『アフター・ウェディング』(Efter Brylluppet)
監督 スサンネ・ビア


 四年近く前に観た死ぬまでにしたい10のことの日誌の末尾に彼女を男性に変えて物語が同じように寓話的に成立するとはとても思えないところに味がある。と書いたことを思い出した。

 女性ならではの強さと不思議な力というものを印象深く浮き立たせ“死ぬまでにしたい10のこと”を試みることで、誰にも迷惑をかけず誰しもに喪失感だけに終わらない希望を残して逝った弱冠23歳にして、6歳と4歳の愛する娘二人を抱え大学の夜間清掃業務で生活を支えながら、長らくの失業からようやくプール工事の現場労働にありついたばかりの心優しい夫ドンと共に、貧しいトレーラー暮らしのなかで健気に前向きに生きてはいても、その暮らしの維持で精一杯だったアンと違って、48歳のヨルゲン(ロルフ・ラッセゴード)は、大企業グループの会長として功なり名を遂げており、アンのように青春のときを思いも掛けなかったであろう責務と甲斐で過ごすことになり、種々の可能性への断念を自らに課したであろう姿が偲ばれるわけではない。だが、残された時間に課題設定をして、所詮は誰にも救いようのない病魔について(は誰にも)告げることなく短い時間の苦難を一人で背負って立ち向かおうとするのは同じで、アンが自らに設定した2番目の課題“娘たちの気に入る新しいママを見つける”と同じことを、莫大な財力を背景に試みていた。アンのようには若くなく、自分の可能性への断念を課してきたように見える人生でもないゆえに、自身のためにしようとする何かが既にないヨルゲンに必要なのは、一に懸かってまだ幼い二人の息子を託せる父親を見つけ出すことだったわけだ。

 そうした状況なればこそ、二十年前に恋人の子供を身籠もったまま別れたヘレネ(シセ・バベット・クヌッセン)と結婚し、生まれた子供を実子と変わらぬ愛情で育てて上げ、娘アナ(スティーネ・フィッシャー・クリステンセン)からの愛と信頼を得、その結婚式の日には花嫁たる娘から、集った人々の前で義父に対する愛と感謝を自ずと述べてもらうに至っているヨルゲンが、まずはアナの実父に見当を付けるのは、ある意味とても自然なことのような気がする。彼に代わって引き受けた父親役を今度は引き継いでもらおうというわけだが、人物さえ確かなら、実娘を立派に育ててもらった恩と借りをないがしろにはしないだろうし、経済的には既に心配する必要がないだけのものを遺してやれる。アナにとっては実父だし、妻にとっても遠く若き日々に子供を設けるまでに至った相手なれば、縁破れる多少の行き違いや諍いがあったとしても、二十年もの時間と実子の存在がおそらく解決してくれるはずだと考えたのだろう。当の妻ヘレネに相談することなく事を運ぶのは、その意思を無視しているようにも思えるが、ヨルゲンは、目論んで工作しているのであって、誰に対しても強制力を及ぼすような運びは取らずに選択を求めていたように思う。この“事実と現実に基づいた状況準備に留める意思”を有していたところが、ヨルゲンの分限であり、見識だと自負しているところだったような気がする。実際、事前に相談したところで、ヘレネに現実的な検討や自分の死後に向けた対処など期待できそうにない相談事に他ならず、却って酷なことでしかないとも考えたのだろう。

 オープニングのバスタブシーンで印象づけられる歳離れた四十路夫婦の仲睦まじき姿が効いていて、さればこそ、ヨルゲンが愛妻に迫る死期を告げられないのも、『死ぬまでにしたい10のこと』での愛する夫に告げても、何の助力も果たせない無力さへの自覚を促すだけで彼を苦しめることにしかならないことが分かっていればこそ告げずに逝くことを選んだアンと同じだと感じた。そして、今なおインドに住み、孤児の支援活動に従事しているアナの実父ヤコブ(マッツ・ミケルセン)を探し出し、巨額の寄付金の申し出で招き寄せ、幼い息子たちを託するに足るか否かの人物査定をしたうえで、インドを捨てさせてデンマークに住まわせようと企てる姿も、アンの“My Life Without Me”を企図した姿と重なった。それらを含めて両作品は、ともに気丈な意志と深い愛情を湛えた見事な終末への向かい方として、強さと不思議な力というものを印象深く浮き立たせ、巧く描出した寓話であるように映った。

