大盛鉱山跡  探検: 北の細道 大盛鉱山

大盛鉱山で笹薮に阻まれた難攻不落の古城へ




北海道森町

   大盛(たいせい)鉱山は秀峰駒ケ岳を望む茅部郡森町、島崎川河口から約15km上流に存在した。
往時には600名を超す従業員が働き、坑口ー精錬所間に敷設された高架索道を鉱石積バケットが 往来し、
狭き谷間には鉱山事務所、住宅、小学校、診療所、巡査派出所、商店等が犇めきあい、
一つの鉱山街が現出していた。
主要な操業期間中(昭和9年〜17年)における産金総量は629kgに及び、
これは道内第12位、同系列会社中では 北隆 大金 徳星 恵庭 に次ぐ第五位の地位にあった。

昭和5年(1930)(昭和7年との諸説あり)、以前から御料地であった本坑付近は、
入林者も非常に稀であったが木材造材中に金銀鉱の露頭を発見、個人が共同で鉱業権を取得した後、
昭和9年(1934)には企業経営となり、当初は日立鉱山(茨城)へ鉱石を送鉱したが、
埋蔵量が極めて大きく、昭和14年(1939)に7,500t/月の第一 「青化」金が青化(=シアン化)アルカリ溶液に溶けやすい性質を利用した金銀採取法 精錬所、
昭和16年(1941)に15,000t/月の第二精錬所の建設に至り盛大に稼行した。

挺身増産、報国のための一丸稼働が進む中、自山製錬後日立鉱山へ鉱送鉱したが、
実収率は金92%、銀78%というものだった。

ところが戦時下における鉱山は重点主義による金山整備が図られ、
戦局に直接影響しない金鉱山は休山・配置転換が発令される。
昭和17年(1942)10月5日、霞台国民学校に全従業員約400名を招集し、
会社側からの休山決定、残務整理員を除く全員が同日、同社系列鉱山への配置転換が図られる。

一般町民からも大きな期待を寄せられていた時だけに、
この突然の休山決定は、すべての森町民に衝撃を与えたという。
その後本坑が完全に休止したのは霞台国民学校が廃校となった、昭和18年(1943)盛夏のことである。


終戦後、昭和25年、29年、30年春に採掘の検討がなされたが立ち消え、
世界的な金不足の昭和44年(1969)8月、鉱業権者所長が現地訪問、
鉱石約4sを持ち帰り検討したが、操業に至らないまま現在に至る。



本坑における史料、研究誌は地質学的なものを除いてほとんどなく、
これまで8年間、6回の現地アタックによっても長らくその存在は謎のベールに包まれていた。
今回は積年の想いの中、協力者の資料提供により精錬所への到達へと相成った。
この場をお借りしてお礼申し上げたい。




笹薮・廃道・精錬所・・・


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( ̄u ̄;)青化精錬所





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