『私という病』
著者 中村うさぎ


 ネットの友人に勧められて読んだのだが、滅法おもしろかった。中村うさぎの本を読んだこと自体が初めてだから、ということもあろう。非常に明快で歯切れのいい文章と思考が展開されている。その明快さがついつい明晰を思わせるのだろうが、それは少し違うなとも思った。

 著者は、表題の『私という病』について、結語として、「女であること」に対する過剰なる自意識こそが根源である、と明快に断言しているのだが、僕には、彼女の病の根源は、“二元論思考に支配された自意識”だというふうに映った。
 自分の欲しいものがわからない、という感覚は、私にとってお馴染みのものである著者が、ブランド物を買い漁って破産寸前になったり、ホスト通いに耽ったりしたことに対して、あの当時と違って(「女としてのプライドを奪い返すべく」デリヘル嬢をやった)今は、自分の行為の動機が、“自己確認”であることを知っている。だが、問題は、“どのような自己を確認したいのか”という点だ。(P79)と認識しているのは、実に的を射ていると思う。だが、美しいだけで愚かな男だと内心でバカにしていた相手から不本意にも“下位”に置かれた私のプライド(P80)若い頃には金の授受はないまでも疑いもなく“性的強者”であったはずの自分が、ホストに大金を貢いだ挙句に嫌々ながらのセックスをしていただくという屈辱的な体験によって、“性的弱者”に成り下がった(P120)といった少々挑発的で露悪的なレトリックで飾って終始展開している思考のなかにある、上下・強弱・勝敗・正誤・美醜・賢愚といった二元論に強迫されているかのようなデジタル思考と“正解”への固執こそが、却って「どのような自己を確認したいのか」ということから遠ざけているような気がする。人間の自己は、およそそういった二元論で確認できる代物ではなく、曖昧で混沌としたものだからだ。
 また男・女ということでは、「男の“自己正当化”病と、女の“引き裂かれ”症候群(第3章)」という巧みな命名によって示された「女の“引き裂かれ”」が、「ベッドの中で眠っている“お姫様な私”」と「姫に呪いをかけた“魔女”」であるというのは、二元論に強迫された自意識に囚われた女性における症候群として非常にリアリティを感じさせるものだ。著者の言う“お姫様な私”とは、自分を救ってくれる男を夢想し、王子様に愛される女であることが自分の存在価値だと、疑いもなく信じているファンシーな“私”であり、私は、彼女が憎い。私の幸福を全否定し、男の評価だけが女の価値だと言い張る彼女の無知蒙昧な魂が、私の人生をいつも矛盾に満ちた虚しく苦しい戦いの日々にしてしまうから。私は、彼女を殺したい。彼女を殺して、“女であること”から解放されたい。(P129)と姫に呪いをかけるのが“魔女”なのである。しかし、ここでも僕が最も気になったのは、でも、彼女の魔法を解いて、眠りから醒めさせるわけにはいかないの。だって夢から醒めたとたんに彼女は、玉手箱を開けた浦島太郎みたいにシワシワになって死んでしまうか、残酷な王子様によって若さも無垢も剥奪されて空っぽになるか、どっちかだもの。(P125)という、またしてもの二者択一思考だった。
 かねてより僕は、ドッグヴィル』の映画日誌にも綴ったように、解りやすい明快さを求めることが明晰を損なうような気がしてならないのだが、『ドッグヴィル』に描かれたアメリカ的なものとしてこのメカニズムが結論や結果に対する明快志向のメンタリティの基に機能するときの独善性と凶暴さには破格のものがあると綴ったメカニズムに似たような思考展開が、この著作のなかでそのまま再現されているように感じた。それとともに、アメリカ的な独善性と凶暴さというものによってイメージされていた攻撃性が、主に他者に向けられるものとして印象付けられていたように感じたことと比べ、『私という病』では、それ以上に自身の“引き裂き”に向かっていることが印象付けられた。それでも、この明快志向を止められないのは、ちょうど著者が“依存症”は、その“強迫神経症”に“快感”がプラスされた病だ(P87)と喝破しているものと同じようなものだと感じる。正解を手に入れる明晰を“強迫神経症”的に求めるうえで、明快さのもたらす“快感”がプラスされ、著者に“引き裂き”や“傷つき”をいかに及ぼそうとも“依存症”的に取り付いているような気がするわけだ。ちょうどそれは“不安解消と恍惚感の確認の儀式”に過ぎず根本的な問題解決ではないから、あっという間に形骸化し、しかも儀式であるがゆえに何やら呪術的な強迫観念が生まれて、止められなくなってしまうのだ。(P87)と著者自身が書いているように。

 それにしても、“魔女”が呪いをかけて“お姫様な私”を眠らせたうえで、彼女が眠りながら見続けている夢が、いまだに私を苦しめる。男に愛されたい、男とセックスしたい、男によってナルシシズムを満たしたいと願う彼女のロマンチックな夢こそが、私にとっては、男に傷つけられ絶望させられる悪夢なのだ。(P127)というほどの囚われと強迫を及ぼしてくるのはなぜなのだろう。著者は、女を理解しようとしない男たちに対する自身の絶望が「女である自分(すなわち、自分を理解してくれない男たちに自分の価値評定を委ねてしまう自分)に対する絶望」でもあるとの認識を示しているのだが、ブランド物を買い漁り、ホスト通いに耽り、デリヘル嬢体験をしてまで、“自己確認”を求め、自己肯定をしたい著者が、男たちが女を理解しようとしないことによって自分に絶望せざるを得なくなるのでは、さぞや被害意識が募ろうかとは思うし、本当に耐え難いことではないだろうかという気がする。著者は、自身の人格として“中村典子”と“中村うさぎ”は違うと明快に述べているが、この“絶望”は、中村うさぎのものであって、中村典子のものではないような気がしてならない。そして、身体を張って『私という病』を著している中村うさぎに対して僕は、ちょっとかっこいいまでの男性性を強く感じて惹かれたのだが、そのぶん中村うさぎは、著者の指摘する“男の病”にも罹っているような気がした。とりわけ対等な目線で見てちょうだい。相手を人間として見ない限り、“理解”も“共感”も生まれないでしょう?(P111)と言いつつ、私のプライドは、自分より下の男たちに対して己の“上位”を確認することで、初めて満たされるのである(P80)と吐露していることについて。
 そして、著者が広告業界に勤めだしてから出会ってきた“男という生き物”との当たりの悪さには何とも気の毒なものを感じてならない。まぁ、そういう業界なんだろうなとは思いつつも、それが一般的だとは感じられないようなところが僕のなかにある。加えて、自明の前提であるかのように男に比べて“性的役割と価値の確認”の場が少ない女(P88)などとあるのに出くわすと、どうやら住んできた世界がまるで違っていそうだという気がしなくもない。それが僕と著者との性差によるものなのか、住環境や職業環境の違いによるものなのかは、よく判らないけれども。


参照テクスト:酒井順子 著 『儒教と負け犬』読書感想文
参照テクスト:酒井順子 著 『負け犬の遠吠え』読書感想文
by ヤマ

'08. 1.18. 単行本



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