あなたの知らない生田原ツアー
2019年6月、道東の生田原町、
北の王鉱山
跡を巡る探索ガイドツアーを開催。
今回は廃墟の精錬所を中心に巡る探索で、
夏前に藪の時期を了承の上、数名に参加頂いた。
まずは生田原駅に集合。
装備を整え簡単なミーティングの後、
分析所付近に移動後、探索をスタートする。
大正5年に農場で発見された金塊に端を発するここ北の王金山は、
東洋一と謳われた
鴻之舞鉱山をも凌駕することを願い、
北の王=ノースキングと命名された金山である。
本坑の鉱床の特徴としては
「土砂鉱」(=どしゃこう)鉱脈が単独に存在せず、母岩と共に崩壊淘汰され
流水作用を受けずに地表付近に堆積したものであったことが大きく、
そのため坑道採掘ではなく、
スチームショベルによる露天掘りだった。
分析所付近から深い森を抜け、精錬所方面へ移動する。
北の王鉱山における昭和11年度の鉱産額は
鴻之舞
静狩
珊瑠
に次ぐ第四位の地位を確保し、重要鉱山の一角を占めていた。
昭和12年新設の青化精錬所跡に到達だ。
大正13年には一時『貴王鉱山』と呼ばれた時代もあった。
その後、昭和7年20t/日、昭和9年40t/日の青化精錬所が増設され繁栄を極める。
精錬所の内部にも足を踏み入れる。
ここは昭和12年に企業買収が進んだ後に建設された、
500t/日処理の製錬所跡である。
採掘した鉱石から、粉砕や化学処理を行って金を抽出する、
巨大な精錬所に沿って森を進む。
わずか1年間で分析所・北の王会館・北の王倶楽部・製金所などが建設されたというから驚きだ
。
これに追加して200t/日処理精錬所も計画されたが、これは産金奨励政策に後押しされたものだろう。
その後の合計5,000t/日処理の一大計画は、株価対策と
政府の『金増産五か年計画』に応えようとした結果のようだが実現には至らなかった。
その先には巨大な煙突の廃祉がある。
北の王鉱山の最盛期、昭和14年には1,000名を超える従業員がおり、
農村時代の約4倍の戸数となったようだ。
精錬所の大穴に注意して進む。
昭和15年には『東京大角力玉の海一行』という産業報国会による浪曲や漫才の慰問チームが、
全国主要金山65か所を巡り、北の王鉱山もご多分に漏れなかった。
精錬所の城壁に触れる参加者たち。
街には20数件のカフェーが軒を並べ、金山の好景気を象徴する様相だが、
それも長くは続かない。
精錬所の奥深くも探索する。
世界的な価値が下落した、戦時下の金の役割は
昭和17年10月23日、金鉱業の整理に関する件という閣議決定に終結する。
森にそびえる圧巻の石垣前で佇む参加者たち。
金を主鉱とするすべての鉱山は原則休・廃祉、
その生産施設や労働力は他の重要鉱山に配置転換するというのが指針だ。
苔むした階段をしばし眺める。昭和18年3月31日に閉山したここ北の王鉱山であるが、
戦後の昭和25年、そして昭和57年に試掘権が設定されたものの、
採掘権の設定には至らず森に廃墟を残すのみとなっている。
参加の皆様、お疲れ様でした。
また、大変ありがとうございました。