゴイですよ(笑)。じゃあ我々は一体どこへ・・ ヤマ(管理人) 飛躍してますか? オカシナ見え方なのかな〜(苦笑)。それはともかく、どこへ向かうかは、本当に心許ない限りですが、例えば、ハケンや非正規雇用、リストラの問題に対して、既に機能的には瓦解している従前からの労働戦線とは異なる形で、ユニオンができたりNPOが民衆のなかから生まれたりしていますよね。そういったものがオフェリアの役割を果たせるようになるかもしれません。 (ミノさん) ああなるほどー。我々の姉はそこにいたのですね。複雑だなあ。 ヤマ(管理人) 旧来の労組とか労働戦線とか呼ばれたものは、もう薹が立っちゃって少女ではなくなり、遣り手婆みたいな存在になってますから、オフェリアたりえないですからねー(笑)。 (ミノさん) 老害まきちらしてたりして(笑)。それはともかく、私は、自己犠牲って言葉には必要以上に抵抗があって、「血を流す」的な価値観も割りとひいてしまうほうなんですよ(笑)。 ヤマ(管理人) 僕もそういう傾向、強いです。で、自分には馴染まないし、モチベーション的にもないに等しいわけですが、それを厭わない人の存在や精神に対しては、引いてはしまいたくないほうですね。 (ミノさん) むかーし読んだマンガにね。「民を救って自分が死ぬのは凡人でもできる。民を救って、自分も助かる。これが王たる者だ」って言葉がありました。NPOとか、活動家って自分が血を流しっぱなしというか(笑)。 ヤマ(管理人) そんなこともないですよ。僕がかつて携わっていた活動も、そりゃあ、労働対価的には、赤字も赤字、真っ赤に血を流してはいましたが、どうせ趣味とか付き合いに散財するのが人間ですから、そっちの側からみれば、赤字でも何でもなく、むしろ得るものは案外と大きかったりしますよ。 (ミノさん) ああそうですね。ヤマさんのように活動し受け取っている人はいいですよね。見ててつらくないし。 ヤマ(管理人) 基本的に道楽ですからね(笑)。 (ミノさん) でも、もっと、命を落してしまう・・っていうのももちろんあるでしょう? 自分の人生なげうって、的な。 ヤマ(管理人) そうですね。でも、それが自身の選択によるものならば、それもまた一つの人生だとは思うわけですよ。 (ミノさん) 選択によるものとよらない場合もあるのかもしれませんね。そのへん、どのへんまで「自己の選択」とするのか、最近よくわからなくなってます(笑)。 ヤマ(管理人) ま、一応、自分で選んだ自覚と自負を持てていれば、それが何の影響だとか、乗せられてだとかは置いといて、ここに言う「自己の選択」としといて、いいんじゃないでしょうか。そして、自分にそれが出来ないからといって、そういう生き方を否定したくはないし、支援さえ何もしないままであるにしても、せめてそういう人たちにツケ回しを企図するようなことはしたくないですね。 (ミノさん) もちろん、私はアメリカ的なwin-win思想(勝者ばかり)も奇麗事だと思っているのですが。 で、『パンズ・ラビリンス』に話を戻すと、私は、オフェリアの弟の守り方にしても、血で血を洗う・・じゃなくて、血で守る・・みたいな。でもって敵とも血でつながっているという設定が、なんか意味深だなあと思ってました。 ヤマ(管理人) ここんところが、実は僕がこの作品で最も感心したところなんですよね〜。 (ミノさん) あ、そうなんですね。そのへんもう少し詳しくお聞かせくださいな。 ヤマ(管理人) 弟を守る姉の物語なら、普通は、ああいうややこしい姉弟関係ではなく、両親ともが同じ姉弟ですよね。そこを敢えて変えてある。そのうえで、姉弟として人民を投影しているのは、一口に人民と言っても、みんな同じではないということですよ。姉弟として性別と年齢を違えてあるのみならず、片親も変えてあるのはそういうことであって、そこにはフランコ政権に近い人もレジスタンスに近い人も、どちらからも遠い人もいるわけです。 でも、オフェリアは嫌悪している義父の子供だからといって弟を見捨てはしません。自分の想いを汲んではくれない母親の子供だからといって見捨てたりもしません。きわめて弱い立場にある赤ん坊だから、また、生まれが何であれ、白紙の状態で限りない可塑性を内包している赤ん坊だから、自らの血で贖って命を守ろうとするわけですよね。 (ミノさん) 私が心動かされたのはヤマさんが書いていることなんだろうなあと思いました。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。