『太陽』(The Sun)
監督 アレクサンドル・ソクーロフ


 八月四日の高知新聞の一面トップに、昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示していたとの証言を伝える記事が掲載されていた。そのなかに、'86年の敗戦記念日に昭和天皇が寄せた詠歌として「この年のこの日にもまた靖国のみやしろのことにうれひはふかし」という一首が引用されていて、その「うれひ」の理由は、戦死者ではない戦犯を合祀することで戦死者鎮魂の社の性格が変わることと戦争に関係した国との間で将来問題化する深い禍根を残すことになるとの懸念にあったということが伝えられていたようだ。和歌の指導に当たっていた歌人たる大学教授に侍従長が明言していたことが明るみに出たと報じられていた。

 期せずして、この映画のなかにも昭和天皇が歌を詠む場面が出てくる。真情なればこそ歌に託すことを日常の作法として備えていた公家文化というものを、現代において継承している日本人はもはや存在せず、天皇といえども、嗜みとして儀式に際してこなす素養であって、日常的なものではなかろうと僕は思っていた。だから、昭和天皇が、要人が文書にして残す手紙の持つ意味というものを重々認識したうえで、息子たる皇太子に敢えて大日本帝国が敗戦に至った理由を自分がどう考えているかをしたためようと決意した際に、まずもって歌を詠み、心安めるところから始める姿が描き出されていたことに驚きと感銘を覚えた。それが史実か否かはともかく、かような天皇の姿が外国人スタッフの手による作品で描き出されるとは思いもよらなかったと同時に、昭和天皇が和歌というものにそのような感覚で親しんでいたとするならば、先の報道で知らされた一首に寄せた想いの重さもまた、僕らがぎごちなく構えて歌詠みしてみるなかで出てくる言葉とは違って、真情を伝えていることに想いが及んだからだ。

 僕にとって、この作品の魅力は、昭和天皇の自己表現およびコミュニケーション能力についての興味深い描出が随所に現れていたことと、それが風刺や戯画ではなく、いかなる映画で観た昭和天皇像に対しても比類なきリアリティで描かれていたことだった。僕自身の記憶にもうっすらとある名高き「あ、っそう」も頻出していたが、特徴的に印象に残ったのは、口語での昭和天皇のコミュニケーション力のぎごちなさだった。発語も分かりにくいうえに、センテンスが短かすぎ、なおかつ会話なり対話としては不得要領で、誰に対して何を意図して語っているのかが非常に判りにくい呟きに近い言葉しか発してなかったような気がする。際立っていたのが外国語で話すときとの対照ぶりで、日本語で話すときよりも遙かに明解で、会話としても普通以上に雄弁な対話になっていた。これを観たとき、もしかしたら昭和天皇にとっての日本語というものは、会話のための口語としては身に付いていなかったのではないかという想いが湧いた。

 ちょうど、僕らが歌詠みに使う言葉が肉声とは乖離していることに対して、昭和天皇にとっては和歌の言葉がそうでないように、僕らにとって意思伝達および交換のための会話に使用する口語というものが、昭和天皇にしてみれば、伝達交換のための言葉ではなかったのではないかという気がしたわけだ。「お上」と呼ばれ、“神格”を付与され、肉体的にはさしたる違いがないものの“現御神”であることを周囲から求められ、自己にも課さざるを得ないなかで、彼の発する口語に対して同じ地平で言葉を返してくれる者が存在しようのない状況にあっては、口語コミュニケーション能力をきちんと身に付けられようはずがない気もした。一般人と同じく普通の会話を重ねることで習得訓練を果たす機会が、神格付与によって奪われていたように思えてならない。ところが、外国語であれば、お上の“言霊”とは言えないがゆえに、その習得過程で、きちんとコミュニケーション言語として身に付けることができたのではなかろうか。教えた者が神民ばかりではなく、外国人教師もいたであろうことが、言葉を真っ当にコミュニケーションツールとして教授するうえでの妨げにならなかった事情も透けて窺えたように思う。それほどに、イッセー尾形が迫真のリアリティで演じていた昭和天皇裕仁の口語としての日本語は、いびつなものだったように思う。和歌であれ、口語であれ、昭和天皇にとっての日本語というものが、同じ日本語でありながら、僕らにとっての日本語とは全く異なるものであったことをリアルに伝えることで、日本人にとっての昭和天皇がいかなる存在であったのかを伝えるとともに、神格を付与されたことで彼が負わされていたものも端的に描かれていたような気がする。