 しかし、『死ぬまでにしたい10のこと』のアンが隣人の同名女性アンによって第2の項目を叶え、リーとの出会いによって第7と第8を叶えて部屋の壁の塗り替えのみならぬ大きな変化を彼に与え、夫ドンや娘たちを含め、彼女と関わった人たちのその後の人生を、まるで“私は居ないけど私の人生”とまで言えるほどの大きな影響を与える足跡を残し得た2〜3ヶ月として、初志を貫徹して自律的終末を全うした印象を残しているがゆえに引き立っている寓話性からすれば、末期癌のことを知った妻ヘレネに取り縋って「死にたくない!」と喚くヨルゲンには、寓話性よりも現実感が宿っていたような気がする。この点すなわち寓話的でありながら、寓話性よりも現実感を塗り込めることに長けているところが、本作の作り手の最も秀でているところだと思った。原案・脚本を担っているアナス・トーマス・イェンセンのソーレン・クラーク・ヤコブセン監督との共同脚本作品『ミフネ』は、その年のマイ・ベストテンのトップスリーに入れた秀作だったが、ちょうどこの点で本作と通じる味わいと余韻を残してくれた作品だった記憶がある。本作の原案・監督を担っているスサンネ・ビアは、『しあわせな孤独』以来、三作続けてのコンビのようだが、この作品の最も優れている点だと感じた“寓話的でありながら、寓話性よりも現実感を塗り込める”演出を鮮やかに果たしていたような気がする。ヨルゲンの企図により、二十年前に愛しながらも生活に破れて別れた嘗ての恋人ヤコブと現在の頼りになる愛する夫ヨルゲンを前にしているときの、ニュアンス豊かな佇まいでヘレネを巧みに演じたシセ・バベット・クヌッセンが魅力的だった。

 この作品で印象深く残っている場面に、ヨルゲンがまずは自分一人でヤコブの面接をした後、娘の結婚式に招待して娘と妻に引き合わせて反応を窺い、再び訪ねてきたヤコブに対し、ヘレネの意向による三者面談も済ませた後でヤコブと行ったレストランで、酒をあおりすぎて荒れる場面があった。愛する妻ヘレネに、敢えて自分から嘗ての恋人を引き合わせるしかなくなった我が身の病への憤りや、ヘレネとヤコブがあからさまにはしない抑制のもとに窺わせた親和性への嫉妬が彼を荒れさせたのかもしれないが、それは、ある意味、予想していたはずのものだから、彼のように周到で自律性の高そうな男をあそこまでの醜態で荒れさせるには至らなかったような気がする。そこからは、彼が予期していなかった衝撃を受けている様子が偲ばれた。すなわち社会的にも経済的にも成功した自分を愛し頼っている十歳くらい歳の離れたヘレネが、長らく慣れ親しんでいる自分に見せてきた敬愛と従順さとは異なる対等目線によるぶつかり合いを、ヤコブに対しては二十年の空白をものともせずに、目の前で展開したことに彼は打ちのめされたのではないかという気がした。

 末期癌を知られた後に「おまえと過ごした時間は、私の昼であり夜であり、海であり空だった」すなわち“自分の全て”であったとの言葉を残すほどに深く愛し、おそらくは、ヘレネという女性を最もよく知っているのは自分だと自負していたであろうヨルゲンが、自分には見せたことのない顔をヤコブには見せていたことで、激しい嫉妬に見舞われて不覚の醜態を晒したのだろうと感じた。ヘレネからすれば、単に実の娘ではないアナの父親になってくれただけでなく、篤く慈しんでくれ、おそらくはヨルゲンの意志によって、実子を持つことを遅らせ、歳の離れた弟たちを設けるに至ったと思われる配慮に対し、感謝と敬意を持ち続けていたから、ヤコブに対するような向かい方が自ずとできなかったということなのだろう。三人を描出してきたこれまでの場面が実に効いていてそんな思いも湧いたので、僕にとっては、彼の病の悲劇が最も痛切に映っている場面になった。

 そういった細やかでニュアンスに富んだ複雑な心情を、主要な登場人物の皆が窺わせてくれる描出が行き届いていて、とても豊かな作品だったような気がする。見事なものだ。



推薦テクスト:「チネチッタ高知」より
http://cc-kochi.xii.jp/jouei01/0801_3.html
推薦テクスト:「映画通信」より
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=10442&pg=20080110
推薦テクスト:「眺めのいい部屋」より
http://blog.goo.ne.jp/muma_may/e/695c1efb800bbaef4d1ae8ef653b5405
by ヤマ

'08. 1.29. 美術館ホール



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