『ゴッドファーザー<デジタル・リマスター版>』(The Godfather)
監督 フランシス・フォード・コッポラ


 『ゴッドファーザー』('72)をスクリーンで観るのは、三十年あまり前の公開時以来の二度目となる。名にし負う映画史上の名作との誉れも高く、何年か前にTVで観直して、なるほど大した作品だと思い直したものの、公開当時には、同じマフィアものなら同年の『バラキ』のほうが志があっていいじゃないかと思った記憶が僕にはある。

 まだ中学生だったこともあるかもしれないが、『ゴッドファーザー』の第一作では、自ら嫌っていたはずのマフィアの後継者となった三男マイケル(アル・パチーノ)が、権力を手にし維持するために、とことん冷徹非情に振る舞えるようになっていく姿をヒロイックに描いていたように思えたのが、妙に気に入らなかったような気がする。しかし、三十年ぶりにスクリーンで観た『ゴッドファーザー』は、画面もドラマも実に陰影に富み、176分が少しも長く感じられない観応えとともに、随所に観覚えをも感じて、それが何年か前のTV鑑賞の影響だったにしても、改めてこの作品の持つ力が身に沁みたように思う。

 思い掛けなかったのは、かつて妙に気に入らなかったはずのマイケルのヒロイックな姿が今回は少しも気にならず、実に厳しく格好よく見えたことだった。彼の心身が加速度的に備えつつ、威力を倍加させながら発揮していく“タフな強さ”というものが、敵対ファミリーや身内の部下に向けられるばかりでなく、自身をも痛めつけていっているのが了解できたからだろうが、それ以上に、そのことを自ら知りつつ引き受けているという部分がよく伝わってきたことが大きな要因だったように思う。もっとも僕がそのように受け取るうえで、おそらく最も大きな影響を与えているのは、僕自身の加齢や鑑賞映画の蓄積などといったことではなくて、僕が公開当時に観た第一作の状況とは違って、その後『partⅡ』『partⅢ』によってマイケルの崩壊が描かれることになるのを既に知ってしまっていることが作用している部分ではないかという気がする。

 全体像を了解していれば、マフィアのドンとして君臨し、リスクを負いつつ絶大なる力を行使していく権力者の快感と陶酔こそが父親のドン・コルレオーネたるヴィトー(マーロン・ブランド)の忌避した“麻薬”のそれそのものであって、それによってマイケルが中毒になり身を滅ぼしていくことを描いた物語であるなかでの、最初のうちの格好よさに過ぎないことが承知されているから、かつてのように「妙に気に入らない」というほうには傾かず、気持ちよく格好よさに浸れたような気がする。また、そうして観ると、闇の世界の権力者への階段を上がっていくことに伴って次第に深く重く負っていく孤独や哀しみの色づけが、口実的な代償のようには見えなくなり、それこそが主題であるように感じられてくるから、余計に格好よさに浸る心情を僕のなかで開放しやすくなるわけだ。

 第一作のラストの段階で既にマイケルは、ドンの座に就く前とは別人のように暗く深い相貌を見せるようになっている。妹コニー(タリア・シャイアー)の夫カルロ(フランコ・チッティ)の粛清について妻ケイ(ダイアン・キートン)から問い質され、男の仕事の話への口出し行為だと激昂して咎めつつ、一度だけ答えてやると言って「ノン!」と嘘をつく。この段階ではまだ、妻の不安と懸念を払拭するために全てを自分が負いケイの心を守ろうとする“やむなくも頼もしい嘘”であるとも見えるのだが、早晩そのような色合いは失われていくわけだ。夫の言葉に少し安心をして部屋を出たケイの顔を正面から捉えた後方で、甥の洗礼式の日に一気に血の粛清を果たしたマイケルの元を訪ねてきたクレメンザ(リチャード・カステラーノ)たちが真のドンと認め仰ぐ口づけを彼の手におこなう姿が映り、部屋の扉がひとりでに静かに閉まる。マイケルとケイの夫婦の心が別々の世界に別れ住むようになることを示すとともに、ケイの顔に翳りが差したようにも見えた。鮮やかなラストショットだ。

 マイケルがドンの座に就くことで、かくも変貌せざるを得なくなったのとは対照的に、孫と庭で遊びつつ心臓麻痺で他界してしまう前にドンの座を降りたときのヴィトーは、なおマイケルの相談役としてファミリーの仕事には関わりつつも、ドンの座を譲ったことで、その貌から暗さや厳しさがすっかり消えていた。この対照があって、「権力者には責任があるのだ」と苦しげに妻に語るマイケルの言葉があるからこそ、自らの願いでも父の想いでもなかったコルレオーネ・ファミリーの後継者の地位に就くことになったマイケルが並々ならぬ覚悟でもって過酷な責務を全うしようとしているように見えて、全く“欲”を感じさせないから、余計に格好よく感じられたのだろう。




【追記】'23.10. 6.
 BSプレミアム録画で『ゴッドファーザー〈最終章〉:マイケル・コルレオーネの最期』(The Godfather Coda: The Death of Michael Corleone)['90⇒'20]を観てみた。こんなのがあったのかと思って録画したのだが、「PartⅢ」のことだった。
 三十二年前に三宮阪急会館で観た劇場公開版より若干短くなっている再編集版らしい。マーロン・ブランドが演じたヴィトー・コルレオーネの庇護のもとスターになったジョニー・フォンテーン(アル・マルティーノ)の登場が目を惹くオープニングだった。
 第一作のラストの場面と同じことを再び繰り返していたマイケル(アル・パチーノ)と元妻ケイ(ダイアン・キートン)の場面が印象深かった。ブリジット・フォンダが出ていたんだなと今回、認識を新たにした。
 映画作品としては、やはりヴィトーとマイケルを対照させていた「PartⅡ」が最も観応えがあったように思うけれども、記憶にある印象以上に本作も観応えがあった。


参照テクスト:『ゴッドファーザーPARTⅡ』拙日誌
by ヤマ

'05. 3. 9. TOHOシネマズ8



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