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『母たちの村』(Moolaade) | |||||
監督 ウスマン・センベーヌ | |||||
今年6月に亡くなったらしいセネガル人監督ウスマン・センベーヌが81歳だった2004年に監督・制作・脚本を担い、国際的に数々の受賞を獲得した作品のようだ。昨年の都会での公開に一年半遅れての自主上映だったが、こうち男女共同参画センターの助成を受けたことでと思われる鑑賞料500円という廉価上映に加え、FGM[女性性器切除]についてのA4裏表一枚ものの資料が添えられていた。僕は、アフリカに陰核切除の因習があることを、二十年余り前の二十代の時分に知ったのだが、あれから四半世紀も経つのに未だに陋習破られず続いているとは知らなくて、この映画もかつてのアフリカを描いたものだろうと思っていた。けれども、ちょうどウスマン監督が亡くなった6月の地元紙に、自身の体験を綴った半生記『切除されて』が日本語版出版されることになって来日したセネガル女性キャディ・コイタさんの記事が出ていて、今なお約三十ヵ国で毎年二百万人もの少女が犠牲になっているとのことに驚いたものだった。しかも今日会場で配られた資料を映画を観終えて読むと、陰核切除にとどまらず、外性器全体の切除やら、縫合までもあるようで、更に驚いた。 この作品に描かれた第二夫人コレ(ファトゥマタ・クリバリ)の場合がそのどれだったのかは、映画のなかでは明確ではなかったけれども、長旅から帰宅した夫との性交後に出血に見舞われていた様子が少々引っ掛かっていたところ、後から読んだ資料で得心がいった。“FGM廃絶を支援する女たちの会”の柳沢由実子氏によれば、コレが二度の死産を繰り返した後に、帝王切開によってようやく娘アムサトゥを得られたのは、「分娩時、出口(膣口)が性器切除後の硬質化や、縫合のためふさがっていて、赤ん坊が出られず中で窒息して死んでしまうことがあるからだ」そうだ。「FGMを受けた体は施術時はもちろん、その後も排泄、性交時に大きな苦痛を伴い、分娩時には最悪の場合出血多量で死に至る場合もある」ようで、だとすれば、映画のなかでの彼女のあの汗は、おそらくは性交痛に耐えていた脂汗だったということなのだろう。だが、観ているときには、僕は全く想像が及んでいなかった。それにしても、FGMがそのようなものなら、女性から性感を奪うばかりか、縫合や硬質化などという男の側にとっても不都合そうなことを、アフリカでは何故、かくも長らく広範に続けてきているのだろう。異文化と言ってしまえばそれまでなのだが、あまりにも愚かしく思え、どうにも不可解で仕方がない。この陋習の発端は、そもそも何だったのかも想像できないほどだ。 後世から見れば呆れるほかないような無理難題を、時の政治権力がまるで己が力を誇示し畏怖させるために人民に強いることは、古今東西よくあることで、中世ヨーロッパでは今からすればとんでもないことが当たり前のように行われていたようだし、日本にも生類憐れみの令とか“現御神”としての天皇だとかいったことが当たり前のこととされた時代もあったわけだが、権力によって押しつけられたものは、その権力の変遷とともに変転するものであって、長々と続いて“文化”として継承されるには至らないとしたものだろうという気がする。だが、このFGMが「アフリカで二千年以上続いていると言われている」ということなら、かのイスラム教やキリスト教といった基軸宗教の歴史よりも古くからある因習となるわけで、その継承力には驚くほかない。だが、なぜ続いているのかが非常に解りにくい陋習だという気がしてならない。おそらく現在認知されつつある見解というのは、男権社会における女性虐待というものなのだろうが、確かにそのように見ると判りやすく感じられはするものの、力の誇示や優位の代償に失うものが男にとっても大きすぎて、とても引き合わないように思えるから、解せないわけだ。その陋習下にある全ての女性が性器切除を受けるわけではないことは、それを受けてない女性に“ビラコロ”という呼称があり、言葉として概念として何にも増して存在として、認知されていることからも明らかで、社会的差別は激しく受ける状況ではあっても、こと性行為の場面においては、FGMを受けているより受けていないほうが遙かに具合がいいことが、他との比較のしにくい当の女性以上に、男の側の体感することのような気がしてならず、なぜ続いてきたのかが不思議でならない。そのように考えると、この作品でコレがFGMから守ろうとした少女たちに最も施術をしたがっていたのが男たちではなく、真っ赤な礼服に身を包んだ割礼師の女性たちだったことが興味深い。女性に限らず、人には、自分の受けた苦痛や自分が我慢し甘んじている屈辱は、同じ立場の他者であればこそ自分同様に負わせないと気がすまない心性が働くものだという気がする。FGMに限らず、フェミニズム運動の場面において、活動する女性たちが直面する最大の障壁は男ではなく、むしろ同性の女性たちであるというのは、しばしば見聞きすることなのだが、この作品においても、まさしくそのような姿で現れていた。そういう意味では、文化的にはいかに異文化であっても担保されている人間存在としての普遍性というものに、感じ入らざるを得ない作品だったように思う。 また、この“異文化”ということに関して、本作で大いに触発されたのは、その文化を異文化とすることのできる側が捉えて描いた作品と、作り手において異文化ではなく自らの文化として負わざるを得ない立場にあるなかで描いた作品とにおける視線の違いというものだった。性器切除の因習だけではなく、人と人との関係性や対話のありようなどにおいて、僕の感覚からすると違和感を覚えるようなやりとりや会話としての擦れ違い、友好と敵対についての了解しがたさのようなものが、まさしく異文化ゆえなのだろうと感じさせてくれる形できっちりと映画として収められていたことに感銘を受けた。フランス留学から帰還した村長の息子と国連軍で働いた経験もあるらしい“兵隊さん”と呼ばれる女好きの行商人との間で交わされていた妙な律儀さと駆け引きの混交した不思議なやりとりとか、裕福な婚約者へのツケという虫のいい言葉だけで買い物ができてしまう習慣とか、一夫多妻制のなかでの三夫人の間にある序列の尊重と対抗・協力関係やその表現の仕方とか、随所に違和感や不思議を呼び起こされつつ作品として破綻していかない展開に、もし欧米人が題材としてアフリカのFGMを扱ったドラマを描けば、欧米人の映画を既に観慣れている者に得られる展開のスムーズさの代償として、こういった味わいのほぼ全ての部分が飛んでしまい、FGMという異文化の異様さと愚劣さだけが際立ってしまうことになるのだろうという気がした。 思えば、かつて僕が欧米の映画を観始めた頃、異文化としか思えなく奇異に映った気障な台詞や動作のオーバーアクションが観慣れるうちに全く気にならなくなったような類のことが、イラン映画や中国映画を観始めたときに再現されて興味深く思ったときのことを思い出した。やはり異文化には、その文化のなかにいる作り手によって表現されたもので出会うほうがいいと改めて思った。この物語がハリウッドで撮られていたら、このような新鮮でどこかしら奇妙な味わいを与えてくれる映画にはなっていないはずだ。主題や題材にかかわらず、いろいろな国の映画を観ることの醍醐味は、まさしくこういうところにあるという気がする。 推薦テクスト:「映画通信」より http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20060929 | |||||
by ヤマ '07.12.15. こうち男女共同参画センター ソーレ大会議室 | |||||
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