苦手系の映画のはずなのに、どうしてなのだろうと思っておいでたことの気づきのよすがになれば、望外の喜びですよ(礼)。 (ミノさん) 「血で血を洗う」というのは、憎しみが民族に連鎖して果てしない殺し合いに続くという絶望ですが、この映画ではそれが断ち切られていますよね。 ヤマ(管理人) 新世界に向かう形を取っていましたからねー。 (ミノさん) 希望を感じましたね。 ヤマ(管理人) いやぁ、そういった面では、僕はかなり虚弱体質でして、痛切は大いに感じましたが、希望にまでは及ばなかった気がしてます。 (ミノさん) とにかく痛切を感じておいでですよね。私は連鎖を感じずにすんだのがよかったです。 ヤマ(管理人) その一方で、かの赤ん坊の命を守ったのが、オフェリアすなわち武器も力も持っていない少女たる人民であるところには、寓意が込められているように感じるわけです。人民を本気で守ろうとするのは、あくまで人民であって、国家や軍隊、権力では決してないっていうことです。そんなふうな作り手の思いが窺えたので、感心したのでした。 (ミノさん) 拍手ーーーー ヤマさんのゲティスバーグの演説(笑)。 ヤマ(管理人) 恐れ入ります。僕の演説ではなくてギレルモたちの演説なんですが、こういうところをきっちり投影していることが凄いですよね(改めて)。 (ミノさん) ここに感動して、昨日の朝書き込んだら消えてしまったのでした(笑)。 ヤマ(管理人) なんと、それは残念。ぜひ読ませてもらいたかったなー。 (ミノさん) 「人民を本気で守ろうとするのは、あくまで人民であって、国民や軍隊、権力ではない」というのは、私の生きる国の中では、なかなか実感しにくい真理でありますが、きっとそうなんだと思います。 ヤマ(管理人) 実感となれば、確かにそうですよね。 (ミノさん) チベットでもミャンマーでも、どこでだって、人民ってなんだろうと思わされますよね。これほどつかみにくいものってないですね? ヤマ(管理人) 多様性に満ち溢れてますからね(笑)。 (ミノさん) 「人民」って、関係性の中で自覚されるってもんではないんですよね? ヤマ(管理人) いや、現実のなかでは、むしろそっちのほうが多いんでは?(笑) (ミノさん) 機会がなければ感じにくいことの一つですね。概念というか、目にすることの出来ないものですしね。 ヤマ(管理人) そうです、そうです。だから、おっしゃるように「関係性の中で自覚される」ことのほうが多いと僕も思います。 (ミノさん) 「対軍」とか「対国」「対官」とか、そういうひきあいがなければ、意味がつかめないような気がしてしょうがない。 ヤマ(管理人) ほう、そうなんですか。 (ミノさん) 日本の民度が低いのは、このへんへの覚醒をさせないまま教育をすすめようとしているのが原因でもあるような気がしてしょうがないです。愛国心なんていうのも、そこがまずなければ芽生えようがないような気がします。 ヤマ(管理人) 同感ですが、なかなかそういうふうには運ばれていないよう気がします。 (ミノさん) なんでもそうですが、人として持つのが大事だと言われているもの、たとえば尊敬の念にしろ、感謝の情にしろ、次世代への愛情にしろ、強制や、集めることで出来ることではなく、あくまで個人の内側から沸き起こってくるものでしかないし、そうでなければ意味がない。しかし、沸き起こらない場合もあるよってことで、悩ましいもんですね(笑)。 ヤマ(管理人) 子供の勉強嫌いは、大概にして親なり学校なり風潮なりが強迫するからでして、人間というのは、本来好奇心は旺盛だし、学習意欲のある生き物なんですよね。でもって、押しつけられると反発や反抗心を持ちやすいものです。 (ミノさん) おっしゃる通りです〜。うまく仕向ける演出ができないというか、そのテクがないんですよねえ。 ヤマ(管理人) それは僕にしても同じことで、自分の子供たちに対してうまくやりおおせたという意識は微塵も持ち合わせておりませんよ(たは)。その学力問題のことについて言えば、悪評高い“ゆとり教育”というのは、今言ったような点から、理念としては正鵠を射ていたように思うのですが、役所・委員会・現場できちんと理念の共有を果たすとともに、卒業後に待っている社会の側(特に企業、そして何よりも親たち)にもその方向性を浸透させてから現場に持ち込むべきだったのに、そういった状況づくりを調えられないまま拙速にはやったこと、そして何よりも、理念だけで走ってしまい、実践技術の習得が不十分な現場のほうが大半という状態で一斉実施したことで、本来の理念が全く活かされないことになって、理念そのものに対する幻滅感、不信感を招いてしまいましたね。