『ドッグヴィル』(Dogville)
監督 ラース・フォン・トリアー


 村の家々を白線の区画割りで示し、間仕切りを一切設けずに素通しのままライティングデスクやラジオを置いてみたり、ベッドや椅子を置いてみたり、家々によって数点の家具を設えただけというセットがいかにも奇を衒ったようにしか見えず、加えて時代掛かった口調のナレーションが耳障りに感じられた導入部だったけれども、プロローグ他9章にわたる長尺3時間に及ぶドラマの進展とともに、観る側の想像力を刺激してやまない寓意に富んだ濃密なドラマに魅せられていった。構成にしても、紡がれる言葉にしても、非常に文学的で、もしかしたら原作小説に言葉で示されたもののみセットに構築したのかもしれないとも思ったが、原作小説があるのではなくラース・フォン・トリアーのオリジナル脚本だったようだ。今にして思えば、それぞれの家に設えられるべく選択された家具の意味を考えてみたくもなるのだが、次第に引き込まれていったドラマのなかの人間像と関係性の変化に気を取られてばかりいて、具体的に思い出せないのが残念だ。ドアが設えられていたのは、確か教会だけだったように思うのだが、自信がない。しかし、いかにもシンボリックではある。思えば、入ろうとするときに唯一ノックのされないドアで、他の家々を誰かが訪問する際に、必ず見えないドアをノックし、音だけが鳴っていたのと対照的だ。物語の節目節目で重要な役割を果たす会合は、必ず教会で行われていた。(再見の機会を得たので確認したら、教会に設えてあったのは電灯のついた木壁で、ドアはなかった。他方、ドアが付いていたのはささやかなショーウィンドゥのある、ジンジャー夫人(ローレン・バコール)の営む雑貨屋であった。['05. 7. 9.]

 振り返ってみると、セットの中央に大きく「Elm.St.(楡の木通り)」と白い字で書かれていたのが皮肉にも見えるような“エルム街の悪夢”とも言うべき物語だ。人間のなかに潜む邪悪さや魔に対する作り手の目は、相も変わらず毒気に満ちていて、辛辣に留まらない冷えた眼差しのようなものを感じる。ちょうど全てが素通しに透けて見えるセットさながらに見通していることを誇示しているような印象で、そこのところに感心させられると同時に幾分かの反発をも覚えるのだが、その反発自体が織り込み済みであるかのような視線だという気がする。体質的に挑発的なところがあるのかもしれない。だが、この数々の人間の姿の全てを見通しているかのような視線の主体が、神のイメージを結ぶよりも作り手自身を意識させることに、こんなふうにあからさまだと感じられるような作品にはあまりお目に掛かったことがなく、とても新鮮だったし、力量のほどを見せつけられたような思いもある。種々の意味で“容赦のなさ”というものが際立った印象を残す作品だ。


 この作品は、アメリカ三部作の第一作として撮られた作品だそうだが、人間のなかに潜む邪悪さとか人間の持つ欺瞞性といったことは特にアメリカ人に際立ったものではなく、この作品もそういう意味では普遍的な人間の属性を炙り出しているのであって、殊更にアメリカ的なものが主題になっているようには思えない。しかし、人間の属性部分ではなく、行動選択や決断といった面では、ある種アメリカ的というイメージを僕が兼ねてより抱いているものに通じる部分があって興味深かった。それは結論や結果に対する明快志向ともいうべきもので、極論すれば二元論に集約し、そのいずれかを選択することとその選択に対する割り切りへの潔さにおいて迷いのなさを体現することに価値を置くような行動基準を自らの文化として醸成しているように感じている部分だ。僕などは二元論の効用を選択肢のイメージで捉えることに違和感があって、二元論に対しては、ある種の明晰さを求めるうえでの分析手法としての有用性を感じるとともに、それに則れば、むしろ、一方しか選択しなければ、そのことによって他方が捨て去られ、結果的に二元にならず一元論になってしまい、そもそも二元論たり得なくなる矛盾を無視できないという感覚のほうが支配的だ。曖昧さは排除して明晰を得たいけれども、解りやすい明快さを求めることは、明晰を損なうような気がしてならない。

