鉱山の沢川にかかる旧い橋梁である。
企業との共同時代に突入した徳星鉱山は、0.8t入鉱車で坑内より鉱石搬出、
精鉱のうち上鉱は愛別駅から日立製錬、普通鉱は紋別港から佐賀関製錬所へ鉱送された。
いよいよ林道が廃道化すると浅い自然の池がある。
当時の従業員は67名、旭川新聞には『益々有望な狩布鉱山』の特集があり、すでに『徳星』鉱山として契約されてはいたが、
名称が確立したのは昭和9年の完全企業買収以降のようだ。
道路は決壊し、やがて通行止めとなった。
昭和8年当時もまだ鉱山道路は整備されておらず、
鉱山から愛別市街まで、藪漕ぎ、渡渉を行い7時間を要したという。
鉱山の沢川を遡る。
付近には通洞坑や徳星坑、ポンガ坑、戍辰坑などが存在するはずだが、
今回のターゲットは青化精錬所である。
続く林道は最近のもので、林業用のもののようだ。
昭和10年には道路が開通したものの、自動車で1時間弱、徒歩にて4時間、
鉱山から下山すると真に隔世の感だと称された。
付近に西に進む鹿道がある。
愛別発電所と鉱業所間の電線架設が行われたのも昭和10年で、
鉱山経営が軌道に乗り、採算見通しが立ったことも意味する。
鹿路に沿って登ると、その先に巨大な石垣が見えた。
昭和10年秋着工、翌11年6月完成の青化精錬所である。
この時期、金の価格高騰、政府の産金奨励策により全国的な製錬所新造驀進が起こる。
圧巻の巨大石垣だ。山中で一人だったが、思わず声が出てしまった。
この時期製錬所が増設されたのは
鴻之舞、珊瑠、
計画されたのが
美笛、国富、大盛、恵庭
などの各鉱山であった。
製錬所の建設ラッシュに伴い、いよいよ探鉱時代から製錬時代に移行した北海道産金界であるが、
当初100t/日の鉱石処理能力を有した徳星鉱山精錬所を、
旭川新聞の記者が昭和11年に取材に訪れている。
巨大な苔むした石段が遥かに続く。
見学に訪れたのは村会議員、学校長、営林署職員等で
「建設費50万円」現在の価値で8憶円、従業員250名、
鉱石が大規模な種々なる機械を通過すると金銀となり現れると伝えている。
当時から原始林の中にその巨大な姿を誇示していた製錬所であるが、
昭和14年3月には設備拡張が実施され、
鉱石処理能力は200t/日へと倍増する。
高い石垣が延々続く。以下産金量gと採鉱量tの年度別表である。
年度 |
産金量(g) |
採鉱量(t) |
昭和9 |
37,539 |
- |
昭和10 |
73,756 |
- |
昭和11 |
138,689 |
33,000 |
昭和12 |
211,645 |
42,000 |
昭和13 |
211,645 |
42,000 |
昭和14 |
151,451 |
60,000 |
昭和15 |
151,741 |
70,000 |
昭和16 |
101,066 |
- |
昭和17 |
33,282 |
- |
採鉱量は年々増加しているにもかかわらず、産金量は著しく減少している。
つまり乱掘とも言えるほどの低品位鉱の大量処理だと見える部分もある。
石垣は8段程度の構成がある。
昭和13年頃の最盛期は徳星の産金量は道内8位。
同企業内では
北隆に次ぐ第2位、
産金量では日本国内の7.9%、アジアでもその2.8%を占め、かなりの頭角を占めていたこととなる。
突然の深い溝、非常に危険な一角だ。
昭和16年夏には『金増産強調期間』が実施され、強制的な増産が施行、
産金量の多い
北隆、
隆尾両鉱山は監督局長賞を受賞している。
更に石垣は続く。
当時、徳星鉱山は
手稲、
静狩、
鴻之舞、
珊瑠、
北隆、
隆尾、
恵庭
とともに札幌鉱山監督局によって道内8優良金山の一か所に選定された。
最上段に近い部分だ。
鉱石を粉砕し、青化ソーダ・生石灰等を混ぜて、
溶解した金銀鉱石を濾過機で亜鉛末と共に
沈殿させる全泥青化製錬法。
従業員数でみると、数名で手掘り・売鉱していた大正期から昭和9年には79名、
青化精錬開始の昭和11年には250名と急増、翌12年には396名と更に増加の一途を辿る。
当時の休日は月二回(1日と15日)、9時間労働の一日2〜3交代制であった。
このような従業員数の急増に伴い、必然的に鉱山集落が形成されていく。
山元には鉱員住宅・独身寮・小学校・診療所・請願巡査駐在所等、
鉱山事務所や製錬所などの直接鉱山に関わらない鉱山街が構成される。
製錬施設ならではの工業的な遺構が残る。
昭和14年度には住宅220戸(人口806名)、教員4名の小学校、
沢沿いに4か所の集落があり、それぞれ採鉱長屋・学校長屋・擂鉢長屋・倶楽部長屋と呼ばれた。
上部には架線の架台のような部材も残存する。
金山整備令に伴う休山に翻弄された徳星鉱山では、昭和17年から人員設備の
豊羽鉱山への配置転換が進んだ。
また、鉱山倶楽部の建屋は数q下流の協和小学校体育館に建て替えられた。
他金鉱山と異なり戦後に再び稼行されずに放棄されたことは、
現在なら経済的に稼行困難な程の
「低品位鉱」Au2.6g/t 菱刈鉱山は30〜40g/t
が『繁栄』のベールを被っていた訳で、
それは国策の産金奨励による増産乱掘によって支えられてきただけだったのかもしれない。
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