わりと高次元の理念なので、現実化するのが難しく、それによって理念そのものも否定的に見られるに至っている点で、どこかコミュニズムとも通じる末路を辿っているように思います。 (ミノさん) 私も激しく共感しますね。 ヤマ(管理人) ありがとうございます。 (ミノさん) たとえば、「世界に一つの花」的な価値観って確かにありますよね。「ナンバー1にならなくていい、オンリー1になればいい」とかいうアレです。偽善的な唄だと思いますが(笑)。でも、とりあえず、能力に関して言うと、かけっこすれば、一番から5番までいる。能力の「区別」は厳然と存在する。でも、1番が5番を人間としてバカにしていいかというとそれは「差別」で、してはならない。区別と差別は違うじゃないですか。差別は排除するべきでも、区別、あるいは能力差やあるジャンルにおける点数差の存在をないかのような演出は間違ってるし、… ヤマ(管理人) 同感です。そういう演出をしてしまうとしたら、それこそが理念への無理解ですし、実践技術の誤りですね。 (ミノさん) 「平等」がうたわれるのは「機会」における平等であって、結果における平等を担保するのは間違ってると思うんです。 ヤマ(管理人) 僕もそのように思います。機会の平等を担保するのってすごく大変ですが、とても大事なことのように思いますね。 (ミノさん) 皆で手をつないでゴールインするかけっこは面白みも醍醐味もなくなるし、結果活力を奪います。でも、理念そのものは間違ってないんですよねー。実践できるかできないかってとこのスキルの問題で。そのへんのリアリティは、役所の作成するあの独特の文法の書面では浮き上がらせるのは難しかったんでは(笑)。 「血で血を洗う」から話が脱線してしまいましたが、私は、元々血みどろ映画とか、人が大勢死ぬ映画って生理的にもダメなんです(娯楽作はいいんですけど)、『ゴッドファーザー』なんかも割りとイヤなんですね。 ヤマ(管理人) 『ゴッドファーザー』は、僕も拙日誌に綴っているように、かつて観たときは妙に気に入らない作品だった記憶がありますよ(笑)。血のせいでもなかったようですが(たは)。 (ミノさん) でも、この映画は、そんな私にも浸透したというところが、他の映画と全然違う。血の意味が違うと思えて・・ ヤマ(管理人) それはありますよね。実際、違っていたと思います。凄惨な流血、絆としての血縁、は『ゴッドファーザー』にもありましたが、自らの贖いとしての血、聖的な自己犠牲のシンボルというのは、なかったように思います。 (ミノさん) とはいえ、私にはやはり少女の死で終わるシーンはかなりきつかったですね〜。絵のように哀しく、美しいイメージではありましたが・・ ヤマ(管理人) 僕は、素直に魅せられましたよ。ミノさんは、今まさに少女をお抱えの母でおいでですから、タイミング的にも“少女の死”ってのがいけないんでしょうね。 (ミノさん) ああそうかもしれませんね。でもまあ「少女の死」というのは絵的というか、イメージ的なもので「聖少女」が命を持ってして・・というものであり、あまりそこに反応するのもイヤなんですけどね。どうしても生理的な反応ですね。 ヤマ(管理人) そうですか。僕ら男からすると、見慣れてるはずの女性のほうがむしろ血には強い気がするのですが(あは)。 (ミノさん) だから、傑作だけど決してもう一度見る勇気がないという稀有な映画なんです(笑)。 ヤマ(管理人) お子さんが大きくなれば、きっと大丈夫だと思います(笑)。感受性ってのは、そういうもんですもん。失恋したばかりのときに恋愛映画を観る気になれないからって、ずっと観ることができなくなるわけではないように(あは)。 (ミノさん) そうですねえ。人ってやはり年をとるのと同時に感受性も年をとりますねえ。 ヤマ(管理人) それって、老化そのものがそうであるように、劣化ではなく変化なんですけどね。 (ミノさん) 私は、現世では弱き者として、くみしだかれ、カルメンと比べると決してヒロイックな生き方のできなかったオフェリアの母親が、オフェリアのイメージの中で、気高い女王として玉座にいる・・というのがなんとも哀しいような痛々しいような、母恋しの心情のような気がしてねえ。 ヤマ(管理人) やっぱし、娘持つ母なんやねぇ、ミノさんは(当然)。