 そのような観点から“犬の村”の人々を振り返ってみると、トム(ポール・ベタニー)の望んでいた道徳の回復に対しても、グレース(ニコール・キッドマン)への保護に対しても虐待に対しても、日常化から生じる馴れや増長、契機一つで露呈し始める邪悪さや欺瞞に対しても、そのこと自体は人間の属性として普遍的にあることながら、このアメリカの田舎村に住む素朴な人々は、不気味なほどに幼い子どもを含めて実に明快だった。このあたりの描写に作り手がいささかの容赦もないのが強烈だ。そして、その単純明快な結果を求めて得るための手続きや理屈においては、教会での会合であれ、グレースの脱出を請け負った運び屋ベンの運送業務に係る規定説明に基づくこじつけであれ、チャックの息子の虚言の約束や脅しであれ、煩わしさを厭わずに構えることに珍妙なまでに熱心怠りない。しかし、講じた手続きや理屈が当初の役割を超える既成事実として機能し始めるのはアメリカに限らぬ人の世の常で、たとえそれが明快さを求めるために無理に設えられたものであっても、それなりの威力を発揮し、元々は確かにあったはずの懐疑や疚しさなどの“人間としての感覚”を追いやってしまうとしたものだ。このメカニズムが結論や結果に対する明快志向のメンタリティの基に機能するときの独善性と凶暴さには破格のものがあるという気がする。


 そのことを最も劇的に強烈な印象で体現させていたのがグレースだった。強大な権力を有して人々に対する横暴を恣にする父親の生き方を傲慢だとし、その生き方を引き継ぐ立場を断固拒否して人々に寛容と受容の精神でもって当たる生き方を求めていたグレースが、幼いときからろくに涙を見せることもなく強い精神力で生きてきたことが窺える強靭さで、自身の選択した寛容と受容の精神を貫いて、苛烈とも言えるような虐待にさえもスポイルされていかないことが見事であると同時に、底知れぬ邪悪さを秘めた人間という存在に対して神ならぬ人の身で寛容と受容で臨もうとすることのほうが桁違いの傲慢さだと指摘され、併せて父親が「多くを学びすぎたのかもしれないな」と呟くに足るだけの経験をした挙げ句に、結局のところ“自身の傲慢さこそが最も拒否すべきものだとの立場で一貫するタフなグレース”という受け止め方をせざるを得ない形で、彼女が人間の救いようのなさに対して採った選択の明快さには、戦慄するような恐ろしさがあった。七つの壊れやすい陶器の人形にかつて託された彼女の想いとそれが叩き割られたエピソードを綴った場面が容赦なく効いてくる圧倒的なクライマックスだった。しかも怒りと失望の感情よりもロジックに根ざした選択になっているところに凄みがある。

 全編通じて、グレースの名にふさわしい気品を備えた強靭さをニコール・キッドマンが見事に体現していて、僕がこれまでに観た彼女の出演作のなかでも傑出した演技と存在感を湛えていたように思う。素晴らしい女優になったものだ。

 それにしても、戦後一貫してあまりにも無防備なるままにアメリカナイズに流されてきた日本で、近年とみに“単純なわかりやすさ”と“結果主義”を求める風潮がはびこるようになってくるとともに世の中が荒廃してきたように感じている僕にとっては、なんとも言えないやりきれなさが余韻として尾を引く作品だった。



参照テクスト:掲示板談義編集採録

参照テクスト:中村うさぎ 著『私という病』読書感想文


推薦テクスト:夫馬信一ネット映画館「DAY FOR NIGHT」より
http://dfn2011tyo.soragoto.net/dayfornight/Review/2004/2004_04_05.html
推薦テクスト:「帳場の山下さん、映画観てたら首が曲っちゃいました。」より
http://www.k2.dion.ne.jp/~yamasita/cinemaindex/2004tocinemaindex.html#anchor001080
推薦テクスト:「FILM PLANET」より
http://homepage3.nifty.com/filmplanet/recordD02.htm#dogville
推薦テクスト:「Happy ?」より
http://plaza.rakuten.co.jp/mirai/diary/200409130000/
推薦テクスト:「シネマ・サルベージ」より
http://www.ceres.dti.ne.jp/~kwgch/kanso_2004.html#dogville
推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/taidan/0407-3dog.html


by ヤマ

'04. 3.15. 三宮アサヒシネマ



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