 つまり、言語に限らず、神格付与によってまともなコミュニケーションから疎外されたなかにおいて彼の引き受けてきた孤独といびつというものには深刻なものがあったということだ。言うなれば、政治の都合で“人間扱いしてもらえない存在”とも言えるわけで、そこには相当に深いものがあって、敗戦後、昭和天皇が神格を放棄し、人間宣言を行うことを決意した後、神格なき“人”として皇后(桃井かおり)に向かう姿には、素朴なヒューマニティが溢れていた。皇后の応えた言葉がまたよく、「神格をお捨てになっても、誰も普通の人だとは思いませんよ。」との台詞には、さまざまなものが示唆されているように思えたのだが、僕は、天皇への思い遣りとして皇后が発したであろうこの言葉の意図とは異なり、そこに“どうしたって普通の人にはなれない彼”が取り戻しようのないものとして負っていた疵痕のようなものを感じた。女性の胸元に顔を押し当て寄り掛かる裕仁を優しく大らかに包み込む皇后の腕の動きに、少しの驚きと狼狽えが宿っていたのが実に好もしく、昭和天皇を描くまなざしにかような慈愛の籠もっている映画を観たのは初めてで、そのことにも感慨を覚えた。

 これまでに機関としての“天皇”に関心を持ち目を向け語った人々は数多いるけれども、人間としての“裕仁”に関心を持ち目を向け語った人々は、日本人には誰もいなかったことに改めて気づかされたように思う。人間宣言をしても、人間として目を向けてもらえることがなかったのが、昭和天皇裕仁だったわけで、新憲法においても、あくまでも“日本国民の象徴”であって“日本国民の一員”ではないがゆえに、憲法に保障された“国民の権利”の一切を剥奪された存在として規定されている。すなわち“人権”を最初から制度的に奪われている“人間”であることを求められた人物だったということなのだが、この映画は、新憲法の公布に至らない時点で終えられているので、新憲法下での昭和天皇裕仁は描かれていない。TV放映されている“皇室アルバム”には現れなかった彼の姿を観てみたいものだ。誰か後を継いで制作する者が出てこないものだろうか。

 それにしても、チラシにも書かれているように「この作品の日本での公開は不可能だ」と多くの人が思ってしまう日本の映画業界というのは、いったい何なのだろう。ちょうど一年前となる八月六日の高知新聞に“自主規制の日本 上映へ紆余曲折”との見出しで、世界の映画祭で作品が高く評価されながらも日本の買い手がなかなかつかず「天皇が主人公の劇映画というだけで人々の反感を買うのでは、と各社が及び腰」になったり、せっかく買い付けても上映館探しに難航し、これまでのソクーロフ作品をずっとカバーしてきたユーロスペースが「作品本位ではないスキャンダラスな受け取られ方をする恐れがある」などという実に言い訳めいた理由で上映打診を断ったという情けない話が報じられていた。記事のなかでも指摘されていた「厄介なことは避けた方が無難という風潮」というものが“表現”にまつわる世界でも横行するようになっては、もはや作家の志などというものは一顧だにされず、商業主義一辺倒になって行かざるを得なくなる。そういうものに抗う気骨と志を備えているミニシアターの雄と目されていたはずのユーロスペースが、今やかような体たらくかと残念に思いつつ記事を読んだものだったが、実際に映画を観てみて尚更その思いを強くした。それだけ強い作家性を備えた堂々たる作品だった。外国人だからこそ作家としても向けることのできた視線だと思える部分と、日本文化のバックボーンを持たない外国人作家の視線でどうしてここまで捉え得たのかという部分が、ともに最大限に発揮された、奇跡とも言うべきものの宿っている作品だったように思う。

 言うまでもなく、映画は上映されて初めて映画になるのであって、上映されなければ、ただのフィルムに過ぎない。これが映画上映の話に留まっているうちはまだしもなのだが、「厄介なことは避けた方が無難という風潮」が底が抜けたように世の中に蔓延してきたことが、不正や悪行の横行を助長し、世の中の荒みを招いているような気が常々している。だから余計に、今回のユーロスペースの対応の一件は、時代の趨勢を率直に反映しているように思えて、いささか気が重くなった。




推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20061012
推薦テクスト:「神宮寺表参道映画館」より
http://www.j-kinema.com/the-sun.htm
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2006tacinemaindex.html#anchor001495
推薦テクスト:「Muddy Walkers」より
http://www.muddy-walkers.com/MOVIE/the_sun.html
by ヤマ

'07. 8. 9. あたご劇場



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