そこんとこに反応しちゃうんですねー。娘から“気高い女王”を求められてると強迫を覚えると、しんどいよね(笑)。でも、かつては御自身も幼い娘であっただけに、女性として美しく気高い母親を求めてしまう母恋しの心情も知っておいでなのでしょうし(ふふ)。 (ミノさん) 大人が死んでもまあ別に胸が痛むことは少ないのに、どうしてこうも幼い者の死は痛くてしょうがないのでしょうね。 ヤマ(管理人) 基本のところで、生への肯定感を備えておいでだからですよ、きっと。 (ミノさん) 私に子どもがいるから、というよりは、もっと別のことなのでしょうかね。っていうか、大人だってかわいそうなはずですのにね(笑)。大人は別にかまわないんです。 ヤマ(管理人) とすれば、やはり幼き魂に無垢なるものを美しきものとして感受し、愛しておいでだからなんでしょうね。やっぱり“母”ですなー(笑)。 (ミノさん) 「お姫様願望王子様願望」ですが、私もこれって社会的影響もでかいんじゃないなかと思います。 ヤマ(管理人) いわゆるジェンダー問題なんですよね。 (ミノさん) TAOさまのお母様のごとく、私も娘には極力お姫様幻想は植え付けないよう植えつけないようにしています。 ヤマ(管理人) 僕もそうしたつもりです。 (ミノさん) でもこっちはそういうニュートラルな努力してても、それでも「なんか」垂れ流してるのが親なんですよねー。 ヤマ(管理人) それはもう“不可抗力”ですよってに、気に病んでも仕方ありませんって。 (ミノさん) ですが、子どもってやっぱ「ラクそうに見える生き方」に反応するんですよね。こないだも皮膚科に連れていって受診した後子どもが「私、お医者さんだったら皮膚科になりたいなあ。だって「かゆいとこないですか?」って聞いて「お薬出しますね」だけだもん。仕事」って・・(汗)。 ヤマ(管理人) うちの子たちは、息子も娘も、その時分にそげな社会的観察眼を持ってなかったような気がしますが、たいしたもんですね、お嬢さん。 (ミノさん) いや別にそんな大したものでは(笑)。彼女にとって人生で最も恐ろしいのが予防接種なので、とにかく医者が注射を打つのか打たないのか、観察してるんでしょう。 ヤマ(管理人) なるほど、なるほど(大笑)。確かに、皮膚科で注射って聞きませんよね(拍手)。 (ミノさん) それと診察はラクでも、なるまでが大変やんけ、と思いましたが(笑)。 お姫様的生き方も、上げ膳据え膳でラクして儲かる的な魅力があるんでしょうねえ(笑)。そりゃ誰だってそれがいいわけですが。 ヤマ(管理人) 『篤姫』ときどき観てると、ラクなもんか、姫って感じですが、僕は、かのお姫様願望って、中村うさぎの本から受けたものからすると、ラクを求めてるようには思いませんでしたよ。かしずいてもらいたい、このうえなく大事に遇してもらいたいっていう関係性における願望のように感じましたね。それが得られるのであれば、そのためには、苦しいダイエットだろうが、ちょっと金や勇気の要る美容整形だろうが、ブランド品で着飾るために金を掛けることだろうが、労もエネルギーも金も惜しまないって感じでしたしねー。 (ミノさん) ああそうですね。ラクではありませんね。確かに「関係性」への願望で、「大事にされてる」「チヤホヤ」の快感。それってつまりは「自分は特別」はの渇望なのでしょうかねえ? ヤマ(管理人) だと、思いますよ(笑)。 (ミノさん) そうまで苦労しないと得られない自分特別感ってのも病的ですよね。 ヤマ(管理人) おっしゃるとおりです。解放されたほうが、それこそラクですよね。 (ミノさん) まあ、お姫様的生き方の裏側を知るのは、後ほど・・ってことで(笑)。表と裏があって初めて事物存在する、という原則には早いとこ本能的に気づいて欲しいです(笑)。 ヤマ(管理人) 本能的に、ですか(笑)。たぶん気づいてるんでしょうね、コミノちゃん。だから、うえのような発言にも繋がるのでしょうしね。それなら、思惑どおり育っておいでじゃありませんか。 (ミノさん) あ、そうか。きっと私の背中から色々と裏側を見てとっているのかも(笑)。 ヤマ(管理人) けっこうけっこう。親の務めです、それ(笑)。 |
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by ヤマ(編集採録) | |
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